【今川氏真】戦国大名・今川家を滅亡させた今川義元の嫡男

今川氏真(いまがわうじざね)は、海道一の弓取りと言われた戦国大名である駿河・遠江守護であった今川義元の嫡男であり、今川家12代当主です。

家督相続時には、駿河・遠江・三河を領有する大大名だったのですが、父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれた後は領国の混乱を鎮めることができず、数年のうちに徳川家康に三河国を奪われてしまいます。

また、残った駿河・遠江についても、武田信玄と徳川家康の同時侵攻から守りきれず、ついには遠江国を徳川家康に、駿河国を武田信玄に奪われて、戦国大名としての今川家を滅亡に追い込んでいます。

大名家を滅亡させた後も、正室であった早川殿の実家である北条氏を頼って生き延び、最終的には大名家であった今川家を滅亡させた徳川家康に臣従して生き延びていることから暗君としての評価を不動のものとしています。

今川氏真の出自

出生(1538年)

今川氏真は、天文7年(1538年)、海道一の弓取りと言われた大大名・今川義元の子として生まれます(なお、生年は「寛政重修諸家譜」に記された没年齢からの逆算によるものです。)。

母は、今川義元の正室であった定恵院(武田信虎の娘)であり、幼名は龍王丸、通称は五郎または彦五郎といいました。なお、本稿では、便宜上「今川氏真」の表記で統一します。

今川氏真は、駿府において時期今川家当主となるために育てられ、そこでは今川家が駿河・遠江・三河の各所から集められた人質と交流がありました。

北条氏康娘を室に迎える(1554年7月)

武田・北条・今川の間で思惑が一致して三国間の軍事同盟が結ばれることに決まると、天文23年(1554年)7月 、17歳となっていた今川氏真は、北条氏康の娘である早川殿を室に迎えます。

また、それ以前に、天文21年(1552年)11月27日に今川家から嶺松院(今川氏真の妹)が武田信玄の嫡男であった武田義信に嫁いでおり、また天文22年(1553年)正月には武田家から黄梅院が北条氏康の嫡男であった北条氏政と婚約していたのと合わせて、これらの3つの姻戚関係によって武田・北条・今川の甲相駿三国同盟が成立しています。

なお、成人した今川氏真は、弘治2年(1556年)から翌年にかけて駿河国を訪問した山科言継の日記である「言継卿記」に登場し、駿府において和歌や蹴鞠に勤しんでいた状況が描かれています。

また、時期は前後するのですが、今川氏真は、冷泉為和から和歌を、飛鳥井雅綱から蹴鞠を、塚原卜伝から剣術を学んだ文化人でした。

家督相続(1558年ころ)

その後、正確な時期は不明ですが永禄元年(1558年)ころ、今川氏真は、今川義元から今川家の家督を譲り受けます(この家督相続時期が永禄元年(1558年)ころとされるのは、同年から駿河国・遠江国において今川氏真名での発給文書が現れることをその根拠としています。)。

今川家の家督を譲り受けたことにより駿河・遠江・三河を治める大大名となった今川氏真でしたが、同年以降も、三河国への文書発給は今川義元名で行われていることから、今川義元は隠居後も今川家の実質的当主として君臨し、三河国の掌握と尾張国への西進政策を進めていたものと考えられています。

今川義元討死(1560年5月19日)

今川家の西進政策を進めていた今川義元が、今川家の領国であった駿河国・遠江国・三河国から2万5000人とも言われる大軍を動員して尾張国に侵攻したところで、永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いで織田信長に打ち取られるという大事件が起こります。

この桶狭間の戦いにより、今川領の統治を一手に引き受けていたカリスマ・今川義元を含め、これまで今川家を支えた重臣・国衆達の多くが討死したため、今川家中・領国は大混乱に陥ります。

若く統治経験の浅い今川氏真では、この混乱を鎮めることが出来ません。

若き今川氏真は、祖母である寿桂尼の後見を受けながら相当数の文書発給を行い、領国内の国衆・寺社・被官等の繋ぎ止めを図ります。

相次ぐ離反

また、今川氏真は、領国内の混乱を鎮めるため、自ら軍を編成してこれらの鎮圧をしようとしたのですが、間が悪いことに、越後国の長尾景虎が関東出兵を繰り返していたことにより北条氏康から援軍要請を受け、永禄4年(1561年)3月に関東に援軍を派兵してしまったため今川領国の鎮圧が後手に回ってしまいます。

