【遣隋使・遣唐使】時期によって派遣目的が異なる遣使団

遣隋使と遣唐使は、いずれもヤマト政権が、先端技術や制度を学ぶなどの目的のために中国に派遣した朝貢使のことであり、中国が隋王朝の時代に派遣されたのが遣隋使、唐王朝時代に派遣されたのが遣唐使です。

遣隋使派遣の1世紀前にも倭の五王による朝貢記録があるのですが、そのときとは異なり、遣隋使・遣唐使は冊封を受けない対等外交であったという点に違いがあります。

遣隋使・遣唐使は、正式な外交使節や国家の許可を受けた者以外の海外渡航を禁止するという渡海制(とかいせい)を採用していたヤマト政権(古代日本)の下で、中国の最先端技術や文化を持ち帰ったという共通成果をもたらしてはいるのですが、その派遣目的はときの東アジア情勢の変化に対応して異なっていますので、時期毎の目的を理解することが重要です。

以下、遣隋使・遣唐使派遣の経緯・目的・その成果などについて、簡単に説明していきます。

遣隋使=中国との対等外交の模索

中国王朝への朝貢・冊封の時代

倭と呼ばれていた頃の古代日本では、中国大陸に成立していた超大国と渡り合える力を有しておらず、中国に朝貢し、冊封を受けることにより中国を盟主と仰ぐ中華圏の従属構成員となっていました。

そして、中国に倭国の王と認められた者は、中国王朝の力を倭国内の諸豪族を従える権威として利用していました。

また、その後、ヤマト政権が成立すると、その王もまた中国王朝に朝貢して冊封を受け、その権威をも利用して力をつけ、朝鮮半島への進出をも行っていくようになりました。

なお、朝貢外交は、ヤマト政権側からすると、原材料の朝貢品を献上するのに対して中国皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるといううまみのある公貿易であり、大きな経済的メリットもありました。

中国王朝との対等外交を指向

もっとも、6世紀末頃の推古天皇時代(飛鳥時代)になるとヤマト政権の勢力も大きなものとなり、国内豪族を官僚化するなどして、大王の権威を高めていきました。

そこで、ヤマト政権としては、対内的な意味で諸豪族を統合するために中国皇帝の権威の必要性が薄れていきます。

また、対外的に見ても、当時のヤマト政権は、前哨基地として有していた任那や加羅(加耶)諸国の滅亡により朝鮮半島南部への影響力を失っており、中国皇帝の権威をもって朝鮮半島を支配するという政策目標も失われていました(もっとも、内政改革の成功により軍事力を巨大化させた推古朝では、再び朝鮮半島に進出してこれらを従わせようという野望も抱いていました。)。

その結果、この頃になると、ヤマト政権にとって中国から冊封を受ける実益がなくなります。

他方で、中国との貿易は経済的利益獲得や新技術導入をもたらしますのでこれを失わせることは妥当ではありません。

そんな状況下において、朝鮮北部の高句麗と敵対した隋が、ヤマト政権が高句麗と結ぶことを危惧して、ヤマト政権にそれまでのような強圧的態度をとらなくなりました。

ヤマト政権としては、この隋の外交態度の軟化を利用してそれまでような従属外交ではなく(冊封を受けることなく)、隋との間の対等外交を指向するようになります。

そこで、隋との対等外交のための使者として派遣されたのが遣隋使でした。

遣隋使派遣

① 第1回遣隋使(600年)

以上のような状況下で、推古天皇8年(600年)、倭の五王以後の約120年振りに中国に派遣された遣使が第1回遣隋使です。

もっとも、この当時のヤマト政権は外交儀礼に疎く、国書を持たない遣使であったため第1回遣隋使は門前払いとされています(隋書・倭國伝)。なお、この失敗を恥じたためか、日本書紀にはこの第1回遣隋使の記載はなされていません。

そこで、ヤマト政権としては、この失敗を反省し、隋との国家レベルの差を少しでも埋めるべく、推古朝で冠位十二階(603年)・十七条の憲法(604年)などを建て続けに成立させて政治制度の改善を図った上、再度遣隋使の派遣に挑みます。

