【上総広常】源頼朝の窮地を救うも最初に粛清された房総平氏総領

上総広常(かずさひろつね)は、平安時代末期に房総半島一帯に大きな勢力を誇ったいわゆる房総平氏です。上総介広常(かずさのすけひろつね)とも言われます。

石橋山の戦いに敗れて安房国に流れ着いた源頼朝の下に2万騎とも言われる兵を引き連れて参陣し、その再起のきっかけを作った人物でもあります。

もっとも、鎌倉幕府御家人の中で突出した力を持っていたために、猜疑心の強い源頼朝に警戒され、ついには暗殺されるという悲しい最期を遂げています。

本稿では、そんな源頼朝再起のキーマンとなった上総広常の生涯について見ていきたいと思います。

上総広常の出自

上総広常は、桓武平氏良文流である房総平氏・平常澄(上総常澄)の八男として生まれます。

生年や母は不明であり、通称は介八郎といいました。

上総家は、いわゆる坂東八平氏の1つとして、上総広常の祖父の代から上総介あるいは上総権介(かずさごんのすけ)として上総・下総二ヶ国に及ぶ広大な所領を有していました(なお、上総は親王任国であるため、介が実質的な国府の長となります。)。

上総広常の館跡の正確な位置は不明であり、異説も様々あるのですが、千葉県東金市松之郷の字「新山」と字「城坂」に跨る舌状台地に「新山城」址があり、広常館があったと伝わっています。

また、鎌倉にあった上総広常屋敷跡は、朝比奈の切り通し沿いにあり、近隣には大刀洗の水や上総介塔などの関連史跡があります。

源頼朝に従うまで

源義朝に従う

若い頃の上総広常は、源義朝(安房国に下向して上総氏らの庇護を受けた後、成長し20代前半の頃に鎌倉を本拠地として南関東の武士団を統率する地位に上り詰め、上総御曹司と呼ばれていました。)の郎党となります。

そして、上総広常は、南関東での実力を提げて中央進出への足掛かりを掴んだ源義朝と共に上洛し、保元元年(1156年)に勃発した保元の乱を共に戦い武功を挙げます。

また、平治の乱の際、平治元年(1159年)12月26日に起こった内裏の戦いでは、源義朝の長男である源義平に付き従い、義平十七騎の一騎として平重盛を押し返す活躍をしています。

平家に下る

もっとも、平治の乱では、源義朝・源義平方が敗北したため、上総広常も戦線から離脱し、平家の探索をくぐって上総国に戻ります。

また、父・上総常澄もまた平家の軍門に下り、平家の家人として生きるという選択をします。

上総家の家督争い

その後、上総常澄が亡くなると、その子の伊南常景・印東常茂・上総広常・相馬常清らで上総家の家督を巡って争うようになります。

そして、印東常茂が伊南常景を殺害してしまったため、実質は、上総広常と、弟である印東常茂(上総常澄が有していた印東荘を有し、印東姓を名乗っていました。)の2人の争いとなっていきました。

そして、この兄弟間の争いは、後の頼朝挙兵の頃まで続いたのですが、次第に上総広常有利に進んでいくこととなります。

平家に対する恨み

上総家内での争いを有利に進めていた上総広常でしたが、大きな問題が生じます。

治承3年(1179年)11月、平家の有力家人・伊藤忠清が、平家から「坂東八ヵ国の侍の別当」に任じられて東国の武士団を統率する権限を与えられ(平家物語)、治承三年の政変で解官された藤原為保に代わって上総介となったのですが、上総国の国衙を掌握した伊藤忠清が、上総国内で大きな力を持つ上総広常に対して強圧的な態度に転じ、陳弁のため上洛した上総広常の嫡男である上総能常を拘禁する暴挙に出たのです。

この伊藤忠清の行為に怒った上総広常は、伊藤忠清及び彼を任命した平家に対して恨みを持つようになり、これらの政治的状況が上総広常に平家打倒を決意させるに至らせます。

源頼朝の下での活躍

源頼朝が安房国へ(1180年8月29日)

