【第81代・安徳天皇】平家政権の傀儡として生き入水して人生を終えた幼帝

安徳天皇(あんとくてんのう)は、平清盛の傀儡として数え年3歳(満1歳2か月)で第81代天皇として即位し、その後源氏に追われて各地を転々とした後、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御された天皇です。

歴代の天皇の中で最も短命であり、戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇でもあります。

本稿では、源平争乱の一番の被害者ともいえる安徳天皇の生涯について見ていきたいと思います。

安徳天皇即位に至る経緯

出生(1178年11月12日)

安徳天皇は、治承2年(1178年)11月12日、高倉天皇の第一皇子として、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)との間に生まれます。

諱は、言仁(ときひと)といいましたが、標記がややこしくなるため、本稿では、「安徳天皇」の表記で統一して記載します。

即位(1180年4月22日)

安徳天皇は、生後1ヶ月後の同年12月15日に立太子し、治承4年(1180年)2月21日に数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、同年4月22日の即位礼により即位しています。

幼児に政治ができるはずがありませんので、完全な傀儡です。

外形的には、幼少の安徳天皇を補佐する高倉天皇の院政が始まる形となったのですが、実質的には、平家・平清盛の傀儡政権の完成です。

「平家にあらずんば人に非ず」と言われた、平家による初めての武家政権の誕生でした。

対抗馬となりうる後白河法皇(安徳天皇の祖父)までも平家に幽閉されていますので、もはや平家を止める者は存在しません。やりたい放題です。

平家に連れられ西国を流転

福原行幸(1180年6月2日)

もっとも、権力を握って横暴を極める平家に対して、全国各地で多くの反対勢力が生れ、その第一波として後白河法皇の第三皇子である以仁王が挙兵します。

この以仁王の反乱はすぐに発覚し、逃亡中に、平家の追っ手により討ち取られます。

こうして反平家の初動を鎮圧した平家でしたが、巨大寺社勢力である園城寺・延暦寺が反平家の動きが見えたため、これらの巨大寺社に挟まれた京の地理的不利を払拭するため、京を放棄する決断を下します。

そして、平清盛は、治承4年(1180)年5月30日、突然、摂津国・福原に行幸を決行するとの決定を下し、同年6月2日、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇、摂政・藤原基通などの多くの公家を引き連れて福原に向かいます(福原京遷都)。

そして、新都の造営が進められ、同年8月10日に皇居の棟上げが行われ、同年11月13日に皇居への遷幸と定められたのですが(平家物語)、各地で源氏勢力の反乱が起こったこと、高倉上皇らの反発が強かったことなどから、福原京遷都を維持できなくなり、結局、寿永元年(1182年)11月24日に大嘗祭が行われたのを最後として平安京へ還幸することとなりました。

当然、まだ乳幼児期の安徳天皇も、皆に連れられて平安京に戻っています(数え3歳、満1歳ですので、どこにいるか認識できていたかすら疑わしい遷都劇でした。)。

一旦京に戻った安徳天皇でしたが、北陸方面から倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平家軍を蹴散らしてきた木曾義仲が京に迫って来たとして、寿永2年(1183年)7月25日、都落ちする平家一門に連れられ三種の神器と共に京を後にします(平家都落ち)。

西に向かって落ちて行く平家は、途中でかつての平家の本拠地であった福原に立ち寄り、ここにも火を放ってさらに西に向かいます。

2人天皇が存在する事態となる

平家と共に京を離れた安徳天皇でしたが、天皇の正当性の根拠となる三種の神器が安徳天皇の下にあったため、天皇の地位が失われたわけではありませんでした。

ところが、平家一門を京から追い出した後白河法皇は、寿永2年(1183年)8月20日三種の神器が無いまま後鳥羽天皇を践祚させ、さらに元暦元年(1184年)7月28日に三種の神器が無いまま即位させます。

この結果、正史上初めて同時に2人の天皇が並び立つことになりました。

当然、形式的な正当性は三種の神器を持つ安徳天皇の下にありますので、後鳥羽天皇方は色々な方策を講じます。

例えば、元号についても、平家型では寿永を使い続けていたのに対し、京方では1183年10月以降は寿永・元暦を使い始め、三種の神器のない後鳥羽上皇の正当性を高めようとしていました。

都落ちする平家と共に大宰府へ

京を追われた平家一門は、寿永2年(1183年)8月26日、九州にまで行きつき、平重盛(平清盛の長男)の養女を妻とする大宰府での平氏政権・日宋貿易の代行者であった原田種直に宿舎に入ったのですが、豊後に下向中の知行国主・藤原頼輔とその子である国守・藤原頼経を通が、豊後の豪族・緒方三郎惟義(これよし)に平家追討を命じたことを知ります。

危険を感じたい平家は、大宰府の原田種直の下を離れて遠賀川河口の山鹿兵藤次秀遠の城に入ったのですがそこも追われたため、豊前国・柳ケ浦(現在の大分県宇佐市)にたどりつきます。

なお、柳ヶ浦に滞在した際に置かれた安徳天皇の仮の御所は、「柳の御所」として現在もその名残が残されています。

平家に連れられ屋島へ

もっとも、平家が柳ヶ浦も追われてしまったため、安徳天皇もまた平家に連れられ、平知盛の知行国であった長門国の代官・紀伊刑部太夫道資の大船で東に向かい、田口成良(重能・成能)の招きで讃岐国・屋島に入ります。

