【大高城兵糧入れ】徳川家康の桶狭間の戦い

大高城兵糧入れは、「海道一の弓取り」と言われた今川義元が「尾張のうつけ」と言われた織田信長の奇襲により討ち取られた桶狭間の戦いの際、今川方に属していた松平元康(後の徳川家康)が、今川方の拠点となっていた大高城に兵糧を運び入れた兵站作戦です。

単なる兵糧運搬のように見えますが、鷲津・丸根・正光寺・氷上・向山の各砦によって囲まれた織田軍を突破して足の遅い小荷駄隊を運び入れるという困難な作戦であり、若き日の松平元康の軍才にて成功させた奇跡ともいえる軍功です。

また、この困難な作戦を成功させた功績により桶狭間への参集を免除されて大高城に留まることを許されたため、松平元康が、織田信長に討ち取られることなく一命をとりとめることにつながった作戦でもあります(この作戦に失敗していれば、松平元康は桶狭間へ参集を命じられ、そこで織田信長に討ち取られていた可能性が高く、後に江戸幕府が成立することもなかったと思われます。)

本稿では、マイナーではありつつも、実は大きな歴史的意味を持つ大高城兵糧入れについて、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。

大高城兵糧入れに至る経緯

大高城が今川方に下る

尾張国を事実上支配していた織田弾正忠家当主であった織田信秀が、天文21年(1552年)3月3日に死去し、その嫡男であった織田信長がその家督を相続することとなったのですが、家臣団の中にはうつけと呼ばれていた織田信長を良しとしないものも多く、織田弾正忠家が混乱します。

そんな中、天文21年(1552年)、織田弾正忠家に近い立場にいた鳴海城主山口教継と、その息子山口教吉が、織田信長の力量に疑問を持って駿河国・遠江国・三河国を勢力下に置く今川義元に寝返ります。

また、山口教継の調略により、大高城や沓掛城までもが今川方に与することとなりました。

この結果、鳴海城・大高城・沓掛城という尾張国への足掛かりを手に入れた今川義元は、永禄元年(1558年)、今川家の家督を嫡男・今川氏真に譲り隠居した後、今川家の実質的当主として君臨しつつ、甲相駿三国同盟を背景として積極的な西進政策を進めていきます。

なお、今川方に下った鳴海城主山口教継は、永禄2年(1559年)に織田方への再翻意の嫌疑により切腹を命じられ、その代わりとして鳴海城には岡部元信が入っています。

また、大高城には、永禄3年(1560年)に鵜殿長照が入ります。

織田軍が大高城・鳴海城を囲む

鳴海城・大高城・沓掛城を相次いで失った織田信長でしたが、特に鳴海城や大高城は、伊勢湾(あゆち潟)への出口として地政学的に見て重要な地点にある城でした。

そのため、織田信長としても、これらを失ったまま放置することはできず、鳴海城には丹下砦・善照寺砦・中島砦を、大高城には丸根砦・鷲津砦を構築するなどしてこれらを囲み、その奪還を目指します。

松平元康出陣(1560年5月10日)

他方、今川義元としても、尾張国への橋頭保となる鳴海城・大高城を失うわけにはいきませんので、永禄3年(1560年)5月、両城の解放とその後の尾張国侵攻を目指し、駿河国・遠江国・三河国から大軍を動員して尾張国に侵攻するという作戦を立案します。

このとき動員された今川軍は、2万5000人とも言われる大軍ですので、その兵站は戦局を左右する一大事項となります。

そこで、今川軍では、先行部隊を派遣し、対織田戦線の最前線となる大高城に兵糧を運び入れ、後から来る今川軍を迎え入れる作戦をとることとなりました。

もっとも、大高城は、既に織田方に取り囲まれているため、大高城への兵糧入れは、単なる運搬ではなく、大高城を囲む織田軍の包囲を突破した上での運び込みとなります。このときまでにも今川方において何度も試みては失敗していた作戦でした。

このときに白羽の矢が立ったのが松平元康(後の徳川家康,本稿ではこの時点の名である松平元康で統一します。)でした。

最前線に近い三河国の将であったことを理由とする選任だったのですが、新参者として今川家家臣団に組み入れられた松平元康にとっては、松平家の行く末を左右する大事な戦いとなりました。

そして、松平元康は、今川義元本隊に先立ち、永禄3年(1560年)5月10日、約1000人の兵を率いて井伊直盛らと共に出陣していきます。

また、2日後の同年5月12日には、今川義元率いる本隊が駿府国・今川館を出陣しています。

今川義元沓掛城入城(1560年5月18日)

永禄3年(1560年)5月18日、駿河国から西進して沓掛城に入った今川義元は、重臣を集めて軍議を開きます。

このとき決まった内容は、沓掛城に浅井政敏を残し、阿部元信が守る鳴海城と、鵜殿長照が守る大高城を解放するため、まずは松平元康が大高城に兵糧を入れた上で拠点とした上で、松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦を攻略して安全を確保して大高城に今川義元本隊を迎え入れ、その後、今川義元本隊で鳴海城を解放した後に清洲方面へ進軍するというものでした。

大高城への兵糧入れ

大高城への兵糧入れ(1560年5月18日)

