【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転

現在の日本の首都・東京の礎を築いたのは徳川家康です。

元々、三河国に生まれ人質時代を経て独立し織田信長に与して5カ国(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国)を治める大大名にまで上り詰めた徳川家康でしたが、豊臣秀吉の命令によりこれらが没収され、代わりに関八州を与えられて江戸に入ります。

その後、江戸周辺において数多の巨大工事を繰り返し、現在の大東京の基礎を築き上げていったのでした。

本稿では、そんな今日の大東京が出来上がるきっかけとなった徳川家康の関東移封について見ていきたいと思います。

徳川家康の関東移封に至る経緯

関東移封言い渡し(1590年7月)

豊臣秀吉による小田原征伐の結果、天正18年(1590年)7月5日に後北条氏が降伏し、後北条氏及びその幕下の諸将が治めていた関八州が権力の空白地帯となります。

ここで、豊臣秀吉は、徳川家康に対し、徳川家康が治める5カ国(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国)を召し上げ、新たに後北条氏の旧領であった関八州(武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部)を与えるとの沙汰を言い渡します。

徳川家康の関東移封の評価

関東移封により、徳川家康の領地は、三遠駿甲信119万石(直前に行われた五ヶ国総検地によると150万石)から、関東250万石(家康240万2000石及び結城秀康10万石)へ倍増し、類を見ない大幅な加増となりました。

他方で、徳川家に縁の深い三河国を奪われた上、このときの関東は北条家滅亡直後の混乱期であったために統治に問題がある土地であったこと、北条家が当時としては低い税率である四公六民を採用していたためにこの税率を変動できなければ石高に見合った実収入を見込めなかったことなどから(四公六民という税率は、徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承されています。)、徳川家中では必ずしも喜ばれた移封ではありませんでした。

このように、徳川家康の関東移封は、メリット・デメリットのいずれも大きいものであったため、今日に至るまで、その評価は二分されています。

徳川家康の関東移封

江戸城入城(1590年8月1日)

関東移封に際して、徳川家では、本拠地をどこにするか検討されます。当時の繫栄状況から考えると、通常は小田原か鎌倉の2択であったはずです。

小田原は後北条家の本拠地として繁栄していた大都市であり、また鎌倉は鎌倉幕府が置かれた東国武士の聖地ともいえる場所であったからです。

ところが、このときに徳川家康が選んだのは、まさかの江戸でした。

当時の江戸は江戸湾に面した交通の要衝であったために小田原や鎌倉ほどではないにせよそれなりに発展した都市ではあったものの、250万石の大大名が本拠とするには明らかに見劣りする小都市に過ぎず、驚愕の選択でした。

徳川家康は、新領地の西端に位置する小田原や、山に囲まれて発展性の乏しい鎌倉ではなく、広大な平地(関東平野)が広がる江戸の地に将来性を見込んだのでした。

そして、徳川家康は、八月(8月)朔日(初日)の略称であり、稲の穂が実る頃という縁起の良い日である「八朔」と考えられていた8月1日を選び、天正18年(1590年)8月1日、江戸城に入城(江戸御打入り)します。徳川家康49歳のときでした。

直轄地の統治

江戸城に入った徳川家康でしたが、前記のとおり関東は後北条氏が滅んだ直後であったために権力移行の混乱期でした。

また、旧領から移ってきた家臣団の不満も噴出しており、家中もまた混乱している状態でした。

そんな中、徳川家康は、まず江戸の統治機構の構築から始めます。

江戸城近辺を直轄地(100万石余)とし、板倉重勝を江戸町奉行に任じ、さらに大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好らを代官として江戸の町の調査から始めていきます。

支城に有力家臣を配置

また、徳川家康は、江戸城を本城・その周囲に存する城を支城と位置づけ、要となる支城に以下のとおり有力家臣を配置していきます。

(1)武蔵国

①岩付(岩槻)2万石:高力清長

②騎西(寄西)2万石:松平康重

③河越1万石:酒井重忠

④小室1万石:伊奈忠次

⑤松山1万石:松平家広

⑥広忍1万石:松平家忠

⑦羽生1万石(2万石とも):大久保忠隣

⑧深谷1万石:松平康忠

⑨東方1万石:戸田康長

⑩本庄1万石:小笠原信嶺

⑪阿保1万石:菅沼定盈

⑫八幡山1万石:松平清宗

(2)上野国

①箕輪(高崎・中山道出入口)12万石:井伊直政

②館林10万石(日光街道出入口):榊原康政

③厩橋3万3000石:平岩親吉

④白井3万3000石:本多康重(うち1万3000石は本多広孝分)

