【第46代孝謙天皇・第48代称徳天皇】道鏡を寵愛して皇統を危険に晒した女帝

孝謙天皇/称徳天皇(こうけんてんのう/しょうとくてんのう)は、聖武天皇と人臣史上初の皇后となった藤原氏出身の光明皇后との間に生まれた皇女であり、藤原氏の思惑により日本史上唯一の女性皇太子となり、その後即位した史上6人目の女性天皇です。

孝謙天皇として即位したのですが、即位後は、光明皇后とその甥である藤原仲麻呂の傀儡として扱われました。

その後、藤原仲麻呂の意を受けて、一旦は淳仁天皇に譲位して太上天皇となったのですが、光明皇后が死亡すると道鏡と協力して藤原仲麻呂を討伐します(藤原仲麻呂の乱)。

その後、称徳天皇として重祚すると、政敵を次々と粛清して強い権力を握り、その権力を女性として入れ上げていた道鏡に譲ろうとして奔走します。

もっとも、この計画は、和気清麻呂の手により失敗に終わり(宇佐八幡宮神託事件)、称徳天皇は失意の中で崩御されました。

なお、称徳天皇の死後、皇位が天智天皇系の光仁天皇が即位したため、称徳天皇は天武系最後の天皇となっています。

孝謙天皇の出自

出生(718年)

孝謙天皇は、養老2年(718年)、第45代天皇である聖武天皇と、藤原氏出身で人臣からの史上初の皇后である光明皇后(光明子)との間に生まれた女性です。

阿倍氏に養育されたため諱は阿倍とされ、即位前の名は阿部内親王といいました。

立太子(738年1月13日)

聖武天皇と光明皇后の間にはなかなか男児が生れず、神亀4年(727年)閏9月29日に待望の第1皇子・基王が誕生したのですが、翌神亀5年(728年)9月13日に薨御されました。

そして、その後、聖武天皇と光明皇后の間に男児が生まれることはありませんでした。

これに対し、聖武天皇は、県犬養広刀自との間に第2皇子である安積親王を儲けたのですが、藤原氏以外の女性を母とする天皇誕生を嫌った藤原氏が安積親王の即位を封じるため、天平10年(738年)1月13日に阿倍内親王を立太子させました。

藤原氏の影響下にある男性天皇輩出までの中継ぎ天皇とする予定だったのですが、日本史上唯一の女性皇太子が誕生するという異例の事態でした。

安積親王の不審死(744年閏1月13日)

阿倍内親王が皇太子となった後も、女性皇太子であることを懸念し、聖武天皇の第2皇子であった安積親王を次期天皇に推す声がありました。

ところが、安積親王は、天平16年(744年)閏1月11日に難波宮に行啓する途中の桜井頓宮で脚気になり、急ぎ恭仁京に引き返すこととなったのですが、そのわずか2日後である同年閏1月13日に17歳で死去するという事件が起こります。

この安積親王の急死は極めて不自然であり、安積親王の即位を封じるために藤原仲麻呂に毒殺されたという説が強いのですが真偽は不明です。

いずれにせよ、安積親王の急死により聖武天皇に男子がいなくなったため(異母姉妹である井上内親王・不破内親王あり)、阿倍内親王の次期天皇即位は確定事項となりました。

孝謙天皇治世(藤原仲麻呂の傀儡時代)

孝謙天皇即位(749年7月2日)

天平勝宝元年(749年)7月2日、聖武天皇から譲位される形で阿倍内親王が孝謙天皇として即位します。なお、真偽は不明ですが、この譲位は、聖武天皇が独断で出家したことにより天皇位が空位となり、慌てた朝廷が急ぎ譲位手続を行ったとする説もあります。

女性天皇として即位した孝謙天皇ですが、即位直後から母である光明皇后がその後見人として君臨します。

そして、光明皇后は、甥にあたる藤原仲麻呂を、皇后宮職を改組した紫微中台の長官に任命したことから、以降、藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大します。

