【結城秀康】江戸幕府第2代将軍になれなかった徳川家康の次男

結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康が正室であった築山殿の侍女にお手付きをして生まれた武将です。

徳川家康の嫡男であった松平信康の生後16年も経ってから生まれた男子(次男)ですので大歓迎で迎えられてしかるべきだったのですが、その出生を正室の築山殿が承認しなかったために徳川家康に認知されることなく家臣の下で育てられます。

その後も、徳川家康から自身の子として扱われることなく、小牧長久手の戦い後には、宿敵ともいえる豊臣秀吉の下に養子(人質)として差し出されてしまいます。

ところが、養父となった豊臣秀吉からも、老いて生まれた実子・鶴松に対する禍根を残さないようにするためとの理由で、今度は結城家に養子に出されてしまいます。

この結果、母の身分の低さと他家に養子に出されたという経緯から徳川家康の後継者となることはできなかったのですが、自らの才覚で越前国をもらい受けるなどの活躍を果たしたのですが、34歳の若さで病没するという悲運に見舞われています。

結城秀康の出自

出生(1574年2月8日)

結城秀康は、天正2年(1574年)2月8日(越前福井松平家譜では4月8日とされています。)、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれます。母は、徳川家康の正室であった築山殿(瀬名姫)に女中として仕えた永見吉英の娘であるお万の方(於古茶・長勝院)です。

幼名は於義伊(於義丸・義伊丸・義伊松)と名づけられました。その名の由来は、生れたときの顔が魚の「ギギ」に似ていたことから「義伊」とされ、それではかわいそうだということで「於」がつけられ、さらに於義伊もかわいそうだということで「於義丸」とされたととも言われます(なお、結城秀康は、生涯で於義伊→羽柴秀康→結城秀康→結城秀朝→結城秀康→松平秀康と名を変えたと言われているのですが、便宜上本稿では「結城秀康」の名で統一します。)。

結城秀康出生とその後の悲運の経緯は、築山殿に仕えていたとも言われるお万の方を見初めた徳川家康が、お万の方を手付にしてしまったことに始まります。

この当時は、正室が側室を認める権限を持っていたのですが、自らの女中が夫と関係を持ったことが許せなかった築山殿は、お万の方を徳川家康の側室とすることを認めませんでした。

その後、徳川家康は浜松、築山殿は岡崎で分かれて生活するようになったのですが、この後も徳川家康が築山殿の拒否権を無視してお万の方との関係を続けて妊娠させて出来たのが結城秀康でした。

お万の方の妊娠の事実を聞いて怒った築山殿がお万の方を容認せず、そればかりかお万の方は築山殿の命によって浜松城から追放してしまったため、困ったお万の方は、天正2年(1574年)2月8日(越前福井松平家譜では4月8日とされています。)、徳川家重臣であった本多重次の差配により、浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める浜松城下にあった宇布見村の中村源左衛門正吉の屋敷において結城秀康を出産します。なお、現存する同屋敷(建築物自体は江戸初期に建てられたものです)敷地内には、徳川家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残っています。

双子の弟?

こうして産まれた結城秀康は双子であり、お万の方は、於義伊と共に永見貞愛を出産したと言われているのですが、当時は双子は「畜生腹」として忌み嫌われていたため、永見貞愛は夭折したことにしお万の方の実家である永見家に預けられて、お万の方や於義伊と離されて育てられることとなったと言われています(他方、生後すぐになくなったとの説もあります。)。

なお、その後、永見家で育てられた永見貞愛は、伯父である永見貞親から知立神社の神職を譲り受けた後、慶長9年(1605年)11月16日に31歳の若さで死去しています。

少年期

徳川家康にとっては嫡男・松平信康以来16年ぶりに生まれた男子であったため、本来であれば大歓迎であってしかるべきだったのですが、その出生を築山殿が承認しなかったために徳川家康が於義伊を認知することはなく、於義伊は本多重次や中村源左衛門らの下で育てられることとなりました。