なお、遣隋使は、羅針盤が発明されていない時代の航海であるため、日本を出た後にそのまま中国大陸の特定の港に直行することはまず不可能であり、大陸の沿岸部を順に進みながら向かっていく必要がありました。

そのため、1〜2隻で構成された遣隋使船は(後に遣唐使時代に南路ルートをとることになった後に4隻構成となっています)、都を出て住吉大社で海上安全の祈願を行った後、住吉津を出発して難波津に立ち寄り、その後海路で瀬戸内海→那大津→対馬→朝鮮半島西海岸→遼東半島と進んで山東登州に上陸し、その後陸路で長安に向かうルート(北路)が利用されました。

このルートは、陸地から大きく離れることがないため、比較的安全なルートといえます。

② 第2回遣隋使(607年)

推古天皇15年(607年)、ときの摂政であった厩戸皇子(聖徳太子)が、「日出処天子至書日没処天子無恙云々」と記載した国書を遣隋使の小野妹子に預け、隋の皇帝・煬帝に届けさせます(隋書倭国伝)。

これは、中国との対等外交を求めるヤマト政権として、天子は中国皇帝しか認めないとする中華思想を否認してヤマト政権にも天子が存在するという内容であり、中国に対する挑戦的内容ともいえる書面でした。

当然ですが、この国書を受け取った隋の煬帝は激怒します。

もっとも、前記のとおり、高句麗との敵対関係を考えると、これと結びつく可能性があるヤマト政権を邪険に扱うことはできませんでした。

そこで、煬帝は、直ちにヤマト政権に対して敵対行動を取ることはせず、一応、礼を尽くして答礼使として裴世清を派遣しています。

裴世清と共に倭国に帰国した小野妹子でしたが、真偽は不明ですが、このとき隋国王から受け取った国書を途中で百済人に奪われたとされています(この話は日本書紀に記載されているのですが隋書には記載がないため真偽は不明であり、推古天皇に見せることができる内容のものでなかったために小野妹子が途中で捨てたとする説もあります。)。

③ 第3回遣隋使(608年)

いずれにせよ、答礼使として裴世清が倭国にやってきたことから隋とヤマト政権との外交が始まります(ヤマト政権側は対等外交と思っています。)。

ヤマト政権側からは、推古天皇16年(608年)、裴世清を隋に送り届けるために再び小野妹子が遣隋使として派遣され、学生(倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大圀)や学問僧(旻・南淵請安・志賀漢人慧隠)ら計8人と共に隋に向かいます(隋書・煬帝紀)。

なお、このとき小野妹子は「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と記された国書を託されたとされていますが(日本書紀)、この天皇という君主号の記載については懐疑的な意見も多く出されています。

④ 第4回遣隋使(610年)→誤りの可能性あり

隋書・煬帝紀に推古天皇18年(610年)に第4回遣隋使が派遣されたとの記載があるのですが、他に記録がないため、第3回の年次誤りとする説も出されています。

⑤ 第5回遣隋使(614年)→詳細不明

また、推古天皇22年(614年)、遣隋使として犬上御田鍬・矢田部造らが隋に遣わされたとされているのですが(日本書紀)、この遣隋使については隋側に記録がないため、詳細は不明です。

飛鳥時代の遣唐使=軍事的緊張緩和目的

唐建国(618年)

推古天皇26年(618年)、中国において隋王朝が滅亡し、唐が建国されると、中国に対する遣使はしばらく中断されます。

その後、遣隋使として隋に渡っていた留学生の薬師恵日らが622年に帰国して遣唐使派遣の上奏をしたことにより遣使が再開されることとなったのですが、王朝名の変更に伴って遣使の名称も遣隋使から遣唐使に変更されることとなります。

なお、唐への朝貢は唐の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるのですが、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられました。

