【四等官制】律令制度における官僚制度

律令制度では、「律」によって刑罰を、「令」によって政治機構等を定めることにより軍事政権の中心人物たる天皇による中央集権化が進められました。

そして、「令」の整備によって、行政官庁の再編を行った上で、それまで各豪族に任せられていた政治権力を朝廷に一旦吸い上げこれを朝廷が該当人に任命するという形で官僚制度が整備されていきました。

このとき、行政官庁の再編として中央では二官八省一台五衛府が整備され、そこに勤める役人は行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

また、あわせて地方の行政官庁の整備もなされたのですが、ここでも行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

このように各行政官庁の幹部行政官は、いずれも4人が選任されたことから四等官制(しとうかんせい)と呼ばれました。

そして、この四等官は、いずれも長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)と呼ばれたのですが、官庁ごとに違う漢字があてられるというとても覚えにくい用語となっています。

なお、この四等官には、位階に応じて割当てがなされましたので(官位相当の制)、そのこともあわせて覚えると理解が進みます。 “【四等官制】律令制度における官僚制度” の続きを読む

【崇徳上皇怨霊伝説】日本史上最強の怨霊の誕生からその鎮魂まで

崇徳上皇は、日本の歴史上で最強の怨霊となったとされる人物です。

日本では、強い恨みを残してこの世を去った人物は怨霊になって禍をもたらすと言われており、またその禍の程度は恨みの程度に加えてその者の生前の地位に比例すると言われています。

強い怨霊となった人物が日本三大怨霊として括られ、菅原道真・平将門・崇徳上皇がそこに挙げられるのですが、このうちでも崇徳上皇が最強の怨霊としてその地位を盤石なものとしています。

その理由は、血縁上は鳥羽天皇の子として産まれながら、実際は鳥羽上皇の妻と鳥羽上皇の祖父である白河上皇との不倫により産まれ子であったことから、鳥羽上皇に徹底的に嫌われた人生を送ったことに始まります。

そして、その結果として、弟である後白河天皇と朝廷を2分する争いを起こして敗れて讃岐国に流され、同地で非業の死を遂げたことによります。

この悲しい末路から、後に宮中に起こった不幸の全てが崇徳上皇の怨霊によるものであるとされ、伝説的な怨霊伝説に繋がることとなったのです。 “【崇徳上皇怨霊伝説】日本史上最強の怨霊の誕生からその鎮魂まで” の続きを読む

【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑

碧血碑(へきけつひ・へっけつひ)は、戊辰戦争最終戦となった函館戦争において旧幕府軍に与して戦死した約800人の戦死者を祀った碑です。

函館戦争に勝利した新政府側戦死者が函館護国神社(函館招魂社)にて英霊として祀られたのに対し、敗れた旧幕府軍側戦死者が放置されていたことを哀れに思った函館の侠客であった柳川熊吉の尽力により建てられました。

碑文を一読しても意味が分からないのが通常ですが、歴史を勉強してから見るとイメージが大きく変わります。 “【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑” の続きを読む

【第59代・宇多天皇】臣籍降下後に皇族復帰し皇位継承した唯一の天皇

宇多天皇(うだてんのう)は、摂関政治の真っただ中の時代において、藤原氏を外戚としない立場で第59代天皇として即位し、摂関家藤原氏の政治力を排斥して天皇親政を試みて大胆な政治改革を行った天皇です。

臣籍降下した後に皇籍に復帰して即位した稀有な天皇でもあります。 “【第59代・宇多天皇】臣籍降下後に皇族復帰し皇位継承した唯一の天皇” の続きを読む

【乃木希典】名将か愚将か?死に場所を探し求めた軍神の生涯

乃木 希典(のぎ まれすけ)は、日露戦争での旅順攻囲戦の指揮をとり日本を勝利に導いた陸軍軍人です。

その質実剛健の性格を評価されて第10代学習院長となって迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係を務めたことや、明治天皇の後を追って殉死(割腹自殺)したことでも有名です。

旅順攻囲戦の指揮により「軍神」との評価されたり、陸軍大将となって贈正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級伯爵を受けたりした上で「乃木神社」や「乃木坂」などに名前を残したりする成功者である一方で、戦歴に関しては必ずしも華々しいものではなく、失敗続きの屈辱にまみれた人生でもありました。