やむなく、今川氏真は、領内の鎮圧には幕府の権威を借りようと考え、永禄4年(1561年)に室町幕府の相伴衆の格式に列したものの(正式に御相伴衆となったのは永禄6年/1563年5月)、全く意味を成しませんでした。

領国内が混乱している状況下で、さらに北条家との関係を悪化させないようにと考えて北条を優先した今川氏真の考えが完全に裏目に出ます。

三河国を失う

松平元康に独立の動き

今川氏真は、桶狭間の戦いの後も敵対する織田家に対しては、西三河・岡崎城に松平元康(後の徳川家康)を入れてこれに対抗させていたのですが、再三、松平元康から届く援軍要請の使者を無視します。

織田軍と敵対する程の国力を有しない松平元康は、今川氏真からの後詰がないことに苦しみ、それまで今川家による対織田戦の最前線に立たされて犠牲を被ってきた松平家臣団からも不満の声が上がります。

この状況に頭を悩ませた松平元康は、後詰を出さない主君に尽くす義理はないと考えて今川氏真を見かぎり、三河国で独り立ちする決意を固めてその準備に取り掛かります。

また、この状況は松平元康に限ったものではなく、西三河・東三河・奥三河・遠江国など今川領全域で同じ動きが起こります。

ここで、松平元康は、独立準備として、三河国内の反今川の意向を持つ勢力に調略を仕掛け、同じく今川家支配に不満を募らせていた東三河の国衆であった菅沼定盈・西郷正勝・設楽貞通の3家の調略に成功します。

松平元康離反(1561年4月11日)

東三河の有力国衆であった設楽氏・菅沼氏・西郷氏の協力を取り付けた松平元康は、一気にそのまま東三河における今川方の重要拠点である牛久保城攻略を図ります。

松平元康は、牛久保衆の稲垣林四郎・牧野弥次右兵衛尉・牧野平左衛門尉父子などの有力家臣を調略した上で、永禄4年(1561年)4月11日夜、牛久保城へ奇襲攻撃をしかけます(牛久保城の戦い)。

もっとも、牛久保城に残っていた真木定安らは必死に奮戦したこと、賀茂から稲垣重宗が戻ってきたことなどから、松平元康による牛久保城奇襲は失敗に終わり、他方で、松平元康による牛久保城攻撃により、今川氏真が松平元康の離反を知ることとなります(今川氏真が鈴木重時と近藤康用に宛てた永禄10年8月5日付文書に「去酉年四月十二日岡崎逆心之刻」と記しています。)。

西三河を奪われる(1561年9月)

その後、松平元康は、永禄4年(1561年)4月15日、調略によって奥三河・田峯菅沼家の菅沼定忠を従属させます。

この結果、三河国では、東三河の菅沼定盈・西郷正勝・元正・設楽貞通、奥三河の菅沼定忠らが松平元康に与し、他方西三河の吉良義昭、東三河の鵜殿長照、奥三河の奥平定能、遠江国の井伊谷三人衆などが今川方に与することとなり、三河国を二分する戦いに発展していくこととなりました。

この後、永禄4年(1561年)9月13日に藤浪畷で吉良軍を破ったことにより敗れた吉良義昭が松平元康に降伏して東条城が徳川方に落ちたことにより松平元康が西三河の大部分を手にし、逆に今川氏真が西三河を失います(徳川家康による西三河平定)。

その後、永禄4年(1561年)9月に織田信長と和睦した松平元康は、永禄5年(1562年)2月4日に東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛した上で、今川氏真に対し、これと駿府にて人質となっていた松平元康の正室・築山殿、嫡男・竹千代、長女・亀姫との人質交換を持ち掛けます。

今川氏真としても、鵜殿一族が今川家の一門衆であったため鵜殿氏長・鵜殿氏次を捨て置かないと判断し、やむなく松平元康の提案に応じ、人質交換にて築山殿・竹千代・亀姫を岡崎に送ってしまいます。