遣唐使の始まり

建国後の唐は、隋王朝同様に東アジアへの野心を隠そうとはせず、朝鮮半島への進出を図って朝鮮半島北部を支配する高句麗と対立していきました。

そのため、ヤマト政権(倭国)においても、この緊迫する朝鮮半島情勢にどのように対応するか苦慮する中で、唐との関係をどのようにして、その結果どのように朝鮮半島への影響力を持つのかという立ち回りが求められるなかで遣唐使の派遣が進められました。

① 第1回遣唐使(630年~632年)

高句麗は唐成立の翌年・新羅と百済はその2年後に遣使を派遣したのに対し、ヤマト政権では、唐に対する対応を協議している間に国政指導者であった聖徳太子(622年死去)・蘇我馬子(626年死去)・推古天皇(628年崩御)が相次いで亡くなったため、遣唐使の派遣が遅れます。

その後、舒明天皇2年(630年)にようやく遣唐使の派遣が決まり、犬上御田鍬が派遣されることにより遣唐使が始まったのですが、第1次遣唐使は失敗に終わります。

その理由としては、唐皇帝である皇帝(太宗)が倭国への冊封が必須であると考えて帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたのですが、舒明天皇がこれを拒んだためと推定されています(なお、日本書紀には高表仁の難波での歓迎の賓礼以降帰国までの記事が欠落しているため、高表仁と舒明天皇の会見において何らかの異常事態が発生したと推認されます。)。

この後、645年頃から、唐が高句麗への侵攻を積極的に行い始めたため、その南部に位置する朝鮮半島南部諸国では動揺が広がり、新羅は唐に接近することで、また百済はヤマト政権(倭国)に接近することでその生存を図ります。

この結果、朝鮮半島南部では、新羅・唐VS百済・倭という構造が出来上がっていきます。

② 第2回遣唐使(653年~654年)

その後、この冊封拒否の影響で、第1回遣唐使失敗後、23年間もの間、日本からの遣使が行われることがなく、日唐関係は中断していました。

もっとも、周囲の国と次々と対立して苦しくなった唐が、ヤマト政権の冊封のない朝貢を認める方針をとったため、白雉4年(653年)、「不臣の外夷」という立場で吉士長丹を代表とする第2回遣唐使が派遣されることとなりました。

③ 第3回遣唐使(654年~655年)

第3回遣唐使は、白雉5年(654年)、高向玄理を代表とする遣使です。

④ 第4回遣唐使(659年~661年)

第4回遣唐使は、斉明天皇5年(659年)、坂合部石布を代表とする遣使です。

この第4回遣唐使は、唐に到着したものの、翌年に予定されていた百済侵攻の情報漏洩を防ぐために帰国が制限され、予定期間を1年以上超える滞在を強いられます。

そして、第4回遣唐使が唐滞在中である斉明天皇6年(660年)、唐・新羅連合軍が、朝鮮半島南部の百済に侵攻してこれを滅ぼしています。

そして、百済を滅ぼした唐軍は、その後、方向転換して高句麗に向かったのですが、これを好機と見た百済遺民の鬼室福信や黒歯常之らが、同年8月2日ころから人質として倭国にとどめ置かれていた百済太子豊璋を擁立して百済復興運動を始め、ヤマト政権に救援を求めてきたことで事態が複雑化します。

その後、喧々諤々の議論の末、ヤマト政権は、同年12月に唐・新羅と敵対するという決断を下し、第4回遣唐使は、斉明天皇7年(661年)に解放されて帰国の途についています。

白村江の戦いで唐・新羅軍に惨敗(663年)

