【三浦義澄】創生期から鎌倉幕府を支えた宿老

三浦義澄(みうらよしずみ)は、源義朝の代から源氏に仕え、源頼朝挙兵後は、直ちに合流を図って協力をするなど、創生期から鎌倉幕府を支えた宿老です。

源頼朝亡き後は、2代将軍源頼家に仕えるも、13人の合議制に名を連ねて、将軍権力の抑制に協力しています。

13人の合議制が破綻した後、鎌倉幕府御家人間の権力闘争の始まりの時期に死亡したため、ある意味鎌倉幕府の上り調子の時期だけを見た幸せな人生だったのかもしれません。

三浦義澄の出自

出生(1127年?)

三浦義澄は、大治2年(1127年)ころ、相模国三浦郡矢部郷に本拠を置く、桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏の1つである三浦氏棟梁の三浦義明の次男として生まれます。

三浦義澄元服

その後、正確な時期は不明ですが、成長した三浦義澄は、上総常澄の加冠によって元服し、烏帽子親の上総常澄から「澄」の諱を貰って三浦義澄と名乗ります。

平治元年(1159年)の平治の乱では源義朝軍に従い、待賢門の戦いでは源義朝の長子・源義平率いる17騎(源氏十七騎)の1人として平重盛を追い込む活躍を見せるなどしたのですが、結果源義朝が平家方に敗れたため、三浦義澄も京から三浦に落ち延びます。

三浦義澄は、永暦元年(1560年)に源義朝の子・源頼朝が伊豆に流されてきた後は、これと懇意にし、源頼朝が挙兵をする際には、一族を結集して呼応することを約束していたそうです。

家督相続(1164年)

本来は三浦家の家督を継承する立場になかった三浦義澄でしたが、長寛2年(1164年)に兄・杉本義宗が亡くなったため、三浦家の家督を継ぐこととなりました。

源頼朝に従う

源頼朝挙兵(1180年8月17日)

治承4年(1180年)8月17日、以仁王の令旨を得た源頼朝が挙兵して伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃し、これを討ち取ります。

もっとも、挙兵直後の源頼朝に付き従う兵は少なく、源頼朝の軍勢だけで伊豆国を制圧することは不可能でした。

そこで、源頼朝は、次に三浦義澄ら三浦一族との合流を目指します。

源頼朝は、山木兼隆を討ち取った後、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)にある土肥実平の館に滞在して三浦一族の合流を待ちます。

三浦義澄は、一族を挙げて準備をし、源頼朝の下に馳せ参じるために、同年8月22日、三浦にある居城の衣笠城を出撃します。

衣笠城を出て西に向かう三浦義澄でしたが、悪天候のために増水した酒匂川を越えられず、源頼朝の下にたどり着くことができません。

そうこうしている間に、平家方が、源頼朝討伐のための軍を整え、大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季貞、熊谷直実ら3000余騎を率いて伊豆国の源頼朝の下へ進軍してきます。

これを迎え撃つため、源頼朝は、石橋山に登って陣を敷いたのですが、南側から伊東祐親率いる300騎に攻撃され挟撃されたこともあって兵が混乱して惨敗し(石橋山の戦い)、身を隠した後、安房国に逃れます。

小壺坂合戦(1180年8月24日)

石橋山にて源頼朝が敗れ逃亡したとの報を聞いた三浦義澄は、源頼朝との合流をあきらめ、居城の衣笠城へ退却を始めます。

ところが、帰城中の三浦軍は、治承4年(1180年)8月24日、源頼朝挙兵の報を受けて家子・郎党を率いて出陣してきた平家方の武蔵国・畠山重忠の軍と鎌倉の由比ガ浜で遭遇します(このとき、三浦軍は小坪峠に300騎、畠山軍は稲瀬川に500騎で対峙したそうです、源平盛衰記)。

このとき、当初はそれぞれが相手が誰かわからなかったのですが、三浦義澄方の和田義盛が名乗りをあげたためにお互い相手が誰かを知ります。

この点、畠山重忠の母は三浦義澄の姉妹にあたるため(三浦義明の娘)、畠山重忠と三浦義澄が甥と叔父の関係にあたること、また同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多かったことなどから、合戦回避の流れとなり、一旦は戦になることなくおさまる気配となります。

ところが、間の悪ことに、遅れて来た和田義茂(和田義盛の弟)が、三浦軍と対峙している相手と見て、事情を知らないまま畠山重忠軍に討ちかかってしまいます。

突然攻撃された畠山重忠軍も、驚いて応戦したため結局合戦となり、両軍に少なからぬ死傷者が出ます(小壺坂合戦、小坪合戦)。

その後、何とか停戦して双方が兵を退き、三浦義澄も本拠地である三浦にある居城の衣笠城にたどり着きます。

衣笠城の戦い(1180年8月26日)