なお、今川氏真は、この松平元康の一連の反逆行為に対し、永禄5年(1562年)松平元康の正室(瀬名姫・築山殿)の父である関口親永に切腹を命じて駿府屋形町の屋敷にて切腹させたとされていますが(松平記)、永禄7年(1564年)5月や永禄9年(1566年)9月の今川氏真が記した文書に「関口伊豆守」の知行についての記載があるため真偽は不明です。

西三河を制圧した松平元康は、永禄4年(1561年)正月ないし永禄5年(1562年)正月になされた足利義輝の仲介や、北条氏康の仲介を無視し、永禄5年(1562年)正月ないし3月には今川家と断交した上で旧敵であった織田信長と結ぶことを選んだため(清洲同盟)、ここで松平元康と今川氏真とが正式に敵対関係に立つこととなります。

東三河を奪われる(1566年5月)

松平元康が西三河平定戦を進めていた際、東三河でも混乱が生じていました。

永禄4年(1561年)に野田城主であった菅沼定盈が今川方から松平方へ鞍替えしたのをきっかけとして、今川氏真が家臣の小原鎮実に命じて菅沼定盈から預かっていた人質10数名を龍拈寺で処刑したところ、これに反発した東三河国衆の離反が加速します。

また、松平元康が永禄5年(1562年)2月に今川方の牛久保城を攻撃した際には、今川氏真は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したのですが、「一宮の後詰」と呼ばれる松平元康の奮戦で撃退されたことも今川氏真の威信を低下させます。

今川氏真は、東三河の混乱を鎮めようとして、国衆に対し新たな人質を要求したためにさらに東三河の国衆達の反発が強くなり、今川方に残る国衆と松平方に鞍替えする国衆とで争いがおこります(三州錯乱)。

この混乱に乗じて、松平家康(永禄6年/1563年6月ころに松平元康から改名)は、永禄7年(1564年)2月に奥平定能が守る作手亀山城、戸田重貞が守るニ連木城を攻略し、同年6月には東三河の今川方の拠点である吉田城を陥落させます(徳川家康による東三河平定)。

その後、松平家康は、永禄9年(1566年)5月に牛久保城の牧野成定を降伏させ、この牛久保陥落により、今川氏真は、東三河を失い、これにより三河国全域が松平家康のものとなります。

遠江国を失う

遠州錯乱(遠州忩劇)

松平家康の独立に端を発した三河国のゴタゴタ劇を鎮められないことでを今川家の求心力は地に落ち、遠江国(及び駿河国)の国衆達もまた、それまでどおり今川家に奉公するか、尾張国の織田家・三河国の松平家につくか、はたま甲斐国の武田家につくかの選択に迫られるようになります。

① 井伊直親粛清(1563年)

そんな中、永禄5年(1562年)3月もしくは12月、今川氏真の下に、小野政次から井伊谷を本拠地とする遠江国の有力国衆であった井伊直親が松平元康(後の徳川家康)と内通している疑いがあるとの報告がもたらされます。

今川氏真は、この疑いを質すため、井伊直親を駿府に呼びつけたのですが、同年12月14日(1563年1月8日、静岡県史資料編)または永禄6年(1563年)3月2日(井伊家伝記)、井伊直親が東海道を東に下っていく途中の掛川城で今川家の重臣・朝比奈泰朝に暗殺されます。

この井伊直親の粛清は、遠江国衆にさらなる今川家に対する不信感を増幅させる結果をもたらし、いわゆる遠州錯乱(遠州忩劇)と言われる遠江国内の内紛が始まります。

② 飯尾連龍の反乱(1563年12月)

その後、永禄6年(1563年)12月、遠江国曳馬城主であった飯尾連龍が、松平家康に方に転じ、飯尾家臣である飯尾土佐・江馬弥七が頭陀寺城に立て籠もります。

これに対し、今川軍は、飯田口合戦で飯尾軍を打ち破り(この戦いで今川氏真が富士又八郎・小笠原清有・朝比奈信置らに感状を与えています。)、翌年(1564年)2月にも引間口で飯尾軍と戦っているのですが、求心力を失いつつある今川軍では飯尾家の反乱を鎮圧するには至りませんでした。

