【守護大名と戦国大名の違い】

いずれも室町時代における軍事勢力の長の呼称である守護大名と戦国大名の違いを説明できますか。

学術的な細かい定義はおいておいて、ざっくり一言で行ってしまうと、室町幕府によって守護職任命されてその権威をもって分国を支配する者が守護大名であり、自らの軍事力・経済力によって領国を支配する者が戦国大名です。

イメージとしてはそれほど違いがないかのように思えてしまうのですが、権力の背景の違いから、大名の居住地・領国の実務支配者・居城の位置・国人に対する影響力の程度など、実際には多岐に亘る大きな違いが存在しています。

本稿では、この守護大名と戦国大名の違いについて、その成り立ちから簡単に説明したいと思います。

守護大名とは

鎌倉時代の守護

守護大名の起源は、文治元年(1185年)11月、源頼朝が自分に弓を引く源義経・源行家を追討するという名目の下(どこに逃げたかわからない源義経と源行家を探すという名目)で、後白河法皇から追討の院宣のみなならず、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に源頼朝の御家人により選任された国地頭の設置・任命権を得ることの勅許を受けたことに始まります(文治の勅許)。

この勅許は、朝廷を無視して軍事的圧力をもって土地を実効支配する根拠となり、武士による政治参加のきっかけとなりました。

そして、源頼朝は、このとき獲得した地頭設置権をさらに進め、地頭の中からその国の守護を兼任させ、大犯三カ条(大番催促、謀反人逮捕、殺害人逮捕)という警察業務を担当させます。

鎌倉幕府では、このときに任命することとなった守護について、その権能を御成敗式目にも規定し、朝廷が任命した国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じたため、守護(地頭)と国司による二元支配が始まりました。

もっとも、鎌倉時代の守護は、まだまだ警察権を有するだけの制限的な存在でしかありませんでした。

室町時代における守護権限拡大

鎌倉幕府が滅亡した後に成立した室町幕府は、鎌倉幕府の守護制度を継承した上で、さらにその権限を増大させます。

室町時代の守護も、当初は鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたのですが、正平元年/貞和2年(1346年)、分国の統治を安定させるため、室町幕府は刈田狼藉(武士間の土地紛争に際して所有主張のために田の稲を刈り取ること)の検断権と使節遵行権(幕府判決の強制執行)を新たに守護の職権に追加します。

また、正平7年/文和元年(1352年)、観応の擾乱の際の軍事兵粮の調達を目的として、荘園・国衙領から年貢の半分を徴収できるとする半済の権利が戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)の守護に与えられ、これが後に全国に広がり、さらに恒久化されました。

その後、正平23年/応安元年(1368年)、応安の半済令により、従来認められていた年貢の半分徴収だけでなく、守護による土地自体の半分割をも認めてしまいました。

この結果、大きな力を持った守護が、荘園・国衙領への侵出を開始するなどして、荘園領主らとの間で年貢納付の請負契約を結んで実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)なども行うようになっていきました。

そして、この守護請によって、守護は土地自体の支配権=下地進止権(下地権=年貢などの貢納物収受権、進止権=所職所領任命・改易没収権)を獲得していくこととなります。

守護の大名化

守護が、一円進止(下地権+進止権)となり土地や財産に対する私法的な処分権を行使するようになったため、室町幕府のみならず朝廷までもが、税(田の面積に応じた段銭、家屋毎の棟別銭など)の徴収を守護に任せるようになっていきます。

徴税権を獲得した守護の力は大きくなり、また守護が、幕府・朝廷とは別の自らが収受する税を賦課し始めたため、さらにその経済力が巨大化していきました。

以上の結果得られた経済力を基に軍事力を強化した守護は、強化された力を基に、それまで国司が管轄していた国衙の組織を吸収して国衙の在庁官人を被官(家臣)として組み込んで国衙領や在庁官人の所領を併合し、守護直轄の守護領を形成していくようになりました。

これらの強化された守護の権限は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なるものであり、室町期守護を指して守護大名と称してそれまでの守護と区別し、また守護大名による国内の支配体制を守護領国制と呼んでいます。なお、室町時代には、守護分国内の職務活動には「守護」、分国外や国政に関する活動には「大名」という文言が用いられており、その用語には明確な区別があったのですが、今日ではこれらをあわせて「守護大名」という呼称で使用するのが一般的です。

前記のとおり、土地支配権の根拠が室町幕府による守護職任命であったことから、これを獲得・維持するため、有力武士は領国ではなく京に住み込んで室町幕府に取り入ることが必要となります。

そして、必然的に幕府に近い人物が有利になるため、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選は、次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていくようになりました。

その結果、室町幕府に取り入ることに成功した一部の守護が巨大化し、室町時代中期頃までには、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名家・大内家・赤松家など数ヶ国を支配する者があらわれ始め、その大きな力をもって大名(守護大名)化していきます。

こうなると、室町幕府としても、これらの巨大な守護大名を無視して政治をすることが出来なくなり、幕政が守護大名による宿老会議によって進められるようになって室町幕府がいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになっていきます。

この守護大名の巨大化に抗う将軍として第6代室町幕府将軍・足利義教が誕生して将軍専制を進めようとしたのですが、嘉吉元年(1441年)6月24日に足利義教が赤松満祐により暗殺されると(嘉吉の乱)、室町幕府を指揮できる強いリーダーシップを持った将軍は現れなくなり、守護大名を抑えることができなくなっていきます。

