【武田信虎】甲斐国を統一し戦国最強武田軍の基礎を築いた武田信玄の父

甲斐国を統一し、甲府を建設した人物をご存知ですか。

武田信玄の父・甲斐武田宗家18代の武田信虎です。

武田信玄に追放された悲しい戦国大名というイメージが先行していますが、国をまとめ、都市を造り、優秀な人材を登用し、他国を攻略していくという偉業をなし、戦国最強武田家の礎を築いたを人物です。もっと評価されていい武将です。

本稿は、そんな武田信虎について見ていきたいと思います。

武田信虎による甲斐国武田宗家の掌握

武田信虎出生(1494年または1498年)

武田信虎は、明応3年(1494年)1月6日【甲陽軍鑑】、または明応7年(1498年)の1月6日【高白斎記(甲陽日記)・大井俣神社本紀】、甲斐国守護である名門清和源氏(甲斐源氏)武田氏の第17代当主・信縄の嫡男として、当時の甲斐武田家の本拠地・川田館で生まれます。

初名は信直(のぶなお)といいましたが、本稿では、便宜上「信虎」で統一します。

武田家内の騒動

武田信虎が産まれたころ、武田家は武田信虎の父・17代武田信縄が継いでいましたが、祖父である16代武田信昌が実質上の権力を掌握しており、武田信縄と武田信昌の親子仲は悪かったと伝えられています。

実際、武田信昌は、17代・武田信縄の次には、武田信虎ではなく、武田信縄の弟(武田信虎の叔父)である油川信恵に家督を継がせようと画策する程でした。

そのため、武田家内では、兄・武田信縄派と弟・油川信恵派に分かれて諍いが起こります。

この騒動は、甲斐国国人衆らの分断を招いただけでなく、対外的勢力も巻き込みます。

具体的には、武田信縄は、足利茶々丸・山内上杉氏らと結び、また油川信恵は駿河国の今川氏親・伊豆国の伊勢宗瑞らと結ぶなどして対立したため情勢が混乱し、武田家の権力基盤も安定しませんでした。

その後、明応7年(1498年)8月25日に明応の大地震が起こって甲斐国内に甚大な被害が出たため、家内騒動どころではなくなり、武田信縄派と武田信昌・油川信恵派が一旦和睦して復興にあたります。

武田家の家督を相続(1507年2月)

その後、永正2年(1505年)9月16日、武田信昌が死亡したために油川信恵の力が削がれ、一旦は武田家が武田信縄の下にてまとまりかけます。

ところが、その武田信縄も、永正4年(1507年)2月14日に死亡してしまいます。

当主・武田信縄が死亡したことにより、その嫡男である武田信虎が若くして18代当主・甲斐国守護として武田家を継ぐことになりました。

余談ですが、武田氏は、平安時代前期の第56代・清和天皇の血を引く清和源氏の流れを汲みます。

少し下って、源氏嫡流・源八幡太郎義家の弟である源新羅三郎義光を始祖とし、甲斐源氏・武田氏が始まったと考えられます。

源義光の子源義清が武田姓を称して甲斐国に土着し、その孫・武田信義が、以仁王の令旨を奉じて平家打倒に立ち上がり名を挙げます。この武田信義が甲斐武田氏の初代当主とされます。

そのため、武田信虎は、武田信義から数えると15代となるはずなのですが、武田氏は新羅三郎義光の子孫であることを誇っていることから、武田家何代目というのはこの新羅三郎義光から数えることが一般的となっており、武田信虎も新羅三郎義光から数えて18代目とするのが一般的です。

武田宗家統一(1508年10月)

武田信縄が死亡したことにより、家督を継いだのが若い武田信虎であることを好機と見た油川信恵が動きだします。

油川信恵は、その弟の岩手縄美・栗原昌種(惣次郎)や国衆の小山田弥太郎、河村氏・工藤氏・上条氏らと結んで兵を挙げたのです。

武田信虎は、永正5年(1508年)10月4日、坊ケ峰の戦い・勝山城の戦い(笛吹市境川町坊ヶ峰)で油川信恵軍を打ち破って、油川信恵・岩手縄美・栗原昌種・河村左衛門尉、油川信恵子息の弥九郎・清九郎・珍宝丸らを討ち取り、武田家内の信頼を勝ち取ります。

これにより、武田信虎による武田宗家の統一が達成されることとなりました。

甲斐国統一戦(甲斐国衆との戦い)

武田家内を掌握した武田信虎は、次に甲斐国内の国人衆の制圧に取り掛かります。

郡内・小山田氏攻略(1510年)