曳馬城を陥落させることが出来なかった今川氏真は、やむなく飯尾連龍と和睦して一旦兵を退きます。

もっとも、永禄8年(1565年)12月、飯尾連龍が再び松平家康に内応したことが発覚したため、今川氏真は、飯尾連龍を駿府に呼び寄せてこれを処刑します。

なお、飯尾連龍処刑後も、飯尾家家老であった江馬時成・泰顕が、松平家の重臣であった石川数正・酒井忠次から加勢を約束する起請文を受け取り、松平家康と共に今川氏真に対する抵抗を継続します。なお、この江馬家の叛乱は、永禄9年(1566年)4月21日に、今川氏真から江馬家に対して知行安堵が行われて曳馬城が開城したことでようやく終結しています。

③ 天野景泰の反乱(1563年閏12月)

遠江国山香荘に本拠を持つ天野家には、七郎・安芸守を名乗る系統(宗家・犬居城主)と、宮内右衛門尉を名乗る系統がありました。

永禄5年(1562年)2月、この2つの天野家が訴訟問題を起こして主君たる今川氏真に仲裁を求めてきたのですが、このとき今川氏真が宮内右衛門尉系統の天野藤秀に有利な裁定を下したため、宗家であった天野景泰が裁定に不満を抱き、永禄6年(1563年)閏12月に今川氏真に対して叛乱を起こします。

もっとも、同年閏12月24日にこの天野景泰の反乱は鎮圧されて失敗に終わり、天野藤秀が惣領職を引き継ぐことによって天野家は再び今川配下の従属国衆となっています。

④ 奥山吉兼の反乱(1563年閏12月)

永禄6年(1563年)閏12月ころに犬居城主・天野景泰が今川氏より離反したのに同調して、天野家の寄子であった奥山郷の奥山吉兼も今川家から離反します。

このとき、奥山家でも庶流の奥山定友・友久兄弟が今川方に残留して今川氏真から惣領職を安堵されます。

もっとも、奥山家では、早期に反乱が鎮圧された天野家とら異なり、反乱側の奥山吉兼の力が強く、今川方は奥山吉兼が実効支配する奥山郷を確保できませんでした(この奥山吉兼による奥山郷支配は今川家滅亡まで変わりませんでした。)。

⑤ その他

以上の他にも、二俣城の松井宗恒や、見附端城の堀越氏延も今川家から離反したとも言われていますが(浜松御在城記・今川家譜など)、信頼できる一次史料に記載がなく、真偽は確認できていません。

なお、永禄7年(1564年)2月25日付で、今川氏真が二俣領内の八幡神主へ禁制が発給されていることから、今川軍がこの時期に二俣城方面を攻撃していた可能性が示唆されています。

以上に対し、今川氏真は、永禄9年(1566年)4月に富士大宮の六斎市を楽市としたり、徳政の実施を命じたり、役の免除などを行ったりして必死に国衆の引き留めを図りますが、今川家の衰退を止めることはできませんでした。

今川・武田の関係悪化

武田信玄は、桶狭間の戦いの直後には、混乱する今川家に対し駿河国に隣接する甲斐河内領主の穴山信君を介して甲駿同盟の確認を行なっていたのですが、今川氏真が西三河を失い、前記のとおり遠江国において遠州忿劇と呼ばれる国衆の大規模反乱が起きると、今川領内の各所にて今川氏真の器量に疑問が持たれ始めていることを耳にします。

この今川家のゴタゴタを確認した武田信玄は、穴山信君の重臣である佐野主税助泰光に対し、遠州の反乱が駿河国にまで広がるようであれば今川家臣を調略して駿河国に攻め入る計画を練るよう指示します。

その後、武田信玄は、さらなる混乱を続ける今川家を見て、甲相駿三国同盟を維持して越後国へ侵攻するよりも、甲相駿三国同盟を破棄して駿河国へ侵攻するほうが利があると考えるようになり、上杉謙信とのとの抗争を収束させた上で甲相駿三国同盟を破棄し、駿河国へ侵攻することを決定します。

こうして今川家に見切りをつけた武田信玄は、今川家の敵である織田信長に接近し、永禄8年(1565年)に、織田信長の養女でる龍勝院を高遠領主・諏訪勝頼(武田勝頼)の正室として貰い受け、織田家と今川家を共通敵とする縁戚関係を作り上げます。

