16世紀末、日本国内を統一した豊臣秀吉は、2度に亘って朝鮮半島に兵を送っています。
一度目は天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの文禄の役であり、このときの戦いは、対馬から朝鮮半島に海路で上陸した日本軍一番隊1万8700人による釜山攻撃から始まっています。
そこで、本稿では、この文禄の役の初戦となる釜山攻略戦の概略について簡単に説明したいと思います。 “【釜山攻略戦】文禄の役の橋頭堡確保作戦” の続きを読む
16世紀末、日本国内を統一した豊臣秀吉は、2度に亘って朝鮮半島に兵を送っています。
一度目は天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの文禄の役であり、このときの戦いは、対馬から朝鮮半島に海路で上陸した日本軍一番隊1万8700人による釜山攻撃から始まっています。
そこで、本稿では、この文禄の役の初戦となる釜山攻略戦の概略について簡単に説明したいと思います。 “【釜山攻略戦】文禄の役の橋頭堡確保作戦” の続きを読む
幸州山城の戦い(こうしゅうさんじょうのたたかい)は、文禄の役の終盤の文禄2年(1593年)2月12日、漢城西方に位置する幸州山城(現在の高陽市徳陽区幸州内洞)を巡って朝鮮軍と日本軍との間で行われた攻城戦です。
明国軍の参戦により押されていま日本軍が、直前に起こった碧蹄館の戦いに勝利して勢いを取り戻しつつあったところ、続けて行った幸州山城攻めで甚大な被害を出して苦しくなり、明国と講和交渉を進めざるを得なくなるに至るターニングポイントとなった戦いでもあります。
本稿では、この幸州山城の戦いについて、そこに至る経緯から簡単に紹介していきたいと思います。 “【幸州山城の戦い】碧蹄館の戦いで高揚した士気が地に落ちた戦い” の続きを読む
碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄2年(1593年)1月26日に朝鮮国京畿道高陽県の碧蹄館(ピョクチェグァン、現在の京畿道高陽市徳陽区碧蹄洞)で勃発した文禄の役における激戦の1つです。
朝鮮半島に上陸した後に連戦連勝を重ねて平壌城まで占拠するに至っていた日本軍でしたが、明国が朝鮮方について参戦したことによりその勢いが削がれ、反転攻勢を受ける苦しい時期に起こりました。
平壌・開城を立て続けに奪還して勢いに乗って漢城(現在のソウル)の奪還のために進んで来た李如松率いる2万人もの明国軍を、日本軍先遣隊2万人で迎撃して撃破し、その戦意を喪失させるに至ったという文禄の役の転換点となった戦いでもあります。
隣国との政治的問題から教科書で紹介されることが少なく、また大河ドラマなどでもほとんど描かれることがないため知名度は今一つですが、日本の戦国有名大名の共同作戦であり、名将・小早川隆景の生涯最後の戦いでもある歴史ファンにはたまらない戦いです。
本稿では、この碧蹄館の戦いについて、その発生に至る経緯から簡単に説明したいと思います。 “【碧蹄館の戦い】文禄の役における明国軍の反転攻勢を断念させた日本軍の大勝利” の続きを読む
16世紀末、日本国内を統一した豊臣秀吉は、2度に亘って朝鮮半島に兵を送っています。
一度目が天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの文禄の役であり、二度目が慶長2年(1597年)からの慶長3年(1598年)までの慶長の役です。
明国を攻略するための戦争だったのですが、明国までの通り道となった朝鮮半島が主戦場となったため、朝鮮出兵とも言われます。
この2度の戦いは、老害化した豊臣秀吉が、当時の多くの大名の反対を押し切って行われた暴挙であり、豊臣家臣団を武断派と文治派に分ち、兵力を温存した徳川家康によってこの分断を利用されて豊臣政権が失われるに至らしめた愚策であると言われることが多いのですが、そのような事実はありません。
結果的に失敗したために酷い言われようがなされているのですが、他国を侵略するという道義的評価は置いておいて、豊臣政権維持という政策目的からすると本質的には愚策であったとは考え難い作戦です。
本稿では、豊臣秀吉による政権盤石化政策の一環として行われた朝鮮出兵のうちの第一段である文禄の役について簡単に説明していきたいと思います。 “【文禄の役】豊臣秀吉による唐入り作戦第一弾” の続きを読む
百済寺(くだらでら・くだらじ)は、天平勝宝2年(750年)頃に百済王敬福によって建立されたと言われる河内国・交野郡中宮郷に存在した寺であり、現在でいうと大阪府枚方市内の淀川及び天野川沿いの小高い丘(交野ヶ原)上に位置します。
人質としてヤマト政権の下に送られた百済皇子が百済王氏の氏を与えられ、祖国滅亡後にヤマト政権下で力をつけて有力氏族となった後、その氏寺とするために建立した寺院でもあります。