年が明けた天智天皇元年(662年)5月、ヤマト政権軍先行隊が朝鮮半島に上陸し、次々と百済の旧領を奪還していきます。

このヤマト政権軍の動きに勢い付いた百済軍は、朝鮮半島南西部(旧百済領土のほぼ中央)の白江(現錦江)河口部に本拠となる城(周留城)を建築します。

ところが、本拠地を得て国王が即位し、いよいよこれからとなった百済王豊璋が、独自行動を開始した英雄・鬼室福信を処刑してしまったのです。

鬼室福信の死により百済軍が一気に弱体化し、次第に唐・新羅軍に押し込まれるようになります。

そして、遂に王都・周留城がを包囲されたのですが、ヤマト政権軍先行隊だけではこれに対応しきれません。

そこで、ヤマト政権では、さらに上毛野君稚子・巨勢神前臣譯語・阿倍比羅夫を指揮官とする兵1万7千人の水軍と、廬原君臣を指揮官とする兵1万人の陸軍を追加で派兵します。

このような状況下において、天智2年(663年)8月28日、白村江河口付近に布陣する唐・新羅水軍にヤマト政権水軍が突撃することにより白村江の戦いが始まったのですが、この戦いは、唐・新羅水軍の一方的な勝利に終わります。

そして、白村江の戦いでヤマト政権水軍を下した唐・新羅水軍は、そのままヤマト政権陸軍を殲滅するために百済・ヤマト政権陸軍の攻撃に向かい、これも殲滅してしまいます。

この結果、ヤマト政権軍は、多くの将兵を現地に残しながら倭国に逃げ帰り、復興百済王朝もまた完全に滅亡してしまいます。

唐との関係改善を求めるための遣唐使

白村江の戦いに敗れて逃げ帰った倭国(ヤマト政権)には、唐・新羅軍からの報復のための追撃攻撃を受ける危機が生じます。

ところが、白村江の戦いに惨敗して主力軍を失い、大きく国力を減退させたヤマト政権では、これに対応することができません。

そこで、天智天皇は、急ぎ防衛施設の整備を行い、唐・新羅側の予想進軍ルートを遮断する必要に迫られ、急ぎ都を本丸と見立て、その上で北九州を第1次防衛拠点(外曲輪)、瀬戸内海を第2次防衛拠点(内曲輪)と定め、これらに様々な防衛策をとっていきます。このときの防衛策については、別稿:白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策をご参照ください。

他方、大急ぎで、唐との関係改善を進めるために百済駐留中の唐軍のご機嫌伺いをするための遣唐使の派遣を準備します。

① 第5回遣唐使(665年~667年)

朝鮮半島南部の百済を滅亡させ、ヤマト政権を朝鮮半島から追い出した唐・新羅でしたが、まだ朝鮮半島北部には高句麗が残っており、これを無視して海を渡り、倭国(ヤマト政権)に攻め込む程の余裕はありませんでした。

そこで、唐は、高句麗との戦いの準備に奔走し、これとあわせて天智天皇4年(665年)、戦後処理のために朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高を倭国(ヤマト政権)に派遣します。

これに対し、ヤマト政権側は、唐からの使者への返礼及びその送迎のため、守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣したのが665年の第5回遣唐使です。

すなわち、第5回遣唐使は、唐使が唐に帰国するのを送るための送唐客使でした。

なお、唐は、この一連のやり取りによって一応白村江の戦いの戦後処理を片付けたこととし、天智天皇5年(666年)から再び高句麗への本格的な侵攻を開始します。

この後、唐は、高句麗と結びつくことを危惧してヤマト政権との関係性に留意し、天智天皇6年(667年)には白村江の戦いの際に捕らえた捕虜を返還するなどしてその関係性の維持に配慮しています。

② 第6回遣唐使(667年~668年)

第6回遣唐使は、伊吉博徳を送唐客使としているのですが、前回の唐使であった法聡を送るために派遣されたものと考えられており、唐まで行くことはなく、百済までの遣使であったと考えられています。

③ 第7回遣唐使(669年~?)