これに対し、武田家では、今川家に対して強硬的態度をとる武田信玄に対し、今川義元の娘・嶺松院を正室に持つ武田義信が猛反対します。

もっとも、武田信玄は、武田義信の意見に耳を貸すことはなく、そればかりか永禄8年(1565年)10月には、武田家において氏真妹を室とする信玄嫡男の義信が謀反を企てたとして武田義信を東光寺に幽閉し、武田義信と嶺松院は離縁させられます(もっとも、嶺松院はその後も甲斐国にとどまっています。)。

この武田信玄の動きに対し、今川氏真は、武田信玄の対応に対する制裁として、北条氏康と協力して武田領内への塩留(塩止め)を行います。なお、今川氏真による塩留を証するものとして、永禄10年(1567年)8月17日付で今川家の重臣であった葛山城主・葛山氏元が、芹沢玄蕃允・武藤新左衛門尉・鈴木若狭守の3人に対し、甲斐国に対する塩留により没収した塩の納入を命じる文書が残されています(静岡県史・資料編7中世三)。

海に面した土地を領有しない武田信玄に対する最も有効な制裁手段といえます。

甲駿同盟の破棄(1567年11月)

もっとも、今川家による塩留めも功を奏さず、武田信玄が、永禄10年(1567年)10月19日に武田義信を東光寺で自害させ(病死とも)、同年11月、その妻であった嶺松院(今川氏真の妹)を駿府に送還したため、婚姻関係に基づく甲駿同盟が解消に至ります。

さらに、武田信玄が、武田義信の死により空位となった嫡男の座に、織田信長の養女を室に迎えた庶子である四男・諏訪勝頼を指名したことから、武田家と今川家との対決姿勢が明らかなものとなります。

武田・徳川の密約(1568年3月ころ)

以上のとおりの今川領侵攻準備を進める武田信玄は、永禄11年(1568年)3月に今川氏真の祖母・寿桂尼が死亡したのをきっかけとして、本格的に今川家臣の調略を進めていきます。

また、武田信玄は、今川領の西側に位置する三河国を制圧した徳川家康(永禄9年12月29日/1567年2月18日に松平家康から改名)との間で今川領分割の密約を結び、大井川を境にして東部を武田家が・西部を徳川家がそれぞれ攻め取るとの内容で今川領に同時進行を進めるという密約を取り交わします。

なお、武田信玄から、相模の北条氏康・北条氏政父子に対しても、今川領の分割を提案したのですが、北条氏政からはこれを拒絶されています。

武田信玄の駿河侵攻(1568年12月6日)

以上の下準備を整えた上、武田信玄は、永禄11年(1568年)12月6日、穴山信君を先発隊とする1万2000人の兵を率いて駿河国への侵攻を開始します(武田信玄の駿河国侵攻)。

この武田軍の動きに対し、今川氏真は、庵原忠胤に1万5000人の兵を預けて武田軍を迎撃するために薩埵峠に向かわせ、さらに小倉資久・岡部直規に7000人の兵を預けて薩埵峠の北に位置する八幡平に配置し、今川氏真自身も興津の清見寺まで出陣して武田軍を待ち構えます。

以上の状況を見る限り、多勢で防衛戦を展開する今川軍が有利に見えるのですが、この時点までに武田信玄による今川家臣団に対する事前調略が行われていたため、武田軍が迫るのと同時に、今川家の有力家臣であった瀬名信輝・朝比奈政貞・三浦義鏡・葛山氏元ら21人の武将が次々と武田信玄に寝返ります。

こうなると、今川氏真は、対武田戦線を維持できずに戦うことなく駿府に退却することとし、同年12月13日には今川氏真も清見寺から撤退します。

こうして総大将が退却した今川軍の士気は地に落ち、薩埵峠に布陣した前線の部隊からも逃亡兵が続出したことにより、武田軍は難なく薩埵峠を突破することに成功します(第1次薩埵峠の戦い)

駿府・今川館陥落(1568年12月13日)