屋島に入った安徳天皇は、まず牟礼に今も現存している六萬寺に入って仮御所とします。

その後、田口成良のはからいにより、仮御所の対岸に板屋の内裏や御所を準備してもらい(現在の屋島山東麓壇の浦の安徳天皇祠付近)、ここを平家の本拠地として勢力を立て直していくこととします。

かつての都・福原へ

屋島で戦力を整えた平家は、水島の戦いで木曾義仲を打ち破って勢いに乗り、その後の木曾義仲と源頼朝方の源氏同士での争いの隙をつき、寿永3年(1184年)1月には、京奪還のための拠点とすべく大輪田泊に上陸し、かつて平清盛が都を計画した福原の再建を進めます。

もっとも、再建を進める福原に源頼朝が派遣した源範頼及び源義経が率いる鎌倉軍が攻め寄せ(一ノ谷の戦い)、敗れた平家は、安徳天皇を伴って再び屋島に逃れます。

屋島を経て彦島へ

また、平家軍は、その後の屋島の戦いにも敗れて拠点・屋島を失い、安徳天皇を伴って最後の拠点・彦島に逃れます。

安徳天皇の最期

壇ノ浦の戦い(1185年3月24日正午)

もっとも、この時点で、山陽道は土肥実平梶原景時が総追捕使に任命されたことにより源氏方に押さえられており、また源範頼の山陽道・九州遠征の結果として九州に上陸した源範頼軍が大宰府に入った上で北九州を制圧されていたため、彦島は完全に孤立している状態となっていました。

この状況下で、源義経率いる源氏水軍840艘(摂津国・渡辺水軍、伊予国・河野水軍、紀伊国・熊野水軍の連合軍)が、周防国を出発して彦島に向かって進んでいきます。

これを迎撃するため、彦島から平家水軍が発進し、元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日午の刻(正午)ころ、関門海峡壇ノ浦にて両軍が対峙し、源平クライマックスの海戦が始まります(壇ノ浦の戦い)。

安徳天皇崩御(1185年3月24日)

この戦いは、激戦の結果平家水軍が壊滅し、源氏方の勝利に終わります。

敗北を悟った平家方では、迎撃軍の総大将を務めた平知盛が、建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移り、「見苦しいものを取り清め給え」とみずから掃除をして清めます。

その上で、平知盛は、女官たちに対し、このまま生き延びれば源氏の兵たちの慰み者にされるので急ぎ自害するようにと勧め、これを聞いた女官たちが次々に海に身を投げていきます。

この光景を見た二位尼もまた、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣(天叢雲剣)を腰にさし神璽(八尺瓊勾玉)を抱えて立ち上がります。

抱えられた安徳天皇がどこへ行くのかと聞くと、二位尼は海の底の浄土へと答え、安徳天皇と共に海に身を投じました(なお、吾妻鏡では、安徳天皇を抱いて入水したのは、按察使局伊勢であるとされており、二位尼は宝剣と神璽を持って入水とされています。)。

さらに、続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げて行ったのですが、安徳天皇の母である建礼門院は源氏方の兵に熊手に髪をかけられ引き上げられ助けられています。

この結果、安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御されました。

このとき、源氏方は、三種の神器のうち神璽と神鏡は回収できたのですが、宝剣(天叢雲剣)は海中に没し回収できませんでした。

なお、天皇である安徳天皇は、源氏に捕まったとしても殺害される可能性は皆無であり、ぞんざいに扱われることもおよそ考えられません。

そればかりか、三種の神器なく即位した後鳥羽天皇に正当性を持たせるという意味で、正式に譲位した上で上皇となると考えられます。

そうすると、平家が敗れたことに連座して安徳天皇が死ぬ理由はありません。

現代的な感覚で言うと、子供の意思を無視した、身勝手な親による無理心中でしかありません。

余りにも悲劇的な人生と最期であったため、その死を悼んで生存伝説がささやかれており、安徳天皇は壇ノ浦で入水せずに平家の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説が全国各地に残されています。

諡号(1187年4月23日)

死後3カ月たった文治元年(1185年)7月3日、安徳天皇の死を悼み、九条兼実の発議によって諡号を贈ることが決まります。

そして、平安中期から天皇号は贈られずに院号が用いられていたのですが、文治3年(1187年)4月23日、安徳天皇に限って「安徳帝」との漢風諡号(天皇号)が贈られました。

余談

壇ノ浦の戦いの後、安徳天皇は、入水地である関門海峡沿いに立つ赤間神宮に祀られます。

入水した安徳天皇を慰めるため、海の底にある竜宮城を模した形に造られ、安徳天皇の御領である阿弥陀寺領も建てられ、そのすぐ傍には、安徳天皇を守って死んでいった平家一門の墓もあります(なお、壇ノ浦の戦いで死なずに後に斬首された平家総統・平宗盛の墓はここには存在していません。)。

また、後に、この悲しい戦いは琵琶法師により語り継がれていき、今日の我々にまで伝えられています(様々な派生伝説も生まれ、耳なし芳一の話などが有名です。)。

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