【本願寺の歴史】成立から東本願寺と西本願寺に分かれるまでの経緯

本願寺は、親鸞が開いた鎌倉仏教の1つである浄土真宗(ただし、浄土真宗の宗旨名が用いられるようになったのは親鸞没後)の寺院です。

日本最大の信者を持つ仏教宗派の中心寺院なのですが、元々は貧乏寺院であった上、建立しては破却されるという苦難を経て京都に辿り着いた歴史があります。

また、ようやく京都に辿り着いた後も、豊臣・徳川の争いに巻き込まれて東西に分裂し現在に至っています。

本稿では、現在に至る本願寺の歴史について簡単に説明していきたいと思います。

なお、当ブログは歴史ブログであり、また筆者は宗教家ではないため、教義や作法など宗教的な内容はわかりませんので、その旨ご了承下さい。

覚如による本願寺成立

親鸞による浄土真宗開宗

浄土真宗の開祖である親鸞上人は、承安3年(1173年)4月1日、日野誕生院(現在の京都市伏見区日野西大道町)付近において、皇太后宮大進・日野有範の長男として生まれました。

当時は平家全盛時代であり、源氏の血を引いていた男子は暗殺の危険があったため、その危険を排斥するため親鸞もまた寺に預けられることに決まります。

そして、治承5年(1181年)、9歳となった親鸞は、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円のもと得度して「範宴(はんねん)」と称しました。

その後、出家した親鸞は、比叡山に登って延暦寺で20年に及ぶ厳しい修行を積んだのですが、自力修行の限界を感じ、建仁元年(1201年)春頃、比叡山を下山して専修念仏の教えを広めていた法然に弟子入りし、「綽空(しゃっくう)」 の名を与えられました。

誤りを恐れずに簡単にいうと、このときの法然→親鸞の教えは、多くの仏の中から阿弥陀如来を救い主として選び、自力修行を捨ててただひたすらに阿弥陀如来の力にすがって阿弥陀如来の支配する世界である極楽浄土に生まれ変わって仏となる(成仏する)ことを目指すというものでした。

そして、成仏するための唯一の手段は、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来の名を唱えること(称名念仏)であり、それまで必要とされてきた厳しい修行や作善は不要とされたのです。

ところが、建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れたことにより、専修念仏の停止、西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名の死罪、法然・親鸞ら7名が僧籍を剥奪されて流罪に処せられました。

親鸞は「藤井善信(ふじいよしざね)」の俗名を与えられた親鸞は、越後国国府(現在の新潟県上越市)に配流された後、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」 と名告って非僧非俗の生活を始めます。

建暦元年(1211年)11月17日に勅免の宣旨を受けた親鸞は、建保2年(1214年)に家族・門弟と共に越後国を発ち、東国で布教活動を行うために信濃国善光寺から上野国佐貫庄を経て常陸国に向かいます。

そして、同年に「小島の草庵」(現在の茨城県下妻市小島)を、建保4年(1216年)に「大山の草庵」(現在の茨城県城里町)を結んだ後、笠間郡稲田郷吹雪谷に「稲田の草庵」を結び同地を拠点に20年にも亘る精力的な布教活動を始めます。

その後、建暦2年(1212年)頃に京に戻った親鸞は、寛元5年(1247年)頃までに補足・改訂を続けてきた「教行信証」を完成させました。なお、浄土真宗の立教開宗の年は、「顕浄土真実教行証文類(後の「教行信証」)」の草稿本が完成した元仁元年(1224年)4月15日とされているのですが、この日に定められたのは親鸞の没後でありこの時点では浄土真宗という宗旨名が用いられたことはありません。

その後、弘長2年(1262年)11月28日に善法院(現在の京都市中京区柳馬場通押小路下ル)において入滅します。享年は90歳でした(満89歳)。

同年11月29日午後8時に葬送され、東山鳥辺野南にある「延仁寺」で荼毘に付された後、同年11月30日に拾骨の上で鳥辺野北の「大谷」に墓所を築いて納骨されました。

以上の活動を経た親鸞でしたが、親鸞自身には独立開宗の意思は無かったと言われており、浄土往生を説く法然に師事し、真実の教えを継承・展開させたことを生涯の喜びとしていました。

そのため、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとりはしたものの、親鸞が独自の寺院を持つことはありませんでした。

