【北条義時】鎌倉幕府を北条家独裁政権にした2代執権

源氏将軍から権力を奪取し、鎌倉幕府を北条氏の傀儡政権に仕上げた人物をご存知ですか。

そう、悪名高い北条義時(ほうじょうよしとき)です。

北条義時は、伊豆国の在地豪族・北条時政の次男として産まれ、兄の死と父を追放したことにより北条氏の実権を握り、傀儡将軍を立てた上で他氏排斥をし、仲恭天皇を廃し・3人の上皇を配流にまでして2代執権として実質上の北条氏独裁政権を作り上げた人物です。

権謀術数を駆使してドロドロの権力闘争を生き延びた波乱万丈の人物であり、令和4年(2022年)のNHK大河ドラマの主人公でもあります。

北条義時の出自

北条義時出生(1163年)

北条義時は、長寛元年(1163年)、伊豆国の在庁官人(地方役人)であった北条時政の次男として生まれます。

北条時政には嫡男・北条宗時(北条義時の兄)がいたため、北条義時は当初は分家扱いとされ、江間の土地を与えられて江間小四郎と称していました。

源頼朝との出会い

そんな北条義時の人生を大きく変える出来事が起こります。

北条義時の姉である北条政子が、政争に敗れて伊豆に流されていた源氏の御曹司・源頼朝と恋に落ちて結婚を希望したのです。

平家全盛の時代に、平氏の流れを汲む北条家が源氏の嫡子を婿に迎えるなど一大事だったため、北条時政は一旦はこれを拒否します。

ところが、北条時政の反対に燃えあがった北条政子が源頼朝と駆け落ちしてしまったため、北条時政もしぶしぶ2人の結婚を認めることとなります。

これが北条家が源氏嫡流と姻戚関係となり、北条義時を始めとする北条家の運命が大きく変わった瞬間でした。

なお、北条義時は、元服時に源頼朝を烏帽子親として「頼時」と名乗ったのですが、後に「義時」に改名しています。

源頼朝挙兵(1180年8月17日)

治承4年(1180年)8月17日、源頼朝が、以仁王の令旨を奉じ、対平家を唱えて挙兵します。

このとき、北条時政・北条宗時・北条義時ら北条家一門がこれに従います。

挙兵した源頼朝らは、まず平氏の代弁者である伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃して殺害します。

その上で、源頼朝は、相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦義澄率いる三浦一族を頼みとし、その本拠地である相模国へ向かいます。

兄・北条宗時の死(1180年8月23日)

ところが、治承4年(1180年)8月23日闇夜、相模国へ向かう道中で、平氏方の大庭景親ら3000余騎が、暴風雨の中で源頼朝の陣に襲いかかります。

源頼朝軍も応戦しますが、多勢に無勢で勝ち目はなく、源頼朝は命からがら土肥の椙山に逃げ込むという大敗北を喫します(石橋山の戦い)。

このとき北条義時の兄(北条時政の嫡男)である北条宗時が討ち死にし、以降北条義時が北条時政の嫡子となっています。

源頼朝鎌倉入り(1180年10月6日)

石橋山の戦いに敗れて山中に逃げ込んだ源頼朝は、その後、土肥実平の手引きで船を仕立て、真鶴岬(現在の神奈川県真鶴町)から海を渡って安房国に逃亡します。

北条時政・北条義時親子や三浦一族も別ルートで前日に安房国に脱出し、現地で源頼朝と合流します。

前日に到着していた三浦一族は安房国・下総国で在地豪族達を味方に引き入れる工作をしていました。

また、北条時政と北条義時は、甲斐国に赴き、同年9月15日、甲斐源氏の武田信義・一条忠頼に会って協力を得ることに成功します。

味方を増やしながら房総半島を北上した源頼朝は、平氏方の抵抗を受けることなく治承4年(1180年) 10月6日、鎌倉に入ります。

富士川の戦い(1180年10月20日)

