【今川義元】海道一の弓取りと呼ばれた戦国大名

今川義元(いまがわよしもと)と聞いてどんなイメージが浮かびますか。

大大名今川家の第11代当主でありながら、桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られたという最期から、今日においては、公家のようにお歯黒をつけて置眉・薄化粧をしている貴族趣味に溺れたとか、合戦の際に輿に乗っていたことをもって騎馬に乗れなかったなどというダメなイメージがつけられているようです。

もっとも、実際の今川義元は、堅実な領国経営・合理的な軍制改革・巧みな政治手腕などによって、父・今川氏親からの領土拡大政策を引き継ぎ、最終的には駿河国・遠江国・三河国を治めるに至ったという今川家の最盛期を築き上げた武将です。

当時から「海道一の弓取り」として高く評価されており、全くダメなイメージもありません。

本稿では、不当なイメージをつけて貶められることの多い今川義元の実際について見ていきたいと思います。

今川義元の出自

出生(1519年)

今川義元は、永正16年(1519年)、駿河国・遠江国守護であり清和源氏義国流足利氏系吉良氏流今川氏当主でもあった今川氏親の三男として、正室・中御門宣胤の娘(寿桂尼)との間に生まれます(実際は側室の子で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組をしたとする説もあります。)。

幼名は、芳菊丸といいました。

仏門に入る

今川義元には、同母兄として今川氏輝及び彦五郎がいたため、家督争いを避けるため4歳で仏門に入ることとなり、大永5年(1525年)に得度させ、駿河国・富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられます。

そのため、今川義元は、当初は琴渓承舜の下で、享禄2年(1529年)に琴渓承舜が没した後はその弟子であった九英承菊(後の太原雪斎)の下で育てられます。

その後、太原雪斎と共に京の建仁寺に入り、常庵龍崇の下で得度し、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗った上、太原雪斎と共に妙心寺の大休宗休に学びます。

今川家の家督相続

当主不在となる(1536年3月17日)

大永6年(1526年)6月23日、今川当主である今川氏親が死去したため、14歳であった今川氏輝(今川義元の長兄)が今川家の第10代当主となります。

その後、今川義元は今川氏輝の命を受けて京都から駿河に戻ったのですが、その直後の天文5年(1536年)3月17日、今川家10代当主であった今川氏輝が急死します。

しかも、同日に、今川家に残っていたもう1人の今川氏輝の弟・彦五郎までも急死します。

同じ日に当主とその弟が死亡していることから、家督争いに伴う暗殺説が強く疑われますが、このころに駿河国に隣接する甲斐国・都留郡で天文5年に疫病が発生していたことなどから(勝山記)、揃って疫病にかかっていても不自然ではないとする見解もあります。

いずれにせよ、当主と有力後継者候補が同じ日に失われた結果、今川家には、家督を継ぐべき後継者男子がいなくなってしまいました。

今川家大混乱です。

栴岳承芳(今川義元)還俗

ここで、今川家として当然の動きにでます。

今川氏親の最後の嫡子であった栴岳承芳を還俗させ、今川家を継がせようとしたのです。

今川氏親正室であり今川義元の母でもある寿桂尼、今川義元の師・太原雪斎、その他重臣たちが栴岳承芳を迎え、かつ当時の征夷大将軍・足利義晴から偏諱を賜って今川義元と名乗らせ、家督承継の手続きを進めていきます。

花倉の乱(1536年5月)

ところが、ここで今川家中に今川義元の家督相続について反対する者が現れます。

今川家の有力被官であり、今川氏親の側室の父であった福島助春です。

福島助春は、今川家の中で遠江国、甲斐国方面の外交や軍事を担う有力者であったのですが、自身の娘が生んだ今川氏親の庶子である玄広恵探を擁立し、今川家の当主の外戚として権力を持とうとます。

今川家中が割れるのを嫌った寿桂尼は、天文5年(1536年)5月24日、玄広恵探派の福島越前守(福島正成と同一人物?)と面会し、これを説得して家中を一本化しようと試みたのですが失敗に終わります。

そればかりか、天文5年(1536年)5月25日、還俗して今川良真と名を改めた玄広恵探の派閥(反今川義元派)の将兵が久能城に集まって挙兵し、今川義元のいる駿河国・今川館を襲撃します。

