【比叡山延暦寺】観光前に知っておきたい延暦寺の歴史概略

延暦寺は、現在の日本最大の湖である琵琶湖の西側に京都市と滋賀県大津市にまたがる場所にそびえる標高約848mの比叡山に、伝教大師・最澄によって開かれた天台宗の総本山です。

延暦寺とは、その名称から1つの寺であるかのような印象を持ちがちですが、その名の1つの寺(建物)があるのではなく、比叡山山上と山下にある100を超える堂宇の総称です。

その中心は、開祖最澄が延暦7年(788年)に建てたお堂(一乗止観院)を前身とする国宝・根本中堂(現在の建物は、江戸幕府3代将軍の徳川家光が建てたものです。)で、本尊は薬師如来です。

最澄の教えを学ぼうとして多くの才能が集まり、また最澄の死後に受戒が許される寺となったこともあって多くの名僧が巣立っていった場所でもあります。

現在は、1700haの広大な敷地内に東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三塔エリアに分かれてそれぞれに本堂が存在し、さらに山中に100を超える堂宇が点在していますので、全て回るためには1日がかりとなります。

比叡山開山に至る経緯

開祖最澄の出自

比叡山延暦寺の開祖である最澄は、天平神護2年(766年)または神護景雲元年(767年)、近江国滋賀郡古市郷で生まれます。

最澄の父が仏教(奈良仏教)の信仰厚い人であったため、その影響を受けて最澄も仏の道を選びます。

この当時は、死後仏になって救われる=成仏できる人は僧侶だけと考えられていたのですが、当時の僧侶は国家の統制を受ける立場にあり、試験に合格した者(年間10人程度)しかなることが出来ないという狭き門でした。

つまり、奈良時代の僧侶は、トップエリートだったのです。

最澄は、この僧侶となるため、12歳時に近江国分寺に入って国師行表(大安寺出身)に師事して14歳時に得度(出家)して最澄を名乗った後、延暦4年(785年)、19歳時に東大寺戒壇院で受戒(国が認める試験に合格)し、晴れて僧侶となります。

もっとも、最澄は、国が決めた試験に合格した者しか僧侶になれず、また僧侶でなければ成仏できないとする考え方に疑問を抱きます。

比叡山入山(785年)

そこで、僧侶となった最澄は、延暦4年(785年)、既存の寺に入ることはせず、新たな教えを見つけるために故郷に近い神の宿る聖なる山・比叡山に入って修行を開始します。

時代は京に都が移される約10年前の話です。

現在は、ケーブルカーとロープウェイを乗り継ぐことによって簡単に山頂まで行くことができますが、当時は、森の奥深くに入って行かなければ到達できない過酷な場所でした。

最澄は、そんな場所に、庵を作って、日々自らに問い続ける毎日を送ります。

一乗止観院創建(788年)

そして、最澄は、延暦7年(788年)、比叡山に現在の根本中堂の前身となる一乗止観院(当初は、経蔵・薬師堂・文殊堂という三堂が並ぶ造りの小さなお堂群でした。)を創建します。

この場所は、延暦寺発祥の地として現在も比叡山の中心区域とされており、東塔エリアと言われています(後に,西塔エリア・横川エリアが開かれ、比叡山延暦寺は3つのエリアで構成されることとなります。)。

なお、この一乗止観院の建立時に、本尊である薬師瑠璃光如来の宝前に灯明がかかげられ、これがその後一度も消えることなく1200年以上の経過した現在においてなお根本中堂で輝き続けていると伝えられています(不滅の法灯)。

この灯明は、菜種油を燃料にして灯芯が浸って火が点るという原始的な構造の灯篭であり、絶やさないように毎日朝夕2回僧侶によって菜種油が注ぎ足し続けられています(これにより、油を断つことは比叡山で学ぶ僧侶がいなくなることを意味し、この油が断たれるということから「油断」という言葉が生れたとも言われています。)。

その後、最澄は、比叡山において、仏教を開いた釈迦の言葉綴ったとされる妙法蓮華教(法華経)に記された「一切皆富 得成仏道」という言葉に心を奪われます。

この教えは、成仏して救われるのが僧侶だけではなく、何人であっても成仏ができるというもので、人々の救いとなる考え方でした。この世の全ての者が仏になれるという意味です。