その後、甲斐国から駿河国に侵攻する武田信義と協力し、治承4年(1180年)10月20日夜、源頼朝軍が駿河国賀島に進み、また武田信義軍が富士川の東岸に進んで平氏と対峙します。

ここで、武田信義軍が、平氏の背後を突こうとして富士川の浅瀬に馬を入れたとき、その動きに驚いた富士沼の水鳥が一斉に飛び立たったのですが、このときの水鳥の羽音を源氏方の攻撃と勘違いした平氏方は、奇襲をかけられたと勘違いして大混乱に陥り一戦も交えることなく総崩れのまま退却します(富士川の戦い)。

源頼朝は、富士川の戦いに勝利して勢いに乗り、撤退する平氏を追撃して京に雪崩れ込もうと考えますが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄がこれに反対して東国を固めるよう主張します。

いまだ自身では大きな力を持たない源頼朝は、これら東国武士たちの意志に逆らうことができず、結局は鎌倉に戻るという選択をします。

鎌倉幕府の勢力拡大

① 東国支配

鎌倉は、北・東・西を小さな丘陵に囲まれ、かつ南を海で守られた天然の要害です。

源頼朝は、東国武士をまとめながら、鎌倉を切り拓き、公家の都である京に匹敵する武家の都を築いていきます。

源頼朝は、まず源氏の氏神である八幡宮を鎌倉の中央部の六浦道沿いに移し鶴岡八幡宮とします。

その上で鶴岡八幡宮から六浦道沿東側の大倉郷に源頼朝の政治と生活の本拠である大倉御所を構えます。

そして、必要に応じて侍所・公文所・問注所などの機関を、大倉御所内に順次設置して、東国統治を完成させていきます。

これらの大規模都市開発により、周囲に源頼朝の鎌倉(東国)支配が印象付けられます。

そして、源頼朝は、まずは自身のために働いてくれた武士の恩に報いるため、自分の下に集った武士たちに本領安堵と敵から没収した領地の新恩給付を行ないます。

そして、この本領安堵と新恩給与(御恩)の対価として、臣下となった武士たちに兵役を求めることにより(奉公)、源頼朝は急速に力をつけ、鎌倉を本拠地として開拓し東国一帯にその支配権を広げていきます。

そして、北条義時は、この源頼朝の側近として力をつけていきます。

北条義時は、養和元年(1181年)4月、源頼朝の寝所警護衆の1人に選ばれ、源頼朝の側近・親衛隊として位置づけられます。

この源頼朝の側近・親衛隊は、「家子」と呼ばれ、門葉(源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけられ、通常の御家人とは一線を画した極めて高い格付けとなります。

寿永元年(1182年)11月、源頼朝が女性問題を起こして北条政子とその父北条時政を怒らせ、北条時政が一族を率いて伊豆へ帰ってしまった事件が起きたのですが(亀の前事件)、北条義時は、北条時政の指示に従わずに鎌倉に残って源頼朝に忠義を尽くすなどしたため、源頼朝の最大の寵愛を受けて、家子の中でも1番の「家子専一」と評価されるに至ります。

② 西国支配(守護・地頭の任命権)

元暦2年(1185年)、源範頼の山陽道・九州遠征に従軍して平氏追討のために西国へ赴いて転戦し、葦屋浦の戦いなどで武功を立てています。

また、北条義時は、平家滅亡後は、文治元年(1185年)11月25日から文治2年(1186年)3月27日までの間、朝廷との交渉を担当する父・北条時政に伴われて京に滞在し、平氏打倒に活躍した源義経を逆賊に仕立て上げ、その源義経を追討するという名目(どこに逃げたかわからない源義経を探すという名目)で、後白河法皇から追討の院宣のみなならず、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に源頼朝の御家人により選任された国地頭の設置・任命権を得ることの勅許(文治の勅許)を受けるのを助けています。