藤原仲麻呂の権勢増強

天平勝宝8歳(756年)5月2日、父である聖武上皇が、新田部親王の子(天武天皇の孫)である道祖王を皇太子とする遺詔を残して崩御されます。

ところが、藤原家の手から権力がこぼれ落ちることを嫌った藤原仲麻呂は、天平勝宝9歳(757年)3月に、孝謙天皇に圧力をかけ、道祖王にふさわしくない行動があるとして皇太子から廃し、藤原仲麻呂の長男であった真従(故人)の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、藤原仲麻呂の私邸に住んでいた舎人親王の子である大炊王を新たな皇太子として立太子させます。

橘奈良麻呂の乱

以上のように、藤原仲麻呂が、光明皇后を通じて孝謙天皇を操ることによって権力を強めていきます。

これに対し、天平勝宝9年(757年)6月29日、藤原仲麻呂への権力集中に危機感を持った橘奈良麻呂・大伴古麻呂・小野東人・黄文王・安宿王ら20名ほど集まり、孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画します。

もっとも、密告によりこのことを事前に察知した藤原仲麻呂が先手を打ち、クーデター計画者たちを次々と逮捕して厳しい拷問を経た上で厳しい処分を下します(橘奈良麻呂の乱)。

この橘奈良麻呂の乱により政敵を一掃した藤原仲麻呂は、さらに権勢を強め、もはや朝廷内に反対する勢力がいなくなります。

太上天皇時代

淳仁天皇に譲位(758年8月1日)

政権を完全に掌握した藤原仲麻呂は、天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇を病気の光明皇太后に仕えさせることを理由として孝謙天皇を譲位させ、これを受ける形で大炊王を第47代淳仁天皇として即位させます。

この結果、太上天皇となった孝謙上皇には「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后には「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られ、また同年8月9日には亡聖武天皇にも「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が贈られます。

藤原仲麻呂が恵美押勝に改名

そして、藤原仲麻呂は、淳仁天皇から、「恵美」の名字と「押勝」の名が与えられ、藤原朝臣恵美押勝と称するようになります。

また、恵美押勝(藤原仲麻呂)は、淳仁天皇から貨幣鋳造権も与えられるなどしてさらなる権勢を振るい、官庁を唐風に改名する(官職の唐風改称)などの独自の政治改革を行っていきます。

なお、天平宝字3年(759年)、光明皇太后が淳仁天皇の父である舎人親王に尊号を贈ることを提案し、淳仁天皇はこのことを孝謙上皇に相談したところ、孝謙上皇は皇太后に対して辞退する奏上を行うよう助言をします。

これを受け、光明皇太后が孝謙上皇に対して再三申入れを行い、ようやく舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号が贈られることになったいきさつがあり、淳仁天皇治世において孝謙上皇の影響力が大きく残っていいたこともわかっています。

また、天平宝字4年(760年)1月4日、恵美押勝(藤原仲麻呂)が人臣初の太師(太政大臣)に任命されることとなったのですが、これは孝謙上皇が淳仁天皇や百官が同席する場で突然その旨を宣言し、淳仁天皇がこれを追認の形で任命されることとなったものであり、律令上大臣任命権限をもたないはずの孝謙上皇がいまだに強い影響力を持っていたことが明らかとなっています。

光明皇太后崩御(760年7月16日)

以上のとおり、譲位後も恵美押勝(藤原仲麻呂)と良好な関係を続けていた孝謙上皇でしたが、天平宝字4年(760年)7月16日、母である光明皇太后が崩御すると、その甥である恵美押勝(藤原仲麻呂)や淳仁天皇との関係性が微妙なものとなっていきます。

もっとも、当初はまだ関係性は続いており、このころ行われていた平城宮の改修工事に際し、孝謙上皇・淳仁天皇らが同年8月に小治田宮に、天平宝字5年(761年)に保良宮に移るなど行動を共にしています。

道鏡と出会う(761年)

