【長尾為景】主を2人殺した天下に例なき奸雄である上杉謙信の実父

長尾為景(ながおためかげ)は、越後長尾家第7代当主として、1506年から1536年まで越後の国を治めた戦国大名です。

元々は、越後守護代・越中国新河郡分郡守護代から始まり、越後守護・上杉房能と、関東管領・上杉顕定という2人の主を殺害してのし上がるという類を見ない下克上を行った人物です。

戦国時代の下克上の先駆者です。

上杉謙信の実父でもあります。 “【長尾為景】主を2人殺した天下に例なき奸雄である上杉謙信の実父” の続きを読む

【北条氏邦】小田原征伐のきっかけを作った猛将

北条氏邦・藤田氏邦(ほうじょううじくに・ふじたうじくに)は、北条氏康の四男として生まれ、上野国方面の軍事を任されるなどして北関東の最前線で活躍し、いくつもの武功を挙げて北条家の領土拡大に大きく貢献した武将です。

他方で、北条家滅亡に繋がる小田原征伐のきっかけを作った人物であり、その意味では評価が分かれるかもしれません。

最終的には、生まれ故郷から遠く離れた加賀国・金沢で最期を迎えるという数奇な人生の終え方をした人物でもあります。 “【北条氏邦】小田原征伐のきっかけを作った猛将” の続きを読む

【花倉の乱】海道一の弓取り今川義元の家督相続

花倉の乱・花蔵の乱(はなくらのらん、はなぐらのらん)は、天文5年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名・今川家の家督を巡る内乱(お家騒動)です。

後に海道一の弓取りと言われる今川義元の家督相続のきっかけとなった戦いでもあります。

今川義元(還俗前は栴岳承芳)、母・寿桂尼、師・太原雪斎と、今川良真(還俗前は玄広恵探)との戦いという、僧侶と尼の殺し合いというシュールな戦いです。 “【花倉の乱】海道一の弓取り今川義元の家督相続” の続きを読む

【山中城の戦い】小田原征伐の一環として行われた豊臣軍の力攻め

山中城の戦いは、豊臣秀吉の小田原征伐の一環として行われた戦いであり、箱根旧街道を東進する豊臣秀次・徳川家康らと、これを迎え討つ北条氏勝・松田康長らとの戦いです。

北条家の築城技術を結集して築かれたの山名城でしたが、完成前であったこと、寡兵であったことなどから僅か半日で落城し、豊臣軍の勝利で終わっています。

攻城戦の名手として名高い豊臣秀吉が、短時間で攻略することによって圧倒的な力を見せつけようとして損害を承知であえて力攻めで攻略したという珍しい戦いとして有名です。

“【山中城の戦い】小田原征伐の一環として行われた豊臣軍の力攻め” の続きを読む

大阪城内の巨石ランキングとその所在場所(観光用)

現在、大阪の観光名所の1つとなっている大阪城には様々な見どころがあります。

そのうちの1つとして、どうやって運んだのかすら想像できない程の巨石が点在していることが挙げられます。

本稿では、大阪城に使われている巨石を表面積別ランキングにし、その所在と共に紹介していきたいと思いますので、大阪城を観光される際の参考にしていただければ幸いです。 “大阪城内の巨石ランキングとその所在場所(観光用)” の続きを読む

【山中城(日本100名城40番)】障子堀と畝堀で有名な北条流築城技術の最高傑作

山中城(やまなかじょう)は、関東一円を支配した北条家3代目の北条氏康が、本拠地・小田原城の西側の守りとするため、小田原城の約18km西側に位置する伊豆国田方郡山中(現在の静岡県三島市山中新田)築いた城です。小田原城の支城として箱根旧街道(東海道)を押さえる西の要の城であり、箱根十城にも数えられています。

完全土造りの城で、障子堀や畝堀、角馬出しなどの北条家の築城技術の全てを注ぎ込み、圧巻の土木工事を経て造られた傑作です。

残念ながら完成をみる前に山中城の戦いが起きたために、最大限の運用をすることなく落城した悲運の城でもあります。

“【山中城(日本100名城40番)】障子堀と畝堀で有名な北条流築城技術の最高傑作” の続きを読む

【名胡桃城(続日本100名城115番)】小田原征伐の原因となった真田の城

名胡桃城(なぐるみじょう)は、戦国時代後期に、武田勝頼が北条氏から沼田城を奪取することを目指し、真田昌幸に命じて沼田城攻略のための前線基地とするために築かせた城です。

北関東の要衝であった沼田城から僅か数kmという近接地に築かれているため、激しい争奪戦の舞台となった城で、後に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすこととなった小田原征伐のきっかけとなった城としても有名です。 “【名胡桃城(続日本100名城115番)】小田原征伐の原因となった真田の城” の続きを読む

【稲生の戦い】織田信長が織田弾正忠家を完全掌握するに至った合戦

稲生の戦い(いのうのたたかい)は、斎藤道三が敗死したことにより美濃国・斎藤家を敵にまわしてしまったことで四面楚歌状態となった織田弾正忠家において、当主・織田信長の指導力に疑問を持った宿老らにより担ぎ出された弟・織田信行(信勝)がクーデターを起こして勃発した合戦です。

稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれます。

織田信長が、織田弾正忠家の絶対的当主となった転機となった戦いでもあります。 “【稲生の戦い】織田信長が織田弾正忠家を完全掌握するに至った合戦” の続きを読む

【萱津の戦い】うつけと侮られた織田信長の評価を一変させた合戦

萱津の戦い(かやづのたたかい)をご存知ですか。

マイナーすぎてほぼ知名度がないのですが、実は、織田信長の尾張国統一戦の中で重要な意味を持ち、織田信長のサクセスストーリーを語る上では外すことができない重要な合戦です。

父・織田信秀死亡後、織田弾正忠家の家督を継いだ織田信長ですが、「うつけ」と呼ばれ馬鹿にされていたこと、家督相続直後に謀反人を出してしまったこと、本拠地・那古野城と熱田との導線上にある松葉城・深田城までも清洲織田家に奪われたことから、その求心力は地に落ちます。

ここで、織田弾正忠家の期待を背負って清洲織田家を蹴散らし、一発逆転で織田弾正忠家中での評価を高めたのが萱津の戦いです。

織田弾正忠家のみならず、織田信長にとっても危うい危機を脱するに至った記念すべき戦いである萱津の戦いについて、そこに至る経緯から順に説明しています。 “【萱津の戦い】うつけと侮られた織田信長の評価を一変させた合戦” の続きを読む

【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年

低い身分に生まれながら天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉。

織田信長に仕えて初めて城を得てから亡くなるまでの間、その時々の必要性に応じて何度もその居城を移しています。

豊臣秀吉の居城として大坂城が突出して有名ですが、実は豊臣秀吉が初めて城を得てから死ぬまでの約25年の間で主として大坂城に在城していたのはほんの僅かです。3~4年に過ぎません。

羽柴秀吉は、人生のほとんどを別の城で過ごしています。

本稿では、そんな豊臣秀吉の居城遍歴を追っていきたいと思います。 “【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年” の続きを読む