この教えを知った最澄は、広くこの教えを説くようになり、そんな最澄の下に人が集うようになっていきます。

なお、余談ですが、法華経によるとその本尊は釈迦如来(密教によると大日如来)となるはずであるにもかかわらず、前記のとおり法華経の教えを広めるべく建てられたはずの一乗止観院(後の延暦寺)の中心には薬師堂が配され、その本尊は薬師如来です。

桓武天皇の目にとまる

そんな中、延暦13年(794年)に平安京に遷都して京に移ってきた桓武天皇が最澄に目をつけます。

このときの桓武天皇は、政治体制の一新を図るため、平城京から長岡京、長岡京から平安京へと続け行う遷都という一大プロジェクトを推し進めている真っ最中だったのですが、最澄が多くの人の人望を集めていること、最澄がしがらみの多い奈良仏教と一線を画する存在であったこと、比叡山寺が平安京の鬼門(北東)の方角にあったることなどから、桓武天皇にとって利になる人物と判断されたからです。

こうして、桓武天皇の庇護を受けることとなった最澄は、その権威を用いて更なる布教を進めていきます。

なお余談ですが、延暦寺の紋は菊輪法(きくりんぼう)といい、菊の花の中に仏教の法輪が描かれたものとなっています。

菊の御紋と言えば皇室の紋として有名なのですが、皇室の紋は、元々は比叡山に自生する叡山菊を最澄が朝廷に献上したことから始まり(鎌倉時代に後鳥羽上皇が自らを示すものとして菊の紋を好んで使用し、それが後に慣例化して朝廷・皇室の紋となったと言われています。)、比叡山の菊がその起源であるあると言われています。この事実に鑑みても朝廷(皇室)と延暦寺との深い関係性がわかります。

遣唐使に参加(803年)

そんな中、更なる高みを目指す最澄は、桓武天皇に対し、唐に渡って仏の道を学ぶことを願い出ます。

唐に渡って、高僧から直接仏の道を伝授してもらうためでした(師から弟子への伝授を「師資相承・ししそうじょう)」といいます。)。

この最澄の申し出は受け入れられ、延暦22年(803年)、永らく途絶えていた遣唐使の復活と、遣唐使への最澄の参加が決まり、最澄は唐に向かいます。

唐で密教を学ぶ

このとき唐に渡った僧として、最澄の他に、青年僧であった空海がいました(なお、このとき唐に渡った僧=入唐八家は、最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡の計8人です。)。

唐に向かった際のこの2人については、往路においては、桓武天皇の寵愛を受けていた最澄に対し、空海は一介の青年僧に過ぎなかったため、その立場には天地の開きがありました。

そのため、唐に渡った当初の主役は最澄であり、最澄は、浙江省・天台山にある法華経を教えとする国清寺を訪れてそこで唐を代表する高僧から教えてを受け、「守一隅」・「照千里」という言葉を教えられます。

自分の立っている場所(一隅)を懸命に守ることが、社会を(千里)を照らすことになるという意味です。

より砕いて言えば、社会全てを遍く照らすことが出来なくても、自分の目の前を照らしなさい、自分の目の前を照らす人が多く集うことで、結果社会全体が照らされることになる、だから一人一人が目の前の出来ることに努力をしなさいという意味です。

もっとも、日本において高い地位にあった最澄は、長期間に亘って唐に滞在することが許されず、唐に渡ったわずか2年後である延暦24年(805年)に帰国します。

日本に戻った最澄は、唐で学んだ密教を国内に広め、これが歓迎されます。

空海に立場を奪われる

もっとも、その後に空海が唐から帰国すると、日本における最澄と空海の立場が逆転します。

高い地位であったために短期間で帰国を余儀なくされた最澄が密教の全てを学ぶことができなかったのに対し、青年僧に過ぎなかった空海には時間的な制約がなかったために密教の奥義を学び切ることができたためです。