もっとも、ここで、孝謙上皇に淳仁天皇・恵美押勝との関係性を一気に悪化させる出会いがあります。

保良宮滞在中、孝謙上皇は病を患って病に伏せたのですが、その孝謙上皇に対し、弓削道鏡が看病禅師(祈りをささげて看病する役職)としてつきっきりでその看病にあたります。

道鏡は、呪術を学び梵字が読めるなどしていたため、様々な分野の知識を持つ極めた優秀な人物であったようで、すぐさま孝謙上皇の心を掴みます。

道鏡の看病のかいもあって病が寛解すると、孝謙上皇は、自分の看病に尽力してくれた道鏡を寵愛するようになります。

孝謙上皇と淳仁天皇との関係悪化

もっとも、孝謙上皇が道鏡に入れあげてしまったことを目にした淳仁天皇は、孝謙上皇に対して、道鏡との関係をたしなめる行為に及びます。

未婚天皇としての役割を終え、上皇として恋愛を楽しんでいた孝謙上皇は、その関係に口を出されたことに激怒・反発し、淳仁天皇への敵対心を示し始めます。

その後、平城宮の改修が終わり保良宮から平城宮に戻ることとなったのですが、淳仁天皇は、天平宝字 6年(762年)5月23日に平城宮・中宮院に戻ることとしたのに対し、淳仁天皇と共に行動することを嫌った孝謙上皇は平城宮に戻ることなく出家して法華寺に入ってしまいました。

孝謙上皇による政治関与

淳仁天皇を嫌った孝謙上皇は、淳仁天皇から政治権力の取り戻しのための行動を始めます。

まず、孝謙上皇は、天平宝字6年(762年)6月3日、五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることを理由として仏門に入って別居すると表明し、さらには国家の大事である政務を自分が執ると宣言します(続日本紀にも、「高野天皇、帝と隙あり」と記されるなど両者の不和が表面化しています。)。

そして、この後、孝謙上皇派の道鏡や吉備真備などが要職に就く一方で、恵美押勝の子供達が軍事権を掌握するなどし、孝謙上皇派と淳仁天皇(恵美押勝)派との勢力争いが繰り広げられていきます。

藤原仲麻呂の乱(764年9月)

天平宝字8年(764年)6月、授刀衛の責任者である授刀督を兼ねていた恵美押勝の娘婿であった藤原御楯が急死すると、孝謙上皇側が授刀督への影響力を強めてこれを掌握し、孝謙上皇方の軍事主力部隊として再編成してしまいます。

焦った恵美押勝は、同年9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」の職を得て600人の兵を動員し、軍事力をもって孝謙上皇側から政権を奪取しようと考えます。

もっとも、密告により恵美押勝のクーデター準備を知った孝謙上皇は、同年9月11日、淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収して恵美押勝を朝敵に仕立て上げます。

鈴印を奪還しようとして兵を挙げた恵美押勝は、太政官印を奪取して近江国に逃走した後、同年9月13日に琵琶湖上で捕らえられ、石村石楯により殺害されました(藤原仲麻呂の乱)。

乱の事後処理

藤原仲麻呂の乱に勝利した孝謙上皇は、天平宝字8年(764年)9月14日に左遷されていた藤原豊成を右大臣に、同年9月20日に道鏡を大臣禅師に任命するなどして政権の再編成を行います。

また、同年9月22日、恵美押勝に仲麻呂により変えられていた官庁名をかつてのものに復すなどの政治改革を行います。

さらに、

同年10月9日、淳仁天皇を廃し、大炊親王とした上で淡路国に流刑としてしまいます。

称徳天皇治世

称徳天皇として重祚(764年10月9日)

孝謙上皇は、天平宝字8年(764年)10月9日、淳仁天皇を廃したことに空位となった皇位を事実上承継し、重祚して称徳天皇となります。なお、称徳天皇は、日本史上唯一出家状態のまま即位した天皇です。

もっとも、未婚で子を持たない称徳天皇は直系の次期天皇候補者を有していなかったため、ふさわしい人物が現れるまで皇太子は決められないこととなりました。

称徳天皇による道鏡寵愛

称徳天皇は、天平神護元年(765年)に行われた紀伊行幸に際し、道鏡の故郷である河内弓削寺に行宮を設けて行幸するなどしています。

そして、称徳天皇は、弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、道鏡に対して、臣下が行うことはずのない群臣拝賀を行わせるなどの天皇に準じた待遇を与えます。