ヤマト政権下で力を持った百済王氏は、百済寺の北部に一族を住まわせるための集落を形成していたとも考えられており、百済王氏の活躍の舞台として氏寺としてのみならずその周囲に広がった集落全体としての価値があります。
藤原摂関政治の確立により百済王氏が力を失ったために百済寺もまたいずれかの時点で失われてしまったのですが、その歴史的価値から昭和27年(1952年)3月29日に国の特別史跡に指定され、現在まで長い時間をかけて発掘調査が進められてきました。 “【河内百済寺】人質として日本に残された百済王族が大坂枚方に創建した氏寺跡” の続きを読む
大阪環状線は、その名のとおり大阪市街地を環状に走行するJR路線です。
大阪市内で最も有名ともいえるこの路線ですが、完成したのはそれほど昔ではありません。
また、環状と言いつつも円形ではない変な形をしており、その理由は、
既に市街地を形成していた大阪の町の内部に線路を引き込むことが出来なかったことから、外周に沿って線路が敷設されるに至ったことによります。
本稿では、大阪環状線が現在の形になるに至った経緯について順に説明していきたいと思います。 “【大阪環状線の歴史】私鉄を国有化して繋ぎ合わせたループ路線” の続きを読む
御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期の第8代将軍・徳川吉宗と、第9代将軍・徳川家重の子によって創設された徳川将軍家の一門家です。
紀伊徳川家出身の徳川吉宗が、ライバルである尾張徳川家の影響力を低下させるために創設されたと考えられており、徳川宗武(徳川吉宗三男)を家祖とする田安徳川家、徳川宗尹(徳川吉宗四男)を家祖とする一橋徳川家、徳川重好(徳川家重次男)を家祖とする清水徳川家がこれに該当します。
御三家に次ぐ高い家格を持つとしながらも当初は大名として藩を形成することも政治権力を持つこともなく、将軍の親族でありながら将軍家の部屋住みとして扱われ、将軍家や親藩大名家に後継者がない場合に養子を提供することを主な役割とするに過ぎない家でした。
もっとも、幕末期には幕政にも関与するようになり、江戸幕府最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜が一橋家から輩出されたことでも知られています。 “【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家” の続きを読む
三国干渉(さんごくかんしょう)は、明治28年(1895年)4月23日、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の列強三国が、日本に対して、6日前である同年4月17日に調印(国家代表者間による交渉・条約文作・署名による内容確定)された日清戦争の講和条約である下関条約(批准は同年5月8日)の内容うちの1つである日本による遼東半島所有を放棄して清に返還するよう求めた勧告です。
日本側としては、日清戦争において多くの損害を被りながら獲得した遼東半島を失うことに抵抗が多かったのですが、当時の日本陸海軍に列強三国を相手にして戦うだけの国力はなく、やむを得ずに勧告に従って遼東半島を返還するという決断に至っています。
この点については、日本政府のみならず日本国民全体が悲憤慷慨し、この屈辱を忘れないために「臥薪嘗胆」をスローガンとして、国力増強・軍事力増強に努めていくようになりました。 “【三国干渉】臥薪嘗胆を合言葉にロシアを仮想敵国にするに至った国辱事件” の続きを読む
徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代に徳川宗家(将軍家)に次ぐ家格を持ち、将軍就任資格を持つとして徳川の苗字を称することを許された3つの分家です。
最終的に尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の3家に落ち着いたため、あたかも最初からこれらの家で始まったようなイメージを持ちがちですが、実際は紆余曲折を経て最終的にこの3家に落ち着いています。
そこで、本稿では、徳川御三家が現在のイメージに沿う形となるに至った歴史的経緯を順に説明していきたいと思います。 “【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯” の続きを読む
日本三名鐘は、日本全国の寺院内にある梵鐘のうち、特に優れたものとされる3つの鐘です。
平等院鐘・園城寺鐘・神護寺鐘が挙げられるのが一般的であり、「姿の平等院鐘」・「声の園城寺鐘」・「銘の神護寺鐘」と呼ばれ称えられてきました。
以下、これらの日本三名鐘について簡単に紹介していきたいと思います。 “【日本三名鐘】姿の平等院鐘・声の園城寺鐘・銘の神護寺鐘について” の続きを読む