薩埵峠を突破した武田軍は、そのまま今川氏真を追って駿府・今川館に突入し陥落させてこれを占拠します。

駿府に入り今川館を占拠した武田軍でしたが、馬場信春が中心となって駿府の町と今川館を焼き払います。

駿府を焼き払った後、武田軍は、続けてその支城である愛宕山城や八幡城も攻略します。

武田軍に追われた今川氏真は、遠江国・懸川城(後の掛川城)主の朝比奈泰朝を頼って落ち延びます。

また、なだれ込んでくる武田軍を避けるため、今川方の侍女らも方々に逃げ出し、今川氏真の正室であった早川殿(北条氏康の娘)女らは輿も用意できずに徒歩で逃げざるをえないという切迫した状況であったと伝えられています。

そして、この早川殿に対する扱いに激怒した北条氏康は、武田信玄との甲相同盟を破棄します。

徳川家康の遠江侵攻(1568年12月)

武田軍から逃れて遠江国・懸川城に入った今川氏真でしたが、武田信玄との密約によって、西側から徳川家康が遠江国に侵攻して井伊谷城や白須賀城、曳間城(のちの浜松城)を攻略してきており、永禄11年(1568年)12月27日には徳川軍に掛川城が包囲されます。

北から武田、西から徳川に攻められ危機に陥った今川氏真は、北条氏康に後詰要請をします。

今川氏真からの救援要請を受け、北条方からは4万5000人とも言われる大軍が動員され、北条氏政に率いられて小田原城を出陣します。

小田原城を出発した北条軍は、永禄12年(1569年)1月5日に伊豆国・三島に入った後、伊豆水軍を海路から懸川城救援に向かわせます。

武田軍撤退(1569年4月28日)

また、北条氏政率いる陸上部隊が西進して、永禄12年(1569年)1月26日、蒲原城に到達して同城を拠点として布陣します。

これに対する武田信玄は、同年2月、河内領主・一門衆筆頭の穴山信君に、甲斐国との補給線上に位置する富士信忠が守る大宮城を攻めさせたのですが、蒲原城から出される北条軍の後詰による妨害もあって攻城戦は失敗に終わります。

そこで、武田信玄は、北条軍を撤退させるために1万8000人の兵で東に向かって軍を進め、同年3月13日、薩埵峠を封鎖した北条勢と対峙すると、武田軍と北条軍は、本格的な争いに発展することなく薩埵峠を挟んでにらみ合いを続けることとなりました。

その後、同年3月も末頃になってくると、3カ月を超える長期遠征をしていた武田軍に兵糧の不足が見え始めます。

苦しくなった武田軍は、同年4月7日に、共同戦線をはる徳川家康に対し、掛川城攻撃を要請していますが、秋山虎繁(信友)ら下伊那衆が遠江を侵犯したことや、武田・徳川の密約の内容であった大井川を境にして東を武田・西を徳川で分け合うとの約定を一方的に破棄して天竜川を境にして東を武田・西を徳川で分け合うと言い出したこと等から、武田・徳川の関係が急速に冷えて徳川家康の協力が得られなくなっていました(その後、徳川家康が上杉謙信と同盟を結んだことにより、武田・徳川の関係は完全に決裂します。)。

そして、もはや戦線を維持できなくなった武田信玄は、駿河国からの撤退を決断し、久能山に久能城を築城して横山城とともに対北条氏の拠点城郭とし、また江尻城に穴山信君を残した上で、同年4月28日、武田信玄は興津の陣や駿府今川館の占拠を引き払って甲斐国に撤退します。

こうして、武田信玄による第1次駿河国侵攻作戦は失敗に終わります。

懸川城開城(1569年5月17日)

武田軍撤退を見た徳川家康は、この好機を逃しませんでした。

徳川家康は、遠江国・懸川城の包囲を維持しつつ、武田軍の撤退に乗じて統治者不在となった駿府に別動隊を派遣してこれを占領してしまいます。

もっとも、当然ですが、大軍の武田軍でも守れない駿河国今川館を、寡兵の徳川軍で守り切れるはずがありません。

そこで、徳川家康は、永禄12年(1569年)5月、不義理を続ける武田信玄との関係を手切れとした上で北条氏康と同盟交渉を開始し、同年5月17日、北条家の仲介の下で、どさくさに紛れて占領した駿府今川館の明渡し・今川家臣の助命・武田軍を駿河国から追い払った後は再び今川氏真を駿河国主に戻すとの条件の下で懸川城を無血開城させることに成功し、これを接収してしまいます(なお、このときの仲介を基礎として、同時に徳川氏と北条氏の同盟が締結されます。)。