なお、この守護・地頭任命権は、名目上は、源義経を探すために、全国に御家人を展開させるためだったのですが、実質は臣下の御家人を地頭に任命しその支配を通じて源頼朝の支配を西国にも及ぼしていくことになります(守護・地頭設置による西国支配)。

③ 東北支配(奥州合戦)

文治4年(1188年)2月、源頼朝の下に、源義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏しているとの報が伝わり、源頼朝が、源義経討伐の名目で奥州藤原氏まで討伐し、その支配を東北にまで広げようと画策します。

源頼朝は、奥州藤原氏の藤原泰衡に圧力をかけて、文治5年(1189年)閏4月30日、源義経を討伐させた上(衣川の戦い)、これまで源義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして藤原泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発します。

北条義時もまた、文治5年(1189年)7月、奥州合戦に従軍します。

そして、同年9月2日、藤原泰衡が郎従に殺害されて栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡し、源頼朝による東北支配権が確立します。

④ 源頼朝の征夷大将軍就任(1192年7月)

源頼朝は、建久元年(1190年)11月7日に入京し、全国守護地頭任命権の継続、源頼朝の権大納言・右近衛大将の任官などが決まります。なお、北条義時は、このとき武官の最高位でる右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ、源頼朝の参院の供奉をしています。

そして、後白河法皇の崩御後の建久3年(1192年)7月、源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府による全国支配権が公的な裏付けを得ることになります。

これにより、北条氏もまた日本初の武家政権のトップの外戚となり、大きな力を持っていくこととなります。

源頼朝46歳、北条義時30歳のときでした。

姫の前との結婚(1192年9月25日)

余談ですが、北条義時は、比企朝宗の娘で幕府女房でもあった「姫の前」にぞっこんで、1年以上もの間恋文を送り続けていたのですが、袖にされ続けていました。

見かねた源頼朝が間を取り持ち、北条義時に絶対に離婚しない宗を神仏への誓わせて起請文を書かせた上で、建久3年(1192年)9月25日、2人を結婚させました。

このときまでに、北条義時には庶子として長男・泰時をもうけていたのですが、正室となった姫の前が建久4年(1193年)に産んだ朝時が嫡男となりました。

なお、比企氏が滅亡したこと、一時期北条義時から義絶されていたこともあり、後に北条義時の跡を継いだのは、北条朝時ではなく北条泰時でした。

北条氏による他氏排斥と北条義時の台頭

源頼朝死去(1199年1月13日)

武家政権を樹立したカリスマ源頼朝ですが、建久9年(1198年)12月2日に、重臣の稲毛重成が相模川に掛けた橋の落成供養に赴いた帰りに落馬し、その後症状が悪化して約2週間後の建久10年(1199年)1月13日に53歳で死去したとされます(吾妻鏡)。

もっとも、落馬の話は吾妻鏡の他に記録がなく、吾妻鏡に落馬が記載されたのも源頼朝が死去した13年も後の1212年2月28日であり、その記載も「相模川の橋が壊れていて地元民が困っている。ここでは頼朝将軍が落馬し、程なく亡くなった場所で縁起が悪い」といった程度のもので、鎌倉幕府の創設者の死の記載としては極めて不自然です。

吾妻鏡が、鎌倉幕府の実権を握った北条家により都合よく作成された鎌倉幕府の公式歴史書ですので、北条家に都合の悪い事は書かれておらず、源頼朝の死には北条氏による暗殺説がささやかれます。本当のところはわかりませんが。

将軍権力の制限(13人の合議制)

いずれにせよ、源頼朝の死により、その嫡男である源頼家が、建久10年(1199年)1月20日、18歳の若さでで左中将に任じられ、同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就きます。

源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、建久10年(1199年) 4月12日、有力御家人によるクーデターが起き、源頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、将軍権力を抑制するために13人の合議体制を確立します。