小壺坂にて三浦軍と痛み分けに終わった畠山重忠でしたが、平氏方の将としての責任もあり、同じ秩父氏の総領家である河越重頼・江戸重長に加勢を依頼して、治承4年(1180年)8月26日、数千騎で三浦氏の本拠地である衣笠城を攻撃します。

これに対し、小壺坂合戦で大きく兵を減らしていた三浦軍は、畠山軍の猛攻を支えきれませんでした。

そこで、三浦義澄は、源頼朝と合流を目指し、同日夜、住吉神社の山頂松に祈願の幟を立てた後、一族で衣笠城を放棄して海路にて安房国に落ちて行きます。

この衣笠城落城に際し、89歳の老齢であった三浦家前当主・三浦義明(三浦義澄の父)が衣笠城に残って奮戦し、一族の退却時間を稼いでいます(吾妻鏡)。なお、延慶本平家物語では、三浦軍が衣笠城を脱出する際に、老齢の三浦義明が足手まといであるとして置き去りにしたと記されているため、本当のところはわかりません。

三浦一族安房国に逃れる

源頼朝と合流するために安房国に向かった三浦義澄らでしたが、治承4年(1180年)8月28日、残党狩りをかいくぐりながらやってくる源頼朝よりも先に安房国にたどり着きます。

そこで、先着した三浦義澄らは、三浦一族総出で安房国・下総国で在地豪族達を味方に引き入れる工作を始めます。

翌同年8月29日に安房国に入った源頼朝は、三浦一族と合流した後、房総半島の二大勢力千葉常胤・上総広常を傘下に加え、その後も次々と周囲の勢力を取り込んでいきます。

源頼朝と共に鎌倉入り(1180年10月6日)

大軍となった源頼朝軍は、治承4年(1180年)10月4日に、畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父一族をも臣従させ、同年10月6日、鎌倉に入ります。

なお、富士川の戦いの前日である同年10月19日、平家軍に合流しようとした妻の父である伊東祐親が捕らえられ、その身を三浦義澄が預かる事となります。

ここで、三浦義澄は、源頼朝に助命嘆願をして伊東祐親の帰順を認めさせたのですが、伊東祐親は自分の娘と源頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じ、後に自害して果てています。

源平合戦にて活躍

富士川の戦い(1180年10月20日)

鎌倉に入った源頼朝は、甲斐源氏・武田信義らと連絡を取り合い(このとき、武田信義の下に北条時政北条義時らが匿われていました。)、対平家のため、西に向かって兵を進めることを決定します。

当然、三浦義澄も軍を率いてこれに同行します。

そして、治承4年(1180年)10月20日、富士川の戦いで平氏を追い払った源頼朝は、その勢いで平氏を追って京へ向かうことを考えます。

源頼朝による東国支配

ところが、ここで、三浦義澄は、千葉常胤、上総広常らと共に、源頼朝に苦言を呈し、東国の平定なしに西国に進軍するのは適切ではないとして、源頼朝の京への進軍を諫めます。

三浦義澄ら東国武士にとっては、平家打倒よりも、自分たちの領地を守ることの方がはるかに重要だったからです。

まだ力を持たなない源頼朝に東国の有力武将達を抑える力はなかったため、源頼朝は京を目指すことはできず東国に止まり東国支配を固めるという決断をせざるを得ませんでした。

源頼朝にとっては忸怩たる決断であったかもしれませんが、軍事的才能に乏しい源頼朝にとっては、結果的にはこれが最良の選択であったかもしれません。

源範頼の西国出兵(1184年8月8日)

源頼朝は、鎌倉に戻って源頼朝の東国支配を固めた後、寿永2年(1183年)10月、弟である源範頼と源義経に命じ、いよいよ京に向かって軍を進めます(当初は、木曾義仲討伐のための進軍でした。)。

木曾義仲を討伐した後、平家との一ノ谷の戦いに勝利し、福原を含むかつての平家の旧領を次々と手中にしていった源頼朝軍は、源義経を京に残し、一ノ谷の戦いを終えた源範頼ら主な武士たちを一旦東国に戻します。

その結果、山陽道の統治は、惣追捕使となった梶原景時、土肥実平らに任されることとなったのですが、元暦元年(1184年)7月頃から、屋島に残る平家の勢力が再び船で瀬戸内海を渡って山陽道に出没し始め、そこかしこで鎌倉御家人を襲撃するようになります。

これに対し、水軍を持たない源氏が屋島を攻撃してこれを封じることはできません。

困った源頼朝は、このゲリラ戦を挑んでくる平家軍の討伐を鎌倉に戻っていた源範頼に任せます。

西国出兵の命を受けた源範頼は、元暦元年(1184年)8月8日、和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎を率いて平氏追討のために鎌倉を出立します。

その後、京に入った源範頼は、同年8月27日に追討使に任命された上で軍の結集を待ちます。

ここで、三浦義澄は、千葉常胤・八田知家・葛西清重・小山朝光・比企能員・工藤祐経・天野遠景らと共に源範頼の下に集い、源範頼は集まった3万騎を率いて、同年9月1日、京を出発し西に向かいます(源範頼の山陽道・九州遠征)。