油川信恵について戦い坊ケ峰の戦いで敗れた都留郡の工藤氏や小山田一門・境小山田氏の小山田平三らは、伊勢氏(後北条氏)のもとへ亡命します。

これを見た武田信虎は、永正6年(1509年)秋、郡内への侵攻を開始します。

そして、武田信虎は、永正7年(1510年)春、小山田氏の当主となっていた小山田信有に実姉を嫁がせることを条件として小山田氏を従属させます。

また、武田信虎は、都留郡へ近い勝沼(甲州市勝沼町)には実弟・勝沼信友を配し、支配力の強化を図ります。

小山田氏の従属は、武田家本拠から見ると南東部の障壁となり、北条氏・今川氏からの脅威が低減されることも意味しました。

西郡・大井氏攻略(1517年)

永正10年(1513年)5月27日、甲斐国・南西部の河内領を支配する穴山家の中で当主となった穴山信風(信綱)が今川氏に接近し、近接する西郡の大井信達・信業親子とともに今川方に帰属して武田信虎と対抗する立場に立ちます。

今川家の援助を受けた大井氏は、甲斐国で武田家を凌ぐ勢いを持ち始めます。

この大井氏の巨大化を危険視した武田信虎は、永正12年(1515年)、小山田信有とともに大井氏の本拠である富田城を攻めたのですが、今川家の援軍もあって武田信虎方が敗退し、小山田大和守・飯富道悦・飯富源四郎らを失います(大井合戦)。

今川氏は、この戦いの勝利の勢いのまま、永正13年(1516年)9月28日、甲斐へ侵攻し、笛吹川沿いを北上して行きます。

迎撃に向かった武田信虎は本拠の川田館に近い万力において今川軍に敗退し、勝山城(甲府市上曽根町)を奪われます。

そして、今川軍は、西側の大井氏と連携して甲斐国内を荒らしまわります。

また、都留郡において小山田信有ら郡内衆が奮闘し、永正14年(1517年) 12月に吉田山城(富士吉田市)の今川軍を追い払います。

さらに、ここで武田家に幸運が訪れます。

今川領の東側にある遠江国において、大河内貞綱・斯波義達が引間城攻めを行ったため、今川家として甲斐国侵略どころではなくなったのです。

そこで、今川氏親は、同年3月2日、武田信虎と和睦し、勝山城に陣取る今川軍を甲斐国から撤退させます。

今川家が撤退したことにより単独で武田信虎に対抗できなくなった大井信達は、娘(大井の方)を正室として差し出し、武田信虎に臣従します。

この大井夫人が武田信玄の生母です。

北巨摩・今井氏攻略(1519年4月)

今川家と和睦し、大井氏を傘下に治めた武田信虎は、永正16年、北巨摩の今井氏攻略に取り掛かります。

そして、永正16年(1519年)4月、武田信虎は、今井信是・今井信元親子を降伏させます。

河内地方・穴山氏攻略(1521年8月)

穴山家当主・穴山信懸は、河内地方の立地面から駿河国・今川氏親、相模国・伊勢宗瑞(北条早雲)らと関係を保つ一方で、武田信虎の本拠地である川田館の近在に居住していることから、武田信虎とも友好的関係を築いた両属的立場にありました。

ところが、この穴山家内において、甲斐国内で勢力を拡大する武田信虎への対応を巡って、従属派と抗戦派の意見が対立していくようになります。

そして、永正10年(1513年)5月27日、抗戦派の穴山清五郎(穴山信君の大叔父)によって、当主・穴山信懸が殺害されるという事件が起こります(勝山記)。

これにより、当主となった穴山信風(信綱)は今川氏に接近し、河内領に接する西郡の大井信達・信業とともに今川方に帰属し、武田信虎と対抗する立場に立ちます。

その上で、永正18年(1521年)2月27日、今川方の土方城主・福島正成が駿州往還(河内路)を手引きして今川軍を甲斐国へ侵攻させ(福島乱入事件)、同年8月に武田勢と抗戦します。

これに対して、武田信虎は同年8月下旬に河内へ出兵し、駿河国にいた武田八郎(穴山信風の子・信友と見られます。)の甲斐帰国を許し、穴山氏を武田方に降伏させます。

穴山氏が武田に下ったことにより甲斐国に残された福島勢は、大井氏の城である富田城(南アルプス市戸田)から甲府へ侵攻しますが、武田信虎によって大永元年(1521年) 10月16日の飯田河原の戦い(甲府市飯田町)・同年11月23日の上条河原の戦い(甲斐市島上条一帯)で撃破され駿河国に逃げ帰ります。なお、この戦いの最中の同年11月3日に、戦いから逃れるために要害山城に籠っていた大井夫人が武田信玄を出産しています。