⑤宮崎(小幡)3万石:奥平信昌

⑥藤岡3万石:依田康勝

⑦大胡2万石:牧野康成

⑧吉井2万石:菅沼定利

⑨総社1.2万石:諏訪頼水

⓾那波1万石:松平家乗

(3)下野国

①皆川1万石:皆川広照

(4)上総国

①万喜(大多喜・江戸湾入口の里見家監視)10万石:本多忠勝

②久留里3万石:大須賀忠政

③佐貫2万石:内藤家長

④鳴戸(成東)2万石:石川康通

(5)下総国

①結城(及び常陸国土浦)10万1000石:結城秀康(徳川家康次男)

もっとも、結城秀康の知行は徳川家康から与えられたものではなく、養親であった豊臣秀吉から与えられたものと、もう1人の養父であった結城晴朝から引き継いだものです。

②矢作4万石:鳥居元忠

③臼井3万7000石:酒井家次

酒井家次は徳川四天王筆頭であった酒井忠次の子なのですが、他の徳川四天王3人は10万石規模の領地を与えられているにもかかわらず、酒井家次のみ3万7000石にとどまったことから酒井忠次が徳川家康に抗議をしたところ、このとき酒井忠次は、徳川家康から「お前も我が子が可愛いか」と松平信康切腹事件の不手際を責められて何も言えなくなったとの逸話が残されています。真偽は不明ですが。

④古河3万石:小笠原秀政

⑤葛飾(小金城)3万石:武田信吉(松平信吉・徳川家康五男)

⑥関宿2万石:松平康元

⑦山崎1万2000石:岡部長盛

⑧蘆戸(阿知戸)1万石:木曾義昌

⑨守谷1万石:菅沼定政

⑩多古1万石:保科正光

⑪佐倉1万石:三浦義次

⑫岩富1万石:北条氏勝

(6)相模国

①小田原4万5000石:大久保忠世

②玉縄1万石(2万2000石とも):本多正信

(7)伊豆国

①韮山1万石:内藤信成

関東移封後の関東改造

天正18年(1590年)8月1日に江戸に入った徳川家康でしたが、文禄元年(1592年)から文禄・慶長の役が始まると豊臣秀吉から徴用され、江戸を離れて肥前国名護屋への滞在を強いられることとなります。

その後、講和交渉の進展により1年9カ月後に江戸に戻った徳川家康でしたが、今度は京で豊臣秀次切腹事件が起こり、文禄4年(1595年)に再び上京を命じられ、江戸を離れて伏見で生活することとなりました。

もっとも、徳川家康は、豊臣秀吉の命令に振り回されながらも、一貫して江戸の開発を継続させ、国力の増強に努めていきます。

現在の東京からは想像もつきませんが、当時の江戸は、その中心ともいえる江戸城はやや高台となっていた桜田近辺に鎮座していたのですが、そのすぐ東側に隅田川河口があったこと、眼前に日比谷入り江が広がっていたことなどから、その周囲は大湿地帯となっているという都市に適さない環境でした。

このままでの発展性は乏しいと判断した徳川家康は、江戸城から南へ向かって町づくりを行うこととし、幾つもの国家的土木事業を突貫工事で行っていきます。

まず、海から届けられた物資を江戸城に届けるために道三堀(近くに江戸城の御典医であった曲直瀬道三の居宅があったためにこの名が付けられました。)などを掘削して堀を張り巡らせます。

また、房総半島からの物資を道三堀へつなぐため、小名木川堀を掘削します。

次に、本郷台地の先にあった神田山を崩し、その際に出た土砂で日比谷入り江を埋め立てます。

さらには、井之頭遊水地から上水を引き込んで飲み水を安定確保させ、頻繁に関東平野に水害を発生させていた当時江戸湾に注いでいた利根川を太平洋に注がせるためにその流域を付け替えるという超巨大治水工事まで行っています。

こうして八百八町が並ぶ現在の東京につながる大都市の礎が作られていきました。

また、日比谷入り江の拡張に伴って江戸城の拡張工事も行われ、さらには水道事業などのインフラ整備も進められ、江戸の町は急速な発展を遂げていきます。

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