そして、密教を極めた空海が帰国すると、朝廷(このときは、嵯峨天皇の代となっていました。)は、空海が持ち帰った密教(新しい仏教)に傾倒していったからです。

嵯峨天皇は、帰国した空海に平安京内の2つの大寺のうちの1つであった東寺を与え、真言密教の根本道場として造り変えさせます。

もっとも、平安京の鬼門を守る比叡山寺の役割が失われることはありませんでした。

最澄死去(822年6月4日)

帰国した最澄は、比叡山においてさらに仏に近づくための修行を重ねます。

そして、最澄がたどり着いた仏になるための術は、唐で学んだ到達点である「照千一隅(いちぐうをてらす)」でした。

目の前の出来事に最大限の努力をする、それが仏の道であるということです。誰もが仏になれる道ですね。

この考え方は、その後の日本の仏教に多大な影響を与えます。

また、最澄は、弘伝9年(818年)、日本国大徳僧院記を著わし、その中で日本を6つの地区に分けてそれぞれに1塔の宝塔を建て、その上で中心となる比叡山東塔がその他5つの宝塔を総攬すると共に、法華経による国家鎮護を目指しました。

そして、弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かった最澄でしたが(その後、貞観8年/866年7月12日に伝教大師の諡号が勅諡されています。)、同年6月4日辰の刻に死去し、比叡山東塔の浄土院に葬られました。

仏教界の最高学府となる

戒壇院開設

前記のとおり、最澄が生きていた時代には、僧侶になるためにはとても厳格な手続きが必要でした。

俗世の者が僧侶になるためには、まずは得度を受けて僧侶見習い(沙弥)となり、その後に受戒を受けて正式な僧侶(沙門)となるという手順が必要だったのです。

この点、延暦25年(806年)に、朝廷から比叡山延暦寺において年間2人の得度の許可を得ていたのですが、比叡山延暦寺において受戒を与えても良いとの許可は出されていませんでした。

この当時に受戒をすることが許されていたのは、大和東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の3寺に限られていたからです(天下の三戒壇)。

これは、比叡山延暦寺において人材育成を最初から最後まで完遂させることができないことを意味しました。

そのため、最澄は、朝廷に対して再三再四、比叡山に戒壇設立を許す勅許を出すよう求め続けていました(山家学生式→顕戒論)。

もっとも、最澄の存命中にこれが許されることはありませんでした。

その後、最澄が死去した後、その死を惜しんだ藤原冬嗣・良峰安世・伴国通らが「山修山学の表」を天皇に奏請して認められ、最澄死去の7日後である弘仁13年(822年)6月11日、ようやく比叡山に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立についての勅許が下りたのです。

受戒が可能となった比叡山では、受戒のための堂となる戒壇院が設けられ、僧となることが許される者が生涯に一度だけ入ることが許される特別な場として位置づけられました。

後の高僧(法然・親鸞など)の多くが、この戒壇院で受戒し、全国で活躍していくようになりました。

延暦寺に改称(823年2月26日)

前記のとおり、延暦寺は、最澄存命中には比叡山寺と呼ばれていたのですが、最澄死去の翌年である弘仁14年(823年)2月26日、嵯峨天皇から当時の元号であった「延暦」を寺号とすることを許され、勅により一乗止観院を延暦寺と改称します。

このことは、当時、最澄が開いた比叡山延暦寺がいかに特別な寺であったのかを示すエピソードといえます。

なぜなら、元号は、天皇の大権によって定められるものですので、本来なら私的集団に過ぎない1つの寺が用いることなどできようはずがないものだからです。

その理由は、延暦寺が平安京の鬼門に位置し、仏教界の巨人である最澄が開いた寺であったからこそ、元号を付した寺名が許されたのです。

西塔エリア開設


天長10年(833年)に第2世天台座主に就任した寂光大師・円澄は、東塔から北西約1kmの地に新たに西塔エリアを開きます。

西塔の本堂は、釈迦堂(転法輪堂)です。釈迦如来を本尊として祀っていることから釈迦堂と呼ばれています。

この釈迦堂は、延暦寺内に現存する最古の堂宇であり、元々は貞和3年(1347年)に園城寺(三井寺)に建てられた同寺の金堂だったのですが、文禄4年(1596年)、理由は不明ですが、園城寺が豊臣秀吉の怒りを買ったために園城寺内の建物が破却されることとなり(文禄の闕所)、その金堂も園城寺から延暦寺に移築されて釈迦堂となったものです。

