【松平信康】父の命令により切腹して果てた徳川家康の嫡男

松平信康(まつだいらのぶやす)は、徳川家康の嫡男であり、本来であれば徳川家康の後を継いで江戸幕府第2代将軍となってしかるべき人物です。

父親譲りの軍才を発揮して数々の戦いで武功を挙げるなど能力も申し分ありませんでした。

ところが、天正7年(1579年)8月3日に居城であった岡崎城から追放された後、同年9月15日には徳川家康の命により21歳の若さで切腹して果てるに至っています。

徳川家の後を継ぐはずだった嫡男の切腹については、その理由が必ずしも明らかとなっていませんので現在まで喧々諤々様々な説が唱えられています。

本稿では、明らかとなっている事実を前提としつつ悲劇のプリンスである松平信康の人生について振り返っていきたいと思います。

松平信康の出自

出生(1559年3月6日)

松平信康は、永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康、以下、便宜上徳川家康の表記で統一します。)の長男(嫡男)として、瀬名姫(築山殿)との間に生まれます。幼名は竹千代といいました。

松平信康が生れたのが、徳川家康の人質時代である駿河国駿府にいた時期であったため、松平信康もまた駿府で生まれています。

岡崎松平家に生まれた嫡男であり、同家の当主が代々三郎を名乗っていたことから、松平信康もまた通称を岡崎三郎または次郎三郎と称しました。

駿府人質時代(1560年5月)

永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国織田家を滅ぼすために出陣することとなったのですが、徳川家康は、今川軍の先遣隊として尾張国に出陣し、最前線となる大高城に今川の大軍を迎え入れるための大高城兵糧入れ作戦を成功させます。

ところが、同年5月19日、大高城に入っていた徳川家康の下に桶狭間で今川義元が織田信長に討たれたとの報が届くと(桶狭間の戦い)、徳川家康は、今川家からの独立を決断し、駿府に戻ることなく岡崎城に入ってしまいます。

また、今川家からの完全独立を計画する徳川家康は、織田家の重臣となっていた伯父・水野信元の縁を利用して、松平家の永年の旧敵である尾張国・織田弾正忠家に接近します。

敵(今川)の敵(織田)は味方という作戦です。

徳姫との婚約(1561年9月)

そして、徳川家康がついに織田信長からの和睦申し入れを受け入れたため、永禄4年(1561年)9月、双方誓紙を取り替わしの上で織田信長・徳川家康の和睦が整います(三河後風土記)。

織田信長にとっては北(斎藤家)に向かうため、徳川家康にとっては東(今川家)に向かうための和睦です。

そして、この和睦の証として、駿府に人質状態となっていた徳川家康の嫡男・竹千代(後の松平信康)と、織田信長の長女である徳姫(五徳)との婚約がまとまります。

もっとも、徳川家康としても、人質を取られた状態で今川家に独立を宣言することはできません。

築山殿・竹千代・亀姫らを駿府に残してきているので彼らが人質として扱われており、今川家から独立を宣言すると正室と嫡男が処断されることが明らかだからです。

そこで、徳川家康は、築山殿らを取り戻す策を練りつつ、三河国の支配回復に取り掛かります。

人質交換により岡崎へ(1562年2月)

徳川家康は、永禄4年(1561年)2月、室町幕府第13代将軍・足利義輝に駿馬(嵐鹿毛)を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立領主としての幕府承認を取り付けようとし、また、吉良家が治める三河国内の親今川勢力などを攻撃しはじめます(善明堤の戦い及び藤波畷の戦いなど)。

こうして徳川家康が三河国内で勢力を伸ばしていったため、三河国内でも今川方を離れて松平方に転向する勢力が出始めたため、勢いに乗る徳川家康は、永禄5年(1562年)2月4日、東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛します。