この13人の合議制は、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定し、その結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムでした。

選ばれた13人は以下の人物であり、将軍近親者3名、有力御家人5人,高級官僚5人という人選でバランスを取っています。なお、メンバーは初期から源頼朝を支えた忠臣や幕府政治の中心人物達という年配者がほとんどだったのですが、唯一これらの実績のない北条義時が37歳の若さで参加しているのが注目されます。

【将軍・源頼家の関係者】

①比企能員【源頼家の乳母父、信濃・上野守護】

北条時政【源頼朝の外祖父、伊豆・駿河・遠江守護】

③北条義時【家子専一、寝所警護衆、北条時政の子】

【有力御家人】

④安達盛長【三河守護】

八田知家【常陸守護】

三浦義澄【相模守護】

⑦和田義盛【侍所別当】

梶原景時【侍所所司、播磨・美作守護】

【鎌倉幕府の高級官僚】

大江広元【公文所別当→政所別当】

⑩二階堂行政【政所執事】

⑪中原親能【公文所寄人→政所公事奉行人、京都守護 】

⑫足立遠元【公文所寄人】

⑬三善康信 【問注所執事】

北条氏による有力御家人排斥政策

① 梶原景時の変(1199年)

この頃から、北条氏による有力御家人排斥運動が始まります。

最初は梶原景時です。

結城朝光という御家人が、北条時政の娘である阿波局から、梶原景時が結城朝光の悪口を源頼家に吹き込んでいたと告げ口をしたのが始まりです。この話を聞いて怒った結城朝光が、梶原景時に反目する三浦義村や和田義盛を抱き込んで反梶原景時勢力を作り、反梶原景時排斥運動を始めます。

そして、この反梶原景時反対運動が大きくなり、総勢66名もの有力御家人が結託して、源頼家に梶原景時排斥を直訴します。

多くの有力御家人から自身の排斥申出があると聞いた梶原景時は、正治元年(1199年)、一切弁明することなく身を引き鎌倉を去ります(梶原景時の変)。なお、その後、正治2年(1200年)正月20日、梶原景時は京への道中で一族もろとも暗殺されています。

この梶原景時の変については、北条氏が直接排斥運動をしたわけではないのですが、きっかけを阿波局が作っていますので、北条氏が暗躍していたことは間違いないと思います。

また、正治2年(1200年)に安達盛長と三浦義澄が病死し、僅か1年程の間に3人ものメンバーを失ったことにより13人の合議制は解体します。

そして、この頃から、北条氏による鎌倉幕府内での権力闘争での暗躍が激しくなります。

② 比企能員の変(1203年9月2日)

合議制の解体により、鎌倉幕府の御家人内で、源頼家を巻き込んだ権力闘争が起こります。

源頼朝が死去しその後を源頼家が継いだことにより、鎌倉幕府内では、源頼家の乳母である比企尼の実家であり、また娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んだ事から鎌倉幕府内で比企能員の権勢が強まっていました【源頼家の後ろ盾は比企氏】。

源頼朝の外戚である北条氏から、源頼家の外戚である比企氏に権力が流れていくことを恐れた北条時政と北条政子は、比企能員を亡き者とするための謀を練ります。

建仁3年(1203年)7月に源頼家が病に倒れたため、万一があった場合に時期将軍をどうするかの話し合いがなされます。

このとき、本来は源頼家の嫡子である一幡が将軍職を継ぐはずなのですが、同年8月27日、北条時政の主導で、家督・日本国総地頭職・東国28ヶ国の総地頭は一幡としつつも、西国38ヶ国の総地頭を源頼朝の次男・千幡(源頼家の弟・後の源実朝)に分割することとしたのです。

事実上、東国は一幡、西国を千幡が支配するという分割支配案です。

源頼家の後見人として権力を手中にできると考えていた比企氏は当然反発します。

権力の低下に繋がる案を許せるはずがない比企能員は、同年9月2日、娘の若狭局を通じて、源頼家に北条時政を追討すべきと伝え、源頼家はこれに呼応して比企能員に北条氏追討の許可を与えます。