こうして、上総国内で平家に対する恨みを強めていった上総広常の下に、治承4年(1180年)8月29日、対平家の兵を挙げたものの、その後の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房国に落ちてきたとの報が届きます。

さらに、このとき、源頼朝の命を受けた和田義盛が上総広常のもとを訪れ、源頼朝に協力してほしいとの要請をしてきます(このとき、千葉常胤の下には安達盛長が、安西景益の下には三浦一族が訪れていました。)。

ところが、この要請を受けて上総広常は悩みます。

源頼朝がかつての主君・源義朝の子である上、源氏の棟梁の子であるために打倒平家打倒のための神輿として担ぐには申し分がない反面、源頼朝の勢力があまりに脆弱なため源頼朝に協力すると、強大な平家に敵対したとして上総家そのものが攻め滅ぼされてしまう危険もあるからです。

そこで、上総広常は、源頼朝が平家勢力を坂東一帯から排除する力を持つかを見極めるため、熟考を重ねます。

また、上総国目代や平家方についていた弟の印東常茂の討伐に相当の時間が必要でした。

源頼朝の下に参陣(1180年9月19日)

ところが、下総国の千葉常胤が、先行して源頼朝の呼びかけに応じて挙兵し、下総国府を襲撃して平家一族の目代を殺害した上で(結城浜の戦い)、源頼朝を呼び寄せたのです。

そして、源頼朝は、千葉常胤の呼びかけに応じて、同年9月13日、集った300騎を率いて安房国を出立し下総国を目指して北上を開始し、同年9月17日、下総国府に到達して千葉常胤と合流します。

ここで、上総広常も、ようやく腹を決めて、同年9月19日、2万騎(吾妻鏡では2万騎・延慶本平家物語では1万騎・源平闘諍録では1000騎とされています。)もの大軍を率いて、武蔵国と下総国の国境辺りの隅田川近辺まで進んでいた源頼朝の下に参陣します。

このとき、上総広常は、源頼朝に出会うこととなったのですが、2万騎も引き連れてきたにもかかわらず、歓迎されるどころか参陣が遅れたとして源頼朝に叱責されます(なお、これにより上総広常は、源頼朝の器量に感じ入り、忠誠を誓うこととなったと言われています。)。

そして、一大勢力を誇った上総広常が源頼朝の下に参陣したことにより、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠ら周囲の豪族たちも次々と源頼朝の下に集うようになり、同年10月2日に武蔵国に入る頃には、源頼朝の下に集った兵は2万5000騎にまでに膨れ上がっていました。

こうして率いる軍が膨れ上がった源頼朝に、以降関東の平家方の豪族たちは手出しが出来なくなったため、源頼朝は抵抗を受けることなく治承4年(1180年) 10月6日、鎌倉に入ります。

そして、鎌倉に到着した源頼朝は、共に蜂起した甲斐国の武田信義と連絡を取り合い、駿河国で合流して平家を打倒するとの同盟を結び、同年10月16日、遂に平家軍を迎え撃つべく鎌倉を出発します。

そして、治承4年(1180年)10月20日夜、富士川で源頼朝・武田信義連合軍をもって平家軍を打ち破ります(富士川の戦い)。

源頼朝を諫める(1180年11月20日)

富士川の戦いに勝利して気を良くした源頼朝は、そのまま撤退する平家軍を追撃して京に雪崩れ込もうと考えます。

ところが、ここで上総広常は、千葉常胤三浦義澄らと共に、この源頼朝の意見に異を唱え、東国を固める(まず、常陸国に勢力を有する平家方の佐竹氏を討つ)よう主張します。

上総広常としては、源頼朝が京に上って平家を討つよりも、自らの領地である上総国から平家勢力を追い払うことの方が大事だったので、自らの子飼いの兵を京への遠征軍として消費するわけにはいかなかったためです。