西南戦争・日露戦争などで後悔を積み重ねて精神的に疲弊し、死に場所を探していた人生と言っても過言ではないかも知れません。

本稿では、苦難に満ちた軍神の生涯を紹介していきたいと思います。 “【乃木希典】名将か愚将か?死に場所を探し求めた軍神の生涯” の続きを読む

【日本三大土塀】太閤塀・信長塀・大練塀

日本三大土塀とは、日本全国に点在する土塀の中で、歴史のある3つの土塀をいいます。

誰が・いつ・どういう根拠で定めたのかは不明ですが、古来より「三大・・」が好きな日本人は土塀についてもランク付けをしており、太閤塀・信長塀・大練塀が日本三大土塀とされるのが一般的ですので、それぞれ簡単に紹介したいと思います。 “【日本三大土塀】太閤塀・信長塀・大練塀” の続きを読む

【護良親王】鎌倉幕府滅亡後の征夷大将軍

護良親王(もりよししんのう)は、鎌倉幕府の討幕に多大な功績を挙げて建武の新政では征夷大将軍に補任された後醍醐天皇の第三皇子です。

幼くして仏門に入っていたのですが、鎌倉時代末期に還俗して討幕の兵を挙げ、畿内各地で幕府軍との戦いを繰り返し、最終的な勝利に大きな貢献をしました。

もっとも、その後、同じく鎌倉幕府討幕に貢献した足利尊氏と対立し、また後醍醐天皇との行き違いなどもあって建武政権下で失脚して鎌倉に幽閉された後、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されるという悲しい最期を迎えています。 “【護良親王】鎌倉幕府滅亡後の征夷大将軍” の続きを読む

【鎌倉幕府による鎌倉開拓】武士の都となった鎌倉発展の歴史

鎌倉は、初めての武士政権である鎌倉幕府の本拠地となった場所です。

あまりにも有名な場所であるため昔から発展していた場所のようなイメージを持ちがちですが、平安時代以前の鎌倉は、都であった京から430kmも離れたど田舎であり、お世辞にも発展しているとは言い難い場所でした。

もっとも、源頼朝が鎌倉に入った後、源頼朝によって三方を山・一方を海で囲まれた防衛拠点としての基礎が築かれ、その後北条泰時によって陸上・海上交通が整えられ、さらに北条時頼によって禅宗寺院を出城として配置することで武士の都として完成を迎えます。

本稿では、この武士の都・鎌倉の発展の経緯について、順に説明していきたいと思います。 “【鎌倉幕府による鎌倉開拓】武士の都となった鎌倉発展の歴史” の続きを読む

【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃

露寇事件(文化露寇)は、19世紀初めにロシア帝国から日本へ派遣された外交使節ニコライ・レザノフが、長期間軟禁と通商要求拒否に対する報復として部下に命じたことにより勃発したロシア兵による日本北方拠点攻撃事件です。

それまでにロシアの脅威に備えて東蝦夷地(北海道の太平洋側と北方領土)を幕領化していた江戸幕府が、太平洋側の防衛だけでは不十分であると判断してさらに西蝦夷地(北海道の日本海側と樺太)をも幕領化するに至るきっかけを作った事件でもあります。 “【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃” の続きを読む

【出島】江戸時代日本における西欧国との唯一窓口であった人工島

出島(でじま)は、寛永13年(1636年)、江戸幕府が日本国内に南蛮人が滞在してキリスト教が普及することを防ぐため、ポルトガルを収容目的で長崎に築造した扇形の人工島です。

築造直後から寛永16年(1639年)までの3年間はポルトガル商館が置かれたのですが、ポルトガルとの断交により寛永18年(1641年)から安政6年(1859年)まではオランダ東インド会社商館が置かれて貿易が行われました。

西欧国家との江戸時代唯一の窓口となり、江戸時代にのべ700隻以上ものオランダ船が来航し、貿易品・文化・情報などを伝えました。

幕末に日本が開国したことによりその役割が終了し、明治以降の長崎港港湾整備に伴う周辺の埋立等により長崎と陸続きとなって扇形の面影は失われました。

その後、平成8年(1996年)に長崎市により出島復元整備事業計画が策定され、江戸当時の出島の姿への復元が進められています。 “【出島】江戸時代日本における西欧国との唯一窓口であった人工島” の続きを読む