【以仁王の令旨】平家滅亡のきっかけとなった御教書

源氏が蜂起し、平家打倒のきっかけとなったのが、有名な以仁王の令旨です。

以仁王は、「平氏方の武将であった」源頼政に担がれて平家打倒に立ち上がったのですが、打倒計画の杜撰さと準備不足から早々に計画が露見し、両人とも宇治・平等院で敗死します。

もっとも、以仁王が挙兵の際に出した令旨が、平氏打倒の契機となって諸国の反平家勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まるのです。

以下、以仁王の令旨について、以仁王と源頼政の反平家計画の経過を追いながら見ていきましょう。

以仁王・源頼政挙兵

平氏の天下

保元の乱、平治の乱を経て平清盛が台頭して太政大臣・天皇の外戚となったこと、知行国支配と日宋貿易で財を増したことにより、平家は、「平家にあらずんば人に非ず」と言われるほどの全盛期を迎えます。

ところが、権勢に奢った平家は、その横暴が目立つようになり、朝廷や全国の武士の間で反平家の動きが散見されるようになっていきます。

以仁王の野心

このとき、反平家の動きを見せた1人が以仁王でした。

以仁王は、後白河法皇の第三皇子だったのですが、平氏政権の圧力で30歳近い壮年でなお親王宣下を受けられずにいました。

もっとも、以仁王は、莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王(後白河法皇の異母妹)の猶子となって皇位へ望みをつないでいました。

ところが、平清盛の孫である安徳天皇が即位したことにより、以仁王の望みが断たれます。

そればかりか以仁王の経済基盤である荘園の一部も没収されました。

これにより、以仁王に反平家の憎悪が渦巻きます。

ここに、平家方の武将であった源頼政が加わることで事態が動き始めます。

源頼政の裏切り

源頼政は、源頼光の系譜に連なる摂津源氏であり、畿内近国に基盤を持つ京武士として大内守護に任じられていました。

源頼政は、源氏ではあったものの、保元の乱では勝者の後白河天皇方につき、平治の乱では主美福門院の意向を汲みながら形勢を観望して藤原信頼に与しなかったため討伐対象となりませんでした。

そのため、源頼政は、平家政権の下でも軍事貴族の一員として過ごしていました。

源頼政は、平家全盛の中で目立ちはしなかったものの、治承2年(1178年)には齢70歳半ばを超えたところで平清盛の推挙により従三位に昇進します。

これは、平家以外の武士が公卿(従三位)となるのは異例であったようです。

念願の三位叙位が叶った翌年、源頼政は、出家して家督を嫡男の源仲綱に譲ります。

平家政権の中で異例の出世を続けていた源頼政ですが、その後、後白河法皇の第三皇子・以仁王を取り込んで反平氏の立場となります。

源頼政が反平家となるに至った動機としては、①源頼政の嫡男・源仲綱と平宗盛(清盛の三男)の馬をめぐる軋轢説(平家物語)、②安徳天皇即位に対する反発説などがありますが、正確な理由はわかりません。

いずれにせよ、反平家の立場となった以仁王と源頼政とが合わさったことで挙兵の方向に向かいます。

以仁王の令旨

以仁王の令旨(1180年4月9日)

もっとも、源氏の一支族に過ぎない源頼政と、皇太子どころか親王ですらない以仁王の2人だけで集められる兵の数はたかが知れています。

平家と対立するには兵が足りません。

そこで、源頼政と謀った以仁王は、全国の反平家勢力の決起し、これを討伐するために都から平家の兵が出払った隙をついて都を占拠するとの作戦を立案し、治承4年(1180年)4月9日、自らを「最勝親王」と称して諸国の源氏勢力(多田・武田・新田・足利・佐竹など)と大寺社に平家追討の挙兵を勧める令旨を下したのです。

以仁王の令旨全国へ(1180年4月10日)

以仁王の令旨は、治承4年(1180年)4月10日、源行家と名を変えた源義盛(源頼朝・木曽義仲の叔父)が山伏の姿に変装して密かに京を脱出し、諸国に点在する源氏に呼びかけて回ることにより全国に広がっていきます。

京を出た源行家は、近江国(山本義経)・美濃国(源光信)・尾張国と順に回って源氏諸勢力に令旨を知らせて回ります。

また、同年4月27日には、伊豆国の源頼朝に令旨を届けています(もっとも、この時点では、流人の源頼朝には兵力はありませんので、源頼朝はあくまでもついででした。)。

さらに、その後、甲斐国の武田信義安田義定・信濃国の木曾義仲らにも令旨を届けます。

橘合戦

以仁王挙兵の露見(1180年5月)