武田信虎による甲斐国の政治改革

甲斐国国府「甲府」造営(1518年)

少し話は戻りますが、武田信虎は、永正15年(1518年)、それまで石和館(笛吹市石和町)に置かれていた甲斐国の守護所について、新たな都市を築いて甲府と名付けてそこに移転させます(甲府市古府中町)。

また、あわせて武田家の本拠である川田館の移転も決めます。

なお、このとき造られた都市の名となった甲府とは、「甲」斐国の「府」中(政治の中心)という意味です。

本拠「躑躅ヶ崎館」建設(1519年)

また、武田信虎は永正16年(1519年)8月15日、自身の本拠地を、それまでの川田館から、甲府盆地中央北部に位置する相川扇状地(現在の武田神社の一部)に居館を築き、躑躅ヶ崎館と名付けて居を移します。

躑躅ヶ崎館は、甲府盆地を見下す位置にあり、北・東・西を山と川に守られた要害の地に建てられ、城とまでは言えなかったものの相当の規模を誇ります。

また、主要交通路である信州往環・駿州往環・中道往環にほど近い交通の要衝でもありました。

さらに、武田信虎は、甲府にかつての川田館やその周囲から領民の移住や神社仏閣を移築させ、さらには有力国衆ら家臣を集住させなどして、甲府を城下町(武田城下町)として整備していきます。

現在に繋がる大都市「甲府」の誕生です。

なお、甲府への強制移住に対しては、有力国衆の抵抗があり、永正17年(1520年)5月、「栗原殿」(栗原信重か)・今井信是・大井信達らが甲府を退去する事件が発生しますが(勝山記、高白斎記)、武田信虎は、国衆の退去を許さず、同年6月8日に都塚(笛吹市一宮町本都塚・北都塚)において栗原勢を、さらに同年6月10日には今諏訪(南アルプス市今諏訪)において今井・大井勢をそれぞれ撃破しています。

詰城・要害山城築城(1520年6月)

また、武田信虎は、永生17年(1520年)6月、籠城戦の際の詰城として、躑躅ヶ崎館東北の丸山に要害山城(甲府市上積翠寺町)を築城します(高白斎記)。

なお、この要害山城が、後に武田信玄が出生した場所です。

さらに、南西部に湯村山城の整備も行い、躑躅ヶ崎館とその城下町の防衛力の強化を図ります。

積極的な人材登用と軍事改革

加えて、甲斐国統一戦や甲府移転の際の反乱など、甲斐国内での国衆の対応に手を焼いた武田信虎は、国衆に代わる新たな直轄軍事力を得ようと考えます。

具体的には、全国を流転する浪人(今でいう傭兵)を積極的に雇用した上、さらにその中から才ある者を積極的に取り立てていきました。

侍大将などに取り立てられた者の中には、後に武田二十四将に数えられる多田満頼、原虎胤、小幡虎盛などがおり、これらの者にさらに雇用した傭兵が預けられたのです。

戦国最強武田軍の始まりでもあります。

武田信虎による国外侵略戦

甲斐国を統一した武田信虎は、今井氏・飯富氏・栗原氏ら国衆の相次ぐ反乱に対応しながら、他国への侵略をも試みます。

もっとも、武田信虎による信濃国侵攻作戦は、毎年のように甲斐国を脅かしてくる伊豆国・北条氏と駿河国・遠江国の今川氏への対応をしながらになりますので、かなり困難な道のりでもありました。

扇谷・山内両上杉氏と協力(1524年)

武田信虎は、北条氏(伊勢氏が大永3年・1523年に北条氏に改姓)への対抗策として、北条氏と敵対する扇谷上杉氏・山内上杉氏と同盟します。

そして、武田信虎は、北条氏と対立する両上杉氏支援のため、大永4年(1524年)2月に相模国奥三保(神奈川県相模原市)に、同年3月に武蔵国秩父に、同年7月20日に武蔵岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区太田)にそれぞれ派兵しています。

なお、武田信虎は、これらの遠征から帰国した大永5年(1525年)に一転して北条氏綱と和睦しましたが、北条氏綱が上野国侵攻を企図して武田信虎に領内通過を要請した際に武田信虎が山内上杉氏に配慮してこれを拒絶したため、この和睦はすぐに破綻しています。

その後、武田信虎は、大永6年(1526年)の梨の木平の戦いで北条氏綱軍を破ったりもしていますが双方決定打はなく、それ以後も北条方との争いは一進一退を繰り返すこととなります。