ところが、これを事前に察知した北条時政は、比企能員を薬師如来の供養と称して自邸(名越亭)に誘い出し、暗殺してしまいます(比企能員の変)。

その上で、北条義時らが一幡の邸である小御所に攻め込み、一幡もろとも比企一族を皆殺しにし、比企氏を滅亡させます(愚管抄によると、同年11月に北条義時によって捕えられて殺されたと書かれていますので、一幡の死亡時期は必ずしも明らかではありません。)。

この後も、北条氏による有力御家人排除は、北条時政・北条義時が一体となって粛々と行われ、傀儡としてわずか12歳の源実朝を鎌倉幕府3代将軍に即位させ、彼を擁することを正当性の根拠として北条時政が鎌倉幕府の実権を独占していきました【源実朝の後ろ盾は北条氏】。

まず、北条時政は、建仁3年(1203年)10月9日、大江広元と並んで政所別当に就任し、政治の実権を握ります(北条義時も、元久元年(1204年)3月6日、相模守に任じられます。)。

ただ、北条時政は、この程度では満足しません。

③ 源頼家暗殺(1204年7月18日)

病気から快復した源頼家は、比企氏が北条氏によって滅亡させられたと聞き激怒します。

もっとも、比企氏という強力な後ろ盾を失った源頼家に北条氏と戦う力はなく、敵を討つどころか逆に北条氏によって、北条氏の討伐許可を出したことを理由として将軍位を廃され伊豆国修善寺へ追放されてしまします。

北条時政は、元久元年(1204年)7月18日、北条義時を伊豆・修善寺に差し向け、入浴中の源頼家を襲撃し暗殺します(源頼家は、首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。享年23歳(満21歳)でした。

④ 畠山重忠の乱(1205年6月22日)

北条時政は、継室として牧の方(北条義時と北条政子からみると継母)を迎え、その間に娘(北条義時・北条政子の異母妹)を設けていました。

この北条時政と牧の方の娘は、源頼朝の養子である平賀朝雅と結婚していました(そのため、将軍職を継ぐことができる人物です。)。

平賀朝雅は、源氏一門であり、また有力者である北条時政を後ろ盾としてましたので、京で権勢を誇っていました。

そんな中、有力御家人であったは畠山重忠の息子である畠山重保が、源実朝の結婚相手である坊門信子を迎えに鎌倉から京へ赴きます。

京に着いた畠山重保は、京にいる平賀朝雅と宴席を共にするのですが、その席で喧嘩となり、それを平賀朝雅が牧の方に報告をしたことから問題が起こります。

話を聞いた牧の方が、北条時政を唆し、北条時政の命で北条義時に畠山重忠を攻撃させ、畠山家を滅亡させたのです。

北条義時への権力集中

父・北条時政追放(1205年7月)

自身の主張により畠山氏を滅ぼした牧の方は、勢いに乗って娘婿である平賀朝雅を将軍に据えようと考え、今度は、北条時政に現将軍源実朝の暗殺を働きかけます。

もっとも、源実朝の母である北条政子にとっては、自分の子の暗殺計画など許せるはずがありません。

そこで、北条政子は、人望の厚かった畠山重忠を謀殺して御家人たちの反感を買ったことにより北条時政に疑問をもっていた北条義時を取り込み、北条時政・牧の方の排除を計画します。

