【本多正信】徳川家康に信頼され友と呼ばれた参謀

本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の参謀であり、江戸幕府の開幕の功労者です。

若い頃には三河一向一揆に参加して徳川家康に敵対し、その後は徳川家を出奔して全国を放浪した後に帰参を許されるという変わった経歴を持っています。

本多正信は、この放浪経歴に裏付けられた経験と人脈を駆使し、武断派の多い徳川家臣団の中で、数少ない官僚型家臣として徳川家康を支え、徳川家康・徳川秀忠という2代に亘る将軍の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るいました。

また、何を考えているかわからない狸親父と言われる徳川家康から、友と言われるほどの信頼を勝ち得た数少ない人物でもあります。

本多正信の出自

出生(1538年)

本多正信は、天文7年(1538年)、本多俊正の次男として三河国で生まれます。母は松平清康の侍女とも言われますが、正確なところは不明です。通称は弥八郎といい、年齢は徳川家康より4歳年上でした。

本多俊正は、安祥松平家に仕えていたものと考えられていますが、側近・重臣と言えるほどの立場ではなかったため詳しいことはよくわかっておらず、そのため幼いころの本多正信についても記録がないためほとんどわかっていません。

丸根砦攻略戦で負傷(1560年)

本多正信の名が資料上に登場するのは桶狭間の戦いの頃からです。

本多正信は、徳川家康(このころは松平元康と名乗っていましたが、本稿では便宜上徳川家康の表記で統一します。)に従って、桶狭間の戦いの前哨戦となった、大高城兵糧入れやその後の丸根砦攻略戦に参加したといわれています。

なお、本多正信は、丸根砦攻略戦の際に膝に傷を負って以降足を引きずるようになったとも言われているのですが(佐久間軍記)、丸根砦攻略戦に加わったとされる人員に記録されていないため実際の真偽は不明です。

一向一揆で徳川家康に敵対(1563年)

桶狭間の戦い後のどさくさに紛れて岡崎城に入った徳川家康は、その後、西三河・奥三河に勢力を拡大させていきます。

その後、徳川家康は、経済力の強化を果たすために父・松平広忠が認めた浄土真宗本願寺派寺院に対する守護不入特権を否認し、これらに対して貢祖、軍役の賦課等を課していきます。

これに対し、それまでの特権を否認された浄土真宗本願寺派寺院は徳川家康に対する抵抗し、この動きに徳川家康に抗う勢力が便乗します。

その結果、西三河では、領主(徳川家康)と仏(浄土真宗本願寺派寺院)とが争う形となり(三河一向一揆)、領民はもちろんのこと徳川家康家臣団もまた領主側(主君への忠誠)と仏側(信仰)のどちらを選ぶかという選択に迫られ、松平家臣団がそれぞれの思想・思惑に従って、徳川家康に付き従う者、浄土真宗寺院側に付く者に分かれてしまいます(家ごとにというわけではなく、それぞれの家でも人によって分かれてしまうような状況となったのです。)。

このとき、本多正信もまた領主側(主君への忠誠)と仏側(信仰)のいずれを選ぶか悩まされたのですが、熱心な一向宗門と出会ったことから、弟である本多正重と共に一向宗方に与するという選択をします。なお、このとき一向宗方に与した主な武将としては、本多正信の他にも、松平家次、松平信次、松平昌久、吉良義昭、荒川義広、鳥居忠広、酒井忠尚、高木広正、榊原清政、大原惟宗、矢田作十郎、久世長宣、筧助太夫、内藤清長、加藤教明、石川康正、蜂屋貞次、夏目広次渡辺守綱などが挙げられます。

こうして敵味方に分かれた松平家臣団でしたが、徳川家康方についた家臣団が蜂起した一向宗勢力を次々と打ち破り、三河一向一揆は最終的には徳川家康方の勝利に終わります。

この後、西三河の一向宗寺院に対しては徹底的な弾圧をした徳川家康は、一向衆方に加担した家臣たちについては寛大な処置を取り、一向一揆終結後も処分することなく家臣団として受け入れました。

このとき、本多正信の弟である本多正重(本多俊正の四男)は、徳川家康の下に帰参してその後徳川家の武将として数々の武功を挙げています(もっとも、本多正重は、天正3年/1575年ころに徳川家から出奔して浪人となって滝川一益・前田利家・蒲生氏郷と次々と主君を変えた後、慶長元年/1596年に徳川家に再び帰参しています。)。