また、称徳天皇は、弓削寺の行宮を拡張し、同地に平城京の離宮としての由義宮の建設を始めます。

さらに、称徳天皇は、天平神護2年(766年)10月、海龍王寺で仏舎利が出現したことを理由として、道鏡を法王に任じてしまいます。

称徳天皇が道鏡を法王に任命した意味は、世俗は天皇、仏門は法王がそれぞれ支配するということとし、日本を称徳天皇と道鏡の二頭政治体制で支配していこうという意思表示でした。

称徳天皇と道鏡の二頭政治体制確立

法王となって仏教界のトップに君臨することとなった道鏡の下には法臣・法参議という僧侶大臣職が設置され、道鏡の力がさらに増大していきます。

また、称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡が度々政治に介入するに至り、他方で、称徳天皇は、その後も仏教重視の政策を推し進め、次々と大寺への行幸を繰り返したり、西大寺の拡張や西隆寺の造営をしたり、百万塔の製作を行うなどを行っていきます。

以上の経過を経て、称徳天皇・道鏡の二頭体制が確立されていきました。

称徳天皇による政敵粛清

また、称徳天皇と道鏡は、自分達の政敵となりうる人物を粛清するため、些細なことを理由として厳しい刑罰を課していきます。

具体的には、天平神護元年(765年)の和気王処刑、同年10月23日の淡路に流された廃帝(淳仁天皇)の謎の死、神護景雲3年(769年)5月の異母妹・不破内親王の改名の上での皇籍剥奪など、皇族に対する粛清を含め、次々と政敵の粛清が行われていきました。

このうちの多くは、冤罪であった可能性が示唆されています。

これに対し、称徳天皇の異母妹である井上内親王を妻としていた中納言・白壁王(後の光仁天皇)などは、称徳天皇の嫉視を警戒し、酒に溺れた振りをして害がないことを装い、粛清を逃れようとする努力をしていました。

宇佐八幡宮神託事件(769年)

(1)1つ目の神託(769年5月)

以上の経過を経て次々と政敵となりうる人物を葬っていった称徳天皇と道鏡は、遂に、独身であり子もいなかった称徳天皇の次期天皇として道鏡を天皇として即位させるために動き始めます。

称徳天皇と道鏡は、道鏡を天皇にするため、神護景雲3年(769年)5月、大宰帥の弓削浄人(道鏡の弟)と大宰主神の習宜阿曾麻呂に、宇佐八幡大神より「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」とのお告げがあったとの奏上をさせます。

(2)2つ目の神託(769年8月)

その上で、称徳天皇は、真相を確認するためとして法均(和気広虫)を宇佐八幡宮に派遣させる形を取ろうとしたのですが、法均が、体が弱く九州までの長旅にたえられないとしてこれを断ったため、代わりにその弟である和気清麻が派遣されることとなりました。

神護景雲3年(769年)8月に宇佐八幡宮に参宮した和気清麻呂は、身の丈三丈(約9m)の僧形をした大神から、「わが国は開闢以来、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という神託を受け取ります。

和気清麻呂は、この神託を持って帰り、称徳天皇にその結果を報告したのですが、これは道鏡に譲位してはならない=1つ目の神託が虚偽のものであるということを意味するものであったため、道鏡に譲位しようとしていた称徳天皇の怒りを買います。

怒った称徳天皇は、和気清麻呂の名を「別部穢麻呂(わけべ のきたなまろ)」と改名させた後、因幡員外介に左遷したのち、さらに足の腱を切って歩けないようにした上で大隅国へ配流処分とします。

また、和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣させるきっかけとなった姉である法均についても、還俗させた上で「別部広虫売(わけべの ひろむしめ)」と改名させています。

