【第二次上月城の戦い】尼子家再興の夢が潰えた戦い

第二次上月城の戦いは、織田軍の中国方面司令官として西播磨に入った羽柴秀吉が、織田方に従わなかった東播磨・上月城を攻略したところ、毛利軍がこれを奪還するために天正6年(1578年)4月18日から約2カ月半に亘って行われた攻城戦です。

調略と軍事力を駆使して一旦は播磨国全域を支配下に治めることに成功した羽柴秀吉でしたが、西播磨・三木城の別所長治の裏切りが起こったことにより孤立し、泣く泣く上月城を見捨てる決断を下したことから毛利軍勝利に終わった戦いです。

羽柴秀吉による中国戦線での大敗北でもあるのですが、かつての中国地方の雄・尼子家が再興を図って失敗し滅亡した戦いとしても有名です。

本稿では、この第二次上月城の戦いについて、その発生に至る経緯から順に説明していきます。 “【第二次上月城の戦い】尼子家再興の夢が潰えた戦い” の続きを読む

【第一次上月城の戦い】羽柴秀吉による西播磨攻略戦

第一次上月城の戦いは、全国統一戦を進める織田家の中で、中国方面を任されて播磨国に入った羽柴秀吉が、播磨国内で抵抗する勢力を力攻めで滅ぼしていくために行われた最初の主要な攻城戦です。

中国方面侵攻を任された羽柴軍では、羽柴秀吉自身が山陽方面を、弟・羽柴秀長が山陰方面を担当することとなったため、羽柴秀吉が山陽方面に位置する上月城を攻撃する流れとなりました。

攻城戦自体は、羽柴軍優勢の下で順調に進んで短期間で城は陥落したため、攻城戦事態に特筆すべき点があったと伝えられてはいません。

もっとも、この戦いでは、羽柴秀吉が、上月城側からの降伏申出を拒否し、見せしめのために城内に籠った者を皆殺しにし、その遺体を毛利家との国境線上に晒すという非人道的行為を行ったことで有名です。

本稿では、この第一次上月城の戦いについて、発生に至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【第一次上月城の戦い】羽柴秀吉による西播磨攻略戦” の続きを読む

【竹田城の戦い】生野銀山獲得を戦略目標とする局地戦

竹田城の戦いは、全国統一戦を進める織田家の中で、中国方面を任された羽柴秀吉が、中国戦線のための軍資金を得る目的で生野銀山を手中に収めようとして山陰方面に進出したことで発生した戦いです。

この点、羽柴秀吉は、自身は山陽方面を担当することとし、山陰方面を最も信頼する弟・羽柴秀長に任せることとしたため、実際には羽柴秀長による攻城戦となりました。

この時点ではまだまだ砦の規模でしかなかった竹田城は、羽柴秀長率いる大軍での攻撃によりわずか3日で陥落し、一帯が羽柴秀長の統治下におかれることとなりました。

その結果、その領域内にあった生野銀山もまた羽柴秀吉の支配下に置かれることとなり、これが羽柴秀吉の中国戦線での資金源となり、ひいてはその後の羽柴家(豊臣家)の懐を支える大黒柱となったのです。

本稿では、この生野銀山攻略戦ともいえる竹田城の戦いについて、発生に至る経緯から簡単に説明したいと思います。 “【竹田城の戦い】生野銀山獲得を戦略目標とする局地戦” の続きを読む

【有岡城の戦い】織田軍による離反者・荒木村重討伐戦

有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月に織田信長麾下から離反した摂津国有岡城主・荒木村重を討伐するため、織田方の大軍が有岡城を攻撃した戦いです。

大軍を動員した織田軍でしたが、総構え構造の強力な防衛力を持った有岡城攻城戦は難航し、天正6年(1578年)12月8日に行われた力攻めでは、たった1日で2000人もの兵を失う大損害を喫しました。

有岡城手強しと見た織田信長は、力攻めを取りやめて周囲の防衛拠点から順に無力化していく包囲戦に切り替えたため、長期戦の様相を呈していきました。

圧倒的物量を投入して来る織田軍により次第に追い詰められていった有岡城は、城主・荒木村重が城から逃亡するという事件もあり、その後の天正7年(1579年)11月19日に約1年間にも及んだ攻城戦は織田軍の勝利によって終結に至りました。

本稿では、この一大合戦となった有岡城の戦いについて、発生に至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【有岡城の戦い】織田軍による離反者・荒木村重討伐戦” の続きを読む

【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦

大垣城の戦い(おおがきじょうのたたかい)は、関ヶ原の戦い当日に、本戦のすぐそばで発生した東軍による攻城戦です。

元々は西軍主力の本陣を置いていた大垣城が主戦場となるはずだったのですが、前日に石田三成らが西軍主力の本陣を関ヶ原に移してしまったために本戦ではなくなった戦いでもあります。