その結果、いまだ自身では大きな力を持たない源頼朝は、上総広常ら東国武士たち(主に房総平氏)の意志に逆らうことができず、結局は鎌倉に戻るという選択をします。

金砂城の戦い

そして、源頼朝は、治承4年(1180年)10月27日、源頼朝は、軍勢を引き連れ佐竹家の治める常陸国に向かって出発し、同年11月4日、常陸国府に入ります。

上総広常は、佐竹氏と姻戚関係があったため、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れ、会見にやってきた兄の佐竹義政を矢立橋に誘い出して誅殺します。

そして、同年11月5日、金砂城に立てこもった弟・佐竹秀義をを討つため、金砂城に対する総攻撃が始まります。

このとき、熊谷直実、平山季重らが城に取りついて攻め立てたのですが、金砂城が断崖に位置する堅い守りの城郭であったため、なかなか落ちませんでした。

金砂城の守りが強固であると判断した源頼朝は、上総広常の献策により、金砂城には入城していなかった佐竹秀義の叔父・佐竹義季を調略し、その案内で金砂城を攻略します(金砂城の戦い)。

この結果、佐竹義季が御家人に列せられ、佐竹秀義の所領が源頼朝の家人たちに与えられることとなります。

こうして、新たな占領地を得たため、源頼朝はこれを御家人たちへの恩賞として与えることでその力を示し、関東を基盤とした武家政権を確立させていきます。

なお、鎌倉に入った源頼朝は、鶴岡八幡宮を移設した上で大倉幕府を設け、鎌倉の都市整備をしていくのですが、治承4年(1180年)12月12日に大倉幕府(3つの鎌倉幕府のうちの1つ目の幕府)が完成してそこに移るまでの間は鎌倉の上総広常の館にて生活をしており、この頃の上総広常を含めた房総平氏の力の大きさがうかがい知れます。

上総広常の最期

上総広常と源頼朝との反目

鎌倉に入った源頼朝の下では、源頼朝を中心とする朝廷との協調路線派と、上総広常を中心とする東国独立論を主張する有力関東武士層との間で対立が生じます。

また、上総広常は、源頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有していたため無礼な振る舞いが多かったと言われています。

実際、源頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、源頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあるとされています(吾妻鏡・治承5年6月19日条)。もっとも、吾妻鏡は鎌倉時代後期に北条家を礼賛するために編纂されたものでありその正確性は不明です。

そのため、上総広常は、鎌倉にて中央集権化を進める源頼朝の目の上のタンコブとなっていきます。

上総広常暗殺(1184年2月3日)

そこで、源頼朝は、大きな力を持つ房総平氏の筆頭・上総広常に謀反の疑いありとして、梶原景時と天野遠景に上総広常の暗殺を命じます。

この命令を受けて、寿永2年12月30日(1184年2月3日)、梶原景時は、双六に興じていた最中に隙をついて上総広常を斬殺します。

上総広常を斬った梶原景時は、その後、鎌倉七口の1つである朝夷奈切通にある湧水で、上総広常を暗殺した太刀を洗ったと言われ、この湧き水は、現在、梶原大刀洗水と呼ばれています(鎌倉五名水の1つ)。また、現在、横浜市金沢区朝比奈に、上総広常の墓と言われる上総介塔(上總之介塔)があります。

そして、この後、上総広常の嫡男であった上総能常も自害させられ、一族は上総広常の又従兄弟であった千葉常胤預かりとされます。

こうして上総一族の広大な所領は没収され、千葉一族や三浦一族などに分配されることとなりました。

上総広常暗殺後の房総

この上総広常の誅殺は、源頼朝の身内的御家人(北条時政比企能員など)台頭と並行して行われたものであり、結果として源頼朝を支える基盤が上総常胤・千葉常胤ら房総平氏から北条時政・比企能員に移っていく過程で起こったものと言えます。

実際、後に上総広常の鎧から願文が見つかったのですが、そこには上総広常の謀反を思わせる文章はなく、そればかりか源頼朝の武運を祈る文書であったため、源頼朝は上総広常を殺したことを後悔したと言われます。

もっとも、源頼朝は、すぐさま千葉常胤預かりとなっていた上総一族を赦免したのですが、北条時政・比企能員などの圧力もあり、上総一族に従前の所領を返還することはせず、房総平氏の力は大きく衰えていくこととなりました。

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