その後、唐は、3度に亘る攻撃の結果、天智3年(668年)、朝鮮半島の北半分を治める高句麗を滅亡させ、その跡地に安東都護府を置きました。

これにより、朝鮮半島が唐と新羅によって制圧され、東アジアで唐に敵対しうる国はヤマト政権のみとなりました。

そのため、この頃から唐がヤマト政権討伐に乗り出すとの風聞が広まるようになったため、焦った天智天皇が、天智天皇8年(669年)、唐との関係の正常化を図って河内鯨らを正式な遣唐使として派遣し、前年に高句麗を滅亡させたことに対する喜びの言葉を伝えてヤマト政権に唐と敵対する意図がないことを伝えために派遣したのが第7回遣唐使です。

仮想敵国に対し慶賀の使者を送っていることから、ご機嫌取りのために派遣されたものであることは明らかです。

唐と新羅との関係悪化(669年)

ところが、このタイミングで、ヤマト政権にとって事態が好転する出来事が起こります。

高句麗を滅ぼしたことにより朝鮮半島を制圧した唐と新羅ですが、その直後に唐が百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置することとしてこれらを唐に編入する方針を示したため、これに新羅が猛反発したのです。

その結果、唐と新羅との関係が急激に悪化し、新羅が、669年に高句麗の遺臣らを使って唐支配を脱するための蜂起をさせます。

また、新羅も、670年、西域で唐が吐蕃と戦っている隙をつき、唐の熊津都督府を襲撃して唐の官吏を多数殺害するなどして具体的な抵抗を始めます。

こうなってくると、唐としては、まずは目の前の新羅に対する対応が必要となり、遠方のヤマト政権を相手にしている場合ではないため、ヤマト政権に対する態度を軟化させていきます。他方、唐と対立を深める新羅もまた、唐との戦いを見据えてヤマト政権に接近してきます。

こうなると、ヤマト政権としては、唐と新羅との対立を利用して双方と有利な外交関係を築くことができるようになります。

そこで、ヤマト政権としては、唐と新羅との対立関係を利用して、新羅に対しては中臣鎌足がその高官に、天智天皇が新羅王にそれぞれ船1隻を贈ったり、唐に対しては高句麗平定を祝う遣唐使を派遣したりするなどして双方にいい顔をしてその間でうまく立ち回ります。

具体的には、唐と新羅の両方にいい顔をして時間を稼ぎ、その間に百済人を登用するなどして軍事力(北九州・瀬戸内・畿内の整備)・政治力(律令法に基づく中央集権化)を高めていきます。

これにより、唐から攻撃される危機が低下したと悟ったヤマト政権は、唐との関係改善よりも内政面を重視するようになり、遣唐使派遣を中断させて律令体制確立に注力していきます。

律令国家体制の確立

こうして内政面を重視していったヤマト政権は、大宝元年(701年)に当時の国内情勢に適合させた法令である大宝律令を編纂し、その上で、国号を「倭・和(ヤマト)」から「日本(ヤマト)」へ改めます。

① 第8回遣唐使(702年~704年)

そして、ヤマト政権は、これらの成果を唐に報告するため、大宝2年(702年)に30年ぶりに派遣されたの第8回遣唐使(大宝の遣唐使)です。

この第8回遣唐使は、粟田真人大使により日本の国号変更が報告されることにより、初めて対外的に「日本」という国号を使用したことでも有名です。

このときの唐は、周囲の国々を敵に回した外交不振時期であったために日本からの遣唐使を積極的に歓迎し、則天武后が日本という国号使用を承認したのですが(新唐書・東夷伝日本条)、律令が天下に君臨する皇帝の定める帝国法であるとして周辺諸国に過ぎない日本の律令導入と編纂自体は認めなかったと考えられています。

なお、余談ですが、この第8回遣唐使から、遣唐使のルートがそれまでのルートと大きく変わります。

その理由は、676年に勃発した唐・新羅戦争に勝利した新羅が、朝鮮半島から唐軍を追い出して朝鮮半島統一を成し遂げた結果、日本(倭から国号変更)から唐へ向かうために朝鮮半島を経由していくことが出来なくなってしまったことでした。

そのため、これ以降、比較的安全であったそれまでのルート(北路)を利用しての遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になりました。

