【北条氏綱】「北条」へ改姓し本拠を小田原城に移転させた後北条2代目当主

北条氏綱(ほうじょううじつな)は、後北条氏第2代当主です。

北条5代の中ではもっとも知名度が低いかもしれませんが、「伊勢」姓から「北条」姓へ改姓し、本拠地を小田原城移転させるなど、後の北条家の発展の基礎を築き上げた人物です。

また、統治者としても優秀であり、 伊勢宗瑞(伊勢盛時・北条早雲)の後を継いで武蔵国南部・駿河国東部・下総国・上総国の一部にまで拡大させています。

そこで、本稿では、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる大人物・北条氏綱の生涯について見ていきたいと思います。

北条氏綱の出自

出生(1487年)

北条氏綱は、長享元年(1487年)、伊勢宗瑞 (伊勢盛時、北条早雲)の嫡男として生まれます。母は、伊勢宗瑞の正室・幕府奉公衆小笠原政清の娘・南陽院殿です。

幼名は伊豆千代丸といい、元服に際し、伊勢氏綱を名乗り、通称は父と同じく新九郎を称しました。

伊勢氏綱の「氏」は、以降の当主が代々通字として用いており、伊勢宗瑞の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられていますが、伊勢氏綱の元服時にはまだ父・伊勢宗瑞が今川氏親の重臣であったことから今川氏親から偏諱として与えられたものとも考えられています。

なお、北条氏綱は、大永3年(1523年)に「北条」姓に改姓するまで、「伊勢」姓を名乗っていたのですが、本稿では便宜上、「北条氏綱」の標記で統一します。

伊勢宗瑞による伊豆国・相模国平定

伊勢宗瑞は、駿河国・今川家の客将として東駿河国・富士下方12郷と興国寺城(現在の沼津市)を与えられた後、伊豆国北部を切り取って居城を韮山城に移し、明応4年(1495年)ころには小田原城を奪取し、相模国西部を支配下に治めます。

この後、北条氏綱は、切り取った相模国・小田原城に在番していたと推定されています。

その後、伊勢宗瑞は、伊豆国南部(1498年8月平定)、相模国東部(1516年7月)を切り取り、伊豆国及び相模国全域を支配下に治めます。

家督相続(1518年)

一代で伊豆国・相模国を切り取り、戦国大名の先駆けとなった伊勢宗瑞でしたが、老には勝てず、永正15年(1518年)、家督を嫡男・北条氏綱に譲ります。

なお、北条氏綱の家督相続を機に、北条氏(伊勢氏)は虎の印判状を用いるようになり、印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えるなどして領国支配を進めていきます。

また、北条氏綱は、家督相続に伴う代替わり検地の実施や安堵状の発給を行っています。

そして、永正16年(1519年)に父・伊勢宗瑞が死去したため、名実共に伊勢氏(北条氏)の当主として活動を開始します。

そして、北条氏綱は、父・伊勢宗瑞の領土拡大政策を継承し、永正16年(1519年)ころから房総半島に出兵して小弓公方・足利義明と真里谷武田氏を支援したのですが、伊勢氏(後北条氏)と対立関係にあった扇谷上杉家が足利義明を支持する立場となったために、同盟関係に近い関係となり、その後のしばらく軍事行動を控えることとなり、しばらくは内政にいそしむこととなりました。

本拠地を小田原城に移転

伊勢家の家督を継いだ北条氏綱は、本格的な武蔵国侵攻を見据え、永正15年(1518年)または翌永正16年(1519年)ころに、本拠地をそれまでの韮山城からそれまで在番していた相模国・小田原城に移します。

なお、小田原城は、伊勢宗瑞による獲得直後と、永禄9年(1566年)ころに2度に亘って大改築が行われています。

「北条」姓へ改姓(1523年)

伊勢宗瑞は、京から駿河国へ下向した後、自らの力で伊豆国及び相模国の全域を平定したのですが、最後まで今川家の客将(重臣)の立場から脱却することはなく、ましてや幕臣とはいえ関東地方に縁もゆかりもなかった伊勢家(北条家)に、関東支配の正当性はありません。

しかも、伊勢宗瑞は、堀越公方を滅亡させ、山内・扇谷両上杉家の領土を侵食していきましたので、旧勢力・関東の国衆からすると侵略者に過ぎず、これに従う理由がありません。

