【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人

武田二十四将(たけだにじゅうししょう/たけだにじゅうよんしょう)は、後世に講談や軍記物語などの題材となった、武田信玄に仕えた武将のうち特に評価の高い24人を選んで付された武田家家臣団の呼称です。

武田信玄が生きていた時代にそのような名称があったわけではなく、江戸時代に軍記者などを基に抽出された武将の集合体であるため、その内容に確定性・客観性があるものではありません。

もっとも、この武田二十四将は、現在よりも往時に近かった江戸時代に武田家の主要家臣が誰であったかを推認させる資料となっており、その構成などは戦国最強武田軍の運用の一端を検討する素材として有用であると考えます。

そこで、本稿では、この武田二十四将について検討していきたいと思います。 “【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人” の続きを読む

【穴山信君(穴山梅雪)】駿河方面の外交官として活躍した武田御一門衆筆頭

穴山信君(あなやまのぶただ )は、甲斐武田家の家臣であった穴山氏7代当主であり御一門衆の筆頭でもあった武将です。

出生後に梅雪斎不白と号したため、穴山梅雪の名の方が知られているかもしれません。

武田信玄時代には、主に駿河方面の外交官として暗躍し、後に武田二十四将の一人に数えられる程の人物でした。

もっとも、武田信玄の死後に武田家を継いだ武田勝頼との関係が悪化し、織田信長の甲州征伐が始まると武田家から出奔して織田方に下ったことにより武田家滅亡のきっかけを作るに至っています。

その後、武田勝頼の死後に武田宗家を継ぐことを許されたのですが、本能寺の変の後に本拠地に戻ろうとする途中で落武者狩りによって命を落としたと言われています。 “【穴山信君(穴山梅雪)】駿河方面の外交官として活躍した武田御一門衆筆頭” の続きを読む

【奥平信昌】武田勝頼から長篠城を守り切った徳川家康の娘婿

奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は、織田徳川連合軍と武田勝頼軍とが戦った長篠設楽原の戦いのきっかけとなった長篠の戦いの渦中にいた戦国武将です。

長篠城主として周辺巨大勢力の中を巧みに生き抜いていた奥平家に生まれた奥平信昌は、徳川家康の長女・亀姫を室に貰い受けて重用されました。

もっとも、縁故で出世した人物ではなく、武田軍から長篠城を守り切ったり、武田遺領切り取りに尽力したり、京都所司代として安国寺恵瓊を捕縛したりするなど、数々の功を挙げた極めて有能な武将です。

その能力を評価され、初代上野小幡藩主、その後初代美濃加納藩主となり、10万石もの大領を得るという立身出世を果たした人物でもあります。 “【奥平信昌】武田勝頼から長篠城を守り切った徳川家康の娘婿” の続きを読む

【山県昌景】武田四天王の1人である赤備え2代目大将

山県昌景(やまがたまさかげ)は、武田信玄に仕えた譜代家老衆の1人で後代に武田四天王の一人に数えられる猛将です。

戦国最強の武田軍の中でさらに最強部隊である赤備えを率い、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われ敵に恐れられた武将でもあります。

武田信玄に寵愛されて武田軍の領土拡大に大きく貢献するも、武田信玄の死後には跡を継いだ武田勝頼に疎まれ悲しい最期を遂げています。 “【山県昌景】武田四天王の1人である赤備え2代目大将” の続きを読む

【武田信虎】甲斐国を統一し戦国最強武田軍の基礎を築いた武田信玄の父

甲斐国を統一し、甲府を建設した人物をご存知ですか。

武田信玄の父・甲斐武田宗家18代の武田信虎です。

武田信玄に追放された悲しい戦国大名というイメージが先行していますが、国をまとめ、都市を造り、優秀な人材を登用し、他国を攻略していくという偉業をなし、戦国最強武田家の礎を築いたを人物です。もっと評価されていい武将です。

本稿は、そんな武田信虎について見ていきたいと思います。 “【武田信虎】甲斐国を統一し戦国最強武田軍の基礎を築いた武田信玄の父” の続きを読む

【高坂昌信(春日虎綱)】海津城を上杉謙信から守り抜いた智将

武田信玄・武田勝頼に仕えた武田四天王の1人で、武田二十四将でもある高坂昌信(春日虎綱)。

武名高い武将が煌めく武田家中で、イマイチ戦功が見えにくい武将でもあります。

なぜ、高坂昌信が武田四天王で武田二十四将なのでしょうか。

実は、突出した守りの武将なのです。引き際も完璧で「逃げ弾正」とも呼ばれます。

以下、そんな高坂昌信(春日虎綱)の生涯について見ていきましょう。 “【高坂昌信(春日虎綱)】海津城を上杉謙信から守り抜いた智将” の続きを読む

【真田幸隆】攻め弾正と呼ばれた真田三代の祖

真田三代の祖である真田幸隆 。

息子・真田昌幸や孫・真田信繁と比べると知名度はやや落ちますが、活躍は全く劣りません。

外様(信濃衆)でありながら甲斐国譜代家臣同等の待遇を与えられた名将で、息子三人と共に武田二十四将にも数えられています。 “【真田幸隆】攻め弾正と呼ばれた真田三代の祖” の続きを読む

【飯富虎昌】甲山の猛虎と恐れられた初代赤備えの猛将

武田信虎・武田信玄親子の二代に亘って仕えた初代赤備えの猛将をご存知ですか。

敵から「甲山の猛虎」と恐れられた飯富虎昌です。

武田二十四将の1人として武田信玄の嫡男武田義信の傅役を任され、上田原の戦いで板垣信方・甘利虎泰が失われた後の武田家筆頭宿老として活躍した人物です。

もっとも、武田義信の傅役という立ち位置から、武田家の内紛に巻き込まれて悲しい最期を迎えます。

そんな悲劇の猛将、飯富虎昌の生涯について見ていきましょう。 “【飯富虎昌】甲山の猛虎と恐れられた初代赤備えの猛将” の続きを読む

【板垣信方】武田信玄の父とも言える初期武田四天王筆頭の猛将

戦国最強の誉れ高い甲斐武田家の筆頭家老として、武田信虎・武田信玄の2代に仕えた板垣信方(甲陽軍鑑では、板垣信形と記載されています。)。

優れた武将を多く抱える武田家の中でも特に優れた武将とされる武田二十四将に選ばれ、また初期の武田四天王の1人でもありました。

武田信玄の青年期を武田家最高職として支えた名将で、戦場では無類の強さを発揮しましたが、増長して悲しい最期を迎えた武将でもあります。 “【板垣信方】武田信玄の父とも言える初期武田四天王筆頭の猛将” の続きを読む

【おつやの方(岩村御前)】織田と武田の間で翻弄された岩村城の女城主

戦国時代の女城主と言えば誰を思い浮かべますか。

2017年度の大河ドラマ「おんな城主直虎」が放送されていたことから女城主=井伊直虎を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。

もっとも、戦国女城主は他にもいます。

本稿で紹介するのはそんな戦国女城主の中の1人で、織田家と武田家の間で翻弄され無残な最期を迎えることとなった「おつやの方」(艶、岩村殿、修理夫人、お直の方、岩村御前ともいわれます)について見ていきましょう。 “【おつやの方(岩村御前)】織田と武田の間で翻弄された岩村城の女城主” の続きを読む