【亀姫】奥平信昌の妻となった徳川家康の長女

亀姫(かめひめ)は、徳川家康とその正室であった瀬名姫(築山殿)との間に生まれた徳川家康の長女です。

武田家との戦いの最前線に位置していた奥三河の奥平家を調略するため、奥平信昌の室となりました。

亀姫の出自

出生(1560年6月4日)

亀姫は、永禄3年(1560年)6月4日、松平元康(後の徳川家康、本稿では便宜上「徳川家康」の表記で統一します。)の長女として、正室である瀬名姫(築山殿)との間に生まれます。

このときは、父・松平元康が人質として駿河国駿府にいた時期であったため、亀姫もまた駿府で生まれています。

なお、亀姫が生れたのが、今川義元が討ち死にした桶狭間の戦い(永禄3年/1560年5月19日)の直後であり、今川家がもっともゴタゴタしていた時期でした。

人質時代(1560年5月)

永禄3年(1560年)5月19日、大高城に入っていた徳川家康の下に桶狭間で今川義元が織田信長に討たれたとの報が届くと(桶狭間の戦い)、徳川家康は、今川家からの独立を決断し、駿府に戻ることなく岡崎城に入ってしまいます。

また、今川家からの完全独立を計画する徳川家康は、織田家の重臣となっていた伯父・水野信元の縁を利用して、徳川家(松平家)の永年の旧敵である尾張国・織田弾正忠家に接近します。敵(今川)の敵(織田)は味方という作戦です。

この結果、駿府に残されていた亀姫は、母・瀬名姫(築山殿)、兄・竹千代(後の松平信康)と共に、裏切者の子として扱われることとなります。

人質交換により岡崎へ(1562年)

その後、今川方を離れて松平方に転向する勢力を吸収しながら三河国内で勢力を高めていった徳川家康は、永禄5年(1562年)2月4日、東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛します。

鵜殿氏が今川家の一門衆であったため鵜殿氏長・鵜殿氏次を捨て置かないと判断した徳川家康は、今川氏真に対し、鵜殿兄弟と築山殿・竹千代・亀姫との人質交換を持ちかけます。なお、この徳川家康による人質交換は、師である太原雪斎が天文18年(1549年)11月8日に織田家にいた徳川家康(当時は竹千代)を今川家に取り戻したのと全く同じ策でした。

一門衆を見捨てることができなかった今川氏真は、やむなく鵜殿兄弟の身柄と交換にて、築山殿・竹千代・亀姫を解放するという判断を下します。

この結果、亀姫は、母・築山殿、兄・竹千代と共に今川家の人質の立場から解放され、徳川家康のいる岡崎に移ることとなりました(もっとも、今川家重臣の娘である築山殿には岡崎城入城が許されませんでした。)。

奥平信昌に嫁ぐ

徳川家存亡の危機

武田信玄との共同作戦により、永禄12年(1569年)5月に懸川城を獲得して三河国・遠江国の2カ国を治めるに至った徳川家康でしたが、今川領切り取りの際のゴタゴタにより徳川家と武田家との関係が悪化します。

武田家からの侵攻を危惧した徳川家康は、本拠地を遠江国浜松(曳馬)に移して対応を図ったのですが、元亀3年(1572年)に遠江国・三河国・美濃国から同時侵攻してきた武田軍に領内を蹂躙され、国衆らの信頼を一気に失います。

奥平信昌との婚約(1573年)

この後、元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄が死去したことにより何とか危機を乗り越えた徳川家康は、急いで領内の安定化と軍備の再整備を進めた上で、奪われた旧領の奪還のために動き始めます。

このとき、徳川家康は、武田領との最前線となる自領の城の防衛網を強化すると共に、武田領の各勢力に調略を仕掛けていきます。

徳川家康は、奥三河における対武田戦線の最前線となる作手城主・奥平貞能に対しても何度も調略を仕掛けますがなかなか成功しませんでした。

困った徳川家康は、この状況を織田信長に相談したところ、織田信長が「徳川家康の長女である亀姫を奥平定能の長男であった奥平貞昌(奥平信昌)に与えて徳川一門衆とするという条件で交渉するのが良い」とのアドバイスを受けます。

そこで、徳川家康は、この織田信長の意見を入れ、奥平貞能に対して、①亀姫と奥平信昌との婚約、②領地加増、③奥平定能の娘を本多重純に入嫁させるという条件を提示して、奥平家の調略を成功させます。

なお、奥平信昌が、亀姫を室に貰い受けて徳川家に下ることとなった結果、それまで奥平信昌の正室であった16歳の「おふう」は離縁された上、武田家に人質として送られていたために武田勝頼の命によって処刑されています。

奥平信昌との結婚(1576年4月)