こうして懸川城までも獲得した徳川家康が三河国と遠江国という2ヶ国を治める大大名となり、他方、この掛川城陥落により、今川氏真が遠江国を失います。

駿河国を失う

北条家を頼る

懸川城を開城して同城から出た今川氏真でしたが、もはやこの時点で駿河国(駿府)に戻って大名として生きる力はありません。

そこで、懸川城を出た今川氏真は、正室であった早川殿の実家である北条家を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城(大平城とする説もあります。)に入った後、北条家の本拠地であった小田原に移って早川に屋敷を与えられて入ります。

駿河国を譲渡(1569年5月23日)

北条家の庇護の下に入った今川氏真は、永禄12年(1569年)5月23日、北条氏政の嫡男・国王丸(後の北条氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河国を譲ることを約します。

その後まもなく、今川氏真は、北条家の圧力によって隠居させられることとなり、今川家の家督を国王丸に譲らされることとなります。

もっとも、まだこの時点では、今川氏真による駿河国支配回復への希望が残されており、今川氏真は、武田信玄に対する共闘目的で上杉謙信に使者を送って今川・北条・上杉三国同盟を結ぶなどしています(今川家には力がないため実態は越相同盟ですが)。

また、駿河国では岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田家への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、今川氏真は、国王丸の代行者としてこれらの勢力に対して多くの安堵状や感状を発給しています。

武田信玄が駿河国を制圧(1570年1月)

ところが、2度に亘って北条家の横槍によって駿河国制圧作戦失敗に追い込まれていた武田信玄が、永禄12年(1569年)から再び駿河国侵攻作戦を開始し(第3次駿河侵攻作戦)、このときは小田原城包囲戦とその後の三増峠の戦いで北条軍をけん制して北条援軍を封じた武田信玄は、永禄12年(1569年)11月、満を辞して駿河国に侵攻します。

駿河国に入った武田信玄は、第2次駿河国侵攻の際に獲得した大宮城に本陣を構え、同城を本拠として、横山城、北条綱重の守る蒲原城などを攻略していき、さらに勢いに乗る武田軍は、永禄13年(1570年)1月には駿河西部にまで進出して花沢城と徳之一色城(後の田中城)を攻略します。

その後、馬場信春の縄張りによって清水城(清水袋城)・江尻城を築城し、武田信玄による駿河国支配が完成します(結果的には、当初の徳川家康との密約のとおり大井川を境に今川領を武田と徳川で分け合う形となったのですが、その関係は当初の予定とは異なり最悪のものとなりました。)。なお、今川氏の本拠地であった今川氏館(後の駿府城)は、武田信玄には捨て置かれています。

こうして駿河国が武田信玄に制圧され、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、今川氏真による駿河国支配回復の道が困難なものとなります。

駿河国回復計画失敗

北条家の援助による駿河国奪還を断念

また、元亀2年(1571年)10月に北条氏康が没すると、後を継いだ北条氏政は、それまでの外交方針を転換して武田家との和睦を成立させます(甲相一和)。

この結果、北条家の援助の下で駿河国を奪還するという今川氏真の計画は断念させられることとなります。

徳川家康の庇護下に

駿河国奪還のために北条家の援助が得られないと判断した今川氏真は、時期は不明ですが(今川氏真主催で小田原郊外の久翁寺にて元亀3年/1572年5月に行われた今川義元の13回忌法要より後の日です)掛川城開城の際の講和条件を頼りとして、北条家を離れて徳川家康下に向かいます。

徳川家康としても、今川氏真がかつての主君であったことや、今川氏真の庇護することにより駿河国獲得の大義名分を得ることとなるため、快く今川氏真を受け入れて庇護下に置きます。実質的にも、勢力を高めたことにより朝廷とも接近する必要に迫られた徳川家康にとっては、公家文化に詳しく朝廷内に幅広い人脈を持つ今川氏真は使い勝手のいい人物と言う意味もありました。

なお、天正元年(1573年)に伊勢大湊の商人に預けていた今川氏真の茶道具を織田信長が買い上げようとしたことがあったのですが、その際の織田信長の家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、同年に今川氏真が浜松に滞在していたことがわかっています。

