江戸時代以降の日本で宗教戦争が起きなくなった理由とは

現在の日本では、宗教との関わりが希薄と言われており、確固たる信仰を持っている人はそう多くはありません。

そのため、その多くが仏教徒とされる日本人も、冠婚葬祭などでお坊さんに接するくらいしか宗教に関わり合いがなく、またお坊さんの姿から宗教に平和的イメージを持つ人が多いのではないでしょうか。

このイメージは、江戸時代以降の僧が丸腰であり、軍事力・武力をもって物事を解決しようとしていないために宗教が平和的な存在であるかのように見えているのですが、歴史的に見ると全くそのようなことはありません。

むしろ、歴史的に見ると、日本の宗教においては何度も宗教戦争が起こり、これまでに多くの血が流れているのです。

現在の平和的イメージは、宗教団体を無力化させた戦国武将と、再びそのような事態に陥らないようにするために考えられた対応策の結果なのです。

本稿では、これらの宗教戦争の歴史と、江戸時代以降にこれらが封じられるに至った経過について見ていきたいと思います。 “江戸時代以降の日本で宗教戦争が起きなくなった理由とは” の続きを読む

【日本三大石鳥居】日光東照宮一之鳥居・八坂神社旧三之鳥居・鶴岡八幡宮一之鳥居

日本三大石鳥居とは、日本全国に点在する石造鳥居の中で、さらに歴史のある大きな3つの鳥居をいいます。

古来より「三大・・」が好きな日本人は、平和になって庶民が旅行をする余裕が出来始めた江戸時代になると、石鳥居についても日本三大石鳥居と称してランク付けをしてきました。

誰がどういう根拠で定めたのかは知りませんが、日光東照宮・一之鳥居、八坂神社・旧三之鳥居、鶴岡八幡宮・一之鳥居が日本三大石鳥居とされるのが一般的ですので、それぞれ簡単に説明したいと思います。

なお、いずれもあまりにも大きな鳥居であるため、その柱に切れ目があり、二つの石をつなぎ合わせて造られています。 “【日本三大石鳥居】日光東照宮一之鳥居・八坂神社旧三之鳥居・鶴岡八幡宮一之鳥居” の続きを読む

【琵琶湖疏水の扁額一覧】疏水工事関与者・明治元勲の揮毫

明治維新後の東京奠都に伴って人口が激減した京の復興策として行われた巨大プロジェクトが琵琶湖疏水です。

明治22年(1889年)に水運・灌漑・上水道・水車動力の源泉として第1疏水が完成して京の復興に大きく寄与し、その後、この大成功を受けて延伸工事や第2疏水工事などが進められていきました。

これらの琵琶湖疏水が京経済に寄与した功績を讃え、疏水流域には、疏水工事関与者・当時の元勲によって書かれたありがたいお言葉が扁額として掲げられることとなりました。

現在では、疎水流域が散歩道となっていますので、歩きながら、また第1疏水を運行する観光船に乗りながらこれらの扁額を見ることができますので、以下、観光の一助として琵琶湖疏水の簡単な歴史と掲げられている扁額の位置及びその内容を紹介したいと思います。 “【琵琶湖疏水の扁額一覧】疏水工事関与者・明治元勲の揮毫” の続きを読む

【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人

武田二十四将(たけだにじゅうししょう/たけだにじゅうよんしょう)は、後世に講談や軍記物語などの題材となった、武田信玄に仕えた武将のうち特に評価の高い24人を選んで付された武田家家臣団の呼称です。

武田信玄が生きていた時代にそのような名称があったわけではなく、江戸時代に軍記者などを基に抽出された武将の集合体であるため、その内容に確定性・客観性があるものではありません。

もっとも、この武田二十四将は、現在よりも往時に近かった江戸時代に武田家の主要家臣が誰であったかを推認させる資料となっており、その構成などは戦国最強武田軍の運用の一端を検討する素材として有用であると考えます。

そこで、本稿では、この武田二十四将について検討していきたいと思います。 “【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人” の続きを読む

【第46代孝謙天皇・第48代称徳天皇】道鏡を寵愛して皇統を危険に晒した女帝

孝謙天皇/称徳天皇(こうけんてんのう/しょうとくてんのう)は、聖武天皇と人臣史上初の皇后となった藤原氏出身の光明皇后との間に生まれた皇女であり、藤原氏の思惑により日本史上唯一の女性皇太子となり、その後即位した史上6人目の女性天皇です。

孝謙天皇として即位したのですが、即位後は、光明皇后とその甥である藤原仲麻呂の傀儡として扱われました。

その後、藤原仲麻呂の意を受けて、一旦は淳仁天皇に譲位して太上天皇となったのですが、光明皇后が死亡すると道鏡と協力して藤原仲麻呂を討伐します(藤原仲麻呂の乱)。

その後、称徳天皇として重祚すると、政敵を次々と粛清して強い権力を握り、その権力を女性として入れ上げていた道鏡に譲ろうとして奔走します。

もっとも、この計画は、和気清麻呂の手により失敗に終わり(宇佐八幡宮神託事件)、称徳天皇は失意の中で崩御されました。

なお、称徳天皇の死後、皇位が天智天皇系の光仁天皇が即位したため、称徳天皇は天武系最後の天皇となっています。 “【第46代孝謙天皇・第48代称徳天皇】道鏡を寵愛して皇統を危険に晒した女帝” の続きを読む

本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?

