【寿桂尼】尼御台として今川家を支えた今川義元の母

寿桂尼(じゅけいに)は、今川家の黄金時代を支えた大看板の1人です。

元々は、今川義元の父である今川氏親の正室として京から駿河国に下向してきたお姫様だったのですが、その類稀なる政才により9代氏親、10代氏輝、11代義元、12代氏真の4代にわたって今川家の政務を補佐し、今川家の繁栄に寄与しています。

本稿では、今川家の最盛期を生き、今川家が滅ぶ直前に生涯を終えた寿桂尼の波瀾万丈の人生を見ていきたいと思います。

寿桂尼の出自

出生

寿桂尼は、藤原北家・勧修寺流の権大納言中御門宣胤の子として生まれます。生年や名は不明です。

名は不明なのですが、後に夫となる今川氏親の死後に剃髪して翠光院寿桂(後に長膳院)と号していることから寿桂尼と呼ばれるのが一般的であるため、本稿でも寿桂尼の名で統一します。

今川氏親に嫁ぐ(1508年)

今川家8代当主であった今川義忠が歌人でもあった中御門宣胤(寿桂尼の父)と懇意にしていたこと、今川氏親の姉が中御門宣胤と懇意にしていた正親町三条実望に嫁いでいること、今川家が朝廷とのつながりを求めていたことなどから、今川家において高貴な身分の姫である寿桂尼を求め、その結果寿桂尼が京から駿河国へ下向して今川氏親に嫁ぐこととなったものと考えられます。

寿桂尼の駿河国下向は、永正5年(1508年)と考えられていますが、永正2年(1505年)説などもあり、正確な結婚年月日は明らかとなっていません。

3男3女を儲ける

その後、寿桂尼は、今川氏親との間に、吉良義堯室(徳蔵院)・中御門宣綱室・今川氏輝(永正10年/1513年)・北条氏康室(瑞渓院)・今川彦五郎・今川義元(永正16年/1519年)を儲けます。もっとも、今川義元については、実際は側室の子であり花倉の乱後に寿桂尼が養子に迎えたとする説もあり、寿桂尼の子であるかについては異論があります。

家督争いを避けるため、今川氏親の子のうち、嫡男今川氏輝と次男今川彦五郎を今川家に残し、今川義元を4歳で仏門に入れます(なお、その後、今川義元は、大永5年/1525年に得度して駿河国・富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられ、享禄2年/1529年から太原雪斎に師事しています。)。

今川仮名目録制定(1526年4月)

その後、大永3年(1523年)頃に、今川氏親が中風(脳血管障害による後遺症)を患って寝たきり状態となったため、寿桂尼が今川氏親の補佐をして政治を進めていくようになります。

このとき、死期が迫った今川氏親から今川氏輝への政権交代をスムーズにし、その後の領国経営を安定させるため、大永6年(1526年)4月に分国法である「今川仮名目録」を今川氏親の名で制定します。

この今川仮名目録は、その名のとおり仮名交じりの文で記されていることから、女性である寿桂尼によって起草されたとも考えられますが、他家の分国法にも仮名交じり文のものがあるため必ずしも女性関与の証拠とはなっておらず、その起草者は不明です。

もっとも、病床にあった今川氏親に代わって、寿桂尼や重臣が中心となって今川仮名目録が制定されたことに争いはありません。

尼御台として今川家を支える

今川氏輝を補佐して尼御台と呼ばれる(1526年6月)

大永6年(1526年)6月23日、今川当主である今川氏親が死去したため、14歳であった今川氏輝(今川義元の長兄)が今川家の第10代当主となります。

このとき、寿桂尼は、剃髪して翠光院寿桂と号したのですが、ゆっくりと夫の菩提を弔う人生は許されませんでした。

このとき今川家の家督を継いだ今川氏輝はまだ14歳であったために政務を執るには幼すぎると判断され、16歳になるまでの2年間に限定して寿桂尼が「尼御台」としてこれを補佐することとなったからです。

寿桂尼は、このとき以降、今川氏親と結婚する際に中御門宣胤から与えられた「歸」(とつぐ)の印判を用いて公的文書を発給し、今川家の国務を取り仕切るようになります。なお、寿桂尼が発給した文書は現在25通確認されていますが、そのうちの13通がこのとき今川氏輝を補佐していたときに出されたものです。

今川家の当主が不在となる(1536年3月17日)

ところが、今川氏輝が成長し、いよいよ独り立ちと思われた天文5年(1536年)3月17日、今川氏輝が急死します。

さらに悪いことに、同日、今川家に残っていたもう1人の男子である彦五郎(今川氏輝の弟)までもが急死してしまいます。

同じ日に当主とその弟が死亡していることから、家督争いに伴う暗殺説が強く疑われますが、このころに駿河国に隣接する甲斐国・都留郡で天文5年に疫病が発生していたことなどから(勝山記)、揃って疫病にかかっていても不自然ではないとする見解もあります。

いずれにせよ、当主と有力後継者候補が同じ日に失われた結果、今川家には、家督を継ぐべき後継者男子がいなくなってしまいました。

こうなると、今川家の将来のため、寿桂尼もまた新たな当主を立てるための行動を開始せざるを得なくなります。

花倉の乱

このとき、寿桂尼は、自身と今川氏親との間の最後の男子である栴岳承芳を還俗させ、今川家を継がせようとします。

今川家の将来を考えると当然の行動です。

そこで、寿桂尼は、今川義元の師・太原雪斎、その他重臣たちと共に栴岳承芳を迎えて還俗させ、当時の足利将軍から偏諱を賜って今川義元と名乗らせ、家督承継の手続きを進めていきます。