その後、当初の約定に従い、亀姫は、天正4年(1576年)7月、奥平信昌に嫁ぎます(徳川幕府家譜・徳川諸家系譜第一) 。

徳川家康の娘と言う自負が強い亀姫は、夫である奥平信昌が側室を持つことを許しませんでした。

他方、亀姫は、奥平信昌との間に以下の5人(4男1女)もの子を儲けています。

① 長男:奥平家昌【天正5年/1577年】

② 次男:松平家治【天正7年/1579年】

③ 三男:奥平忠政【天正8年/1580年】

④ 長女:大久保忠常室【天正8年/1580年】

⑤ 四男:奥平忠明【天正11年/1583年】

上野国宮崎へ(1590年8月)

天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉によって徳川家康が関東に移封されると、奥平信昌もこれに伴って関東に移り、同年8月23日、上野国甘楽郡宮崎3万石を与えられます。

この結果、亀姫もまた、夫と共に上野国宮崎に移ります。

美濃国加納へ(1601年2月)

関ヶ原の戦いの勝利後の論功行賞の結果、慶長6年(1601年)2月6日、奥平信昌に美濃国加納10万石が加増されます(なお、それまで奥平信昌が治めていた上野宮崎は嫡男の奥平家昌に譲られたのですが、奥平家昌には同年12月28日(1602年2月19日)に下野宇都宮10万石が与えられて同地に移されています。)。

夫の移封に従い、亀姫は、三男の奥平忠政と共に美濃国加納に移ります(なお、次男の松平家治は、徳川家康の養子となって上野国長根に7000石を得ていたのですが早世し、四男の奥平忠明がこれを引き継いでいました。)。

美濃国加納に移ったため、亀姫はこの後、「加納御前」・「加納の方」などと呼ばれるようになったのですが、本稿では便宜上「亀姫」の表記で統一します。

宇都宮城釣天井事件

この後、本多正純が失脚する事件(宇都宮城釣天井事件)が起こるのですが、真偽不明であるものの、その黒幕が亀姫であるとする説があります(その他、土井利勝謀略説などがあります。)。

具体的な経緯は以下のとおりです。

慶長19年(1614年)10月6日に、奥平家昌と亀姫の長男であった奥平家昌が死去したため、その嫡男であった7歳の奥平忠昌(亀姫の孫)が宇都宮藩主となります。

ところが、元和5年(1619年)10月13日、日光東照宮参拝のため宇都宮に立ち寄った徳川秀忠から、12歳となった奥平忠昌に対し、突然下総国河11万石(古河が6万石、下妻が2万5千石、小山2万5千石の計11万石)への転封が言い渡され、代わって本多正純が宇都宮に入封します。

この奥平忠昌移封の数年前に、大久保忠常が早世した後に大久保忠隣(亀姫の一人娘が大久保忠隣の嫡男である大久保忠常に嫁いでいたことから大久保家と奥平家は親密な関係にありました。)が改易されるという事件が起こったのですが、亀姫は、本多正信・本多正純親子が奸計をもって大久保忠隣を陥れたと考えており、本多親子に不信感を募らせていたこともあり、本多親子に対する怒りが爆発します。

奥平家が宇都宮10万石であったにもかかわらず、移ってきた本多正純が15万石であったことも、亀姫の怒りに油を注ぎます。

本多親子に対する怒りが収まらない亀姫が、異母弟である江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠に対し、本多正純が宇都宮城の湯殿に釣天井を仕掛けて日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊することとなる徳川秀忠を暗殺する計画を練っていると告げ口をしたというのです(真偽はふめいですが)。

驚いた徳川秀忠は、元和8年(1622年)に宇都宮城を調査させたところ、釣天井は存在していなかったために亀姫の告げ口が虚偽のものであったことが判明したのですが、本多正純は徳川秀忠により改易処分とされ、奥平忠昌が再び宇都宮藩へ配されました。

亀姫の最期

剃髪して尼となる

奥平信昌・亀姫の嫡男であった奥平家昌が宇都宮10万石を得ていたため、美濃国加納10万石は三男の奥平忠政が引き継ぐ予定となっていました。

ところが、奥平忠政は、慶長19年(1614年)10月1日に34歳で早世し、またそのわずか8日後である同年10月10日に長男の奥平家昌も37歳で死去します。

さらには、翌慶長20年(1615年)4月11日には、奥平信昌までも死去します。

相次ぐ親族の死に心を痛めた亀姫は、夫の死を契機として剃髪して尼となり、以後「盛徳院」と名乗ります。

亀姫死去(1625年5月27日)

その後、幼くして藩主となった孫たちの後見役となっていた亀姫は、寛永2年(1625年)5月27日、美濃国加納において死去します。享年は66歳でした。

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