出奔して全国を流転(1564年)

ところが、本多正信は、妻子を三河国に残したまま徳川家康の下から出奔し、一向宗の持ちたる国であった加賀国に移ります。

その後、畿内で松永久秀に仕えたりするなど(藩翰譜において、松永久秀による本多正信の人物評が記載されていますが登用していたかについてまでは不明です。)、全国を流転したりしたと言われていますが、正確なことはわかっていません。

なお、松永久秀は、本多正信のことを、武勇一辺倒が多い徳川家臣団には珍しく、剛も柔も扱える大器であると高く評価しています。

徳川家康の下で官僚として活躍

徳川家康の下に帰参

その後、本多正信は、元亀元年(1570年)から天正10年(1582年)までのいずれかの時期に、大久保忠世のとりなしによって徳川家康の下に帰参することが許され、当初は鷹匠として徳川家に仕え始めます。

もっとも、出奔したとはいえ10年以上も全国を放浪して経験を積みまたその間に一向宗門徒を中心とする独自の人脈を築き上げた本多正信は、貴重な情報源と判断されて次第に徳川家康に重用されていきます。

その後、天正10年(1582年)、本能寺の変の後の神君伊賀越えの際、本多正信もこれに付き従ったとも言われているのですが、同行が確実と言われる34名の供回りの中に本多正信の名はなく、正確なところは不明です。

また、天正壬午の乱により徳川家康が甲斐国・信濃国を獲得すると、そのうちの甲斐国の混乱を鎮めるために伊奈忠次・大久保長安らと共に所務方に任じられて派遣され、内政再建に尽力しています。

石川数正に代わる官僚として活躍

小牧長久手の戦いの後の天正13年(1585年)11月13日に石川数正が徳川家康の下から出奔して豊臣秀吉に与すると、本多正信が、それまで石川数正が担っていた外交官的な役割を本多正信が代わって担うようになります。

そして、大大名化していった徳川家においては、それまでの軍事力に加え政治力・外交力などが必要とされていったのですが、本多正信が徳川家臣団の中で数少ない官僚タイプとして徳川家康に重用されていきます。

なお、余談ですが、徳川家臣団の武断派からすると、官僚能力で出世していった本多正信は鼻についたようで、本多正信は家臣団随一の嫌われ者の立場となっています。

従五位下・佐渡守(1586年)

徳川家康が豊臣秀吉に服属すると、その取り込みのために豊臣秀吉の推薦による徳川家康の重臣達にも叙位・任官が進められ、天正14年(1586年)、本多正信も従五位下・佐渡守に叙位・任官されます。

この佐渡守任官により、本多正信は、通称として佐渡殿や本多佐渡などと呼ばれるようになりました。

相模国玉縄1万石を得る(1590年)

天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封が行われると、本多正信もこれに従って関東に赴き、相模国玉縄1万石(2万2000石とも)を与えられて玉縄藩を立藩します。

その後、本多正信は、伏見にいた徳川家康に代わって江戸の街づくり普請の監督を務めます。

徳川家康との信頼関係構築

慶長4年(1599年)閏3月3日に前田利家が死去すると、加藤嘉明ら七将が石田三成を襲撃する事件が起こり、石田三成が徳川家康を頼って逃れてきます。

このとき、本多正信が徳川家康に対して、石田三成の処遇をどうするか質問したところ、徳川家康が考え中であるとの回答をしました。

本多正信は、この回答を聞いただけで徳川家康の考えを理解し、安心して徳川家康の部屋から退出したといわれています。

また、徳川家康が近習達を罵っていたことがあったのですが、その姿を見た本多正信は、徳川家康に代わって徳川家康以上に強く近習達を罵り、暗に徳川家康を宥めてその怒りを解いたとも言われています(真田増誉・明良洪範)。

このように、徳川家康と本多正信は、阿吽の呼吸とも言われるほどの強い信頼関係で結ばれるようになり、徳川家康は、本多正信を「友」とまで呼ぶほどに信頼していたと言われます。

関ケ原の戦いに遅刻(1600年)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、上杉攻めのために会津に向かっていた徳川軍(東軍)が、下野国小山から引き返すこととなったのですが、このとき徳川家康率いる本隊と豊臣恩顧大名先発隊は東海道を、徳川秀忠率いる徳川譜代隊3万8000人は中山道を進んで美濃国を目指すこととなりました。