そのため、徳川家康は、於義伊が満3歳になるまで対面すらしませんでした。

これは、この当時、徳川家康が対武田戦線で多忙であったこと、双子で産まれてきたことを嫌ったことなどが理由として挙げられるのですが、何より正室である築山殿がお万の方・結城秀康を承認していなかったために、徳川家康が結城秀康を自らの子であると認知できなかったことが最大の理由と言えます。

その後、於義伊に対する徳川家康の対応を見て不憫に思った徳川家康の嫡男・松平信康が尽力し、ようやく徳川家康と於義伊との対面が果たされることとなりました(もっとも、於義伊が徳川家康の子として認知されるのは築山殿の死亡後になってからです。)。

松平信康切腹(1579年9月15日)

天正7年(1579年)9月15日、徳川家康の嫡男であった松平信康(結城秀康の兄)が、徳川家康の命により二俣城で切腹して果てるという事件が起こります。

その理由は、武田家との内通が疑われて織田信長に粛清を命じられたためとも、徳川家康と松平信康との対立により徳川家康が処断したとも言われていますが、正確なところは不明です。

いずれにせよ、松平信康の死により徳川家康の唯一の嫡子が失われ、残された庶子のうち最年長者が徳川家康の次男である結城秀康であったことから、結城秀康が徳川家康の後継者となってしかるべき状態となりました。

豊臣秀吉の養子となる

人質として大坂へ送られる(1584年)

本能寺の変に台頭していった羽柴秀吉と徳川家康とが対立するに至った小牧長久手の戦いの際、戦いが長期化していくことを嫌った羽柴秀吉・徳川家康が和解の道を探り始めます。

そして、徳川一門から羽柴秀吉に人質を出すことにより和議が成立することとなりました。

このとき、当初は、徳川家から徳川家康の異父弟である松平定勝を人質として送る予定だったのですが、この時点での羽柴・徳川の関係は劣悪であり次の戦が起こった際は殺害されることが明らかであったことから松平定勝の生母である於大の方がこれに反対して取りやめとなり、代わりに徳川家康の次男である結城秀康が送られることとなったのです。

このエピソードから見ても、結城秀康が徳川家中でいかに弱く苦しい立場にいたのかが分かります。

大坂に送られることとなった結城秀康は、徳川家康から餞別として貰い受けた名刀「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)と采配を携え、また傅役の小栗大六(小栗重国)と小姓の石川勝千代(後の石川康勝・石川数正の次男)・本多仙千代(本多成重・本多重次嫡男、後に本多富正と交替)に連れられて大坂に向かいます。

秀吉の養子となり元服(1584年12月)

人質として大坂に送られた結城秀康が元服前の11歳という若さであったため、羽柴秀吉は、結城秀康を自身の養子として迎え入れます。

そして、結城秀康は、天正12年(1584年)12月12日に元服し、羽柴秀吉から「秀」の字を、徳川家康から「康」の字を貰い受けて、名を於義伊から「秀康」と改め、従五位下侍従兼三河守の官職を得て「羽柴三河守秀康」を名乗ります。

また、このとき結城秀康は、河内国に1万石を与えられて大名となります。

それまで父親らしい対応を取ってもらえなかった実父・徳川家康と比較し、徳川家康を屈服させるための手段であったとはいえ烏帽子親となって元服をしてくれ、官位を手配し、知行まで与えてくれた養父・豊臣秀吉の対応は結城秀康の心に響いたかもしれません。

他方で、羽柴家の人間となったことにより、結城秀康は正式に徳川家康の後継者候補から外れてしまいます(もっとも、母親の身分の低さから、このときより前から既に徳川家康の後継者候補から外れていたと考えられています。)。

初陣(1587年)

天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州征伐を開始すると、14歳となっていた結城秀康もこれに付き従って従軍して初陣を果たします。