ところが、治承4年(1180年)5月ころになると各地で反平家の動きが出始めたため、平家頭領である平清盛が、福原から京へ戻り、その対応にあたります。

このとき、平清盛は、同年5月15日、不穏な動きの中心人物と考えられる以仁王を臣籍降下させて源以光と改めた上で、土佐国への配流を決定します(平家物語では、令旨によって熊野の勢力が二つに割れて争乱に発展したことから熊野別当湛増が平家に以仁王の謀反を注進したとされていますが、真偽は不明です。)。

これにより、検非違使別当・平時忠が300余騎を率いて以仁王の三条高倉邸に向かったのですが、ここに加わっていた源兼綱(源頼政の息子)が、以仁王捕縛・配流命令の内容を直ちに源頼政に伝えたため、すぐにその内容が以仁王に届けられます。

以仁王の逃亡(1180年5月21日)

身の危険を感じた以仁王は、女装して京を抜け出し大津にある園城寺に逃げ込みます。

治承4年(1180年)5月16日、平家は園城寺に対して以仁王の引き渡しを求めたのですが、園城寺側はこれを拒否します。

そんな中、以仁王は、園城寺において興福寺と延暦寺にも協力を呼びかけ、仏教勢力を基本とする反平家勢力の結集に努めます。

この反平家の動きに奈良の興福寺も参加する意思を表明したため、同年5月21日、平清盛は、平頼盛、教盛、経盛、知盛、重衡、維盛、資盛、清経、源頼政(この時点は、まだ源頼政の関与は露見していませんでした。)らを将とする園城寺攻撃軍を編成します。

ところが、ここで源頼政が、満を辞して自邸を焼いて園城寺に入り、平家方の作戦内容を携えて以仁王と合流し、反平家方に寝返ります。

六波羅焼き討ち計画(1180年5月23日)

大津・園城寺に集った以仁王・源頼政らは、治承4年(1180年)5月23日夜、まだ平家の軍が整っていない同日の段階で京に軍を出し、その軍を2手に分けて先に北軍が白河殿を焼き討ちして六波羅の平家軍をおびき出し、それによって手薄となった六波羅を遅れて到達した南軍が焼き討ちにすると共に平清盛の首を取るという計画を立てます。

ところが、園城寺において詳細な作戦会議している間、平家専属の祈祷師であった真海という僧が議論を長引かせ、平氏が対応するための時間稼ぎをしたために夜が明けてしまい、同日の夜討ち計画が中止となる事件が起こります。

興福寺に向かう(1180年5月25日)

六波羅焼き討ち計画に失敗した以仁王・源頼政らは、平家による以仁王討伐軍を避けるため、寡兵の園城寺を引き払い、強力な僧兵を多数擁する興福寺を頼ることに決めます。

そこで、以仁王と源頼政は、治承4年(1180年)5月25日、1000騎に守られながら大津・園城寺を発ち、大和国・興福寺に向かって南進をはじめます。

ところが、以仁王動くの報は、すぐさま平清盛の耳に入ります。

以仁王が園城寺を出たと聞いた平清盛は、平知盛・平重衡を大将とする2万8000騎に命じてこれを追撃させます。

夜間行軍を行っていた以仁王軍でしたが、元々武士ではなく馬に乗ることに慣れていない以仁王は、途中で何度も落馬するなどして進軍は進まず、また兵らの進軍の疲れもあって、やむなく宇治・平等院で休息を取ることになりました。なお、このとき以仁王軍は、宇治橋の橋板を外して平家方の大軍が一気に亘ってこれないように工夫を凝らすという防衛策を講じています。

ところが、以仁王らが宇治・平等院で休息をとっている間に、京から追ってきた平氏軍が宇治橋の北側にたどり着きます。

そのため、治承4年(1180年)5月26日、宇治川を挟んで両軍が対峙することとなりました。

宇治合戦(1180年5月26日)

前記のとおり、この時点で宇治橋の橋板が外されていたため、まずは宇治川を挟んでの矢戦から戦いが始まります。

もっとも、宇治橋自体が細い橋であったため大軍での行軍に適さない上、橋板が外されていたために平家方はなかなか南側に渡っていくことができません(平家物語には、このときの源頼政配下の五智院但馬、浄妙明秀、一来法師などの僧兵たちの奮戦が描かれています。)。