鵜殿氏が今川家の一門衆であったため鵜殿氏長・鵜殿氏次を捨て置かないと判断した徳川家康は、今川氏真に対し、鵜殿兄弟と築山殿らとの人質交換を持ちかけます。なお、この徳川家康による人質交換は、師である太原雪斎が天文18年(1549年)11月8日に織田家にいた徳川家康(当時は竹千代)を今川家に取り戻したのと全く同じ策でした。一門衆を見捨てることができなかった今川氏真は、やむなく鵜殿兄弟の身柄と交換にて、築山殿・竹千代・亀姫を解放するという判断を下します。

この結果、竹千代(松平信康)が、母・築山殿、妹・亀姫と共に徳川家康のいる岡崎に移ることとなりました(もっとも、今川家重臣の娘である築山殿には岡崎城入城が許されませんでした。)。

清洲同盟(1562年3月)

こうして妻子を取り戻した徳川家康は、永禄4年(1561年)に嫡男・竹千代(松平信康)と織田信長の娘・徳姫(五徳)との婚約を成立させ、永禄5年(1562年)3月には織田信長との間に軍事同盟(清洲同盟)を結ぶことに成功し、今川家からの独立を果たします。

元服(1567年7月)

松平信康は、永禄10年(1567年)7月に元服し、織田信長より偏諱の「信」の字を与えられ、また父徳川家康から「康」の字をとってこれらをあわせて「信康」と名乗ります。

信康という名や婚姻関係などから、松平信康は、織田・徳川同盟の象徴としてあり続けます。

なお、前年の永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川家康が徳川姓に改めていますので、松平信康はこのときから亡くなるまで「徳川信康」と名乗ったはずです。

もっとも、江戸幕府が開幕後、「徳川」姓は徳川将軍家と御三家・御三卿のみに限るという方針がとられたため、徳川信康が徳川姓を名乗ることが許されなくなり、以後、松平姓に格下げされ、徳川信康ではなく「岡崎三郎松平信康」を称されるのが一般的です。

そのため、本稿でもこの一般的標記に従って松平信康の表記で統一します。

岡崎城主となる(1570年)

こうして松平信康は、9歳となった永禄10年(1567年)5月に徳姫と正式に結婚し、元亀元年(1570年)に浜松城に移った徳川家康から岡崎城を譲られます。

本来であれば、嫡男であることから、もう少し父・徳川家康の下で帝王学などの教育がなされてしかるべきなのですが、松平信康は12歳の若さで岡崎に残されることとなります。

若くして岡崎城主となった松平信康ですが、当然領内を治めるには経験が不足しています。

そこで、徳川家康は、石川数正・平岩親吉・本多重次・高力清長・天野康景・中根正照らの重臣を松平信康に付し、領国経営の補佐と松平信康の教育を委ねます。

松平信康の活躍

初陣(1573年)

天正元年(1573年)9月、15歳となった松平信康は、武節城(三河国設楽郡)攻め?で初陣を果たします。

そして、その後も数々の戦いで武功を挙げていきます。天正3年(1575年)5月の長篠・設楽原の戦いでは、17歳の若さで徳川軍の将として参戦するに至っています。

他方で、その性格は猛々しく、話すことは戦のことばかり・やることは乗馬と鷹狩りばかりという典型的な武辺者であったため(三河物語)、家臣から何度も諫言を受けるも聞き入れなかったとされています(天正2年/1574年には諌言を受け入れられなかった松平親宅が蟄居・出家するという事態まで起こっています。「松平甚助由緒書」)。

織田家の臣下に下る(1574年ころ)

対等同盟として始まった織田・徳川同盟(清洲同盟)が、足利義昭を奉じて上洛した後から急拡大していく織田家に対し、武田家が障害となって急拡大には至らない徳川家康との間に大きな国力差が生じていきます。

その結果、全方面戦線を進めることが出来るだけの国力を手に入れた織田信長としては、もはや軍事同盟を必要としなったため、天正2年(1574年)ころから同盟勢力に対し事実上の臣従を迫っていき、圧力に屈した徳川家康が織田信長に臣従するようになります。

