【化野】平安京西側にあった三大葬送地の1つ

化野(あだしの)は、京都嵯峨の奥に位置する小倉山麓手前の緩やかな傾斜地です。

仇野・徒野とも書かれます。

かつて平安京三大葬送地の1つとして多くの遺体が葬送された場所でした。

化野を詠んだ歌も数知れずあり、その名は「無常の野」の意として人の世のはかなさの象徴としても用いられた場所でもありました。

平安京の三大葬送地

平安時代の葬送方法

大化の改新を成功させて天皇中心とした政治体制を作り上げたときの政権は、大化の薄葬令・喪葬令皇都条などを定めて、遺体の葬送に一定の制限をかけて簡略化する政策をとります。

この政策は、その後も脈々と受け継がれ、平安遷都後も同様の考え方によって葬送が行われます。

その結果、平安時代の京では、人が亡くなった場合、そのまま市中に遺体を野晒しにして、風葬(遺体を埋葬することなく放置して風化を待つ)によって見送るというのが一般的でした。

その理由は、三位以上の身分ある者しか墓を造ることが許されなかったために土葬は困難であり、また経済力のない一般人の遺体を焼き尽くすために相当量の木材を費やして火葬する余裕もなかったからです。遺体を鳥が啄むことから、鳥葬とも呼ばれる方法でした。

当初はそれほど問題とならなかった風葬でしたが、平安京が発展して人口が10万人を越えてくると、それに応じて遺体の数も急増し、腐敗した遺体が溢れて平安京内に伝染病や害虫を流行させるという大問題を発生させます。

そこで、平安京内で遺体を放置しておくことは妥当でないとして、遺体を平安京の外に運び出して葬送するという判断がなされます(言葉悪く言うと、遺体を平安京の外に捨てに行くのです。)。

平安京三大葬送地の所在

この葬送の場として選ばれたのが、いわゆる「野」と呼ばれる場所でした。

「野」とは、聖域であった「山」と、生活空間であった「里」との間に位置する中間領域としての山麓の傾斜地を意味します。

このとき、遺体の葬送地として複数の「野」が選定され、それぞれが葬送地となっていきました(そのため、京都で「野」といえば葬送地といわれるようになります。)。

そして、その中でも、西側の化野(あだしの)、東側の鳥辺野(とりべの)、北側の蓮台野(れんだいの)という3つが主要葬送場所とされました。

三大葬送地のつながり

そして、これらの葬送地は全て地底でつながっていると考えられ、平安時代初期に、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたと言われる小野篁は、冥府との往復に井戸を使っていたと言われています。

この井戸は、入口は六道珍皇寺にある井戸(死の六道)、出口は嵯峨・福正寺にあった井戸(生の六道)であると言われています。

化野について

前記のとおり、化野は、平安京の西側に設けられた葬送地であり、また三大葬送地の1つとして長年に亘って多くの遺体が放置されていった場所でした。

この結果、平安時代の人々は、葬送地となった化野を死者の住まう土地である「あの世」、そこより内側(東側)は生者の住まう土地である「この世」と考えました。

そして、その境目である鳥辺野の入口を「あの世」と「この世」の境目と考え、この境目の場所を六道(仏語で衆生が生前に業因により生死を繰り返す地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上との6つの世界)へ通じる道の分かれる場所と考えたのです。

そして、「あの世」と「この世」の境目である化野の入口周辺に結界となるべきいくつもの仏堂が建立されていきました。

そのうちの1つが、弘仁2年(811年)に同地に野ざらしになっていた遺骸を埋葬して供養のために弘法大師空海が千体の石仏を埋めた上で五智如来の石仏を建てて五智山如来寺を建立したとされる化野念仏寺であり、同寺は現在も同地に存在しています。

他方、同地に創建され、小野篁が冥府からの出口に利用していたとされる井戸があったといわれる嵯峨・福正寺は、明治期に廃寺となって嵯峨薬師寺に合併されたために失われています。(福正寺を吸収した名残として、嵯峨薬師寺内に生の六道の石碑が建てられています。)。

なお、失われた福正寺自体は、元々大覚寺門跡(旧嵯峨門跡)の南側にあったとされ、その跡地は整備されて六道の辻の石碑が建てられていますので興味がある方は是非。

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