その後、武田信虎は、享禄3年(1530年)、扇谷上杉氏の当主・上杉朝興の斡旋で山内上杉氏の前関東管領・上杉憲房の後室を側室に迎えて扇谷上杉氏との関係を強化します。

ところが、武田信虎と両上杉氏との関係強化により相模国の北条氏との対立が激化をもたらします。

また、武田家中でも上杉憲房の娘を武田家に迎えることに対する反発が起こり、享禄4年(1531年)正月21日、栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌らが甲府を退去してする事件が起き、各個撃滅する事態に陥ります。

その後も、天文2年(1533年)、武田信虎の嫡男・武田晴信の正室に上杉朝興の娘を迎え、天文3年(1534年)11月に輿入れし、更なる関係強化が行われます。

なお、武田信虎は、天文4年(1535年)、今川攻めを行い甲駿国境の万沢(南巨摩郡南部町万沢)で合戦が行われますが、今川と姻戚関係のある後北条氏が籠坂峠を越え山中(南都留郡山中湖村)へ侵攻したため敗北しています。

今川氏と同盟(甲駿同盟、1536年)

天文5年(1536年)3月、嫡男・太郎が元服し、一字を拝領して「晴信」と名乗らせることとなります(高代寺日記・後鑑)。後の武田信玄です。

正確な時期は不明ですが、このころ、武田信虎は、善徳寺承芳(後の今川義元)のあっせんにより、武田信虎の嫡男・武田晴信が正室として公家の三条公頼の娘(三条夫人)を迎えなどして、今川義元とのパイプを構築していきます(元々の武田晴信の正室であった上杉朝興の娘は天文4年に死去しています。)。

そして、このころ、長年敵対してきた今川家との関係が大きく動きます。

天文5年(1536年)3月17日に駿河国にて今川家当主の今川氏輝が死亡し、また同年4月10日にその弟・彦五郎が相次いで急死したからです。

これにより、今川家では、今川氏輝の弟である善徳寺承芳(後の今川義元)と、玄広恵探の間で家督を巡る争いに発展します(花倉の乱)。

これに対し、武田信虎は、北条氏綱とともに、関係を構築しつつある善徳寺承芳を支援したことにより、戦局が善徳寺承芳に傾きます。

そして、同年6月14日に玄広恵探が自害して花倉の乱は善徳寺承芳の勝利に終わり、同人が今川義元として新たな今川家当主となります。

今川義元は、自らに味方してくれた恩もあって武田信虎との良好な関係を築いており、天文6年(1537年)2月10日には武田信虎の長女・定恵院が今川義元に正室として嫁いで婚姻関係を持ち、武田家と今川家の間に同盟関係が結ばれます(甲駿同盟)。

なお、甲駿同盟に際して武田家中でも反発が起こり、また今川氏の同盟国であった後北条氏も甲駿同盟に対に反発したことから北条・今川間で抗争が発生するも(第一次河東の乱)、武田信虎は甲駿同盟を推し進めていきます。

信濃国・佐久郡侵攻戦(1536年11月~)

武田信虎は、天文4年(1535年)9月17日、信虎は諏訪頼満と甲信濃国境の堺川で対面して和睦・同盟関係を成立させ、また今川家という同盟者を得たため、天文5年(1536年)11月、信濃国・佐久郡への侵攻作戦を開始します。なお、これが武田晴信の初陣です。

そして、天文9年(1540年)4月、武田信虎は、諏訪頼重と同調して信濃国・佐久郡へ再度出兵し、佐久郡を獲得します(はじめて甲斐国外における所領獲得です。)。

信濃国・小県郡侵攻戦(1540年5月〜)

武田信虎は、続いて信濃国・小県郡(長野県上田市)を治める海野氏の攻略を狙います。

武田信虎は、同盟関係にある諏訪頼重に加え、北信濃の国衆・村上義清と結び、天文9年(1540年)5月25日、南から諏訪氏、北から村上氏、東から武田氏という3方面から小県郡へ進行します。

そして、武田信虎は、天文10年(1541年)5月、海野平の戦いで、海野一族を上野国へ追放します。

このときに、海野一族と共に落ちていった中に、後に武田家に仕え名を挙げる有名な真田一族の真田3代の祖・真田幸隆もいました。

上野国へ落ちていった海野一族ですが、海野棟綱が武田信虎の同盟者である関東管領・上杉憲政を頼ったためにそれ以上追撃できなくなり、武田信虎は、同年6月4日に甲斐国に帰国します。

武田信虎の甲斐追放

甲斐国の経済的困窮

対外政策を推し進め次々と領土を獲得していく武田信虎でしたが、甲斐国内での評判は決して良くありませんでした。

特に、天文9年(1540年)に東海・甲信地方を襲った台風による凶作が起こり大飢饉に陥ったのですが(天文の飢饉)、この状況下でも武田信虎は、戦費調達のために、農民や国人衆に重い負担を課したため、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻きます(勝山記)。

家臣からの信頼喪失?