そして、元久2年(1205年)閏7月、北条義時と北条政子が協力し、有力御家人・三浦義村(母方の従兄弟)の協力をも得て、北条時政と牧の方を伊豆国に追放します。

そして、北条義時は、同年8月2日、山内首藤通基(経俊の子)に命じて平賀朝雅を殺害します。

また、元久2年(1205年)8月、下野国の宇都宮頼綱(北条時政の娘婿)に謀反の疑いありとして守護の小山朝政に追討を命じ、出家遁世させます。

そして、北条義時は、父に代わって政所別当の地位に就き、ここで北条氏の実権が北条時政から、北条義時・北条政子に移ります。

そして、実権を得た北条義時は、ここから本領を発揮します。

北条義時は、畠山重忠・平賀朝雅の排除により空席となった武蔵国守護・国司について、信頼する弟の北条時房を就任させた上、源実朝と北条政子を表面に立てて、政所別当・大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛らと連携しつつ幕政の最高責任者の座に座ります。

なお、北条義時は、父・北条時政が性急な権力独占をして多くの反発を招いた反省から、柔軟な姿勢を示しながら北条執権体制の障害となる有力御家人の排除を進めていきます。

和田合戦(1213年2月)

北条時政を追放した頃から、北条義時の地位は執権と呼ばれるようになり、次第に独裁的政治を展開していきます。

そして、その後も有力御家人への攻撃は続きます。

次のターゲットは、鎌倉幕府創設以来の重鎮で初代侍所別当の地位にあった和田義盛です。

建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見したのですが、その折に和田義盛の子息である和田義直、和田義重と甥の和田胤長が捕縛されます。

その後、和田義盛の2人の息子である和田義直、和田義重は配慮されて赦免されたのですが、和田義盛の甥である和田胤長は許されず流罪とされて領地が没収されました。

一族から謀反人が出たと噂され、和田一族の面目は丸つぶれです。

この北条義時の処分を不服とした和田一族が、和田義盛を担ぎ上げ、姻戚関係にあった横山党や和田一族の本家である三浦一族の三浦義村と結んで北条義時打倒の兵を挙げます(和田合戦)。

もっとも、途中で三浦義村が北条義時側に寝返り、和田義盛は、北条義時に敗れ敗死します。

北条義時は、和田義盛の死亡により、政所別当(政治)のみならず侍所別当(軍事)をも兼任することとなり、鎌倉幕府の主要ポストを独占します。

執権・北条義時が鎌倉幕府の事実上の最高権力者となった瞬間でもありました。

権勢を極める北条義時は、建保4年(1216年)には従四位下に叙し、建保5年(1217年)5月に右京大夫、同年12月に陸奥守を兼任します。

源氏将軍の断絶(源実朝暗殺)

次は、いよいよ名目上の最高権力者・3代将軍源実朝です。

事件は、承久元年(1219年)正月27日に起こります。

この日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式が行われることとなっており、本来源実朝が参加し、その脇で北条義時が太刀持ちをする予定でした。

ところが、当日、北条義時が急に体調不良を訴えて館に戻ることとなり、急遽太刀持ちが北条義時から源仲章に交代します。

そして、同日、八幡宮での拝賀式が終わって石段を下りる一行に、法師の姿に変装した源頼家の子・公暁が乱入し、源仲章もろとも源実朝が暗殺されます。

この源実朝暗殺事件は、北条義時陰謀説や、鎌倉御家人共謀説、後鳥羽上皇黒幕説などその原因について色々な説があるのですが、直前まで同行するはずだったのに暗殺の直前にその場からいなくなった北条義時に強い疑義があります(1000人とも言われる護衛をかいくぐってたった1人の公暁が源実朝の下にたどり着いており、怪しさ満載です。)。

いずれにせよ、その後、将軍暗殺犯人として公暁も三浦義村に討ち取られ、源実朝には子がなかったために源氏の正統が断絶します。

朝廷権力の排除

承久の乱に至る経緯

源実朝の急死により、鎌倉幕府の執務は、源頼朝正室・北条政子が代行し、執権・北条義時がこれを補佐して行うこととなりました。

もっとも、名目上は征夷大将軍が必要となるため、北条義時らは、親王を将軍に向かえるよう朝廷と交渉をしますが失敗に終わります。

そこで、北条義時らは、皇族将軍を諦めて、摂関家から将軍を迎えることとして、九条道家の子である三寅(後の九条頼経)を将軍に据えて、これを傀儡として執権による政治を行う執権体制を確立させます。

