【花倉の乱】海道一の弓取り今川義元の家督相続

花倉の乱・花蔵の乱(はなくらのらん、はなぐらのらん)は、天文5年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名・今川家の家督を巡る内乱(お家騒動)です。

後に海道一の弓取りと言われる今川義元の家督相続のきっかけとなった戦いでもあります。

今川義元(還俗前は栴岳承芳)、母・寿桂尼、師・太原雪斎と、今川良真(還俗前は玄広恵探)との戦いという、僧侶と尼の殺し合いというシュールな戦いです。

花倉の乱に至る経緯

今川氏親による勢力拡大

駿河国を治める今川家9代当主であった今川氏親は、公家出身の寿桂尼との結婚によって京とのつながりが強まり、京の文化を駿府に取り入れ、妻の寿桂尼の補佐の下で政治を行います。

この点、今川氏親には、正室・寿桂尼との間に、竜王丸(後の今川氏輝)、彦五郎(彦五郎は庶子であったの説もあります。)、芳菊丸(後の栴岳承芳・今川義元)という三人の男子を設けたのですが、後のお家騒動を防ぐため、嫡子・竜王丸と、その予備として彦五郎を家に残し、芳菊丸は大永5年(1525年)に得度させて富士郡瀬古の善得寺(静岡県富士市)に入らせます。なお、その後、栴岳承芳(今川義元)は、京に向かい太原雪斎の下で修業に励みます。

このようにして内政を固めながら駿河国を統一した今川氏親は、伊豆国・相模国を支配下においた伊勢宗瑞(北条早雲)と協力し、今川氏は西へ、伊勢氏(北条氏)は東へとその勢力を拡大させていきます。

そして、斯波氏を駆逐して遠江国にまでその勢力を及ぼしていった今川氏親でしたが、病に侵され、死が近づいてきます。

自らの死期を悟った今川氏親は、未だ成人していない嫡男・今川氏輝への家督相続を確実なものとするため大永6年(1526年)4月には、戦国時代の代表的な分国法である今川仮名目録を制定するなどして家中の統制を図り、今川家の発展の基礎を築いていきます。なお、今川仮名目録が、今川氏親が死亡する2か月前に制定されていますので、おそらくその目的はであったと考えられます。

今川氏親病死(1526年6月23日)

今川氏親は、大永6年(1526年)6月23日に死去し、まだ14歳であった今川氏輝が今川家の第10代当主となります。

まだ若い当主のみでは家中を取りまとめることが困難であったため、母寿桂尼が補佐して領国経営が行われます。特に、今川氏輝の家督相続2年間は、寿桂尼が自身の「歸」(とつぐ)の印判を用いて公的文書を発給し今川氏の国務を取り仕切っていました。

その後も、今川氏親の勢力拡大路線を継承し、遠江国からさらに西側の松平家が治める三河国を狙う今川氏輝でしたが、今川氏輝は病弱であったためにその無理に侵攻を進めず、対立していた甲斐の武田家と和睦し、一門衆や有力被官の合議制を確立させた上で分国統治を整備していきます(三河国で松平家が勢力を伸ばしたために攻略困難と判断したとも言えます。)。

今川氏輝・彦五郎急死(1536年3月17日)

そんな中、天文5年(1536年)3月17日、今川家10代当主であった今川氏輝が急死します。

しかも、同日に、今川家に残っていたもう1人の今川氏輝の弟・彦五郎までも急死します。

同じ日に当主とその弟が死亡していることから、家督争いに伴う暗殺説が強く疑われますが、このころに駿河国に隣接する甲斐国・都留郡で天文5年に疫病が発生していたことなどから(勝山記)、揃って疫病にかかっていても不自然ではないとする見解もあります。

理由は不明ですが、いずれにせよ当主と有力後継者候補が同じ日に失われたことは事実です。

この結果、今川家には、家督を継ぐべき後継者男子がいなくなってしまいました。

今川家大混乱です。

栴岳承芳還俗

ここで、今川家として当然の動きにでます。

今川氏親の最後の嫡子であった栴岳承芳を還俗させ、今川家を継がせようとしたのです。

今川氏親正室であり今川義元の母でもある寿桂尼、今川義元の師・太原雪斎、その他重臣たちが栴岳承芳を迎え、かつ当時の足利将軍から偏諱を賜って今川義元と名乗らせ、家督承継の手続きを進めていきます。

花倉の乱

福島助春の暗躍

ところが、ここで今川義元の家督相続について今川家中で反対者が現れます。

今川家の有力被官であり、今川氏親の側室の父であった福島助春です。

福島助春は、今川家の中で遠江国、甲斐国方面の外交や軍事を担う有力者であったのですが、自身の娘が生んだ今川氏親の庶子である玄広恵探を擁立し、今川家の当主の外戚として権力を持とうとしたためです。

今川家中が割れるのを嫌った寿桂尼は、天文5年(1536年)5月24日、玄広恵探派の福島越前守(福島正成と同一人物?)と面会し、これを説得して家中を一本化しようと試みたのですが失敗に終わります。

今川館襲撃(1536年5月25日)

そればかりか、天文5年(1536年)5月25日、還俗して今川良真と名を改めた玄広恵探の派閥(反今川義元派)の将兵が久能城に集まって挙兵し、今川義元のいる駿河国・今川館を襲撃します。

もっとも、今川館の守りは堅く、玄広恵探らの攻撃は失敗に終わります。

敗れた玄広恵探は、現在の藤枝市にある花倉城(葉梨城)に籠って同調者を募ります。なお、反乱者である玄広恵探が花倉城に籠ったため、この乱が花倉の乱と呼ばれます。

玄広恵探は、花倉城・方ノ上城(焼津市)などを拠点として、同志を集め、徐々にその勢力を拡大させていきます。

玄広恵探自刃(1536年6月10日)

ところが、ここで事態が一気に動きます。

相模国・伊豆国を治める大勢力であった北条氏綱が今川義元に味方し、この戦いに介入したのです。

さらに、甲斐国を治める武田信虎も今川義元に味方をして、この戦いに介入します。

こうなると、勝負は明らかです。

北条氏綱・武田信虎の支援を得た今川義元は、同年6月10日、玄広恵探方の方ノ上城を陥落させます。

続いて、同日、玄広恵探の篭る花倉城を攻撃してこれも陥落させます。

花倉城から逃亡した玄広恵探は、瀬戸谷の普門寺にて自刃し、花倉の乱は、今川義元の勝利に終わります。

花倉の乱の後

花倉の乱に勝利し、晴れて今川家第11代当主となった今川義元は、今川家の発展を受け継ぎ、寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも後に海道一の弓取りと言われるほどの才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させます。

また、今川義元は、それまでの縁戚関係にあった相模国・北条家重視の外交方針を一変させ、甲斐国・武田家重視へとシフトします。

今川義元が武田信虎の娘を正室に迎えたり、今川義元の紹介で公家の娘(三条夫人)を武田晴信(信玄)の正室に迎えさしたりして両家の絆を深めていったのです。

その後、今川義元は、駿河国・遠江国から、三河国や尾張国の一部にまで領土を拡大させ、今川家の最盛期を築き上げていくこととなります。

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