守護大名の限界

もっとも、守護の権限にも限界がありました。

まずは、守護職が、室町幕府よる律令国単位の守護職任命をその権威の根拠としていたため、その支配範囲も任じられた令制国内に限られたことです(なお、室町幕府の任命による職責であるために守護分国が隣接している必要もありませんでした(例えば三管領の1つであった斯波家を例に挙げると、越前国・尾張国・遠江国というバラバラの地の守護を務めていました。)。

また、権威の根拠が室町幕府による守護任命であったことから、その権限を獲得するために守護が室町幕府に近い位置(京)に滞在している必要があります。

そのため、有力守護は幕府に出仕するために在京することが多く、領国には代官として国人や直属家臣である守護代を置いて政治を任せていました(なお、守護代もまた小守護代を置くことがあり、重層支配構造が形成されていました。)。

そのため、守護自身が分国に在留して地元の国人衆(小豪族)を束ねていくことまではでき得ず、これらの諸勢力と調整が必要となり、そのためには室町幕府の権威を借りる必要がありました。

国人衆は、「・・家」に従うのではなく、「・・国守護」に従っていたからです。

そのため、その権限がいかに大きくなろうとも、分国支配権が室町幕府による守護職任命という不安定な地位に依拠していることを不安視した守護大名たちは、これを安定的な支配権に変化させるために動き始めます。

前記のとおり、守護大名が不安定な立場にいる最大の理由が、分国に点在する国人衆が、「・・家」に従うのではなく「・・国守護」に従っているために支配力が完全ではないことにあります。

そこで、有力守護大名は、自らの地位を恒久的なものにするため、分国内の国人衆を「・・国守護」ではなく、「・・家」に従わせれば良いと考えます。

そして、有力守護大名達は、軍事力・経済力によって圧力をかけたり、血縁関係(一族の娘を嫁がせて一門家する)を結んだり、その居城を国府に近いその土地を象徴する場所に築いて特別感を演出したりする(六角家の観音寺城など)などのありとあらゆる手段を駆使して、分国内の国人を被官(家臣)にしていきました。

この動きを被官化といい、被官化が進むことによって守護大名は、土地の面でも人的面でも、分国の一円支配を強めていきました。

戦国大名とは

分国支配根拠が軍事力・経済力に変化する

国人衆の被官化を進めて守護大名の軍事力・経済力に基づいた分国支配が進んでくると、もはや土地支配のために室町幕府から守護職に任命してもらう必要性がなくなっていきます。

その結果、守護大名が京に滞在して室町幕府に接近する必要もなくなります。

そして、分国の支配力を高めるためにそれぞれの分国に移り住む必要が出てきます。

その結果、かつては在京していた守護大名達が、次々と分国に住み着くようになり、守護大名による国人支配がより強固なものとなっていきます。

他方、国人衆からすると直属の長が身近にいることとなってその行動が制限されることとなるため、その不満から国人一揆などが頻発するようになっていきます。

さらには、応仁の乱勃発前後の時期になると守護大名同士の紛争までもが勃発するようになっていきます。

下剋上の動き

以上の結果、一方では守護大名による国人への支配強化が行われ、他方では領国統治に失敗して実力をなくした守護大名が守護代・国人などにその地位を奪われて没落していくという動きを導きます。

そして、さらに時代が下ってくると、守護大名という肩書による統治力は意味を失い、実力者が分国を支配していくようになりますので、実力を維持した室町時代の守護大名から領国や家中の統一に成功した守護家が存在する一方で、守護代・その陪臣による下克上例、黒人が巨大化した例、幕府官僚や浪人から成り上がった下克上例、国司・公家から戦国大名化した例などが現れてくるようになります。

(1)守護大名から戦国大名化した例

宇都宮家・佐竹家・今川家・武田家・土岐家・六角家・大内家・大友家・島津家など

なお、守護大名家のうち近世大名として江戸時代まで存続できた家は、上杉家・結城家・京極家・和泉細川家・小笠原家・島津家・佐竹家・宗家の8家しかありません(室町時代末期に守護となった伊達家・毛利家を入れても10家のみです。)。

(2)守護代・その陪臣の下克上例

朝倉家・尼子家・長尾家・三好家・長宗我部家・神保家・波多野家・松永家・浅井家など

(3)国人が巨大化した例

毛利家・田村家・龍造寺家・筒井家など

(4)幕府役人・浪人の成り上がり例

後北条家・斎藤家など

(5)国司・公家からの転身例

北畠家・土佐一条家など

戦国大名化

実力により領国支配を勝ち得た守護大名・守護代・国人等は、さらに他の小勢力を吸収していって広範な領域を支配する存在へと進化し、また独自の軍事・外交行動を行ってさらなる領土拡大を進めていきます。

これらの実力による領土支配を勝ち得た存在をそれまでの守護大名と区別し、戦国大名(戦国とは古代中国の前漢時代に劉向著の戦国策に由来する呼び方であり、当時からそのように呼ばれていました。)と呼ぶようになりました。

そして、戦国大名の出現により、室町時代中期ごろからの時代を戦国時代と呼ぶようになりました。

また、戦国大名同士の戦いも頻発するようになって防衛力の強化も必要となっていったことから、その居城もそれまでの守護所から山上または山麓に移っていきました(山城)。

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