そして、山陽道を進む源範頼の軍は同年10月には安芸国に、同年12月には備中国に到達し、ここで平行盛軍を撃破して(藤戸の戦い)、山陽道の一応の安全を確保します。

その後、源範頼は、さらに平家の最西の拠点・彦島を無力化するため、さらに西に向かって進んで行きます。

そして、元暦2年(1185年)1月、源範頼は、周防国の守りとして三浦義澄を残し、その他の軍を率いて船で豊後国に上陸していきます。

壇ノ浦の戦い・奥州合戦

周防国に残された三浦義澄でしたが、ここに屋島の戦い志度合戦に勝利した源義経水軍やってきます。

三浦義澄は、源義経に合流した後、案内役と先鋒を命じられ壇ノ浦の戦いに臨むこととなり、平家滅亡に貢献しています。

また、奥州合戦では、阿津賀志山の戦いでは、三浦一族を率いて奥州方の大将であった藤原国衡を追撃し、一族の和田義盛がこれを討ち取る武功を挙げています。

鎌倉幕府の宿老として

源頼朝上洛に随行(1190年)

三浦義澄は、建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、御所へ入る際の牛車の前を行く3騎の先頭を任され、また源頼朝の右近衛大将拝賀の際には布衣侍7人(他の6名は、千葉胤正、工藤祐経、足立遠元、後藤基清、葛西清重、八田知家)の1人に選ばれて参院の供奉をするなど、信頼の高さがうかがい知れます。

また、源頼朝の推挙により10人の御家人に官職が与えられることとなった際には、三浦義澄も当然そのうちの1人に選ばれたのですが、三浦義澄はこの栄誉を息子の三浦義村に譲っています。

北条家に接近する

建久5年(1194年)2月、北条義時の子である北条泰時(このときは北条頼時)が元服した際、源頼朝の勧めに従って、三浦義澄は孫娘の矢部禅尼を北条泰時の正室としています。なお、この2人は後に離婚しています。

13人の合議制(1199年4月12日)

建久10年(1199年)1月13日、初代鎌倉殿・源頼朝が53歳の若さで死去すると、源頼家が、同年1月20日、18歳の若さでで左中将に任じられ、同年1月26日には家督を相続すると共に朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉殿(征夷大将軍に宣下は建仁2年(1202年)7月22日です。)の座に就きます。

将軍となった源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、生まれながらの鎌倉殿として苦労を知らずに育ったお坊ちゃんである源頼家は、御家人たちの信頼を得ることができません。

そして、源頼家は、将軍就任後僅か3ヶ月で権力を維持できなくなり、同年4月12日に有力御家人によるクーデターによって訴訟裁断権を奪われ、鎌倉幕府の政治が源頼家ではなく、源頼家を補佐するという名目で以下の13人の有力御家人の合議体制により行われることとなり、有力御家人であった三浦義澄もその1人に選ばれます(なお、三浦一族からは、もう1人和田義盛が選ばれています。)。

将軍権力を抑制して自らの地位を一気に高めた御家人らは、今度は自らが御家人らの間で抜きん出ようとして、御家人相互間で熾烈な政争を始めます。

最初のターゲットは、梶原景時でした。

梶原景時の変

正治元年(1199年)10月28日、三浦義澄・三浦義村ら御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が、将軍側近官僚大江広元に提出されます。

大江広元からこの連判状を渡された源頼家は、同年11月12日、梶原景時を呼び出して弁明を求めたのですが、梶原景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて相模国一宮に下向してしまいました。

そのため、梶原景時は、同年12月18日、源頼家から鎌倉からの追放を申し渡され、同年12月29日には、播磨国守護は小山朝政に、美作国守護は三浦一族の和田義盛に交代させられてしまいます。

所領を失った上で鎌倉まで追われた梶原景時は、京で再起を図るべく(または、九州で兵を募って反乱を起こすべく)、正治2年(1200年)正月、一族を率いて相模国一ノ宮より出立し上洛の途についたのですが、梶原景時ら一行は、同年正月20日、東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くに達した際、偶然居合わせた吉香友兼ら在地の武士たちや相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受け、梶原景時が西奈の山上にて自害して、梶原一族が滅びます。

三浦義澄の最期(1200年1月23日)

この後、鎌倉幕府内で、御家人同士の血で血を洗う政治闘争が繰り広げられるのですが、三浦義澄はこれに参加することなく、梶原一族が討たれた3日後である正治2年(1200年)1月23日に病没します。享年は74歳でした。

なお、三浦義澄に続いて安達盛長が病死したため、僅か1年程の間に3人(梶原景時・三浦義澄・安達盛長)ものメンバーを失ったことにより13人の合議制は解体し、鎌倉幕府の政治権力が、御家人の合議制から北条家の独裁に進んでいくこととなります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です