この新将軍就任のゴタゴタにより鎌倉幕府側と朝廷(後鳥羽上皇)側にしこりが残ります。

また、鎌倉幕府が任命した地頭の台頭により、後鳥羽上皇の有する荘園群に年貢の未納が生じるようになり(年貢を地頭に支払い、上皇に支払わなくなったからです。)、経済的な理由が後鳥羽上皇と鎌倉幕府との反目を助長します。

そんな中、承久元年(1219年)7月13日、大内裏守護職にあった源頼茂が、後鳥羽上皇配下の西面武士により殺害される事件が起こります(後鳥羽上皇の関与は不明です。)。

これにより、朝廷と幕府の緊張は頂点に達して討幕の流説が流れるまでに至り、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となりました。

承久の乱(1221年5月)

そして、承久3年(1221年)5月14日、遂に後鳥羽上皇が「流鏑馬揃え」を口実として、配下の北面・西面の武士のみならず、近隣諸国の武士を集めた上で、院政内の親鎌倉派を粛清して挙兵します。

このとき集まった武士は1700騎余りと言われ、近隣の守護の邸宅を襲撃していきます。

また、後鳥羽上皇は、同年5月15日、鎌倉幕府の有力御家人に対して北条義時追討の院宣を発してさらに勢力を高めます。

この頃はまだ京都朝廷・天皇の権威が大きく、上皇挙兵と北条義時が朝敵となったというの報に鎌倉の武士達は動揺します。

もっとも、このときに北条政子が、涙ながらの大演説をして、御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆくように命じたことで鎌倉武士団の心をつかみ、動揺は鎮めて一致団結して鎌倉武士団を後鳥羽上皇に対峙させます。

そして、幕府首脳によって開かれた軍議での大江広元の「防御では東国御家人の動揺を招く」という発言により、幕府を挙げて京へ出撃することが決定します。

北条義時は、同年5月22日、軍勢を東海道・東山道・北陸道の3つに分け、嫡男・北条泰時を総大将として東海道から、次男・北条朝時、弟・北条時房を大将軍として北陸・東山の三道から京へ上らせます。

急な出発であったため、鎌倉を出た当初は少ない軍勢でしたが、進軍する道中で兵力を増強し美濃へ到達する頃には19万騎にまで膨れ上がっていたと言われています(吾妻鏡)。

西進する鎌倉幕府軍に対し、後鳥羽上皇軍は1万7500騎を東進させ、両軍は美濃国と尾張国との国境にある尾張川を挟んで布陣しますが、数に勝る鎌倉幕府軍は、後鳥羽上皇軍を駆逐して京へ進軍します。

その後、同年6月13日に再度後鳥羽上皇軍と鎌倉幕府軍とが宇治川で衝突しますが、ここでも後鳥羽上皇軍は駆逐され、同年6月14日夜には鎌倉幕府軍が京になだれ込み、同年6月15日に京を制圧します。

北条義時追討の宣旨発布からわずか1ヶ月での幕府軍の完勝でした。

この戦いは、日本史上、朝敵となった人物が初めて朝廷側に勝利した戦いであり、朝廷の権威が地に落ちて武士政権の確立の礎となったという歴史的意味のある勝利です。

京を制圧された後鳥羽上皇は、自身の挙兵は謀臣の企てであったとして北条義時追討の院宣を取り消し、逆に後鳥羽上皇に味方した藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下します。

もっとも、北条義時は、乱の首謀者たる後鳥羽上皇らに対して極めて厳しい態度を取ります。

具体的には、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に配流され、倒幕計画に反対していた土御門上皇も自ら望んで土佐国へ配流(後に阿波国へ移される)、後鳥羽上皇の皇子の雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国へ配流されることとなりました。