その他、西塔エリアには修行のためのお堂である「にない堂」や、伝教大師最澄上人の御廟所である浄土院などが建てられました。

横川エリア開設


また、仁寿4年(854年)4月3日に第3世天台座主に就任した慈覚大師・円仁が、静かな修行の地を求めて東塔・西塔から北方約4kmの比叡山最奥の地に新たに横川エリアを開きます。

その後、承平5年(935年)に起こった大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔が失われて東塔エリアが荒廃し、また僧侶も世俗化して荒れていたことから、延暦寺中興の祖である第18世天台座主となった元三慈恵大師・良源が東塔エリアを嫌って横川エリアに移り、同エリアを本拠地としたことにより発展した場所でもあります。

なお、元三慈恵大師(元三大師とは、良源が1月【元旦】3日【三日】に亡くなったことに由来しています。)・良源は、比叡山内の建物の新改築を行うと共に、厳格な統制によって風紀を整え、荒れていた比叡山延暦寺にかつての規律を取り戻していったため、比叡山中興の祖と呼ばれているのです。

横川の本堂は、遣唐使船をモデルとした舞台造りで有名な横川中堂です。

その他、横川エリアには、往生要集著者の源信僧都が隠居していた恵心堂や、おみくじ発祥の地として知られる元三大師堂などが建てられました。

この横川エリア開設により、比叡山は、開設の地である東塔(とうどう)、その北西に位置する西塔(さいとう)、これらの北方に位置する横川(よかわ)の3つのエリアで構成されることとなりました。

なお、比叡山では、円仁(第3代天台座主)派と円珍(第5代天台座主)派の派閥争いがあったのですが,円仁派であった良源が、円珍派を比叡山から追い出してしまったため、追い出された円珍派が園城寺(三井寺)に入ります。

この結果、天台宗は天台山門宗(延暦寺)と天台寺門宗(園城寺)とに分裂してしまったのですが、これを説明すると本稿の主題から外れていきますので本稿では紹介のみに留めます。

仏教界の総合大学となる

そして、これらの朝廷の庇護もあり、比叡山延暦寺には、全国各地から最澄の教えを学び、仏の道を極めようとする僧が続々と集まってきます。

そして、これらの僧は、延暦寺で学んだ結果を全国各地にもたらしていきます。

なお、仁和3年(887年)に円珍の命によって一乗止観院の三堂を合わせて九間の1つのお堂(根本中堂)とする改修がなされ、その後天元3年(980年)に良源によって谷を埋めて十一間の大堂とし廻廊や中門を新設するという再改修がなされています。

鎌倉時代に鎌倉新仏教を開いた高僧達も、比叡山でこの教えを学び、独自の宗派に取り入れた者達でした。

なお、重要文化財とされている大講堂には、比叡山で修行しその後仏教を発展させた高僧達の像が安置されています。

経済力を得て政治化・軍事化する

経済力を得る

以上のとおり、日本仏教の中心の1つとなり、様々な高僧が集まる延暦寺に対し、その力にあやかろうとする貴族達が、金銭を寄付したり土地を寄進したりする動きが広がっていきます。

この結果、仏教集団であったはずの延暦寺が、徐々に経済力をも有する経済集団へと変貌していきます。

軍事力を得る

また、経済力を手にした延暦寺は、自らの身を守るため、僧兵で武装も始めます。

経済力の強化と、それに伴う武装力の強化が長年に亘ってくりかえされ、遂には延暦寺は、国の最高権力者でさえ口出しが出来なくなるほどの力を身につけてしまいます。

これを端的に言い表したのが、平安時代末期の白河法皇の言葉です。白河法皇は、思い通りにならないものとして、①加茂川の水、②双六の賽、③山法師(比叡山の僧兵)を挙げ、比叡山に朝廷の政治力が及ばないことを嘆いています。

戦国大名と並ぶ力を得る

比叡山の強大化は、その後も続き、戦国時代には、260箇所の領地をはじめとする様々な利権を保持し、また山下にある琵琶湖南西部にある当時の畿内有数の水運の要衝として栄えていた坂本に7つもの港を有して利用者から通行料をとるなどして莫大な利益を得るようになっていました。