もっとも、この和気清麻呂の行為は、皇統の危機を防いだものとして後世高く評価され、皇居外苑にも銅像が建てられています(僅か2体しか建てられていないうちの1体です、ちなみにもう1体は楠木正成。)。

また、その功績を称え、戦前には複数回に亘って10円札の肖像画として使用されるなどされています。

(3)道鏡への譲位を断念

和気清麻呂が持ち帰った神託により道鏡への譲位が不可能となったため、称徳天皇は、神護景雲3年(769年)10月1日、皇族や諸臣らに対して詔を発し、聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならず、次期皇位継承者は称徳天皇自らが改めて決定すると表明することとなりました。

称徳天皇の最期

称徳天皇発病(770年3月)

道鏡に譲位する計画に失敗した称徳天皇は、神護景雲3年(769年)10月、道鏡を伴い、その故郷に造営した由義宮に行幸して同地を西京とする旨を宣言します。

また、称徳天皇は、神護景雲4年(770年)2月に再び由義宮に行幸することとなったのですが、同年3月半ばに病に倒れ、病臥することとなりました。

道鏡の権力低下

もっとも、このとき、称徳天皇の看病により再び道鏡が政治の世界に返り咲くことを嫌った群臣たちは、称徳天皇の看病をすべき人物を吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)のみに制限し、道鏡を称徳天皇に近づけませんでした。

この結果、道鏡は、称徳天皇の後ろ盾を失った結果、太政官(藤原永手・吉備真備ら)に軍事指揮権までも奪われてその権力はたちまち衰えます。

称徳天皇崩御(770年8月4日)

その後、称徳天皇は、宝亀元年(770年) 8月4日、平城宮西宮寝殿で崩御します。宝算は53歳でした。

死後、漢風諡号として孝謙天皇(第46代)・称徳天皇(第48代)、和風諡号として高野姫天皇の名が贈られました。

称徳天皇は生涯独身であり(当時の女性天皇は全て未婚か未亡人という独身女性でした)、子を儲けることがなく、また皇太子も定めていなかったため、次期天皇を誰にするかが問題となりました。

光仁天皇即位(770年10月1日)

そのため、称徳天皇崩御後、群臣が集まって次期天皇を誰にするのかの評議が始まります。

このとき、吉備真備は文室大市・文室浄三を推し、藤原氏(藤原永手・藤原百川・藤原宿奈麻呂ら)は白壁王を推したとされています(「藤原百川伝」(日本紀略・扶桑略記の引用))。

評議は紛糾しなかなか結論が出なかったのですが、ここで藤原永手らが、白壁王を後継として指名する称徳天皇の「遺宣」があると言い出してこれを読み上げた結果(続日本紀・宝亀元年八月癸巳条)、次期天皇が白壁王に決まります。なお、このとき読み上げられた遺詔は偽造されたものであったといわれています。

こうして白壁王は、宝亀元年(770年)10月1日、光仁天皇として即位することとなりました。

この光仁天皇の即位は、それまでの天武天皇系から、天智天皇系への系統変更という歴史の分岐点となりました。

なお、称徳天皇の死により完全に失脚した道鏡は、宝亀元年(770年)8月21日の白壁王の令旨により皇位をうかがったことを理由として薬師寺別当として下野国に左遷されています。

称徳天皇陵への疑問点

亡くなった称徳天皇は、陵に葬られることとなったはずであり、その陵は、宮内庁によって墳丘長127mの前方後円墳である高野陵(遺跡名「佐紀高塚古墳」、現在の奈良市山陵町)に治定されています。

もっとも、8世紀・奈良時代の称徳天皇の陵が、佐紀盾列古墳群を構成する前方後円墳であるとされていることに強い疑問を呈されています。

余談(以降の女性天皇忌避)

皇による愛憎劇により皇位が危険に晒されたことへの反省として、称徳天皇以降、長きに亘って女性天皇が忌避されることとなりました。

称徳天皇の次に女性天皇が立てられたのは、第109代明正天皇(在位:1629年 – 1643年)まで850余年もの時代を経ることとなりました。

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