そして、結城秀康は、豊前岩石城攻めに参加し(改正三河後風土記)、日向国平定戦でも武功を挙げるなどしたため、天正16年(1588年)には豊臣姓を下賜されています。

もっとも、武功を重ねてもなお結城秀康を徳川家康からの人質として扱う者が多く、天正17年(1589年)には、伏見の馬場において豊臣秀吉の寵臣が馬術を競うために結城秀康に馬首を並べて馬走するなどの挑発行為を行うという事件が起こります。このとき、結城秀康は、自分の許しもなく共駆けするとは無礼千万であるとして無礼討ちとしたのですが、この話を聞いた豊臣秀吉は、結城秀康を罰するどころか、自分の養子をないがしろにするのは自分に無礼を働いたことと同じであり、毅然とした処置をした結城秀康は天晴れであると褒め称えたといわれており、豊臣秀吉の結城秀康に対する寵愛が大変なものであったことがわかります。

結城家を継ぐ

結城家を継ぐ(1590年8月6日)

もっとも、天正17年(1589年)に、豊臣秀吉の側室であった淀殿が待望の男子である鶴松を産み、豊臣秀吉が生後4ヶ月の鶴松を後継者として指名したことで結城秀康の人生も一変します。

実子ができてしまうと将来の権力闘争の芽となりうる養子たちは邪魔者でしかありません。

そこで、豊臣秀吉は、この後、養子に貰い受けていた者達を次々と他家へ出してしまいます。

当然ですが、結城秀康もその対象となりました。

豊臣秀吉は、天正17年(1589年)5月、結城秀康を結城晴朝の養子として結城家に出してしまいます。

その後、天正18年(1590年)に小田原征伐後に徳川家康が関東に移封されることとなったのですが、豊臣秀吉は、そのまま北関東の大名家であった結城家を取り込んでしまうことを狙い、同年8月6日、結城秀康(羽柴秀康)に結城晴朝の養女・江戸鶴子を嫁がせて結城家の婿養子として結城家と結城領10万1000石を継がせてしまいます。

この結果、結城秀康は10万石をはむ大大名となりました。

また、豊臣秀吉の養子の立場を離れて関東の結城家を継いだことから、再び実父徳川家康の指揮下の入ることとなったのです。

御手杵を譲り受ける

結城秀康は、武勇抜群・剛毅で体躯も良く、武将としての器量は並みいる諸大名からも認められていたところ、新たに父となった結城晴朝は、駿河嶋田の鍛冶師・義助に造らせた天下三名槍の1つでもある「御手杵」を結城秀康に与えます。

御手杵は、槍身全長210cm・穂先138cm・重さ22・5kgもある巨大な槍であったために常人では振り回せないほど大槍であり、これを扱っていた結城秀康の武勇の高さが推認されます。

なお、御手杵は、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲の際に焼失しています。

その後も、結城秀康は、豊臣秀吉の天下統一戦に尽力し、大崎葛西一揆鎮圧のために奥州に出陣したりしています。

また、文禄元年(1592年)から始まった文禄・慶長の役では、多賀谷三経や本多富正など1500人を率いて肥前国唐津に滞陣したりもしています。

なお、結城秀康は、文禄2年(1593年)に養父・結城晴朝から一字与えられて「結城秀朝(ゆうきひでとも)」と名乗り、慶長3年(1598年)の黒印状にも結城秀朝と記されているのですが、おそらくその後に「結城秀康」名に戻したと考えられています。

伏見城を任される(1599年)

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去した後、豊臣恩顧の大名を味方につけて勢力を高める徳川家康と、毛利輝元を味方に引き入れてこれに抵抗しようとする石田三成との対立が激しくなっていきます。

この対立は、慶長4年(1599年)3月3日に豊臣秀頼の傅役であった前田利家が死去により、回避不可能な程度にまで発展していきます。

慶長4年(1599年)閏3月に豊臣秀吉子飼いの七将が石田三成を襲撃する事件後起こって石田三成が失脚して佐和山城謹慎となります。

このとき結城秀康が堀尾吉晴と共に石田三成を近江国・瀬田まで護衛したのですが、その際に石田三成から礼として政宗の刀を送られています。なお、このとき譲り受けた刀は「石田正宗」と称され、結城秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世された後、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