これらによって得られた経済力を基に、比叡山は、朝廷・大名とは異質の一大権利機構となっていきました。

織田信長による比叡山焼き討ち

織田信長との対立

大きな経済力・軍事力を手にした延暦寺でしたが、戦国後期に台頭してきた織田信長との関係が悪化していきます。

きっかけは、永禄12年(1569年)に足利義昭を旗印として上洛した織田信長が比叡山領を横領し、これに抗議した天台座主応胤法親王が働きかけて朝廷から寺領回復を求める綸旨が下されたにもかかわらず織田信長がこれに従わなかったことでした。

さらに、元亀元年(1570年)9月23日、織田信長と敵対して比叡山に逃げ込んで来た浅井長政・朝倉義景を延暦寺側が匿ったことからその対立は決定的となります(志賀の陣)。

比叡山包囲戦(1570年9月24日)

信長包囲網により苦しめられていた織田信長は、元亀元年(1570年)9月24日、明智光秀・佐久間信盛らを主将として美濃・近江の国衆を動員して比叡山を包囲します。

その上で、織田信長は、延暦寺との交渉を開始します。具体的には、延暦寺に対して以下の3つのうち1つを選ぶよう求めたのです。

① 織田信長に味方する → かつて織田信長が接収した比叡山領を返還する。

② 中立の立場をとる → 朝倉・浅井軍を下山させる。

③ 朝倉・浅井に味方する → 比叡山を焼き討ちにする。

もっとも、延暦寺側は、この織田信長の申し出を無視します。

困った織田信長は、武力による敵対勢力打破を諦め、包囲網を形成する各勢力と個別に和睦交渉を進め、同年10月30日に本願寺、同年11月に六角義賢、同年11月21日に三好勢とそれぞれ個別に和睦を成立させていきます。

その上で、織田信長は、同年11月30日、朝廷と将軍・足利義昭に働きかけ、真偽は不明ですが、朝倉義景に対して「天下は朝倉殿に、我二度と天下を望まず」という起請文を差し入れることにより和睦を申し入れます。

これに対し、冬が近づき雪によって本国との連絡が断たれる可能性を危惧した朝倉義景が、同年12月13日、正親町天皇と足利義昭の仲介を受け入れる形で和睦申入れに同意したため、約3ヶ月間に及んだ比叡山包囲戦(志賀の陣)は朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺の勝利により終結します。

延暦寺焼き討ち(1571年9月12日)

織田信長は、志賀の陣の手痛い敗北の報復として、元亀2年(1571年)9月、比叡山延暦寺を殲滅するための軍を編成し、3万人という大軍を率いて創建以来比叡山と対立関係にある三井寺周辺まで進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置きます。

このとき織田信長率いる大軍を見た比叡山延暦寺は、急ぎ黄金の判金500枚(比叡山延暦寺から300枚・堅田から200枚)を織田信長に贈ることにより攻撃中止を嘆願しますが、織田信長はこれを拒否し、延暦寺からの使者を追い返します。

この結果、戦闘やむなしと判断した延暦寺は、坂本周辺の僧侶・僧兵・住民を山頂にある根本中堂に集合させて戦闘準備を整えます。

他方、織田信長もまた、元亀2年(1571年)9月11日夜半、率いてきた軍を総動員して比叡山を完全に包囲させた結果、決戦の準備が整います。

そして、同年9月12日、坂本・堅田などの比叡山麓の門前町に火が放たれたのを合図として、比叡山を取り囲む織田軍による比叡山総攻撃が始まります。

この後、織田軍は、山中にある堂宇に火を放ち、防衛を試みる僧を殺戮しながら延暦寺を目指して比叡山を上って行きます。

なお、かつては、このときに根本中堂を含めた山中のほとんどの堂が焼かれ、僧・女子供を含めて比叡山側に数千人(信長公記だと数千人・言継卿記だと3000~4000人・ルイスフロイスの書簡だと1500人)の死者が出たとされていました(比叡山焼き討ち)。