戦国時代で最も有名な事件といえば「本能寺の変」です。

天下統一を目前にした織田信長が、天正10年(1582年)6月2日、家臣である明智光秀の謀反により横死したという事件であり、教科書はもちろん映画・小説・ドラマなどでも何度も紹介される日本人なら誰でも知っている大事件です。

明智光秀の謀反理由は不明であり、現在まで明らかとなっていないことから様々な説が唱えられています。

他方、あまり話題になっていないことがあります。

それは、数ある京の寺院の中で、発生場所がなぜ「本能寺」だったのかということです。

当時の本願寺は不便な下層エリアに位置しており、一応の防衛構造を持ってはいたものの織田信長が寝所にするには不安がある場所だったこともあり、実は織田信長が本能寺にいたのは偶然だったのです。

以下、本能寺の変の際に織田信長が本能寺にいた理由について簡単に説明します。 “本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?” の続きを読む

【本願寺の歴史】成立から東本願寺と西本願寺に分かれるまでの経緯

本願寺は、親鸞が開いた鎌倉仏教の1つである浄土真宗(ただし、浄土真宗の宗旨名が用いられるようになったのは親鸞没後)の寺院です。

日本最大の信者を持つ仏教宗派の中心寺院なのですが、元々は貧乏寺院であった上、建立しては破却されるという苦難を経て京都に辿り着いた歴史があります。

また、ようやく京都に辿り着いた後も、豊臣・徳川の争いに巻き込まれて東西に分裂し現在に至っています。

本稿では、現在に至る本願寺の歴史について簡単に説明していきたいと思います。

なお、当ブログは歴史ブログであり、また筆者は宗教家ではないため、教義や作法など宗教的な内容はわかりませんので、その旨ご了承下さい。 “【本願寺の歴史】成立から東本願寺と西本願寺に分かれるまでの経緯” の続きを読む

【化野】平安京西側にあった三大葬送地の1つ

化野(あだしの)は、京都嵯峨の奥に位置する小倉山麓手前の緩やかな傾斜地です。

仇野・徒野とも書かれます。

かつて平安京三大葬送地の1つとして多くの遺体が葬送された場所でした。

化野を詠んだ歌も数知れずあり、その名は「無常の野」の意として人の世のはかなさの象徴としても用いられた場所でもありました。 “【化野】平安京西側にあった三大葬送地の1つ” の続きを読む

【守護大名と戦国大名の違い】

いずれも室町時代における軍事勢力の長の呼称である守護大名と戦国大名の違いを説明できますか。

学術的な細かい定義はおいておいて、ざっくり一言で行ってしまうと、室町幕府によって守護職任命されてその権威をもって分国を支配する者が守護大名であり、自らの軍事力・経済力によって領国を支配する者が戦国大名です。

イメージとしてはそれほど違いがないかのように思えてしまうのですが、権力の背景の違いから、大名の居住地・領国の実務支配者・居城の位置・国人に対する影響力の程度など、実際には多岐に亘る大きな違いが存在しています。

本稿では、この守護大名と戦国大名の違いについて、その成り立ちから簡単に説明したいと思います。 “【守護大名と戦国大名の違い】” の続きを読む

【樟葉宮】大阪府枚方市にあった継体天皇即位宮殿跡

樟葉宮(くすはのみや)は、古墳時代に即位した大王(第26代)天皇である継体天皇が即位した宮殿です。

先代であった第25代武烈天皇が後継者なくして崩御されたため、越前国を治めていた継体天皇が次期大王(天皇)として迎えられることとなりました。

このとき、継体天皇は、越前国を出て当時の都であった大和国に向かっていたのですが、その道中で即位することとなり、即位をし、さらにその後4年間に亘って滞在した場所が河内国樟葉の樟葉宮です。

大和国に向かっていたのになぜ河内国樟葉で即位したのか、その後なぜ樟葉宮に4年間も滞在したのかなどの詳しいことはわかっていません。

また、樟葉宮跡地についても伝承地とされており、必ずしも正確とは言えないのかもしれませんが、古代を偲ぶ一助となればと思い、本稿では樟葉宮について簡単に紹介したいと思います。 “【樟葉宮】大阪府枚方市にあった継体天皇即位宮殿跡” の続きを読む