そもそも、親鸞が浄土真宗教団を設立しようとしたことを示す記録はなく、親鸞自身が浄土真宗と名乗ったこともありません

浄土真宗僧侶の特殊性

親鸞の死後、当然、その教えを継いでいくこととなるのですが、浄土真宗は他宗派にない独自の特徴がありました。

それは、親鸞が肉食妻帯を認めていたため、浄土真宗の僧侶には妻子がいるということです。

明治維新以前の仏教界では僧侶は公式には妻子を持つことができないとされていたことと対比すると、浄土真宗がこれと一線を画する極めて異例な立ち位置であったことがわかります。

そして、浄土真宗以外の仏教宗派では、開祖の直系子孫は存在しないこととなっており最澄(天台宗)・空海(真言宗)・法然(浄土宗)を始めとする各宗派では開祖の子孫ではなく開祖に教えを乞うた高弟により引き継がれていくのが常識だったのに対し、浄土真宗では、開祖の高弟の外に開祖の直系子孫が存在するという複雑な関係が出来上がってしまいました。

そして、浄土真宗では、開祖の血族と、開祖の高弟との間で対立が生じていきます。

親鸞血族による大谷廟堂建立(1272年)

まずは、開祖の血族について見ていきます。

親鸞死後の文永9年(1272年)、親鸞の末娘である覚信尼が、一部の親鸞の弟子や東国の門徒の協力を得て、大谷から吉水の北の辺に親鸞を改葬して「大谷廟堂」を建立します。

そして、建治3年(1277年)に覚信尼が大谷廟堂の管理・護持する「留守職」に就任した後、弘安3年 (1280年)に如信(親鸞の孫・本願寺第二世)に大谷廟堂の法灯を継がせます。

もっとも、如信は、陸奥国にあった大網の草庵で布教活動を続けており(大谷本願寺通紀)、大谷廟堂の寺務は覚信尼及び覚恵に委任し、毎年の親鸞の祥月忌に上洛してその際に覚如(親鸞の曾孫)に対して宗義を教えるのみでした。

覚信尼の入滅にともない、大谷廟堂の「留守職」を承継した覚恵が、永仁3年(1295年)に親鸞の「御影像」を安置・影堂化し「大谷影堂」となります。

その後、正安4年(1302年)、覚恵と唯善の間で起こった大谷廟堂の留守職就任問題(唯善事件)を経て、覚恵の長男である覚如が大谷廟堂の「留守職」を継承します。

この結果、浄土真宗(本願寺)法主の座は、親鸞血統と親鸞祖廟(大谷廟堂)を手にする一族によって継承されることが既定路線化するようになります。

本願寺成立(1321年)

そして、覚如は、元亨元年(1321年)に浄土真宗を寺格化します。

なお、寺格化に際し、寺号が亀山天皇より親鸞の廟堂に下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺(くおんじつじょうあみだほんがんじ)」にちなんで「本願寺」と号することに決まりました。

そして、この後、本願寺は移転を繰り返していくこととなるのですが、移転の際に「御真影」を安置している寺を「本願寺」と称することとなりました。

その後、覚如は、元弘元年(1331年)に「口伝鈔」を記して「三代伝持の血脈」を表明し、法灯継承を主張する(法脈:法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如・血統:親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)。

そして、その上で、覚如は、親鸞を宗祖・開祖、如信を本願寺第二世とした上で、自らを本願寺第三世に定めます。

以上の結果、覚如は、親鸞の血族で本願寺を固めることに成功したのですが、親鸞の血統を引き継いだ法主により運営された本願寺にはほとんど門徒が集まらず、本願寺・親鸞祖廟に参詣しようとする門徒がほとんどいないような状態となってしまいます。

親鸞高弟による他の浄土真宗教団の隆盛

前期のとおり、本願寺には門徒が集まらなかったのですが、浄土真宗の他宗派は隆盛を極めていました。

その理由は、親鸞血族の本願寺ではなく、親鸞高弟が開いたその他の浄土真宗教団がその受け皿となっていたからです。

そこで、次に、前記親鸞血族とは別に、親鸞の高弟たちの動きについて見ていきます。

当然のことですが、浄土真宗開祖の親鸞には、自らの血を分けた血族の外に、自ら教義を叩き込んだ幾人もの高弟を持っていました(なお、親鸞自身は弟子とは言わず、御同朋御同行と呼んでいました)。