攻めあぐねた平家方は、馬を繋いだ馬筏により堤防とすれば宇治川の渡河が可能との藤原忠清の進言を採用します。

馬筏によって水の流れが弱まったところで多くの平氏方の兵が下流から宇治川を渡ります。

対岸に渡った平家の兵は、そのまま以仁王がいる平等院になだれ込んでいきます。

平氏の兵がなだれ込んできたのを見た源頼政は、宇治橋を捨てて以仁王のいる平等院に駆け付け、自ら殿となって以仁王を南の興福寺の方へ向かわせます。

その後の源頼政軍では、源頼政の養子である源兼綱が討たれ、源仲綱も重傷を負い自害します。なお、このときの源兼綱の奮闘はすさまじく、八幡太郎義家の再来のようであったと絶賛されました。

その後も、源頼政方の兵が討ち取られていったため、できる限りの時間稼ぎをしたと判断した源頼政は、平等院境内の扇の芝において、渡辺唱の介錯の下で腹を切ります。

その後、源仲綱の嫡男・源宗綱、源頼政の養子・源仲家(木曽義仲の異母兄)、その子源仲光らも相次いで戦死や自害を遂げ、遂に源頼政軍は壊滅します。

なお、今も、宇治・平等院には源頼政の墓が残されており、橘合戦と源頼政軍の奮闘を後世に伝えています。

以仁王討死

一方、源頼政の奮闘により、何とか平等院を脱出した以仁王は、30騎に守られながら必死に南進し、約20km離れた興福寺のある南を目指します。

これに対し、知らせを受けた興福寺側も、助けの僧兵を出します。

ところが、以仁王は、宇治・平等院から15kmほど南進して山城国相楽郡光明山鳥居の前まで達したところで、藤原景高の軍勢に追いつかれ、射られて落馬したところを討ち取られてしまいました。

以仁王の令旨の影響

福原京遷都(1180年6月2日)

以仁王と源頼政の挙兵は短期間で失敗したのですが、皇族が令旨を出して平家打倒の音頭を取ったという事実は政局に極めて大きいな変革をもたらしました。

以仁王の令旨を奉じて、武田信義、源頼朝、源義仲らが各地で蜂起し、ついには平家滅亡につながる治承・寿永の乱の幕が開けます。

以仁王の令旨にいち早く反応したのは、甲斐源氏の武田信義でした。

武田信義は、治承4年(1180年)4月下旬または5月上旬ころ、以仁王の令旨に応じて挙兵しています。

平清盛は、全国各地で反平氏勢力が勃興し、また畿内の仏教勢力との争いも始まったのを見て、安全を図るために京都から平家の本拠地であった摂津国・福原へ都を移すことを決めます。

そして、治承4年(1180年)6月2日、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、福原に行宮が置かれます(福原京遷都)。

源頼朝・木曽義仲の挙兵(1180年8月〜)

その後、治承4年(1180年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を奉じて舅の北条時政土肥実平、佐々木盛綱らと共に挙兵します。

また、同年9月7日、木曾義仲が、信濃国の武士に令旨を伝え、(おそらく木曽谷で)兵を集めて挙兵します。

そして、源頼朝は、東海道から京へ向かって進軍を開始し、治承4年(1180年)10月20日、富士川で平氏を破ります。

また、木曽義仲が、北陸道から京に向かって進軍を開始します。

南都焼き討ち(1180年12月)

主に源氏勢力が反平家に立ち上がり始めたため、治承4年(1180年)11月ころに園城寺と興福寺は再び平氏への反抗の動きを見せはじめます。

ここで、平清盛は、再び平安京へ遷都したのですが、東から源氏勢力が迫る中、畿内で宗教勢力までもが蜂起すれば政権が危うくなると考えた平氏は、園城寺と興福寺の弾圧に取り掛かります。

平家は、まず手始めに、治承4年(1180年) 12月11日、堂塔などの宗教的要素の濃い部分には手を触れないことを条件として園城寺を攻撃します。これは、日本史上最初の仏教寺院への本格的武力行使です。

その上で、平家は、続いて同年12月28日、平清盛の命を受けた平重衡軍が、寺社勢力に対する大衆(僧兵)の討伐を目的とし、東大寺・興福寺など南都・奈良の仏教寺院を焼き討ちにしています(南都焼討)。

もっとも、平家が南都焼き討ちをした直後の治承5年(1181年)正月14日に親平家政権派の高倉上皇が崩御し、続いて同年閏2月4日には平清盛が謎の高熱を発して死去したことから、人々はこれを南都焼討の仏罰と噂し、さらに平家の威光を低下させることとなります。

そして、ここから平家の転落が加速していくのですが、長くなりますのでそれはまた別稿に委ねます。

なお、平家による焼き討ちにより奈良の寺院のほとんどが焼け落ちてしまいましたので、現在残るほとんどが鎌倉時代以降の再建によるものです(東大寺南大門など)。奈良観光の際に鎌倉時代再建とあるのを目にしたら、平氏による焼き討ちの話を思い出してみると面白いかもしれません。

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