【天皇陵一覧】宮内庁により治定された歴代天皇の葬送地

天皇陵とは、天皇が葬られた場所を言い、その根拠は皇室典範27条に求められます。

皇室典範27条では、天皇・皇后・太皇太后及び皇太后を葬る所を陵というとしていますので(その他の皇族を葬る所は墓とししています。)、陵のうち天皇が葬られた場所を「天皇陵」ということとなるのです。

日本に点在する陵墓の被葬者を特定することを「治定」といい、治定作業は古くは江戸時代(元禄~文久年間)からその当時の学問水準を基にして行われており、今日の水準からすると疑問点の多いものとなっています。

もっとも、これまでに天皇陵として治定されたものは宮内庁の管理下におかれ、発掘調査どころかその立入さえ許さないという制限を受けていますので、その真偽を質すことさえ出来ない状況となっているということを理解した上で本稿をご参照いただければ幸いです。

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【刀伊の入寇】摂関政治全盛期に起こった外国人襲来事件

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、 寛仁3年(1019年 )3月27日から4月13日までなされた女真族による壱岐・対馬・九州襲撃事件です。

1019年に起こった、10(と)1(い)の九州(9)襲撃として、日本史上、最も覚えやすい語呂合わせの年に発生し、記録されただけでも死者365人・拉致被害者1289人・牛馬被害380匹・家屋45棟以上喪失という甚大な被害を被った一大事件です。

もっとも、刀伊の入寇は、なぜか教科書などではほとんど紹介されておらず、マイナー事件の扱いを受けています。

そこで、本稿では、刀伊の入寇について、事件発生の経緯からその概略を説明していきたいと思います。 “【刀伊の入寇】摂関政治全盛期に起こった外国人襲来事件” の続きを読む

【織田有楽斎(織田長益)】有楽流茶道創始者となった織田信長の弟

織田長益(おだながます)は、織田弾正忠家当主であった織田信秀の十一男として生まれた武将であり、織田信長の末弟にあたります。

織田信忠の下について織田家の勢力拡大戦に従軍したのですが軍才はなく、目立った武功は見受けられませんでした。

本能寺の変により織田信長が死亡した後は、織田信雄・豊臣秀吉・豊臣秀頼の臣下となったのですが、そこでも武将としての活躍はほとんどありませんでした。

もっとも、千利休に茶道を学んで利休十哲の一人にも数えられるほどの茶人となり、千利休の死後に自らの茶道流派である有楽流を創始するに至り、長益系織田家嫡流初代として織田家の血を後世に残すことに成功しています。

出家後に有楽(うらく)・如庵(じょあん)と号したことから、織田有楽斎(おだうらくさい)と呼ばれることもあります。 “【織田有楽斎(織田長益)】有楽流茶道創始者となった織田信長の弟” の続きを読む

【日本の都一覧】天皇の代替わり毎に行われていた遷都の歴史

現在の日本の首都は東京都(正確には東京奠都がなされていますので京都もまた首都であるはずです。)ですが、歴史的に見るとそこに至るまでに数々の遷都が行われてきました。

延暦13年(794年)の平安京遷都後は1000年以上も同じ場所に置かれていたためにあまり知られていませんが、それまでは天皇の代替わり毎に(場合によっては同一天皇の代に複数回)に都の場所が移転していました。

本稿では、日本において遷都が繰り返されてきた理由を説明し、移り変わった都の一覧を列挙していきたいと思います。 “【日本の都一覧】天皇の代替わり毎に行われていた遷都の歴史” の続きを読む

【環濠都市・堺】戦国時代最大の貿易都市の栄枯盛衰

堺(さかい)は、大坂南部に位置した、大阪湾に面する一大商業都市です。

堀によって周囲を取り囲んで守る環濠都市としても有名です。

堺周辺の海は遠浅であったために大型船の接岸には向かないため、必ずしも港として優れていたわけではなかったにもかかわらず、戦国時代には、対明貿易・南蛮貿易の玄関口としての役割を果たして商業都市として栄え、戦国大名からも無視できない勢力として度々歴史上の事件に関わっていきました。

あまりの繁栄ぶりから、三好長慶・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などのときの権力者がこぞって直轄支配を行った都市でもありました。

本稿では、環濠都市・堺が、どのように発展したどのような都市であったのかについて、簡単に説明していきたいと思います。 “【環濠都市・堺】戦国時代最大の貿易都市の栄枯盛衰” の続きを読む