そこで、このときの遣唐使からは、遣唐使船は4隻の船団(四つの船)を基本とし、住吉→難波→瀬戸内海→那大津→五島列島→東シナ海→長江と進んで長安へ向かうルート(南路)が選択されることとなりました(もっとも、第8回は2隻?・第13回は1隻・第15回と第17回は2隻)。

もっとも、このルートは、途中に寄港地がない上、羅針盤が発明される前の航海技術で、荒れる長い海路を対馬海流を横断して進まなくてはならなかいとう難ルートであった上、朝貢使という遣唐使の性質上元日朝賀に出席する必要があることから前年の12月までに唐の都へ入京する必要があり、そのためには台風シーズンである前年6月・7月ごろに日本を出航しなければならないという厳しい条件を強いられました。

そこで、南路に変更された後の遣唐使では、それまでのルートに比べてその難破率が急増しています(往路・復路を無事に渡りきる確率は80%程度であったと言われています。)。

奈良時代の遣唐使=仏教・文化吸収目的

奈良時代に入る頃には、前記のとおり唐と日本との関係改善が進んでいたため、これ以降の遣唐使は、それまでのような唐との軍事的緊張を緩和するためのものではなく、一般的に知られる文化使節としての性格を強めていきます。

そんな中、奈良寺の日本では鎮護国家思想が浸透し、国内の混乱を仏教の力によって鎮めようという動きが大きくなっていきます。

そこで、奈良時代の遣唐使もまた中国から仏教教理を学ぶ目的で派遣され、様々な経典や宗派(南都六宗など)が持ち帰られます。

また、中国の仏教教理は漢文で記載されていますので、仏教教理の伝播に伴って漢文文化もまた日本に伝えられ、漢詩文が貴族の教養として重んじられるなどして唐風の貴族文化(白鳳→天平→弘仁・貞観)が発達していきました。

そして、この頃以降の遣唐使船には、大使・副使の他に多くの留学生なども同行し、一行の内訳は、大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語生・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長・新羅奄美訳語生・卜部・留学生・学問僧・傔従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・柂師・傔人・挟杪・水手長・水手などであり(延喜式・大蔵省式)、1隻に100~150人が乗船し、4隻編成の500人程度の使節団でした。

そして、これらの唐に渡った人物のそれぞれが唐から先進技術・文化・思想を学び、帰国後に日本国内で政治家・官僚・仏僧・芸術工芸師などの分野で活躍していきます。

① 第9回遣唐使(717年~718年)

第9回遣唐使は、養老元年(717年)の多治比県守を代表とする遣使です。

このときの遣唐使には、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らが随行し、それぞれ中国滞在中に儒教や音楽などに関する膨大な書籍や当時最新の仏教教典を収集しています。

なお、吉備真備と推察される留学生は、唐から受けた留学手当の全てを書物に費やしていたという逸話が残されています(旧唐書倭国伝)。

② 第10回遣唐使(733年~734年)

第10回遣唐使は、天平5年(733年)の多治比広成を代表とする遣使です。

同遣唐使は、天平6年(734年)に帰国しており、この帰国の際に前回唐に渡っていた吉備真備と玄昉が帰国しています。

③ 第11回遣唐使(任命のみで派遣されず)

第11回遣唐使は、天平18年(746年)に石上乙麻呂を代表として任命されたのですが、実際に唐に派遣されることはありませんでした。

④ 第12回遣唐使(752年~753年)

第12回遣唐使は、天平勝宝5年(752年)の藤原清河を代表とする遣使です。

この遣使が参列した天平勝宝5年(753年)の朝賀において、副使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争って日本が新羅より上の席次という事を唐に認めさせるという事件が起こっています。

このときの遣唐使は、天平勝宝6年(753年)に帰国しており、この帰国の際に唐から高僧である鑑真が随行しています。

⑤ 第13回遣唐使(759年~761年)

第13回遣唐使は、天平宝字3年(759年)の高元度を代表とする遣使です。

遣唐使の派遣は、原則として「20年1貢」とされていたのですが、この頃は、日本側が様々なメリットを享受するため、天皇の代替わりなどを口実に短期間での派遣を繰り返しました。