そこで、伊勢宗瑞の後を継いだ北条氏綱は、伊豆国・相模国支配の正当性担保が必要であると考えます。

このとき、北条氏綱は、自ら(伊勢家)の関東支配の正当化するため、かつて関東を支配した北条氏の末裔であるとして姓を北条に改めることにより、自ら(伊勢家)の関東支配の正当性を担保することとします。

悪く言うと、室町幕府の権力機構である関東管領・上杉家に対抗するため、旧組織である鎌倉幕府の権力に便乗したとも言えます。

こうして、北条氏綱は、大永3年(1523年)、それまでの「伊勢」姓を「北条」姓に改め、以降、北条氏綱と名乗ることとなりました。

なお、かつては、北条氏綱が、伊勢氏とは全く無関係の執権北条(鎌倉北条)姓を勝手に名乗ったと言われてきましたが、近年の調査で正室の養珠院殿が執権北条氏の末裔とされる横井氏(横江氏)の出身であった可能性が指摘されており、今日では単なる自称ではなく朝廷に願い出て正式に認められたものであると考えられています。

その証左として、北条姓への改称の数年後には執権北条氏の古例に倣った左京大夫に任じられ、家格の面でも周辺の今川氏や武田氏、上杉氏と同等の扱いとなっているようです。

武蔵国南部獲得

小机領侵攻

前記のとおり、北条家と扇谷上杉家は、小弓公方・足利義明を介して良好な関係を保っていたのですが、北条氏綱による北条姓への改姓が、扇谷上杉家への一種の敵対表明となり、再び北条家と扇谷上杉家との関係が悪化します。

この関係悪化に伴い、北条氏綱は、本拠地・小田原城から出陣し、扇谷上杉家が治める武蔵国南西部への侵攻を開始します。

そして、南西方向から武蔵国に入った北条氏綱は、廃城していた小机城を再築し、そこに笠原信為を城主として配置し、さらに大永2年(1522年)から大永4年(1524年)にかけて小机衆を組織して武蔵国侵攻への橋頭堡とします。

その上で、北条氏綱は、大永3年(1523年)までに武蔵国南西部の久良岐郡(横浜市の西部に相当)、武蔵国西部・南部の国人を次々に服属させ、武蔵国に勢力を広げていきます。

江戸城獲得

支配地域を侵食されていくことに危機感を持った扇谷上杉朝興は、山内上杉家と協力して北条氏綱に対抗したのですが、大永4年(1524年)1月、扇谷上杉家の家臣の江戸城代・太田資高が北条氏綱方に寝返ったことにより戦局が北条氏綱方に傾きます。

江戸城を味方につけた北条氏綱は、そのまま武蔵国・東部へと進んでいきます。

これに対処するため、扇谷上杉家・上杉朝興が兵を繰り出したため、大永4年(1524年)1月13日、両軍が高輪原で激突します(高輪原の戦い)。

この戦いは、北条氏綱が勝利し、敗れた扇谷上杉軍は、江戸城を放棄して本拠地・河越城に撤退します。

こうして、北条氏綱は、武蔵国南部を概ね平定し、その勢いのまま扇谷上杉家の支城である太田資頼が守る岩槻城を(岩槻城の戦い)・蕨城を立て続けに攻略します。

もっとも、扇谷上杉家の本拠地・河越城に近づくにつれ、その抵抗も強く、さらに北条氏綱を脅威と見た山内上杉家・上杉憲房が扇谷上杉家を支援したことで北条軍の足が止まります。

扇谷上杉家の逆襲

北条軍の勢いを止めた扇谷上杉家・上杉朝興は、山内上杉家・上杉憲房の協力を得て勢力を立て直した上、古河公方・足利高基と和睦し、さらに甲斐守護武田信虎とも結んで北条氏綱への反撃を開始します。

多くの敵に囲まれて一気に苦しくなった北条氏綱方では、大永4年(1524年)6月18日に太田資頼が離反して扇谷上杉家に帰参したり、同年7月20日に武田信虎により武蔵国・岩槻城を落とされたりするなどして、戦線を維持することができなくなります。

そのため、北条氏綱は、やむなく毛呂城引き渡しを条件として扇谷上杉家・上杉朝興と和睦を結びます。

その後、再び戦力を整えた北条氏綱は、大永5年(1525年)2月に和睦を破棄して岩槻城を奪還するも、扇谷上杉家・山内上杉家の逆襲にあい、大永5年(1525年)から大永6年(1526年)にかけて次々と獲得した武蔵国の諸城を奪還され、相模国・玉縄城にまで迫られる事態に陥ります。