豊臣秀吉の遺言により伏見城で執務をしていた徳川家康でしたが、豊臣秀頼の傅役として大坂城に入っていた前田利家死去と石田三成失脚を奇貨として、それまで入っていた伏見城に結城秀康を入れ、自身は大坂城に入って豊臣秀頼を取り込んでしまったことにより絶対的な力を手に入れます。

徳川家康の政治的影響力の強化を嫌った上杉景勝が、重臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなどして軍事力の増強を図ったことをとがめた徳川家康に対し、上杉景勝家臣の直江兼続が逆に徳川家康を非難する返書(いわゆる直江状)をしたためて徳川家康に返送します。

慶長5年(1600年)5月3日、自身の下に届けられた直江状を目にした徳川家康は激高し、上杉景勝に叛意ありとして会津征伐を決断します。

そして、徳川家康は、徳川恩顧の大名(先鋒として福島正則、細川忠興、加藤嘉明ら)を率いて大坂城を発ち会津に向かって進んでいきます。

大坂城から会津へ向かう道中で伏見城(木幡山伏見城)に入った徳川家康は、慶長5年(1600年)6月16日、伏見城から結城秀康を引き上げ、代わりに鳥居元忠・松下家忠・内藤家長・松平近正らを伏見城に残し合図に向かって進軍していきます。

会津征伐軍に従軍(1600年6月~)

結城秀康は、慶長5年(1600年)6月18日、伏見城を出発する徳川家康に従って東海道を東進して同年7月2日に江戸に入ります。

ここで、徳川家康が大坂・伏見を離れて会津に向かって進んでいったことを好機と見た石田三成が、同年7月17日、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行の要請により徳川家康と入れ代わる形で毛利輝元を呼び寄せて大坂に迎え入れ(大坂城入場は同年7月19日)、同年7月18日、毛利輝元を盟主として徳川家康打倒をうたって大坂城で挙兵します。

小山評定?(1600年7月25日)

慶長5年(1600年) 7月24日、伏見城を守っていた鳥居元忠からの急使によって石田三成の挙兵を知った徳川家康は、翌同年7月25日に下野国小山において、徳川家康と会津征伐に従軍していた東軍諸大名が軍議を開き、会津征伐中断と軍勢の西上を決定したと言われています(いわゆる「小山評定」。もっとも、小山評定についての詳細を直接記した一次史料は無く、評定の有無・内容・意義についての真偽は不明です。)。

そして、小山評定の結果、上杉景勝に対する控えとして結城秀康を宇都宮に残し、反転して徳川家康本隊が東海道から、徳川秀忠率いる別働隊が中山道(東山道)が西に向かって進軍していくことに決まります。

この決定に対して決戦から外された結城秀康は不満を持ち、徳川家康に考え直すように異議を申し立てたのですが、西に向かう徳川軍が後方から上杉軍に攻められれば壊滅することとなるために重要な役割であると説得され、しぶしぶこれに応じています。なお、同年9月7日付で徳川家康が伊達政宗に結城秀康と相談して上杉軍に備えるよう指示している文書を送っていますので、徳川家康が結城秀康の武勇を高く評価していることがわかります。

後継者選定会議

その後、慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原で決戦が行われ(関ヶ原の戦い)、徳川家康率いる軍(東軍)が石田三成率いる軍(西軍)に勝利し、一連の騒動が集結します。

もっとも、関ヶ原の戦いに際し、徳川秀忠率いる中山道(東山道)軍が遅刻し本戦に間に合わないという失態を犯したため、その器量を疑問視する声が出始めます。

そこで、関ヶ原の戦い後に、大坂城西ノ丸で、重臣たちを集めて徳川家康の後継者を誰にするかという話し合いがもたれることとなりました。

このとき、最終的には徳川家康の判断によって後継者は徳川秀忠に決まるのですが、徳川家康の懐刀であった本多正信が結城秀康を後継者に推しており、家臣団での結城秀康に対する評価の高さがわかります(なお、大久保忠隣は徳川秀忠を、井伊直政は松平忠吉を推しています。)。