また、在位70日余りの仲恭天皇は廃されて新たに後堀河天皇が立てられ、朝廷対鎌倉幕府という構造となった承久の乱は、鎌倉幕府方の一方的勝利となり、北条義時は名声を高めて終結します。

北条義時の独裁政権確立

京の支配:六波羅探題設置(1221年6月)

承久の乱に勝利した北条義時は、天皇を挿げ替え、上皇3人と・皇子達を配流にしたのみならず、上皇側に与した武士の処分は最も厳しく大半が斬罪され、貴族も処刑・流罪・解官とします。

その上で、北条義時は、自身に都合よく政治が進むよう、朝廷の人員を親幕府派の公家・西園寺公経らを中心となるように再編成します。

これらの行為により、朝廷及び朝廷についた対抗勢力は一掃され、北条義時の主導する鎌倉政権が公家政権に対して支配的地位を持つという力関係を成立させることに成功し、また北条義時の鎌倉幕府内での絶対的・最高権力者たる地位が確定します。

また、承久の乱を鎮圧した北条義時は、承久の乱の戦後処理のため北条泰時と北条時房の2人を京に派遣し、朝廷の軍事力を支える存在であった京都周辺の軍事貴族や周辺武士を解体させます。

そして、鎌倉幕府としては、今後朝廷がその権威をかさにして挙兵する可能性を摘むため、御所近くに本拠を定め、鎌倉武士を常時駐屯させて朝廷の一挙手一投足を監視することとします。

このとき京にいた北条泰時と北条時房が、六波羅にあった旧平清盛邸跡地にを拠点にその北と南に駐留して、承久の乱の西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視をはじめます。

そして、検非違使や北面武士の担い手が失われたために京都の治安が急速に悪化することとなり、その対策として、六波羅探題は京の治安維持活動をも担うこととなり、以降、六波羅探題は京以西を監視する鎌倉幕府の一大軍事拠点となります。

全国支配へ

六波羅探題設置により、鎌倉幕府が、鎌倉を拠点に主に東国支配を重視するとした体制から、鎌倉・京を拠点とした

西国も含めた全国支配体制に飛躍することとなります。

さらに、後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収されて幕府の支配権付きで後高倉院に寄進され、後鳥羽上皇に与した貴族・武士たちの所領3万ヵ所が鎌倉幕府に没収され、これらが新たに北条義時によって東国武士たちへの恩賞として与えられます。

これにより、東国武士たちは、将軍に対してではなく、執権・北条義時に対して奉公をするようになります。

こうして、承久の乱を契機として、北条義時による執権政治は、全国的独裁政権として発展していきます。

北条義時の最期

北条義時死去(1224年6月13日)

北条義時は、貞応元年(1222年)8月13日に陸奥守を、同年10月16日に右京権大夫をそれぞれ辞職して、無官となります。

そして、元仁元年(1224年) 6月13日、北条義時は62歳で急死します。

吾妻鏡によると、死因は衝心脚気のためとされていますが、事実上の最高権力者の急死であったため様々な憶測を呼び、後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞や(明月記)、近習の小侍に刺し殺されたとの異説(保暦間記)も言われています。

なお、北条義時の別称は得宗と呼ばれ、これが以後の北条氏の嫡流の呼び名となりました。

北条義時の後年の評価

北条義時は、承久の乱で朝廷に弓を引き、さらに戦後に仲恭天皇の皇位を廃し、3人の上皇を配流しているため、明治時代においては尊皇の視点から同情の余地の無い逆臣で不遜の人とされました。

また、源氏将軍を滅ぼし、あるいは傀儡にして将軍から実権を奪い取っているため、江戸時代から不忠の臣・陰険な策謀家と評価されました。

北条義時の黒いイメージは、これらの歴史の積み重ねによるものです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です