北条氏綱包囲網

このとき、北条氏綱方の苦境を見て、北条家と友好関係にあったはずの上総国・真里谷武田家、古河公方と対立していたはずの小弓公方・足利義明、安房国・里見家までもが、次々と反北条氏綱方に加勢します。

弱った者に群がる戦国時代の常です。

これにより、新興勢力である北条氏綱に対する、関東旧勢力連合による反北条氏綱包囲網が出来上がり、北条氏綱は四面楚歌に陥ります。

そして、大永6年(1526年)5月には、里見軍に本拠地に近い鎌倉にまで迫られ、鎌倉・鶴岡八幡宮が焼失するという事態にまで陥ります。

包囲網の瓦解

八方塞がりとなった北条氏綱は、反北条氏綱包囲網を打開すべく、1つ1つ対応していきます。

まず、大永7年(1527年)に小弓公方・足利義明の間で和睦を成立させます。

次に、天文2年(1533年)に里見家で起こった里見義豊が叔父の実堯と正木時綱を粛清するという内紛に乗じ、実堯の遺児・義堯を援助して里見義豊を滅ぼさせ里見家の包囲網からの脱落させます。

さらに、上総真里谷武田氏でも内紛が起きたため、房総半島の諸勢力を反北条氏綱包囲網から除外させることに成功します。

さらに、天文6年(1537年)にタイミングよく扇谷上杉家当主・上杉朝興が死亡してわずか12歳の上杉朝定が扇谷上杉家を継いだのですが、幼い当主の擁立に家中に動揺が走った扇谷上杉家では北条氏綱との戦いどころではなくなります。

こうして、北条氏綱包囲網は、敵陣営の内紛・家督相続により瓦解します。

武蔵国半国平定

ところが、転んでもただは起きないのが北条氏綱です。

散々苦しめられた反北条氏綱包囲網に対する仕返しとばかりに、家督承継騒動のゴタゴタの隙を突き、扇谷上杉家の武蔵国河越城・松山城を攻略し、武蔵国内に一気に勢力を広げていきます。

こうして、北条氏綱は、天文6年(1537年)までに武蔵国内の広範囲を制圧し、河越城城代として三男の北条為昌を入れ、武蔵国支配を進めます。

駿河国・河東地域獲得

盟友・今川家との決別

北条家は、北条氏綱の父・伊勢宗瑞の代より形式的には駿河国・今川家の臣下という立場でした。

そして、北条家は、今川家と協力して(駿相同盟)、甲斐国・武田家との争いを繰り返していました。

構造としては、今川・北条vs武田だったのです。

ところが、この構造を一変させる事件が起こります。

天文5年(1536年)に今川家で家督相続を巡る騒動が起こり(花倉の乱)、北条氏綱が支持した栴岳承芳が勝利し、今川義元として家督相続したのですが、このとき甲斐国・武田信虎もまた栴岳承芳(今川義元)を支持していたことから事態が複雑化します。

今川義元としては、自身の家督承継に協力をしてくれた武田信虎を蔑ろにすることなどできようはずがありません。

そこで、今川義元は、甲斐国・武田家が北条家と敵対していることを知りながら、天文6年(1537年)2月、武田信虎の娘・定恵院を娶ることにより、今川・武田同盟(甲駿同盟)を成立させます。

この話を聞いた北条氏綱は激怒します。

主家とはいえ、今川家が北条氏綱の断りもなく、北条家の長年の宿敵である武田家と結んだのです。

北条氏綱としては、許せるはずがありません。

河東の乱

激怒した北条氏綱は、天文6年(1537年)2月下旬、今川家との主従関係(相駿同盟)を破棄し、駿河国の河東地方である富士郡・駿東郡に侵攻します(河東の乱)。なお、これにより北条家は、完全に今川氏による支配構造から脱却し、以降は、独立の戦国大名として活動していくこととなります。

今川義元は、直ちに迎撃の軍を出しましたが、北条氏綱はそのまま富士川以東の河東地域を占拠します。

河東を占拠した北条氏綱は、今川家の継承権争いで今川義元と反目していた遠江(静岡県西部)の堀越氏(北条氏綱の娘が堀越貞基に嫁いでいました。)、井伊氏、三河戸田氏、奥平氏等と手を結び、今川軍を挟撃したため、この対応に追われた今川義元は、そのまま河東地域を北条氏綱に奪われてしまいます。