このとき、本多正信は、徳川秀忠軍につけられてこれに従軍し、徳川秀忠と共に中山道を西進します。

ところが、途中の上田城に差し掛かった際に真田昌幸の挑発に遭い、若く実戦経験のない徳川秀忠が我慢できずに上田城攻めを決断して戦闘状態となります(第2次上田合戦)。

このとき、本多正信は、軍監であった榊原康政と共に、徳川秀忠に対して上田城攻撃を止めるよう進言したのですが、若い徳川秀忠には受け入れられませんでした(なお、本多正信が悪役として描かれることが多い大久保忠教が記した三河物語では、本多正信が上田城攻撃中止を進言しなかったと記されています。)。

そして、大軍の徳川軍で上田城攻撃を開始するも上田城はなかなか落城せず、そうこうしている間に、同年9月8日、徳川秀忠の下に徳川家康より急ぎ美濃国に来るよう伝える使者が到着します(荒天により、命令を伝える使者の到着が遅れます。)。

この結果、徳川秀忠は、抑えの兵を残して上田城の包囲を解き、全軍を率いて美濃国に向かって急いで進軍したのですが、荒天のために進軍が進まず、東軍主力であった徳川秀忠軍が同年9月15日の関ケ原の戦いの戦いに間に合わないという大失態を犯してしまいます。

初期江戸幕政に尽力

徳川家康の将軍就任(1603年2月12日)

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長6年(1601年)3月23日、大坂城西の丸を出て伏見城にて移り、関東の統治を進めると共に、武家の棟梁たる征夷大将軍に就任するために朝廷との交渉を開始します。

これらの徳川家康のブレーンとして尽力したのが本多正信でした。

まず、同年に、関東領国及び江戸市中を管掌する職であった関東総奉行が置かれると、本多正信が、青山忠成・内藤清成らと共に同職に任命されます。

また、本多正信は、朝廷との交渉も引き受け、徳川家康が征夷大将軍に任命されるための前提を作り上げるべく、源姓に復帰させる内容での徳川家系図の改姓を行います(なお、徳川姓への改名の際に藤原姓にしていたものを源氏に改姓しています。)。

そして、慶長8年(1603年)2月12日、朝廷より六種八通の宣旨が下り徳川家康がを征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開幕すると、本多正信は、徳川家康の側近として江戸幕府政治を主導するようになっていきます。

幕府老中就任(1607年)

その後、慶長10年(1605年)4月16日、徳川家康が征夷大将軍の職を辞して徳川秀忠が第2代将軍に任じられると、本多正信は江戸の徳川秀忠のもとで幕政に参画し、慶長12年(1607年)からは徳川秀忠付の年寄(老中)となって政権の中枢に入り込みます。

なお、本多正信は、徳川家康の後継者選定に際して、徳川秀忠ではなく結城秀康(徳川家康の次男)を推したと言われていますが、徳川秀忠が後継者と決まってからはよくこれを支えています。

本多正信の最期

暇を許される(1613年)

高齢となった本多正信は、慶長18年(1613年)、暇を許されて駿府から江戸に帰府することとなります。

帰府に際し、本多正信は徳川家康から万病円200粒と八味円100粒を与えられています(駿府記)。

隠居(1616年4月)

元和2年(1616年)4月17日に徳川家康の死去に伴い、本多正信もまた本多家の家督を嫡男である本多正純に譲って隠居し、一切の政務から離れます。

本多正信死去(1616年6月7日)

そして、その約2ヶ月である同年6月7日、本多正信は死去します。享年は79歳でした。

本多家改易

徳川家康に重用された本多正信は、武功によらずに官僚能力によって出世を重ねた自身が徳川家武断派家臣にねたまれていることを十分に理解していました。

そこで、本多正信は、生前、嫡男であった本多正純に対して、徳川家から加増を賜った場合には3万石までであれば受け入れ、それを超える知行の場合には辞退するように説いていたと言われています(なお、本多正純は慶長13年/1608年に下野国小山藩3万3000石の大名となっていますのでことの真偽については疑問もあります。)。また、徳川秀忠に対しても、本多正純に対して知行を与えないようにと嘆願していました。

もっとも、後に、本多正純は、宇都宮15万5000石を得たことにより(当初は固辞していた本多正純は、断り切れなくなって拝領してしまいます。)、他の家臣団からの恨みを買い、謀反の疑いを作り上げられて改易処分を受けています。

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