この力関係は、松平信康(夫・徳川家康嫡男)と徳姫(正室・織田信長娘)との関係に影響を及ぼした可能性が考えられます。

対武田戦

その後、天正3年(1575年)9月の遠江国・小山城攻めの際には、松平信康は、徳川家康と共に軍を指揮して戦ったのですが、小山城の後詰として武田勝頼率いる2万人が到着したために徳川軍に勝ち目がなくなったところで、松平信康が、武田軍の本陣間近まで共一人を連れて物見を行って徳川家康に決戦を進言するという勇猛さを見せつけます(松平物語)。

また、天正5年(1577年)、徳川軍が、小山城(榛原郡吉田町)に攻め込んだ際、武田勝頼率いる軍が後詰として到着して徳川軍に攻撃を仕掛けようとしたため、徳川家康は小山城の囲いを解いて退却を試みたのですが、ここで松平信康が殿を申し出て奮戦し、遠江国横須賀の戦いで武田軍を押し返して大井川を渡らせず、徳川軍の撤退が成功させるという武功を挙げています(徳川実記)。

余談

天正2年(1574年)2月8日、徳川家康に次男・於義伊(後の結城秀康)が生れたのですが、徳川家康が対武田戦線で多忙であったこと、双子で産まれてきたことを嫌ったこと、何より正室である築山殿がお万の方を承認していなかったために、徳川家康が結城秀康を自らの子であると認知できなかったことなどから、徳川家康は、於義伊が満3歳になるまで対面すらしようとしませんでした。

松平信康は、この於義伊に対する徳川家康の対応を見て不憫に思って尽力したため、ようやく徳川家康と於義伊との対面が果たされることとなりました(もっとも、於義伊が徳川家康の子として認知されるのは築山殿の死亡後になってからです。)。

松平信康の最期

徳川家康と松平信康との関係悪化

以上のように順調に武功を挙げていった松平信康でしたが、徳川家中では、現当主である徳川家康と次期当主を自認する松平信康(岡崎)との間に溝が広がっていきます。

徳川家康が三河統一後に軍事系統の整備を行い(三備の制)、東三河の旗頭に酒井忠次、西三河の旗頭に石川家成(後に石川数正)を任命し、それぞれの国衆をその下につけていたのですが、岡崎城主であった松平信康が国衆達に岡崎城(松平信康)への出仕を求めたことからこの指揮系統に混乱が生じ始めたからです。

また、これに加えて、松平信康が、東進作戦を進めていた徳川家では、前線が近く武功を挙げる機会に恵まれていた浜松城派と比較して、後方支援に回ることが多かったためにたまっていた西三河国衆の受け皿となったからです。

この動きに危険を感じた徳川家康は、天正6年(1578年)9月22日、松平信康の統治範囲であるはずの西三河国衆に対して、岡崎にいる松平信康の下への出仕は不要であるとの指示まで出しています(家忠日記)。

さらに、家臣の諌言を聞き入れない松平信康は、西三河衆の信を失っていたとの説もあります。

築山殿と徳姫との関係悪化

また、松平信康は、家庭内でも問題を抱えていました。

松平信康は、正室である徳姫との間に天正4年(1576年)に長女・登久姫を、また翌天正5年(1577年)に熊姫を儲けたのですが、男児には恵まれていませんでした。

このことを心配した松平信康の母・築山殿が、自身の女中であった元武田家臣の浅原昌時の娘や、日向時昌の娘を松平信康の側室としたことから、築山殿と徳姫との仲が不仲になっていきます(後の創作説あり)。

そして、この築山殿と徳姫との関係悪化は、松平信康と徳姫との関係悪化をもたらします。

徳姫の手紙(三河物語に基づく通説)

その結果、徳姫は、天正7年(1579年)、父である織田信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として織田信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次にこれを託したと言われます。

この徳姫の手紙には、松平信康の粗暴な言動への非難、松平信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通したことなどが記されていたとされています。

手紙を読んだ織田信長は、使者であった酒井忠次に事実を問い質したところ、酒井忠次がこれを全て認めたため、織田信長は徳川家康に対して松平信康の切腹を命じ、この命により徳川家康は松平信康の処断を決断したとされます。

松平信康追放(1579年8月3日)