ところが、このとき、今川家の有力被官であり、今川氏親の側室の父であった福島助春が、今川家の当主の外戚として権力を持とうと考え、自身の娘が生んだ今川氏親の庶子である玄広恵探を擁立しクーデターを起こします。

天文5年(1536年)5月25日、還俗して今川良真と名を改めた玄広恵探の派閥(反今川義元派)の将兵が久能城に集まって挙兵し、今川義元のいる駿河国・今川館を襲撃するも失敗し、現在の藤枝市にある花倉城(現在の藤枝市)に籠ります。なお、反乱者である玄広恵探が花倉城に籠ったため、この乱が花倉の乱と呼ばれます。

ここで相模国・伊豆国を治める大勢力であった北条氏綱と甲斐国を治める武田信虎も今川義元に味方をして、この戦いに介入したため勝負は決します。

北条氏綱・武田信虎の支援を得た今川義元は、同年6月10日、玄広恵探方の方ノ上城と、玄広恵探の篭る花倉城を攻撃して陥落させます。

この結果、花倉城から逃亡した玄広恵探は、瀬戸谷の普門寺にて自刃し、花倉の乱は、寿桂尼が擁立した今川義元の勝利に終わります。

今川家の政治から一旦解放される

今川義元が今川家第11代当主となる(1536年)

今川義元が、花倉の乱に勝利して今川家第11代当主となると、その補佐役は今川義元の師・太原雪斎が担うこととなり、寿桂尼は尼御台の大役から解放されます。

そして、この後、寿桂尼は今川家を陰から支える存在となり、「大方殿(おおかたどの)」と呼ばれて安らかな生活を送ります。

甲相駿三国同盟の一環として北条家から早川殿が送られて来るまでの繋ぎとして北条氏康の四男である北条氏規が人質として駿府に送られてくると、その祖母にあたる寿桂尼がその身柄を預かって養育しています。

そして、弘治2年(1556年)10月2日には、娘(中御門宣綱室)と孫(北条氏規)を連れて駿河湯山に湯治に出かけたと記録されています(言継卿記)。

今川家が最盛期を迎える

今川家を継いだ今川義元は、国力を高めるために積極的な金山開発を進め、そこから得られる莫大な経済的利益を基にして、富国強兵策を進めていきます。

また、今川義元は、領国内の在地豪族たちを統制するに際し、今川家を寄親・在地豪族を寄子とする主従関係を強要し、家臣団に取り込んでいき、寄子の軍事力の総体を、寄親である今川家の軍事力として確保し、これを基に勢力拡大を図っていきました。

さらに、今川義元は、仮名目録に、仮名目録追加21条を制定して補訂するなどして領国経営にも成功し、これらを基にした外征政策でも後に海道一の弓取りと言われる戦国大名への転身を成功させます。

桶狭間の戦い(1560年5月19日)

もっとも、弘治元年(1555年)閏10月10日、今川義元を支えた太原雪斎が死亡すると、今川家に暗雲が立ち込め始めます。

今川義元は、永禄元年(1558年)に今川家の家督を嫡男・今川氏真に譲って隠居し、自らは今川家の実質的当主として君臨し、積極的な西進政策を進めていきます。

もっとも、永禄3年(1560年)5月19日に桶狭間で今川義元が討死すると、カリスマを失った今川家では国衆の離反が相次ぎ急速に力を失っていきます。

寿桂尼の最期

今川家の政治に復帰

カリスマ当主であった今川義元が討ち取られたことにより今川家が没落していくのを見ていた寿桂尼は、今川氏真では難曲を打開できないと判断し、再び尼御台として政治に参加し、なんとか今川家を繋ぎ止めようと試みます。

もっとも、今川家の混乱を見た武田信玄が、戦局が膠着した北部戦線よりも混乱する駿河国の方が切り取りやすいと判断し、甲相駿三国同盟を破棄して駿河国へ侵攻を決断します。

寿桂尼死去(1568年3月14日)

そして、この今川家の難局の最中である永禄11年(1568年)3月14日、没落していく今川家の精神的支柱であった寿桂尼が駿河国今川館で死去します。正確な享年は不明ですが、婚姻年齢から推測すると80歳代中ごろと思われます。

戒名は「龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼」でした。

その後、寿桂尼の遺体は、滅びゆく今川家の未来を案じた寿桂尼の「死しても今川の守護たらん」という遺言により、今川館の鬼門(東北)の方角にある龍雲寺(静岡県静岡市葵区沓谷)に埋葬されました。

なお、龍雲寺には寿桂尼の墓と言われる石塔があり、同寺が寿桂尼の菩提寺とされています。

今川家滅亡

寿桂尼の死後も今川家の危機的状況は改善せず、永禄11年(1568年)12月に始まった武田信玄による駿河国侵攻作戦の結果、今川氏真は駿河国を捨て遠江に落ち延びた後に徳川家康に降伏し、戦国大名としての今川家が滅亡しています。

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