もっとも、今川館の守りは堅く、玄広恵探らの攻撃は失敗に終わり、敗れた玄広恵探は、現在の藤枝市にある花倉城(葉梨城)に籠って同調者を募ります。なお、反乱者である玄広恵探が花倉城に籠ったため、この乱が花倉の乱と呼ばれます。

玄広恵探は、花倉城・方ノ上城(焼津市)などを拠点として、同志を集め、徐々にその勢力を拡大させていきますが、伊勢宗瑞(北条早雲)の代から友好関係にあった相模国・伊豆国を治める北条氏綱が今川義元に味方してこの争いに介入し、また、甲斐国を治める武田信虎までも今川義元に味方をします。

こうなると、勝負は明らかです。

北条氏綱・武田信虎の支援を得た今川義元は、同年6月10日、玄広恵探方の方ノ上城を陥落させ、また、同日、玄広恵探の篭る花倉城を攻撃してこれも陥落させます。

花倉城から逃亡した玄広恵探は、瀬戸谷の普門寺にて自刃し、花倉の乱は、今川義元の勝利に終わります。

花倉の乱に勝利し、今川義元は、今川家第11代当主となり、駿河国・遠江国守護をも引き継ぎます。

苦しんだ初期治世

北条家との手切れと甲駿同盟

ところが、花倉の乱は今川家に転機を生じさせました。

伊勢宗瑞の代から今川家と北条家は主従関係を基礎とした良好な関係にあり、他方で今川家・北条家と武田家とが争っていました。

ところが、花倉の乱に際し、甲斐国・武田信虎が今川義元に味方したため、今川義元としても、自身の家督承継に協力をしてくれた武田信虎を蔑ろにすることなどできようはずがありません。

そこで、今川義元は、甲斐国・武田家が北条家と敵対していることを知りながら、天文5年(1536年)7月に今川義元の紹介で公家の娘(三条夫人)を武田晴信(信玄)の正室に迎えさしたり、天文6年(1537年)2月に武田信虎の娘・定恵院を正室に迎えたりして、今川・武田同盟(甲駿同盟)を成立させてしまったのです。

この話を聞いた北条氏綱は激怒します。

主家とはいえ、今川家が北条氏綱の断りもなく、北条家の長年の宿敵である武田家と結んだのです。

北条氏綱としては、許せるはずがありません。

第一次河東の乱(1537年)

激怒した北条氏綱は、天文6年(1537年)2月下旬、今川家との主従関係(相駿同盟)を破棄し、駿河国の河東地方である富士郡・駿東郡に侵攻します(第一次河東の乱)。なお、これにより北条家は、完全に今川氏による支配構造から脱却し、以降は、独立の戦国大名として活動していくこととなります。

今川義元は、直ちに迎撃の軍を出しましたが、北条氏綱はそのまま富士川以東の河東地域を占拠します。

河東を占拠した北条氏綱は、今川家の継承権争いで今川義元と反目していた遠江(静岡県西部)の堀越氏(北条氏綱の娘が堀越貞基に嫁いでいました。)、井伊氏、三河戸田氏、奥平氏等と手を結び、今川軍を挟撃したため、この対応に追われた今川義元は、そのまま河東地域を北条氏綱に奪われてしまいます。

織田信秀による三河侵攻

また、第一次河東の乱で領国東側を北条氏綱に奪われた今川義元は、領国西側でも苦境に立たされます。

尾張国で勢力を高めていた織田弾正忠家の織田信秀が、天文9年(1540年)、三河国・松平家の弱体化に乗じて西三河の松平氏の重要拠点である安祥城(愛知県安城市)を攻略し、さらに松平氏の本拠である岡崎城の目前である矢作川のすぐ西までその勢力を伸ばしていたからです。

三河国への進出を目指していた今川義元は、三河国の国衆達の下へ援軍を送り、天文11年(1542年)に織田軍との決戦に及んだのですが敗れています(第一次小豆坂の戦い。もっとも、この戦いは後世の創作の可能性もあります。)。

領土拡大させた円熟期

河東地域回復(1545年)

第一次河東の乱において臣下であったはずの北条家により河東地域を奪われた今川義元は、河東地域の奪還の機会を虎視眈々とうかがっていたのですが、そんな中、天文10年(1541年)7月19日、後北条家2代目当主・北条氏綱が死去し、北条氏康が家督を継承しま今川義元は、北条氏綱が死去したことにより北条家の求心力が低下したと判断し、天文14年(1545年)、北条領を挟撃する作戦を立案して、関東管領・山内上杉家の上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定(朝興の子)等と連携して挙兵します。