⑥ 第14回遣唐使(船破壊のため中止)

第14回遣唐使は、天平宝字6年(762年)に仲石伴を代表として任命されたのですが、遣唐使船が破壊されたために実際に唐に派遣されることはありませんでした。

⑦ 第15回遣唐使(便風を得ず中止)

第15回遣唐使もまた、天平宝字6年(762年)に中臣鷹主を代表として任命されたのですが、便風を得ず実際に唐に派遣されることはありませんでした。

⑧ 第16回遣唐使(777年~778年)

第16回遣唐使は、宝亀8年(777年)の小野石根を代表とする遣使です。

⑨ 第17回遣唐使(780年~781年)

第17回遣唐使は、宝亀11年(780年)の布勢清直を代表とする遣使です。

平安時代の遣唐使=形骸化

平安時代に入る頃には、遣唐使を取り巻く情勢が大きく変化します。

具体的には、造船・航海技術の進歩や、唐の民間の海外渡航・貿易許可により、民間交流レベルでの交流が始まり、次第に国家レベルにおける遣唐使の重要性が低下していく時期でした。

① 第18回遣唐使(804年~805年)

詩文が作られて文学が栄えることが国家経営の大業につながり、ひいては国家・社会の平和と安定につながるとする政治思想(文書経国思想)から、中国の文物・制度を再度積極的に取り入れる動きが発生し、嵯峨天皇の弘仁年間に最盛期を迎えました。

そんな中で、送りだされたのが延暦23年(804年)の第18回遣唐使であり、延暦23年(804年)に藤原葛野麿が代表として任命され、最澄や空海などの僧が随行しています。

この第18回遣唐使は、唐において帰国を先延ばしにすることを勧められる程に厚遇されました(日本後紀・延暦24年6月乙巳条)。

もっとも、最澄は、漢語が理解出来なかったために弟子の義真に通訳を務めさせていたのですが、漢語が出来ないために現地の学校に入れないこと、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が予定されている20年後まで持たないことなどを理由として短期間滞在で帰国しています。

② 第19回遣唐使(838年~839年)→最後の遣唐使

9世紀中頃になってくると、唐からの海商が渡航してくるようになったため、わざわざ遣唐使を派遣しなくても中国文物が入手できるようになります。

その結果、遣唐使の重要性が低下していきます。

第19回遣唐使の派遣が決まったのですが、この遣唐使は出発に2度失敗し、大使藤原常嗣と副使小野篁が対立して小野篁が乗船を拒否して隠岐へ配流されるという事件まで起こっています。

その後、承和5年(838年)に藤原常嗣を代表としする第19回遣唐使の派遣が決定され、円仁や円載などの僧が随行しています。

そして、この第19回遣唐使が唐に派遣された最後の遣唐使となっています。

第19回遣唐使の帰国は、承和6年(839年)になされたのですが、このときは山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられています。

③ 第20回遣唐使(菅原道真の建議により中止)

民間商船交流による遣唐使の重要性低下に加え、黄巣の乱が勃発したことが示すように唐が弱体化していたため、日本国内における唐への憧憬もまた失われていき、遣唐使もまた承和5年(838年)を最後に50年以上中断状態にありました。

ところが、寛平6年(894年)に唐国温州長官であった朱褒から求めがあり、それに応じる形で宇多天皇主導の下で56年ぶりに遣唐使計画が立てられ、同年8月21日、菅原道真が遣唐大使に任命されます。

ところが、その後、菅原道真から遣唐使派遣の再検討を求める建議書である「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出され、派遣手続きが中座します。

その後、日本国内で災害や人事問題が勃発し、遣唐使派遣は完全に停滞してしまいます。

遣唐使廃止

遣唐使派遣の目途が立たない状態のまま時間が過ぎていったのですが、延喜7年(907年)に梁(後梁)によって唐が滅ぼされたことにより遣唐使派遣の議論もまた停止(実質上の廃止)とされることとなりました。

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