これらの親鸞の高弟たちは、親鸞の死後、親鸞血族間の争いを尻目にそこから離れ、次々と独立し、自ら教えを広める独自の教団を設立していきました。

すなわち、親鸞の死後に浄土真宗教団が多数成立しており、本願寺は親鸞血族が主催するという浄土真宗教団の1つに過ぎなかったのです。

そして、この浄土真宗教団のうち西国では仏光寺派が、東国では専修寺派が台頭し、大いに発展していきました。

以上の結果、本願寺成立した当初は、親鸞血族で運営された本願寺はなかなか信者を獲得することが出来ずに苦しんでおり、その反面、開祖の高弟たちが開いた浄土真宗教団は多くの門徒を集めて隆盛を極めるという状態が続いていました。

ところが、この事態を一変させる人物があらわれます。本願寺中興の祖である蓮如上人です。

蓮如による本願寺再興

蓮如が本願寺第8世となる(1457年)

蓮如は、長禄元年(1457年)6月18日に父である存如が入滅したことにより本願寺第8世となります。

蓮如が引き継いだ本願寺は、財政がひっ迫するなど衰退の極みの状態にありました。

当時の本願寺は天台宗青蓮院の一末寺でしかなく、しかも蓮如の支援者となる堅田本福寺の法住らが本願寺に参拝しようとした際には余りにも寂れた本願寺の有様に呆れて佛光寺へ参拝したと言われるほどでした。

大谷本願寺破却(1465年)

しかも、その後の寛正6年(1465年)には、比叡山延暦寺から大谷本願寺が仏敵と評され、延暦寺西塔の衆徒によって破却されてしまいました(寛正の法難)。

その後、応仁元年(1467年)に本願寺と延暦寺とが和解することとなったのですが、その条件が蓮如の隠居と、その子・順如の廃嫡でした。

蓮如が越前国吉崎を拠点とする(1471年)

比叡山の圧力に屈して本願寺を離れた蓮如は、京を出て、全国の親鸞の足跡を追って全国行脚をしながらの布教活動を行います。

そして、応仁2年(1468年)に三河国・本宗寺を建立した後、近江国に移って園城寺の庇護を受けた後、文明3年(1471年)には師である経覚を頼って越前国吉崎に移って布教を始めます。

同年7月、蓮如が吉崎御坊を建立し、教義を消息(手紙・これらをまとめたものが「御文」)として発布する形で布教活動を始めると、同地に全国から門徒が集まり、寺内町として発展していきます。

もっとも、本願寺が大きくなっていくに従い、その勢力を利用しようとする者があらわれます。

それが、加賀国守護・富樫政親でした。

対立する弟・富樫幸千代と家督争いをしていた富樫政親でしたが、富樫幸千代が真宗高田派と組んだことへの対抗策として、蓮如の吉崎御坊に協力を求めます。

蓮如は、加賀国における優位性を維持するために富樫政親の協力要請にこたえ、文明6年(1474年)、富樫政親と協力して富樫幸千代を滅ぼします。

出口御坊建立(1475年8月)

もっとも、蓮如の力を借りて富樫家の内紛に勝利した富樫政親は、今度はその蓮如の力を危惧します。

これに対し、蓮如の配下であった下間蓮崇が蓮如の命令と偽り(蓮如らの関知は不明)、一揆の扇動を始めます。

両者の対立を苦慮した蓮如は、文明7年(1475年)8月21日、加賀国内における富樫家と吉崎御坊との対立を鎮静化させるため、一揆を扇動した下間蓮崇を破門すると共に自らも吉崎を退去します。

吉崎を出た蓮如は、小浜・丹波・摂津を経て河内国茨田郡出口村(現在の光善寺)に居を定めて布教を開始します。

当時わずか9戸の寒村であった出口でしたが、蓮如が移り住んで3年間暮らしたことにより出口御坊として発展し寺内町が形成されていきました。

その後、蓮如は、文明10年(1478年)に山科に本願寺を建立するために山科に移ることとし、長男・順如を出口御坊の住職に指名して出口を退去します。

本願寺教団の巨大化

山科に入った蓮如は、文明10年(1478年)1月、本願寺造営に着手します。

また、この頃になると、浄土・聖道諸宗の僧俗を次々と帰依させ、浄土真宗多宗派を次々と吸収することによって蓮如率いる本願寺教団は巨大化していきます。

そして、文明13年(1481年)には真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流し、また文明14年(1482年)には真宗出雲路派毫摂寺第八世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が門徒を引き連れて蓮如に合流するなどしたため、さらなる超巨大教団へと成長していきます。