そして、今川義元は、河東地域に進軍していき、同年7月下旬には富士川を越えて善得寺に布陣します(第二次河東一乱)。

北条氏康は、今川軍を撃退すべく軍を率いて駿河国・河東地域に急行したのですが、浮き足立つ北条軍は今川軍に押されます。

同年9月初旬、今川軍に武田軍が合流したことにより、北条軍はさらに不利になり、押された北条軍は同年9月16日、吉原城を放棄し三島に退却します。

そして、これを追撃した今川軍は、そのままの勢いで三島(静岡県三島市)に攻め入り、北条幻庵(または葛山氏元)が守る長久保城を包囲して今井狐橋などで戦闘となります(狐橋の戦い)。

こうなると、北条軍としては今川軍を撃退するどころではありません。

しかも、苦境に立たされた北条氏康に、追い打ちかけるさらに悪いことが起こります。

山内・扇谷の両上杉家に加え、古河公方・足利晴氏までもが加った旧勢力連合軍8万人が、義弟・北条綱成ら3000人が守る北条家の武蔵国の拠点の河越城に向かって進軍してきたとの報が届いたのです。

領国の西側を今川軍に、北側を旧勢力連合軍に挟撃される形となった北条氏康は、絶体絶命の危機に陥ります。

苦しくなった北条氏康は、まず河東地域の戦いを治めるべく、武田晴信に仲介を斡旋してもらい、今川義元との間で和睦交渉を行います。この交渉は、当然立場の悪い北条氏康方に不利な内容で進められ、結論的には、第一次河東の乱で北条氏綱が獲得した河東地域を今川義元に返還するとの内容で和睦に至ります。

そして、同年11月初旬、今川家・北条家で誓詞を交し合った後、北条氏康が今川義元に長久保城を明け渡して第二次河東の乱が終結します(高白斎記)。

三河国を支配下に置く

第二次河東の乱において領国の東側を奪還した今川義元は、領国西側にも進出していきます。

圧力によって西三河を治める松平広忠を帰順させ、天文16年(1547年)8月2日、6歳であった嫡男の竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わします。

ところが、今川義元のいる駿府へ向かう途中の竹千代は、途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにあい、尾張国の織田信秀の下へ送られてしまいます(そのため、竹千代は織田家の人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれています。)。

三河国支配の正当性根拠となる大事な人質を奪われたことに怒った今川義元は、田原城に攻め込んでこれを滅ぼし、同城には有力家臣である朝比奈泰能・山田景隆などを入城させ、松平家の関与なしに三河国の領国化を進めていきます。

今川義元の進行に危機感を感じた織田信秀は、天文17年(1548年)、三河国への侵攻を試みますが、今川方の太原雪斎・朝比奈泰能ら将とする今川軍に大敗します(第二次小豆坂の戦い)。

これにより、松平広忠が再び今川方に帰属することとなりました。

そして、天文18年(1549年)に松平広忠が死去すると、今川義元は、当主不在の松平家支配地であった西三河を接収するため、岡崎城(現在の愛知県岡崎市)に軍勢と家臣を送り込んだ上、三河国の国人領主たちを次々と支配下に取り込むなどして強引に松平領を領有してしまいます。

また、今川義元は、これらの勢力を利用して、織田信秀に押さえられていた三河安祥城(現在の愛知県安城市)を攻め取り、織田方勢力を三河から駆逐して、事実上三河国を支配下に治めてしまいます。

なお、今川義元は、安祥城を攻略した際(第四次安城合戦)に、織田信秀の庶子であり織田信長の庶兄でもあった織田信広を生け捕ったことから、この織田信広との人質交換により竹千代を奪還したため、竹千代を傀儡として三河国支配を盤石なものとしていきます。

尾張国進出をうかがう(1552年~)

そして、天文21年(1552年)3月3日、尾張国内で大きな力を持っていた織田信秀が42歳の若さで病死し、うつけと評判の織田信長が織田弾正忠家の家督を相続したため、織田弾正忠家内に大混乱が生じます。

