【飯富虎昌】甲山の猛虎と恐れられた初代赤備えの猛将

武田信虎・武田信玄親子の二代に亘って仕えた初代赤備えの猛将をご存知ですか。

敵から「甲山の猛虎」と恐れられた飯富虎昌です。

武田二十四将の1人として武田信玄の嫡男武田義信の傅役を任され、上田原の戦いで板垣信方・甘利虎泰が失われた後の武田家筆頭宿老として活躍した人物です。

もっとも、武田義信の傅役という立ち位置から、武田家の内紛に巻き込まれて悲しい最期を迎えます。

そんな悲劇の猛将、飯富虎昌の生涯について見ていきましょう。

飯富虎昌の出自

飯富虎昌の生家である飯富氏は甲斐源氏の一族で、源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔と言われています。

出身地は飯富村(現在の山梨県身延町飯富)と伝わっています。

生年は、永正元年(1504年)とも永正11年(1514年)ともいわれ正確な年月日は不明です。

また、父親は武田信虎家臣の飯富道悦とも、飯富源四郎ともいわれますが、これも定かではありません。

要するに、飯富虎昌の出自はほぼ何も分かっていないのです。

その後の元服、初陣の経緯などの前半生の詳しい内容も分かっていません。

武田信虎に仕える

武田信虎の下で戦功を挙げる

現存資料で飯富虎昌の名が最初にでてくるのは、享禄4年(1531年)正月のことです。

飯富虎昌は、武田信虎の家臣であったのですが、このとき栗原兵庫・今井信元らと共に甲府北部の山地にたて籠もり、武田信虎に反旗を翻したのです。

もっとも、この反乱は武田信虎に鎮圧され、飯富虎昌は武田信虎に降伏し家臣へ団の復帰を許されています。

その後、飯富虎昌は戦場で大活躍を続けます。

天文5年(1536年)に北条氏綱が駿河国に侵攻した際には、武田信虎と共に今川軍の援軍として参戦し、北条軍を破ります。

また、天文7年(1538年)には諏訪頼満・村上義清の連合軍と戦い、寡兵であったも関わらず、数で勝る連合軍を打ち破り、自ら首級97を挙げるという軍功を挙げたとされています。

この功が認められ、飯富虎昌は、甲斐武田家次期当主の嫡男・太郎(後の武田義信、武田信虎の孫)の傅役(後見人)に任命されました。

武田信虎追放事件(1541年6月)

武田信虎は、国内情勢を無視して、強引に信濃・武蔵・相模・上野などへの侵攻を繰り返したため、甲斐国内が疲弊していきました。

また、武田信虎は、嫡男武田信玄を廃嫡して弟の武田信繁に武田家を継がせようとするなどしていたため、武田家中にも混乱をもたらしていました。

これを見かねた飯富虎昌は、板垣信方、甘利虎泰、小山田備中守らの武田家家臣団は、天文10年(1541年6月14日、武田信玄を神輿に担いでクーデターを起こし、武田信虎を駿河国に追放します。

このクーデターによって武田信玄が武田家の第19代目の家督を継ぐこととなり、以降飯富虎昌はその下に仕えます。

武田信玄に仕える

赤備えを許される

飯富虎昌は、武田信玄の下でさらなる覚醒をします。

飯富虎昌は、当時としては珍しい騎兵だけで構成された軍団を率い、その構成員を次男以下とする切り込み隊として運用しました。なお、構成員から長男を外した理由は、家督相続の権利がないため、智恵か武功という実力によるしか栄達の道が無い者のみを選抜して死に物狂いの働きをさせるためでした。

そして、飯富虎昌は、戦場でひときわ目を引くよう、この切込み部隊に軍装全て朱色の装飾を施しました。これが有名な赤備えです。

朱色が選ばれた理由は、元々、朱色が武士の中で特に戦功を挙げたものが主君からいただく「朱槍」をルーツとしており、槍だけでなく、軍装全てに拡大させて相手方に脅威を感じさせるという心理的効果を狙ったものとされています。

俗説として、飯富虎昌の部隊は勇猛で、戦のたびに戦場で返り血を浴びたて真っ赤に染まるため、戦のたびに武具を洗い流さなければならなかったのですが、最初から武具が赤ければ戦のたびに洗い流す必要がないためだったとも言われていますが、これは眉唾ですね。

この飯富虎昌率いる朱色の騎馬部隊=赤備えは、その圧倒的な存在感と抜群の戦働きで、敵から恐れられていくようになります。

武田家筆頭宿老となる

武田信玄が武田家の家督を継いだ後は、板垣信方と甘利虎泰が絶対的立場にいたのですが、天文17年(1548年)2月14日に発生した上田原の戦いで彼らが死亡したため、以降飯富虎昌が武田家筆頭の宿老として勇名を馳せます。

筆頭宿老となった後も、飯富虎昌は戦の際には常に最前線に立ち、天文22年(1553年)に自らが守備する内山城が長尾景虎(上杉謙信)・村上義清の軍8000に囲まれた時には、僅か800の手勢で撃退したとも言われています。

また、川中島の戦いの最激戦となった第四次川中島の戦いでは、妻女山攻撃のための別動隊の大将にも任じられるのを程の信頼を得ていました。

飯富虎昌の最期

武田信玄と武田義信の対立

甲斐武田家当主武田信玄と、その嫡男武田義信との父子関係は良好なものではなく、度々衝突していました。

そんな親子関係が決裂する事件が起きます。

武田義信は、甲相駿三国同盟の証として駿河国当主であった今川義元の娘である嶺松院を正室に迎えていたのですが、その今川義元が本能寺の変で織田信長に討たれます。

このとき、今川家の弱体化を目にした武田信玄は、今川家との同盟を破棄して駿河国への侵攻を開始したのですが、妻の実家への攻撃を反対する武田義信と意見が相違し、親子対立がさらに激化します。

義信事件と飯富虎昌の切腹

そして、永禄8年(1565年)、武田義信は実力行使に出ようとします。武田義信が武田信玄暗殺を謀ったのです(義信事件)。

飯富虎昌は、主君である武田信玄につくべきか、傅役となって育ててきた武田義信につくべきか思い悩みます。

悩んだ結果、飯富虎昌は、武田家の将来を考えて武田信玄を選びます。

そして、飯富虎昌は、弟である山県昌景(弟ではなく甥であったとする説も有力です。)に暗殺計画の顛末を武田信玄に密告させたため、武田信玄暗殺計画は失敗に終わります。

その結果、まずは永禄8年(1565年)10月15日、飯富虎昌らが武田義信に連座して切腹させられます。享年62歳でした。

武田家筆頭宿老のあまりに悲しすぎる最期です。

そして、武田義信も、同年10月19日、死去して義信事件は終わります。

補足(山県昌景への赤備え承継)

飯富虎昌が死亡したことにより、飯富家は断絶し、赤備え部隊の大将もまた失われることとなりました。

もっとも、赤備えの喪失を惜しんだ武田信玄は、義信事件を防いだ飯富虎昌の弟三郎兵衛に後継ぎがなく絶えていた武田家譜代の山県家を与えて山県昌景と名乗らせ、飯富虎昌の家臣団と赤備えを引き継いでいます。

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