本願寺再興・山科本願寺落成(1483年8月22日)

そして、文明15年(1483年)8月22日、ついに山科本願寺が落成し、本願寺の再興が成ります。

再興された山科本願寺には参詣人や各職種の人たちが集うようになり、またそれらを目当てにした寺内町が形成された結果、山科は京市中を上回る賑わいを見せるようになります。

大坂御坊建立(1497年)

山科本願寺完成の6年後である延徳元年(1489年)、蓮如は、5男である実如に本願寺を譲り渡します。

、明応2年(1493年)には真宗木辺派錦織寺の第七代慈賢の孫勝恵が伊勢国・伊賀国・大和国の40か所の門徒を引き連れて合流するなど、この頃になると、本願寺の拡大は顕著になります。

本願寺の隆盛を見届けた蓮如は、明応6年(1497年)に隠居所として大坂石山に「大坂御坊」(後の大坂本願寺)を建立し、同地に移ります。

この結果、蓮如の隠居所となった大坂御坊でしたが、蓮如を慕った人が集まって坊舎が立ち並ぶようになり、また集まった門戸を目当てとする商売を行うために寺内町が開かれていきました。

そして、本願寺の発展を見届けた蓮如は、明応8年(1499年)3月25日に山科本願寺において入滅します。

顕如による本願寺の戦国大名化

飯盛城の戦いに参戦(1532年6月)

その後の本願寺は、一方では戦国大名による民衆支配からの解放運動の精神的支柱となり、他方では既存権力からの迫害対象となりながらも発展を続け、大永5年(1525年)2月2日に本願寺第9世実如の入滅に従い、その孫であった証如が本願寺第10世を継承します。

本願寺を継承した証如もまた、それまでの本願寺拡大路線を進め、周囲の戦国大名とも積極的に関わっていきます。

そして、後に山科本願寺を失うきっかけとなった戦乱にも加担します。

具体的な経緯は、以下のとおりです。

河内国を支配するに至った畠山義堯が、守護代の木沢長政に命じて飯盛山に飯盛山城を築城したのですが、木沢長政が守護の畠山義堯から守護職を奪い獲る企てをしていることが発覚します。

怒った畠山義堯は、三好勝宗の助力を得て、享禄4年(1531年)8月から飯盛山城を攻めますが、細川晴元の助力を得た木沢長政の籠る飯盛山城をなかなか攻略できませんでした。

他方、防衛側の木沢長政もまた、畠山義堯らを追い返すまでには至らず、細川晴元は、飯盛山城解放が困難と判断し、山科本願寺法主であった証如に一揆軍の蜂起を要請します。

本願寺では、先代であった実如の遺言である「諸国の武士を敵とせず」という禁があったのですが、まだ17歳という若き証如が、畠山義堯方の三好元長が本願寺のライバルであった法華宗に肩入れしていることを問題視し、その相手方である木沢長政・細川晴元方につくことを決めてしまいます。

そして、証如は、享禄5年(1532年)6月5日、山科本願寺から大坂に移動した上で、摂津国・河内国・和泉国にいる本願寺門徒に動員をかけます。

この動員要請に3万人もの門徒が立ち上がり、同年6月15日、飯盛山城攻撃軍を背後から襲い、飯盛山城を解放します。

天文の錯乱

ところが、ライバル法華宗に与した三好元長との戦いが終わった後も本願寺一揆軍の蜂起は収まりませんでした。

浄土真宗を信じる門徒たちの中で法華宗以外の仏教宗派も追放すべきだとする声は次第に大きくなり、膨れ上がった一揆勢が証如や蓮淳などの本願寺指導者の静止命令を無視して独自の行動を取り始めます。

享禄5年(1532年)7月10日には、大和国の富商であった橘屋主殿・蔵屋兵衛・雁金屋民部らが1万の一揆を指導し、興福寺の被官ながら大和国内で戦国大名化しつつあった筒井順興・越智利基を攻め滅ぼすべく興福寺に攻め寄せます。

このときの一揆勢の攻撃により、興福寺内の多くの伽藍が焼失し、また戦禍及んだ春日大社もまた略奪の対象となったのですが、興福寺方に撃退されます。

また、南下した一揆勢は、越智氏が籠る高取城の攻撃したのですが、これもまた追い払われています。

畠山義堯・三好元長の排除のために本願寺を利用しようとした細川晴元でしたが、自らの予想に反して独自の動きを始めた本願寺一揆勢に危険を感じ、それまで敵対していた法華一揆と手を組んで一向一揆鎮圧(本願寺との手切れ)を決意します。