今川義元は、この織田弾正忠家に生じた混乱に乗じ、織田弾正忠家に近い立場にいた鳴海城主・山口教継を調略して寝返らせ、尾張国侵攻への足掛かりを手に入れます。

領国経営・政治手腕

寄親寄子制度

今川領は米の生産量が多くなかったため、今川義元は、国力を高めるために積極的な金山開発を進めます。

そして、金山から得られる莫大な経済的利益を基にして、富国強兵策を進めていきます。

また、今川義元は、領国内の在地豪族たちを統制するに際し、今川家を寄親・在地豪族を寄子とする主従関係を強要し、家臣団に取り込んでいきました。

その結果、寄子の軍事力の総体を、寄親である今川家の軍事力として確保し、これを基に勢力拡大を図っていきました。

今川仮名目録追加(1553年2月)

今川義元は、天文22年(1553年)2月、今川氏親によって大永6年(1526年)4月に制定されていた33条からなる家法である『仮名目録』に、『仮名目録追加21条』を制定して補訂します。

この『追加21条』は、今川家が室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを明確に宣言したもので、内容は、土地などに関する訴訟の裁定基準を示すなど、室町幕府によって義務付けられていた守護不入を否認して完全に守護大名色を払拭するものでした。

また、今川義元は、領国経営能力も高く、商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど優れた行政改革を進めたため、朝倉宗滴からも「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」として武田晴信・織田信長・三好長慶・長尾景虎・毛利元就らと同列に評価されています(朝倉宗滴話記)。

また、公家文化にも精通しており、京都の公家や僧侶と交流するなどして京都の流行を取り入れ、大内家や朝倉家と並ぶ戦国三大文化を築いています。

甲相駿三国同盟(1554年)

今川義元は、三河国・尾張国を巡って織田信秀と争うようになっていたのですが、正室(武田信虎の長女・定恵院)が病死したことにより武田家との同盟関係が失われていたこと、第一次・第二次河東の乱により北条家との反目が生れていたことから東側にも脅威が残されていたため、織田信秀との戦いに専念することができませんでした。

この状況は、武田家・北条家も同様で、武田家は北信濃を巡る上杉謙信・村上義清との戦い、北条家は毎年のように関東に侵攻してくる上杉謙信との戦いに専念する必要がありました。

こうして、今川家・武田家・北条家の思惑が一致したため、武田信玄の仲介により、天文21年(1552年)11月に今川家から武田家へ嶺松院が(甲駿同盟)、天文22年(1553年)1月に武田家から北条家に黄梅院が(甲相同盟)、天文23年(1554年)に北条家から今川家に早川殿が(駿相同盟)それぞれ嫁ぐことによって甲相駿三国同盟が成立します。

そして、この甲相駿三国同盟締結によって北側・東側の安全を得た今川家は、織田信秀の死去による混乱と清州織田家との争いで疲弊をしている織田弾正忠家へ攻勢を強めていきます。

具体的には、織田方の山口教継を調略して獲得した鳴海城を橋頭保として、大高城・沓掛城を次々と攻略していきます。

その後、今川義元は、水野信元が治める緒川城の攻略を考えたのですが、今川方である遠江国側から見ると、緒川城は海を越えた先にありますので、いきなり緒川城に攻め込むのは困難であったため緒川城の真北の場所に緒川城攻めの前線基地とする村木砦(愛知県知多郡東浦町にある八剣神社付近)を建築します。

もっとも、織田信長によって村木砦が破壊されたため(村木砦の戦い)、今川義元の尾張国侵攻作戦は一旦中座します。

今川義元の最期

今川義元隠居(1558年)

弘治元年(1555年)閏10月10日、今川義元を支えた太原雪斎が死亡し、また、永禄元年(1558年)、今川義元は、今川家の家督を嫡男・今川氏真に譲り隠居します。

もっとも、今川義元は、隠居後も、今川家の実質的当主として君臨し、積極的な西進政策を進めていきます。

尾張国侵攻作戦(1560年5月12日~)

そして、今川義元は、永禄3年(1560年)5月12日、駿河国・遠江国・三河国から集めた2万とも4万5000人とも言われる大軍を率いて今川館を出陣し、尾張国を蹂躙すべく、織田信長の居城・那古屋城を目指します(なお、このときの今川義元の尾張国侵攻について、上洛目的だったという説もありますが、北近江浅井家・南近江六角家・伊勢北畠家といった京に向かう途中の大名家に対して外交工作を行った形跡がないこと、この時点では畿内に天下人・三好長慶が君臨していたことなどを考えると、無理がある説ですので、おそらく誤りです。)。

