樟葉宮(くすはのみや)は、古墳時代に即位した大王(第26代)天皇である継体天皇が即位した宮殿です。
先代であった第25代武烈天皇が後継者なくして崩御されたため、越前国を治めていた継体天皇が次期大王(天皇)として迎えられることとなりました。
このとき、継体天皇は、越前国を出て当時の都であった大和国に向かっていたのですが、その道中で即位することとなり、即位をし、さらにその後4年間に亘って滞在した場所が河内国樟葉の樟葉宮です。
大和国に向かっていたのになぜ河内国樟葉で即位したのか、その後なぜ樟葉宮に4年間も滞在したのかなどの詳しいことはわかっていません。
また、樟葉宮跡地についても伝承地とされており、必ずしも正確とは言えないのかもしれませんが、古代を偲ぶ一助となればと思い、本稿では樟葉宮について簡単に紹介したいと思います。
【目次(タップ可)】
樟葉宮遷都に至る経緯
継体天皇の出自
樟葉宮は、継体天皇が第26代天皇として即位する際に使用した宮殿です。
継体天皇は、允恭天皇39年(450年)、応神天皇5世として近江国に生まれ、男大迹王・乎富等王(をほどのおほきみ、日本書紀)や袁本杼命(をほどのみこと、古事記)と呼ばれていたとされています。
もっとも、本稿では、便宜上「継体天皇」の表記で統一します。
成長した継体天皇は、越前国三国(日本書紀)または近江国(古事記)を治めていました。
第25代武烈天皇崩御
武烈天皇8年12月8日(507年1月9日)に25代武烈天皇が後継者なく崩御されます。
その結果、大連の大伴金村・物部麁鹿火や、大臣の巨勢男人らが協議し、丹波国桑田郡にいた第14代仲哀天皇の世であった倭彦王(やまとひこのおおきみ)を次期大王に推戴することに決めて倭彦王を迎えに行ったのですが、倭彦王が迎えの兵を見て恐れをなして逃亡し行方知れずとなってしまいました。
継体天皇が大和国へ向かう
困った群臣は、再協議を行い、応神天皇5世であった継体天皇を推戴することに決めます。
再び兵を引き連れて継体天皇の下へ赴いた群臣達は、継体天皇に対して大王への即位を求めます。
もっとも、継体天皇もまた兵を引き連れてやってきた群臣達に疑いを持ち、なかなか大王への即位に同意しませんでした。
その後、継体天皇の知人であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が、継体天皇に対して3日間かけて本意を詳細に説明した結果、継体天皇はようやく大王即位に同意し、ヤマト王権の中心地であった大和国へ向かって出発することとなりました。
樟葉宮遷都
樟葉宮の立地
越前国三国(または近江国)を出た後、ヤマト王権の中心地であった大和国に向かって南下していった継体天皇でしたが、直接大和国に入ることはせず、途中にあった河内国樟葉(現在の大阪府枚方市楠葉丘2丁目辺り)に居を構え、大王としての活動を開始します。
樟葉は、古くから「久須波の渡り」と呼ばれる渡場がある交易の要地であった上、古代官道である「山陽道」沿いにもあり、畿内と九州を連結するという軍事的にも要衝の地ではあったのですが、継体天皇が大王として赴任するため向かっていた大和王権の中枢とは遠く離れており、継体天皇が河内国に留まって同地で活動を始めた理由は明らかではありません。
この点については、大和国では武烈天皇崩御後の政治混乱があったためにそれに巻き込まれるのを嫌ったとする説や、大和国に継体天皇即位反対派がいたために大和国に入れなかったとする説、また継体天皇がヤマト王権とは無関係な地方豪族であり大和国を制圧する拠点としていたとする説(王朝交代説)などが存在しています。
なお、余談ですが、樟葉の名称の由来は、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の軍が戦に敗れて逃走するに際に川の渡りに殺到し、このとき逃げてきた兵士が糞を漏らして袴に付いた状態だったため、同地が「くそばかま」と呼ばれたことをきっかけとし、「くそばかま」が訛って「久須波(くすは)」になったとされています(古事記・崇神天皇条)。
楠葉宮遷都(507年)
いずれにせよ、継体天皇は、継体天皇元年(507年)2月4日、居を据えていた河内国樟葉において第26代天皇(大王)として即位します。
そのため、この河内国樟葉の地が、天皇の治める都となりました。
なお、第26代継体天皇は、第25代までの実在が疑われる天皇(大王)とは異なる記録上実在が間違いないとされる最初の天皇であり、以降に実在性が疑われる天皇が存在していないため、継体天皇から現在の皇室まではその系譜が繋がっていることはほぼ間違いないと考えられています。
樟葉宮廃都
樟葉宮廃都(511年10月)
樟葉宮で4年間過ごした継体天皇は、継体天皇5年(511年)10月に樟葉宮を出て、山背国・筒城宮(つつきのみや、現在の京田辺市辺り)に遷都します。
また、その後、継体天皇12年(518年)3月、山背国乙訓郡井乃内村・今里村の辺りの弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市北部と推定)に移った後、継体天皇20年(526年)9月13日、ようやく大和国に入り、磐余玉穂宮(現在の奈良県桜井市池之内辺り)に遷都したと言われています。なお、以上に対し、古事記には磐余玉穂宮で天下を治めたとのみ記載されているため、筒城宮・弟国宮は存在しておらず、樟葉宮から直接磐余玉穂宮に遷都した可能性も考えられます。
以上の結果、継体天皇元年(507年)に越前国を出た継体天皇がヤマト王権の中心地に入ったのは継体天皇20年(526年)であることとなり、到着までに20年もの期間を要したことになります。
そのため、継体天皇は、越前の国からヤマト王権に対して攻め入った豪族であり、ヤマト王権を打倒するまでに一進一退を繰り返した後(前線基地が樟葉宮・筒城宮・弟国宮)、20年かけてヤマト王権を制圧したとする説(王朝交代説)なども提唱されていますが正確なところは不明です。
樟葉宮跡地に交野天神社創建(787年)
山背国長岡京に遷都した後の延暦6年(787年)に、中国皇帝が毎年冬至に城の南に天壇を設けて天帝を祀る儀式をしていることにちなみ、桓武天皇が先帝である第49代光仁天皇を祀るための郊祀壇を樟葉宮跡地に設け(続日本紀・岩清水神宮縁起)、これが後に交野天神社(かたのあまつかみのやしろ/かたのてんじんじゃ)となりました。
そのため、樟葉宮跡地は、交野天神社の領域内に存在し続けており(末社貴船神社付近・大阪府枚方市楠葉丘2丁目付近)、同地には「史跡 継体天皇樟葉宮跡伝承地」と彫られた石碑が建てられています。