これに対し、細川晴元の変心を知った本願寺指導者の1人であった蓮淳は、細川晴元との徹底抗戦を決断し、それまでの一揆勢の行動を事実上追認し、細川晴元との全面対決に至ります。

山科本願寺焼失(1532年8月)

まず、享禄5年(1532年)7月28日、細川晴元方の木沢長政・茨木長隆らの策により山村正次に率いられた法華一揆勢が蜂起し、これに近江国守護である六角定頼が呼応します。

そして、天文元年(1532年)8月7日、京に集結した法華一揆が、次々と京中の本願寺系寺院を攻撃していきます。

また、法華一揆・六角連合軍は、同年8月12日には、蓮淳の籠る大津・顕証寺を攻め落とします。

その後、山科本願寺の周囲に布陣した3万人ともいわれる法華一揆・六角連合軍は、同年8月24日早朝より山科本願寺への総攻撃を開始します。

そして、水落から寺内町に突入した連合軍は、次々と寺内町に火を放ち、遂には山科本願寺にも火の手が及び、山科本願寺が陥落します(山科本願寺の戦い)。

大坂本願寺成立

山科本願寺が失われたことにより本願寺には新たな本拠が必要となったところ、証如は、京都に近くまた交通の便の良い大坂御坊に堀や土塁・石垣などを設置するなどして城郭寺内町に大規模改修し、ここを新たな本願寺の本拠と定めて大坂本願寺(後に石山本願寺とも呼ばれます)と改称します。

大坂本願寺は、大阪平野の中にある上町大地の北端に位置しており、その北部・東西が川と湿地帯に囲まれている天然の要害となっており、難攻不落の城といえる防御力を有していました(このことは、後にここに築かれた大坂城を滅ぼすため、徳川家康が大変な苦労をしたことからもわかります。)。

大坂石山に移った本願寺は、大名勢力の圧力によって山科本願寺を失ったことを教訓として、軍備増強を行い、また寺内町を開発するなどして一大勢力となります。

その結果、管領・細川晴元は、山科に続いて石山本願寺にも度々攻撃をしかけましたが、全て跳ね除けられています。

また、石山本願寺は、海・川・陸の交通の要衝であり、京や堺にも近い場所であったため、ここを押さえた石山本願寺には多額の資金が流入します。

力と金を手に入れた大坂本願寺の力を目にした時の権力者達が、大坂本願寺との武力衝突を恐れ、同盟を結ぶなどして石山本願寺と協力関係を求めたため、本願寺の勢力・権力は年々増大し、本願寺第11世法主の顕如の頃には、大名並の軍事力を有するまでに成長します。

顕如が第11世となる(1554年8月)

天文23年(1554年)8月13日 、本願寺第10世証如が死去したことにより、顕如が本願寺第11世を承継します。

永禄2年(1559年)、顕如は、証如・蓮如が2代続けて九条家の猶子となって貴族化したことや、度重なる朝廷工作の結果、法相・天台・真言寺院以外では異例となる門跡宣下を受けます。

その後、下間氏を坊官、三河本宗寺・播磨本徳寺・河内顕証寺を院家とするなどして組織を整えていきます。

石山戦争(1570年)

そんな中、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛を成功させたことをきっかけとして、織田信長と大坂本願寺との切っても切れない関係が始まります。

織田信長は、上洛後、またたく間に畿内のほとんどを制圧したのですが、その際の軍資金を得る目的で、将軍家の名を使って堺や尼崎に矢銭を要求し(簡単に言うと、力にモノを言わせたカツアゲです。)、応じない場合には取り潰しなどの措置をおこないました。

このとき、織田信長は、大坂本願寺にも、「京都御所再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求し、顕如はしぶしぶこれを支払っています。

ところが、織田信長は、大坂本願寺の立地の有用性を欲し、本願寺に対して更なる要求を突き付けます。

織田信長は、元亀元年(1570年)9月12日、本願寺に対し、代替地と交換に大坂本願寺からの退去を求めたのです。

大坂本願寺が、京にほど近く、商都大阪という経済の中心地・交通の要衝地でもあるにもかかわらず、上の図を見たらわかるとおり北・東・西の三方を湿地帯に囲まれた台地の上に建っており事実上南以外からは攻め込まれることがないという要害でもあるという、軍事的・経済的・政治的な面からまさに理想的な立地だったからです。