その結果、徳川家康は、岡崎城を訪れた翌日である天正7年(1579年)8月3日、岡崎城の城代として石川数正を残して松平信康を岡崎城から追放し、大浜城に移します(家忠日記)。

なお、このとき徳川家康は、松平信康と岡崎衆との連絡を禁じて岡崎衆に松平信康に内通しない旨を誓う起請文を出させた上、自らの旗本で岡崎城を固め松平信康追放処分を決行しています。

この後、築山殿が、松平信康追放処分の撤回を求めて駿府にいる徳川家康の下へ向かうのですが、同年8月29日、途中の佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害されます。

松平信康切腹(1579年9月15日)

大浜城から堀江城を経て二俣城に移された松平信康は、天正7年(1579年)9月15日、同城において徳川家康の命により切腹して果てます。享年は21歳でした(満20歳没)。

なお、切腹に際し、松平信康は、二俣城主であった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張したが認められず、服部正成の介錯で自刃することとなったのですが、服部正成が刀を振り下ろさなかったため検死役の天方道綱(山城守)がやむなく急遽介錯したのですが、これにより居場所を失った天方道綱は出家するに至ったと言われています(柏崎物語)。

切腹後の松平信康の首は舅である織田信長の元に送られて首実験を経た後、若宮八幡宮に葬られました。

以上の通説に基づく事実関係によると、松平信康の実力を怖れた織田信長が、娘の五徳を利用して松平信康を切腹に追い込んだのが事件の真相であると考えられてきました。

通説への疑問

他方、以上の通説に対しては多くの反対説が唱えられています。

徳姫が送ったとされる12箇条の手紙については8箇条しか残されておらず、文体が男性的であり当時のものと思えないこと、安土日記や当代記では織田信長が松平信康の処遇について徳川家康の考える通りにせよと言ったとされていること、嫁姑関係の不仲という理由で織田信長が婿である松平信康殺害を命じるとは考え難いこと、築山殿が甲斐武田家と交渉できる外交力があったとは考え難いこと織田信長が築山殿の処分に言及していないこと、嫡男を失う結果をもたらした酒井忠次を事件後も変わらず重用していることなどからこの通説には強い疑問が呈されているからです。

また、この頃に織田信長と徳川家康との間に何らかの緊張関係があったことをうかがわせる事情はなく、後に徳川家康が徳姫(実際には徳姫の義弟である松平忠吉)に対して2000石もの所領を与えている理由からしても通説は不可解です。

そのため、現在では、松平信康の切腹理由については、①徳川家康・松平信康父子不仲説、②松平信康と家臣団との対立説、③浜松派と岡崎派による徳川家中派閥抗争説などの様々な説が唱えられるに至っており、真相は不明です。

松平信康の死後

墓所・祭祀

徳川家康は、松平信康の死後、その死を悲しんで廟所として清瀧寺(現在の浜松市天竜区二俣町)を建立して「信康山長安院清瀧寺」との山号を付させて松平信康の菩提寺として指定します。なお、現在、同寺域内に松平信康の胴体が葬られたとされる信康廟が残されています。

また、織田信長の首実検後に岡崎に戻された松平信康の首は、一旦投村根石原(現在の朝日町)に埋められたのですが、岡崎城代となった石川数正によって天正8年(1580年)に5月に供養塔が建てられて若宮八幡宮(現在の岡崎市鳥川町字下辻)の祭神として祀られています。

また、その後も、関係が深かった者により、全国各地に松平信康を祀る複数の寺院・供養塔等が建立されています。

余談

なお、余談ですが、天正18年(1590年)7月に徳川家康が関東に移封された際に、酒井忠次(天正16年/1588年10月に隠居)の子である酒井家次が徳川家康から下総国臼井(碓井)に3万7000石を与えられます。

ところが、他の徳川四天王が10万石を与えられていたのと比較して酒井家次が得た知行が少なかったために不満に感じた酒井忠次が、徳川家康に対してその旨の抗議したところ、徳川家康から松平信康事件の不手際について「お前も我が子が可愛いか」と責められ、何も言えなくなったとの逸話が残されています(東武談叢)。

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