今川義元は、同年5月17日に沓掛城に入った後、織田方に囲まれた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救出するため、松平元康(後の徳川家康)らに命じて大高城周辺の織田方の諸砦を攻略させます。

その上で、今川義元は、本軍を西に進めるため、同年5月18日、沓掛城を出て大高城に向かいます。

桶狭間の戦い(1560年5月19日)

今川義元の動きを知った織田信長が、永禄3年(1560年)5月19日早朝、少数の供廻りだけを連れて清州城を出立し、熱田神宮に入って戦勝祈願を行います。

そして、熱田神宮において遅れてきた将兵を吸収した後、丹下砦を経て善照寺砦に入ります。

その後、織田信長は、中島砦に入った後、暴風雨に紛れて桶狭間にて休息中の今川義元本体に突撃します(正面強襲説)。なお、迂回ルート説(信長記)だと、善照寺砦を出た後、田楽狭間で休息中の今川義元隊を北側(背後)から奇襲をかけたこととなります。

今川義元討死

桶狭間の戦いが織田信長の奇襲だったのか、正攻法による正面衝突だったのかについては意見の分かれるところですが、いずれにせよ、今川義元の首を目指す織田軍と今川軍との乱戦となったことについては、おそらく疑問の余地はないと思います。

そして、乱戦の最中、織田信長の馬廻衆が、退却する今川義元を発見して次々と襲い掛かります。

最初に今川義元に取り付いたのは、織田信長の馬廻衆の1人である服部小平太でした。

服部小平太は、今川義元を発見し、槍で突きかけます。

ところが、今川義元も街道一の弓取りと言われた大大名で武芸の腕も確かですので、一筋縄ではいきません。

服部小平太の槍は今川義元を討ち取るに至らず、逆に今川義元から膝を切られて倒れ伏します(信長公記)。

その後、毛利新介が今川義元に取りつき、激闘の末に、これを組み伏せ、ついにその首を斬り落としました。享年42歳でした。なお、このとき今川義元は最後の意地を見せて、首を掻こうとした毛利新介の指を噛みちぎっています。

このとき掲げられた今川義元の首は、新介の指をくわえたままだったと言われています。

また、今川義元が差していた左文字の刀も戦利品として織田信長に接収され、短刀に作り変えた上で銘を打ち義元左文字と名付けて以降は自分の愛刀としています。そして、義元左文字は、織田信長が本能寺の変で横死するまで信長の手元にあり、本能寺の変の際にも失われることなく、その後紆余曲折を経て現在まで残っています(本稿作成時点では、建勲神社所有で、京都国立博物館に寄託されています。)。

今川義元の討ち死により、今川家は大混乱に陥って離散した結果、この戦いは織田信長の大勝利に終わります。

討ち取られた今川義元の首級は織田信長の下に届けられ、首のない遺体は三河国宝飯郡に埋葬されました。

そして、今川義元の首級は、織田信長によって首実検がなされた後、鳴海城に籠っていた今川家家臣・岡部元信と交渉の結果、鳴海城の明け渡しという交換条件によって今川家に戻されています(なお、このとき今川義元の首級とともに引き渡された兜が岡部家に伝えられ、後に岸和田藩主となった岡部家によって岸和田に運ばれた結果、現在は大阪府岸和田市内所在の三の丸神社に奉納されています。)。

今川義元死後の今川家

桶狭間の戦いの後、今川義元の戦死によって今川家の求心力が失われたと判断した松平元康(後の徳川家康)が西三河で自立(独立)します。

また、同様に、東三河でも戸田氏・西郷氏などが離反、松平氏の傘下へ転属していき、さらには、この混乱が遠江国にも伝播して遠江国も混乱状態となります(遠州錯乱)。

ところが、今川家当主・今川氏真は、この混乱を穏当に鎮める器量がなかったため、強硬的に井伊直親や飯尾連竜などを粛清することで事態の収拾を試みた結果、逆に人心の離反を加速させてしまい、相次ぐ国人領主の離脱を引き起こします。

国人領主たちの支持を失って自国領内を統治できない状態となった今川家は次第に衰退し、永禄12年(1569年)、武田信玄による駿河国侵攻に始まった戦いで武田信玄と徳川家康による侵攻を受けて滅亡に至っています。

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