下総国へ影響力を及ぼす

葛西城攻略(1538年)

さらに、北条氏綱は、天文7年(1538年)には葛西城を攻略し、房総半島への足がかりを得ます。なお、このときの北条氏綱の葛西城攻撃に対し、小弓公方・足利義明が扇谷上杉家への援軍を出したため、北条氏綱と足利義明とが全面対決することとなりました。

もっとも、このときの北条氏綱による房総半島進出は、小弓公方と対立する古河公方の利害と一致したため、北条氏綱は、古河公方足利晴氏から小弓御退治を命じられることとなり、房総半島進出の大義名分を得ます。

第一次国府台合戦(1538年10月7日)

葛西城を橋頭保として房総半島に侵食してくる北条氏綱に対し、小弓公方・足利義明は、北条氏綱らが足利将軍家の一族に本気で弓引くことはないと過信し、自ら江戸川を渡河する北条軍を討つと主張して出陣することとなります。

足利義明の指揮では北条氏綱に勝ち目がないと考えた里見義堯は、足利義明を援けて敗戦の巻添えを食うよりは足利義明を見殺しにしてその「空白域」に勢力を伸ばそうと考え、主戦場になるであろう松戸方面ではなく、その裏道(退路として利用可能な)である市川側からの挟撃に備えると称して戦線から離脱します。

天文7年(1538年)10月7日、根来金石斎(大藤信基)の進言により渡河を終えた北条軍は、下総国・相模台(現在の松戸市)において、小弓公方軍とで衝突します。

その後、天文17年(1538年)下総国・国府台で足利高基(古河公方)と足利義明(小弓公方)との決戦があり、初めは小弓軍優勢であったものの、次第に数で優勢な北条軍が押し始め、足利義明が北条軍が放った矢に当たって戦死するという事態に陥ります。

そして、足利義明戦死の報を聞いた里見義堯が、一度も交戦することなく戦場を離脱したため、小弓公方軍は崩壊します。

下総国に影響力を及ぼす

小弓公方を蹴散らして勢いに乗る北条軍は、小弓城、真里谷城を立て続けに押さえていき、小弓公方が滅亡して戦いが終わります。

戦いの後、北条氏綱は、真里谷信応を降伏させて再び異母兄・信隆を真里谷氏当主にして下総国にまで勢力を及ぼすこととなります。

他方、合戦に参加せずに戦力を温存した里見義堯は、足利義明の死と真里谷信隆の復帰によって権力の「空白域」と化した上総国南部に進出し、真里谷氏の支配下にあった久留里城・大多喜城などを占領して房総半島の大半を手中に収め、後に北条家と対立していくこととなります。

北条氏綱の最期

政治的地位を得る

古河公方に味方して小弓公方を滅亡させた北条氏綱は、古河公方・足利晴氏から関東管領の補任を受けます(伊佐早文書・もっとも、関東管領補任は幕府の権限である上、関東管領山内上杉憲政が存在することから、正式なものとは言えません。)。

また、北条氏綱は、天文8年(1539年)に娘の芳春院を古河公方・足利晴氏に嫁がせることによって古河公方との紐帯を強め、足利氏の「御一家」の身分も与えられています。

支城体制の確立

父・伊勢宗瑞の勢力拡大政策を引き継いで、武蔵国・駿河国・下総国・上総国の一部にまで勢力を拡大させた北条氏綱は、小田原城を本城とし、伊豆国の韮山城、相模国の玉縄城、三崎城(新井城)、武蔵国の小机城、江戸城、河越城などを地域の主要支城として支城ネットワーク体制を確立し、各々領域支配を進めていきます(なお、これらの各主要支城を核とし、さらにより小規模の支城・砦などのネットワークを構築します。)。

そして、北条氏綱は、中世になって廃絶していた伝馬制度を復活させて領内における物資の流通・輸送を整備し、検地によって増分した田地や公収した隠田そして交通の要所に積極的に御領所(直轄地)を設置し、その代官には信頼できる側近を任命するなどの内政を行います。

北条氏綱死去(1541年7月19日)

その後、北条氏綱は病に倒れ、天文10年(1541年)7月19日に死去します。享年は55歳でした。

隠居の有無が不明であることから、生前の家督承継だったのかは不明ですが、北条氏綱は、死の直前である同年5月に、嫡男・北条氏康に対して、5か条の訓戒状を伝えています。

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