関ヶ原の戦い本戦の直前に始まった大垣城の戦いですが、本戦がわずか1日で東軍勝利にて決着したため、その影響を受けた大垣城もわずか1週間余りで陥落してしまいます。 “【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦” の続きを読む

【杭瀬川の戦い】関ヶ原の戦いの前日に西軍が勝利した局地戦

杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦いの前日である慶長5年(1600年)9月14日に、本来戦場となるはずであった大垣城の北西で勃発した前哨戦です。

西軍の士気が、東軍に徳川家康本隊が合流したことにより低下したため、これを鼓舞するために行われました。

この戦いは、島左近と明石全登の活躍によって西軍が勝利したのですが、小さな戦いであったこと、翌日に石田三成らが場所的優位性のある大垣城を出てしまったことから関ヶ原の戦い本戦について西軍勝利に導くまでの効果をあげるには至りませんでした。 “【杭瀬川の戦い】関ヶ原の戦いの前日に西軍が勝利した局地戦” の続きを読む

【天正壬午の乱】織田信長死後に起こった武田旧領争奪戦

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、織田信長が本能寺の変で横死した後、旧武田領で勃発した一連の争乱です。

織田信長の死亡により武田旧臣などが一斉に反乱を起こし、織田氏の領国支配体制が固まっていなかった旧武田領国(甲斐・信濃・上野西部)は混乱し、権力の空白状態となります。

この権力空白地帯となった旧武田領国をめぐって、隣接する北条家・徳川家・上杉家が争奪戦を繰り広げ、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽家や真田家らの国衆などの動きが絡んで大きな起きた争いとなりました。

この一連の争乱のうち、どの範囲を天正壬午の乱と呼ぶのかについて諸説あるのですが、本稿ではその定義付けは無視して一連の争乱の概略について見ていきたいと思います。 “【天正壬午の乱】織田信長死後に起こった武田旧領争奪戦” の続きを読む

【野田城の戦い】武田信玄の人生最後の戦い

野田城の戦い(のだじょうのたたかい)は、三方ヶ原の戦いに勝利しつつも浜松城を攻略しきれなかった武田軍がその攻略を諦めて西進し、奥三河に向かって攻めるに至った攻城戦です。

武田信玄の西上作戦の一環として元亀4年(1573年)1月から始まり、概ね1ヶ月の攻城戦を経て野田城が武田家に下っています。

もっとも、野田城陥落直後に武田信玄の体調が悪化して死去しておりますので、武田信玄の人生最後の戦いでもあります。

本稿では、この野田城の戦いについて説明していきたいと思いますが、西上作戦の一環として行われていますので、前提を少し長めに紹介した後で野田城の戦いを説明することとします。 “【野田城の戦い】武田信玄の人生最後の戦い” の続きを読む

【第一次高天神城の戦い】武田勝頼と徳川家康との間の遠州争奪戦の初戦

第一次高天神城の戦い(だいいちじたかてんじんじょうのたたかい)は、天正2年(1574年)に、武田勝頼率いる武田軍が、徳川方の最東端拠点であった遠江国・高天神城を攻略した戦いです。

元亀3年(1572年)10月に始まった武田信玄の西上作戦によって領内が蹂躙された徳川家と、その後に武田信玄が死去したことにより家督相続での家内統制に苦慮した武田家との間で繰り広げられた一進一退の攻防戦の1つです。

戦術的に見ると、武田勝頼が大軍を動員して高天神城を攻撃したのに対し、後詰を出せなかった徳川家康・織田信長の威信を大きく下げるという結果をもたらしました。

他方で、戦略的に見ると、遠江国内に拠点を得てしまったがために、この後、高天神城を防衛するために相当の戦力を費やす必要が生じたため、武田家を大きく疲弊させる結果をもたらしています。

本稿は、このように後の武田・徳川・織田の勢力関係に大きな影響をもたらした戦いとなった第一次高天神城の戦いについて、そこに至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【第一次高天神城の戦い】武田勝頼と徳川家康との間の遠州争奪戦の初戦” の続きを読む

【長島一向一揆】願証寺の蜂起と泥沼の消耗戦となった殲滅戦

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は、元亀元年(1570年)8月に石山本願寺第11世顕如が三好三人衆と同調して蜂起したことをきっかけとし、これに長島願証寺も呼応して当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文によって長島の一向宗門徒が一斉に蜂起し、さらにこれに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻したことにより発生した一連の戦いです。

織田軍による三度の鎮圧戦が繰り広げられ、最終的に長島の一揆勢が殲滅されるまでに約4年の歳月を要し、その間に織田方にも織田一門衆を含む多くの犠牲者を出しています。

本稿では、泥沼の消耗戦となった長島一向一揆の蜂起とその殲滅戦について、発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【長島一向一揆】願証寺の蜂起と泥沼の消耗戦となった殲滅戦” の続きを読む