その後、今川氏真は、天正3年(1575年)3月16日に京の相国寺で織田信長と会見し、織田信長に献上していた宗祇香炉の返却を受けると共に蹴鞠を披露するよう所望されたことから(信長公記)、同年3月20日に相国寺において公家達との蹴鞠を織田信長に披露しています。

出家

今川氏真は、天正3年(1575年)7月19日に宗誾(そうぎん)という法名で署名した文書を発給しており、この時までに出家・剃髪していたことが分かります。

牧野城主となる(1576年3月17日)

天正3年(1575年)4月に武田勝頼が徳川領への侵攻を開始すると、今川氏真は、京を出て三河国に入り、同年5月15日から徳川家康と共に牛久保城に入ります(続武家閑談・紀伊国物語)。

設楽原合戦後には、武田敗残兵の掃討作戦に従事し、同年5月末頃には駿河国内にも侵入しています。

その後、同年7月中旬には武田方の諏訪原城(現在の静岡県島田市)攻撃に参加し、同年8月に同城を落城させています(落城後、諏訪原城から牧野城に名を改めています。)。

この後、武田家に下って高天神城主となっていた今川旧臣である岡部元信をけん制するため、天正4年(1576年)3月17日、今川氏真は徳川家康から牧野城主に任じられ、松平家忠・松平康親の補佐の下で同城に入ります。

もっとも、今川氏真は、1年内に城主を解任され、天正5年(1577年)3月1日に浜松に召還されています。

駿河国への返り咲き失敗

武田家滅亡後、織田信長から徳川家康に駿河国が与えられます。

真偽は不明ですが、このとき徳川家に仕えていた今川旧臣の要望もあって、徳川家康が織田信長に対して駿河国を今川氏真に与えてはどうかと提案したところ、織田信長は役に立たない者に駿河国を与える位なら腹を切らせればいいと答えたと言われて拒否されたと言われています(続武家閑談)。

この結果、今川氏真の大名復帰の道が途絶えます。

今川氏真の最期

京に移り住む

牧野城主解任後は浜松で生活していた今川氏真でしたが、天正19年(1591年)9月ころまでに京に移り、豊臣秀吉または徳川家康から与えられた400石といわれる所領からの収入によって京・四条で生活をしていたと推測されている(志士清談)。

そして、仙巌斎(仙岩斎)という斎号を名乗り、山科言経・冷泉為満・冷泉為将などの公家や文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行ったりなどしていたようです(言経卿記)。

その後、慶長3年(1598年)には、今川氏真の次男・品川高久が徳川秀忠に出仕しています。

慶長12年(1607年)には長男・今川範以が京で没し、慶長16年(1611年)には、その遺児であり、今川氏真の嫡孫でもある今川範英(直房)が徳川秀忠に出仕しています。

品川に屋敷を与えられる

今川氏真は、慶長17年(1612年)正月に冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した後(言経卿記)、駿府で徳川家康と面会し、この頃に「旧地(どういう意味かは不明)」である近江国野洲郡長島村(現在の滋賀県野洲市長島)500石を安堵されていたとされています。

また、この頃に徳川家康から品川の屋敷を与えられ、江戸に移住します。なお、及聞秘録によると、今川氏真が品川に屋敷を与えられた理由について、今川氏真が晩年に徳川家康を頼って度々江戸城を訪れては長話をしていたため、これに徳川家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されていますが、真偽は不明です。

翌慶長18年(1613年)には長年連れ添った妻・早川殿と死別します。

死去(1615年12月28日)

そして、今川氏真は、慶長19年(1615年)12月28日、江戸で死去します。享年は77歳でした。

葬儀は今川氏真の弟である一月長得によって江戸市谷の萬昌院で行行われ、亡骸は同寺に葬られました。

その後、萬昌院が牛込に移転するのに際し、寛文2年(1662年)、今川氏真の墓は早川殿の墓と共に、今川家知行地である武蔵国多摩郡井草村(現在の東京都杉並区今川二丁目)にある宝珠山観泉寺に移されています。

なお、今川氏真が培った和歌・連歌・蹴鞠などの技芸は子孫にも受け継がれ、その子孫が高家として文化人の能力で江戸幕府に登用されています。

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