また、真偽は不明ですが、武田信虎が、嫡男・武田晴信を廃して弟の武田信繁を次期当主に据えようとし、また相次ぐ国衆の反乱を抑えるためその粛清を重ね、さらには諫言した内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊ら重臣をも成敗したために家臣の信頼も失いつつあったなどとも言われています(武田信虎に殺され絶えた名跡を、子の武田信玄が復活させていることからこのようなイメージが付さいています。内藤氏→内藤昌豊、馬場氏→馬場信春、山県氏→山県昌景、工藤氏→工藤昌祐など)。

この点は、武田信虎に悪役のイメージを付加し、武田信虎追放を正当化するために武田氏や軍学者たちが印象操作を行ったとも考えられていますので、本当のところはわかっていません。

武田信玄により追放(1541年6月14日)

天文10年(1541年)6月14日、信濃国・小県郡から戻った武田信虎は、僅か供回りのみを連れて、娘婿の今川義元と会うために河内路・駿州往還を通って駿河国に向かいます。なお、武田信虎が駿河国に向かった理由は、今川義元に嫁いだ娘に会うためとも、嫡男・武田晴信の廃嫡と追放の相談のためとも言われていますが、本当のところはわかっていません。

ところが、武田信虎が駿河国に赴く途中、留守を預かる板垣信方が、甘利虎泰・飯富虎昌ら譜代家臣と共に武田晴信を擁立し、武田家の代替わりを強行するというクーデターを起こします。

そして、神輿として担がれた武田晴信は、甲駿国境の万沢に兵を派遣して国境を封鎖し、武田信虎を国外追放として強制隠居させます。

無血クーデターの成功です。

こうして武田信虎は、息子・武田晴信に追放されて武田家家督と守護職を奪われる結果となりました。

追放後の武田信虎の活動

武田信虎は、駿河国に追放された後、今川義元の元に寓居することになりました。

そして、武田信虎の下には甲斐国内においてきた側室らが送り届けられ、またその生活費については武田晴信によって工面されたそうです。なお、年未詳9月23日付の今川義元書状では、義元は晴信に対して、信虎の隠居料を催促していますので、武田晴信と今川義元の間で、隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたと考えられています。

もっとも、武田信虎の正室・大井夫人は甲斐国に残留し、武田信虎の下には赴いていません。

この点、追放された武田信虎は、出家して「無人斎道有」を名乗るなどしていることから、甲斐国への復帰の野心を見せることはなく、隠居を受けいれていたと考えられています。

その後、武田信虎は、弘治3年(1558年)に生活の拠点を京都に移して幕府に奉公し、室町幕府13代将軍・足利義輝の側に仕えていたようです。

また、このころになると、息子・武田晴信との関係も回復していき、連絡を重ねていたようです。

永禄7年(1564年)から永禄10年(1567年)には、武田信虎は志摩国英虞郡の地頭の一人である甲賀氏のもとに身を寄せ、その後、永禄10年(1567年)には在京していたこともわかっています。

その後、元亀4年(1573年)4月12日に武田晴信が死去し、また同年7月に足利義昭が槇島城の戦いに敗れて室町幕府が滅亡すると、武田信虎もまた京から逃亡します。

天正2年(1574年)、織田信長に追われた武田信虎は、旧領・甲斐国に戻ろうと試みて、可愛がっていた三男・武田信廉の居城である信濃国・伊那郡の高遠城で武田勝頼に目通りをしますが、甲斐国への入国は許されませんでした。

武田信虎の最期(1574年3月5日)

甲斐国への入国を許されなかった武田信虎は、高遠城に留め置かれることとなります。

そして、天正2年(1574年)3月5日、伊那の娘婿・根津松鴎軒常安(根津元直の長男)の庇護のもと、信濃国・高遠の地で死去します。

享年は、明応3年(1494年)生まれとすると81歳、明応7年生まれとすると77歳でした。

武田信虎の葬儀は、武田信虎が大永元年(1521年)に創建した甲府の大泉寺で行われました。

このときに大泉寺に奉納されたのが、武田信虎の子武田逍遥軒信廉によって描かれたとする有名な絹本着色武田信虎像です。

なお、大泉寺には、境内に武田信虎・武田信玄・武田勝頼の3代の墓碑があり、また霊殿にこの3代の座像が安置されていますので、興味がある方は是非。

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