ところが、近年の東塔・西塔・横川の発掘調査によると、比叡山中に平安時代から残る遺物が相当数残っていることが明らかとなり、このときの焼き討ちにより焼失したことが明らかとなっているのは「根本中堂」と「大講堂」だけであったことが判明しました(この結果、他の堂はこのとき以前に廃絶されており、そのために多くの僧もまた山麓である坂本にいたとする説が有力となっています。)。

そのため、かつての織田信長が比叡山を焼き尽くし数千人を虐殺したという説は誇張が過ぎるとして、現在では消極的に解されています。

以上のとおりその規模は必ずしも不明なのですが、織田信長が、260箇所の領地や坂本の7つの港を含めた様々な利権を保持した比叡山延暦寺を無効化し、それらを手中に収めたことは間違いありません。

戦後処理(1571年9月13日)

比叡山延暦寺が焼かれていったのを見届けた織田信長は、戦後処理を明智光秀に任せ、元亀2年(1571年)9月13日午前9時頃に比叡山を出立し京に入ります。

その後、比叡山周辺に展開していた織田軍は、延暦寺の次に、周囲にある日吉大社・三宅城・金森城(金森御坊)などに攻撃をしかけ、これらを攻略していき、延暦寺のみならず日吉大社をはじめとする坂本周辺の敵対仏教勢力を破却してその寺領・社領の全てを没収します。

そして、織田信長は、比叡山延暦寺等から没収した土地や利権につき、論功行賞として臣下に分け与え、明智光秀が比叡山と京に対する抑えとして坂本城を築城して入城します(城付知行)。

他方、比叡山を負われた僧侶は全国にちりじりに散らばります。

このうち、正覚院豪盛らが、甲斐の国に下って武田信玄の庇護を受けたことから、これにより、武田信玄が延暦寺の復興を果たす目的で京に上るという大義名分を獲得します。

なお、この後、武田信玄は織田信長に対して書状をしたためた際に自らを「天台座主」と名乗り、これ対して織田信長は自らがしたためた書状に「第六天魔王」と名乗ったと言われていますが(ルイスフロイスの書簡)、その真偽は不明です。

比叡山延暦寺の再興

安土桃山期の復興活動

坂本に明智光秀を入れた織田信長は、辛酸を舐めさせられた延暦寺の復興を認めませんでした。

そこで、明智光秀は、延暦寺に代わって西教寺の復興を進め、これに伴って延暦寺麓にある坂本の町に人が戻ってきます。

その後、天正10年(1582年)6月2日に織田信長が、同年6月13日に明智光秀がそれぞれ死去すると、全国に散らばっていた延暦寺に縁のある者たちが続々と比叡山に戻り、復興を目指した活動をしていきます。

また、その後も延暦寺の僧が中心となり、天下人となった豊臣秀吉に山門の復興を願い出ますが、比叡山延暦寺焼き討ちにも関わっていた豊臣秀吉は、なかなかその願いを許しませんでした。

すぐに山門の復興することを許さなかった豊臣秀吉でしたが、賢珍・詮舜という2人の兄弟僧に対して陣営への出入りを許して軍政や政務について相談するなどしており、少しずつその関係性は改善していきます。

そして、天正12年(1584年)5月1日、豊臣秀吉は、僧兵を置かないことを条件として正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物を発し、造営費用として青銅1万貫が寄進されて山門の復興が始まることとなります。

江戸期の復興活動

この比叡山延暦寺復興の動きは江戸時代にさらに加速します。

江戸幕府3代将軍であった徳川家光が、本拠としていた江戸の町の鬼門の方角にあった山について、これを平安京での比叡山であると見立て東叡山(東の比叡山)と名付け、そこに寛永寺(延暦寺に倣って当時の元号を付して寺名としました。)を建立したのです。

すなわち、徳川家光は、永らく平安京を護った比叡山延暦寺に倣って、東叡山寛永寺で江戸の町を護る構想を具現化します。

そして、徳川家光は、東叡山寛永寺の建立と並行して、本家である比叡山延暦寺の復興にも力を入れたため、比叡山延暦寺は江戸幕府の後ろ盾によりかつての姿を取り戻していくこととなったのです。

この徳川家光による復興作業により比叡山延暦寺の中枢である根本中堂の復興も行われました(なお、このとき復興された根本中堂は、その後60年に1度の修復を経ながら現在に至っています。)。

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