もっとも、本願寺側としても、大坂本願寺はこの時点での本願寺門徒の信仰の本拠地ですので、このような要求を飲めるはずがありません。

他方、本願寺側も織田信長の巨大な軍事力を理解していますので、むげに拒絶すると攻め込まれる可能性もあり、織田信長の要求に対して究極の選択を迫られます。

そんな悩みに苛まれていた最中、顕如は、一旦は阿波国に追い払われた三好三人衆が畿内に戻って野田城・福島城を建築し、織田信長に宣戦布告したとの報を聞かされます。

悩みぬいた顕如は、近衛前久の進言もあって、大坂本願寺という信仰の地を守るため、三好三人衆と協力して織田信長と対立する道を選びます。

10年にも及ぶ石山合戦の始まりです。なお、この頃から、大坂本願寺は、石山御坊と呼ばれるようになっています。

なお、顕如は妻として如春尼を迎えていたのですが、この如春尼の姉が武田信玄の室である三条の方であったことから、武田と本願寺との間には婚姻同盟に近い結びつきがありました。

そのため、このときの本願寺の挙兵は、第2次信長包囲網に参加することとなる武田信玄とも同調しての動きともいえます。

顕如による檄文による第1次挙兵、伊勢長島・越前などの同時蜂起に伴う第2次挙兵、本願寺包囲戦などを経つつ、本願寺側は顕如及びその子である教如を中心としつつ織田信長軍に対する徹底抗戦を続けます。

もっとも、織田軍の包囲によって陸上補給路が断たれ、また第二次木津川口の戦いにより海上補給路まで断たれた本願寺に勝ち目がなくなります。

その結果、本願寺内では、織田信長との講和目指す勢力(穏健派)が生まれ、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)と対立していくようになります。

顕如が紀伊国鷺森へ退隠

この本願寺内の意見対立に苦慮しながらも、顕如は、織田信長との講和の道を選択し、天正8年(1580年)閏3月7日、朝廷を介した織田信長との講和に応じ、本願寺顕如ら門徒の石山本願寺退去などを約しました。なお、信長公記によると退去期限は7月20日であったとされています。

そして、顕如は、同年4月9日に、本願寺を嫡子で新門跡となった教如に引き継いで、紀伊鷺森御坊に退去しました。

ところが、本願寺に残った教如は、織田信長に対する徹底抗戦を主張して大坂本願寺に籠城し、顕如から義絶されてもその考えを変えませんでした。

大坂本願寺焼失(1580年8月2日)

もっとも、その後も状況が改善しなかったため、もはや籠城は困難と判断した教如は、天正8年(1580年)8月2日、大坂本願寺を織田信長に明け渡し、自身は雑賀に逃れます。

なお、このとき大坂本願寺において出火し、同寺は完全に焼失しています(教如方が火を放ったのかは不明です)。

京での本願寺再建

顕如が貝塚に移転(1583年)

紀伊鷺森御坊に逃れていた蓮如は、天正11年(1583年)、宗祖真影を奉じて和泉国貝塚にあった石山本願寺末寺(後の願泉寺)に移ります。

顕如が天満に移転(1585年)

また、蓮如は、その後の天正13年(1585年)5月に豊臣秀吉から寺地寄進を受けて大坂天満に移ります。

そして、蓮如は、同年8月に同地に阿弥陀堂を建築し、翌天正14年(1586年)8月には十間四面の御影堂を落成します。

六条堀川での本願寺再建(1591年)

他方、応仁の乱で焼けた後荒れ果てていた京の再建を進める豊臣秀吉は、天正19年(1591年)1月5日、かつて邸宅が建ち並んでいた堀川六条の地を蓮如に寄進し、本願寺の復興に助力することとします。

これを受け、蓮如は、三男の准如と協力して同年8月に大坂天満から堀川六条に御影堂を移築し、また天正20年(1592年)7月に阿弥陀堂を新築することにより京に「本願寺」が完成します(これが現在の西本願寺です)。

この本願寺の京移転は、京の再建目的のみならず、最も東端に豊国社を配し、そこから西に向かって祥雲禅寺・方広寺を配し、さらにその西側先に本願寺を配することにより、豊臣系寺院の直線配置による豊臣秀吉による西方浄土を意識した配置の一環として行われたものでした。