【御土居】豊臣秀吉が築いた京を囲む土塁

御土居(おどい)は、豊臣秀吉によって作られた京の町を囲む惣構え構造の土塁です。土塁に沿って掘られた堀とあわせて御土居堀とも呼ばれます。

御土居は、聚楽第・方広寺・寺町建造、天正の地割など豊臣秀吉による一連の京改造事業の1つとして建造されました。

目的としては京防衛のためであったと考えられるのですが、防衛設備としては不十分なものであり、現在でもその設置目的については様々な議論がなされています。

なお、現在も御土居の遺構が一部現存し、国の史跡に指定されています。

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【織田信雄】織田信孝との争いを利用されて羽柴秀吉の下剋上を許した織田信長の次男

織田 信雄(おだのぶかつ/おだのぶお)は、織田信長の次男です。

織田家による南伊勢乗っ取りのために南伊勢の北畠家に養子に出されて、同家で成長して見事に同家の乗っ取りを成功させ、織田家中も一門衆序列4位という高位に位置していました。

もっとも、武将としての評価は芳しいものではなく、織田信長の死後には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に織田家を簒奪された上、その軍門に下って改易処分を受けるなど、その器量には大きな疑問符もつきます。

もっとも、数多く生まれた織田信長の息子のうち、江戸時代に大名として存続したのは織田信雄の系統だけであり、お家存続という成果を挙げたという意味では高く評価してもいい人物と考えます。 “【織田信雄】織田信孝との争いを利用されて羽柴秀吉の下剋上を許した織田信長の次男” の続きを読む

【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦

大垣城の戦い(おおがきじょうのたたかい)は、関ヶ原の戦い当日に、本戦のすぐそばで発生した東軍による攻城戦です。

元々は西軍主力の本陣を置いていた大垣城が主戦場となるはずだったのですが、前日に石田三成らが西軍主力の本陣を関ヶ原に移してしまったために本戦ではなくなった戦いでもあります。

関ヶ原の戦い本戦の直前に始まった大垣城の戦いですが、本戦がわずか1日で東軍勝利にて決着したため、その影響を受けた大垣城もわずか1週間余りで陥落してしまいます。 “【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦” の続きを読む

【不破関】天武天皇により設けられた東山道防衛の拠点

不破関(ふわのせき)は、天智天皇の死後に皇位継承を巡って勃発した壬申の乱に勝利して即位した天武天皇により、天武天皇2年(673年)に現在の岐阜県不破郡関ケ原町に設けられた古代東山道の関所の1つです。

当初は、東山道を監視することによって都(飛鳥浄御原宮)を防止する役割を担っていたのですが、次第に周囲の警察・軍事の機能を兼備するようになります。

また、律令制度の整備により、伊勢鈴鹿関(東海道)・越前愛発関(北陸道)と共に3関の1つに数えられ、関西(畿内)と関東(東国)とを分ける境目にもなっています。

もっとも、膨大な費用を要する三関の維持が困難となった朝廷は三関の廃止を決定し、延暦8年(789年)7月、不破関もまた廃止されるに至ります。 “【不破関】天武天皇により設けられた東山道防衛の拠点” の続きを読む

【岐阜城(日本100名城39番)】濃尾平野を牛耳る織田家3代の居城

岐阜城(ぎふじょう)は、現在の岐阜市金華山(かつての美濃国井之口山・稲葉山)を利用して築かれた戦国山城です。

築城当初は東国にあった鎌倉幕府による、西国の朝廷に対する抑えとして築かれた砦(井口砦)にすぎなかったのですが、戦国時代に美濃国を治めることとなった斎藤家によって大改修がなされて稲葉山城となりました。

その後、同城に拠点を移した織田信長が、大規模改修を行うと共に岐阜城に名を改めたことで有名です(なお、このとき城下町も井口から岐阜に改名しています。)。

急峻な山に築かれた城であったことから山頂部に十分な平坦を確保できず、城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は西麓の槻谷(けやきだに)に設けるという戦国期山城によく見られる二次元分離構造となっています。

織田信長が居城としたこともあって堅城と考えられがちな岐阜城ですが、急峻な山に築かれた城であるために平坦部が少なく籠ることのできる兵数が少ないこと、山自体が岩盤で構成されていることから井戸がなく水の確保が困難であったことなどからその防御力は高くなく、何度も落城している問題点の多い城でもありました。 “【岐阜城(日本100名城39番)】濃尾平野を牛耳る織田家3代の居城” の続きを読む