越前国移封

越前国に加増移封(1600年11月15日)

前記の選定会議の結果により徳川家康の後継者にはなれなかったものの、慶長5年(1600年)11月15日、関ヶ原の戦いの際の上杉景勝に対する対応を高く評価され、結城秀康は、越前国一国、信濃国・若狭国の一部計68万石を与えられ、越前国北ノ庄に加増移封となります。

移封理由は、もちろん前田家の牽制です。

なお、大藩前田家への対抗とはいえ、関ヶ原の戦いの論功行賞で50万石を超える加増を受けたのは結城秀康だけであり(2位は異母弟の松平忠吉の42万石加増)、この事実だけを見ても結城秀康の評価の高さがわかります。

復姓?

越前国に移封となったことにより結城領を離れることとなった結城秀康は、これをきっかけとして松平姓に戻したといわれていますが、養父・結城晴朝に配慮して実現しなかったとする説もあり正確なところはわかりません(他方、徳川姓を名乗ったとも、そのまま結城姓を使用していたとも、徳川姓を名乗ったともいわれており、この後の正確な名乗りは不明です。)。

慶長6年(1601年)7月に越前国北ノ庄に入った結城秀康は、越前松平家を興して越前国北荘藩(福井藩)を立藩し、北ノ庄城の大改築を開始します(改修期間は6年)。

このとき結城家旧来の家臣の中には結城領から越前国に移封となったことを嫌って越前国への移転を拒否するものがあったため、結城秀康は、越前国移封によりこれらの旧家臣団を整理することに成功し、自身の権力を高めることに成功しています。

結城秀康の最後

病を患う(1603年頃~)

越前国に入った結城秀康でしたが、慶長8年(1603年)頃から病床に沈み込むようになり、同年11月5日には徳川秀忠から見舞状を受けるほどに悪化します。

結城秀康の病は、当代記に「日来唐瘡相煩、其上虚成」と記録されていることから梅毒だったと考えられているのですが、曲直瀬玄朔が記した医学天正記には「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とも記載されていることからその他の難病も患っていたものと考えられます。

その後も結城秀康の病状は悪化の一途をたどり、慶長11年(1606年)5月18日の段階では、腫物が広がり、結城秀康の伏見邸に訪問した舟橋秀賢・冷泉為満らが結城秀康と対面できないほどであったとされています(舟橋秀賢・慶長日件録)。

その後、同年6月3日に禁裏より薫衣香袋を賜った際にも、結城秀康が勅使の接待をできない状態でした。

そのため、結城秀康は、慶長11年(1606年)9月21日に伏見城の留守居・御所造営の総奉行を任じられたのですが、病により職務をまっとうできない状態であるとして職を辞し、慶長12年(1607年)3月1日に本拠地である越前国に帰国しています。

結城秀康死去(1607年閏4月8日)

その後、結城秀康は、慶長12年(1607年)閏4月8日、病が悪化して死去します。享年は34歳でした。

梅毒が死因であることは間違いないのですが、これが直接の死因かは不明であり、梅毒による衰弱症が死因とする説もあります。

結城秀康の遺体は、結城家の菩提寺である曹洞宗孝顕寺(下総結城の孝顕寺から越前国に分寺されています)で火葬され、孝顕寺殿前三品黄門吹毛月珊大居士と追号されました。

もっとも、執り行われた結城秀康の葬儀が、徳川家が帰依する浄土宗の様式によるものでなかったことから、徳川家康が改めて知恩院の満誉上人を招いて浄土院(後の運正寺)を造営して改葬した上で、新たに浄光院殿前森巖道慰運正大居士という浄土宗の戒名が新たに授与されています。

なお、遺領は、嫡男・松平忠直が継いでいます。

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