なお、大坂天満の門戸の全てが京都に移転したわけではなく、大坂に残った門徒は天満近くの「楼の岸」に坊舎を設け、これが慶長2年(1597年)の町割改変によって「円江、津村郷」と呼ばれた現在地(現在の大阪市中央区)に移転し、「大坂御坊(津村御坊)」と呼ばれるようになりました。

この大坂御坊(津村御坊)は、「北御堂(御堂さん)」とも呼ばれ、周辺には本願寺門徒が集まり、御堂さんの屋根が見える・御堂さんの鐘が聞こえる場所で商売をすることが当時の商人のステータスともなっていました。

准如が本願寺を継承(1593年閏9月12日)

文禄元年(1592年)11月24日に顕如が入滅したことから、その長男である教如が本願寺を継承したのですが、教如はこの時、石山合戦後に自らと共に大坂本願寺に籠城した元強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した元穏健派を迫害したため、教団内における両者の対立に発展していきます。

このとき、穏健派や顕如室であった如春尼(教如の実母)が、顕如が書いた「留守職譲状」を基に、豊臣秀吉に示して、顕如の遺言に従って本願寺を三男の准如に継職させるよう直訴します。

この訴えに対し、豊臣秀吉は、文禄2年(1593年)閏9月12日に教如を大坂に呼び寄せて10年後に准如に本願寺宗主を譲る旨の命を下します。

もっとも、教如周囲の強硬派坊官が、豊臣秀吉に異義を申し立てて譲り状の真贋を言い立てたために豊臣秀吉の怒りを買い、直ちに教如が退隠するようにとの命が下されます。

この結果、同年閏9月16日に、准如が本願寺宗主第12世を継承することとなりました。

七条堀川の隠居所に退隠させられた教如は、「裏方」と称せられ、布教活動や末寺の創建に尽力します。

本願寺の東西分裂

徳川家康による本願寺分断策

ところが、慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去したこととにともない、徳川家康による豊臣系寺院の破却活動が始まります。

このとき、徳川家康は、祥雲禅寺や方広寺を喪失させ、豊国社を朽ちるにまかせることにより事実上失わせ、またその手が、豊臣秀吉が寄進し宗主を継承させた本願寺にも及びます。

もっとも、徳川家康は、豊臣家と直接の関係があるわけではない本願寺を破却するにまでは至りませんでした。

そこで、徳川家康は、本願寺を破却するのではなく、本願寺と豊臣系寺社(豊国社・豊国廟など)との関係を遮断するため、これらの間に新たな徳川系本願寺を置き、両者の関係を遮断しようと考えたのです。

本願寺の分裂

徳川家康は、慶長7年(1602年)、本願寺内で独自の派閥を持ちながらも日陰に追いやられていた教如に「本願寺」のすぐ東の烏丸七条に四町四方の寺領を寄進して移動させ、同地に堂舎を築かせた上で徳川系本願寺(後の大谷派)の本拠地とさせます

そして、慶長8年(1603年)に上野国厩橋の妙安寺から「親鸞上人木像」を迎えるかたちで、教如の烏丸七条本願寺が開かれました。

この徳川家康の行為により本願寺は完全に准如派閥と、教如派閥とに分裂してしまいました(もっとも、教如の正式な身分は本願寺隠居であり、東本願寺が正式に宗派となったのは教如の次代である宣如の代からです。)。

なお、このとき徳川家康は、関ヶ原の戦いで西軍側についたため准如に代えて教如を宗主に就けようとしたのですが、教如自身がこれを受けなかったため、やむなく本願寺を分裂させてその力を削ぐという選択をしたとする説もあります。

以上の結果、本願寺が分裂し、教如の烏丸七条の本願寺は「信淨院本願寺」・「本願寺隠居」・「七条本願寺」・「信門」・「ひがしもんぜき」などと呼ばれるようになり、さらにその後に堀川六条の本願寺の東側にあることから「東本願寺」と通称されるようになりました。

他方、准如の堀川六条の本願寺は「本願寺」・「六条門跡」・「本門」・「にしもんぜき」などと呼ばれるようになり、さらにその後に東本願寺との対比から「西本願寺」と通称されるようになったのです。

そして、この教如を十二代宗主とする本願寺教団=東本願寺が真宗大谷派、准如を十二世宗主とする本願寺教団=西本願寺が浄土真宗本願寺派となって現在に繋がっています。

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