大高城への兵糧入れを命じられた松平元康でしたが、大高城の東側には、織田軍により丸根砦や鷲津砦が築かれている上、特に丸根砦は大高道のすぐそばにありますので、単純に沓掛城から大高城に向かっても、足の遅い小荷駄隊では、丸根砦・鷲津砦から迎撃に出てくる兵に殲滅されるだけであることは明らかです。

そこで、松平元康は、一計を案じます。

松平元康は、丸根砦(と鷲津砦)から出てくるであろう織田軍を封じるため、率いる隊を分け、一部を丸根砦から約20kmも離れた寺部や梅ケ坪砦を攻撃する気配を示し、丸根砦・鷲津砦の注意をひきつけます。

織田方としても大高城攻めの隙に本領を奪われるわけにはいきませんので、丸根砦と鷲津砦に守備兵を残した上で、後詰の兵を両砦から出し、松平元康が派遣した寺部・梅ヶ坪砦攻撃軍の迎撃に向かいます。

この結果、丸根砦と鷲津砦の守備兵が手薄となったのですが、松平元康は、さらに率いる部隊を分けて、その一部で丸根砦を攻撃させさせます。

こうして、丸根砦には松平元康隊が、鷲津砦には朝比奈泰朝隊が取りついたのですが、既に内地防御の兵を差し向けていた両砦に新たに軍を出す余裕はなかったため両砦は防戦に専念することとなり、寡兵となっていた両砦から小荷駄隊を攻撃する兵が出てくることが出来ない状態となります。

こうして丸尾砦・鷲津砦からの迎撃軍を排除した松平元康は、総量450俵(約32.47㎘)の兵糧を馬一頭3俵ずつ150頭にこれを背負わせ、半町ずつ距離を空けた50頭ずつの3隊に分け、それぞれに周囲に50人と左右に各100名の護衛兵を配置して丸根砦の南側にある道幅約1間の大高道(大脇村~桶狭間村~大高村)を進ませて見事に兵糧を大高城に送り込むという大戦果を挙げます(改正三河後風土記)。

丸根砦攻略(1560年5月19日)

永禄3年(1560年)5月19日早朝までに大高城への兵糧入れを終えた松平元康は、そのまま佐久間盛重が守る丸根砦に攻め込み、激戦の末にこれを陥落させます。

また、北側の鷲津砦もまた朝比奈泰朝の攻撃によって陥落し、まずは大高城の解放が果たされます。

これらの報を聞いた今川義元は、戦勝気分となり(信長公記・伊束法師物語・三河物語)、疲労がたまっているであろう松平元康をねぎらうため、松平元康に大高城の守りを命じて鵜殿長照に代わって大高城に入らせ、後から進軍してくる今川義元本隊を待つよう指示を出します。

なお、このとき松平元康と共に今川軍の先行隊を担っていた井伊直盛らは、戻って今川義元本隊に合流したため、後に今川義元と共に桶狭間で討死しています。

大高城に入って今川義元を待つ

永禄3年(1560年)5月19日,今川義元が浅井政敏を残して沓掛城を出発し西進しているとの報を受けた松平元康は、大高城で休息を取りながら、進軍してくるであろう今川義元本隊5000人を迎える準備を進めていきます。

ところが、予定時間が過ぎても今川義元軍が大高城にやってきません。

それもそのはず、丸根砦・鷲津砦陥落の報を聞いて出陣した織田信長により,永禄3年(1560年)5月19日午後2時ごろ,今川義元本隊が急襲され討ち取られてしまっていたからです(桶狭間の戦い)。

大高城からの退き口

今川義元討死の報が届く

永禄3年(1560年)5月19日夕刻、大高城で今川義元を待っていた松平元康の下にとんでもない報が届きます。

その内容は、桶狭間で今川義元が討死し、2万5000人を擁する今川軍がちりぢりになって退却をしているというものでした。

この報が真実であれば松平元康もまた一刻も早く大高城を脱出して逃げなければ命が危ないのですが、他方で、戦場では流言が多いためこの報が虚偽のものであれば大高城から脱出して織田方に明け渡してしまった責めを問われることとなるため、松平元康は悩みます。

悩んだ松平元康は、今川義元の死の確証を得るまでは城内に留まることとします。

もっとも、その後、織田方に与していた叔父・水野信元からの使者である浅井道忠が訪れ、今川義元の敗死の知らせと大高城を出るようにとの忠告があったため、松平元康はここでようやく大高城から撤退するという決断を下します。

大高城からの退き口

大高城に本多光忠を残して大高城を出た松平元康は、正確なルートは不明ですが、浅井道忠の道案内に従って知立を経て今村まで進みます。

途中、落ちていく大将首を狙った織田兵や落ち武者狩りに遭遇しますが、先導していた水野信元の使者であった浅井道忠がその都度「水野下野守信元カ使浅井六之助」と名乗りをあげて阻止したり、時には武力でこれを返り討ちにしたりしながらの逃走劇でした。

今村で、道案内の浅井道忠と別れた松平元康は、増水する矢作川を渡り、ようやく岡崎にたどり着いたのですが、岡崎城には今川家臣が入っていたため入ることができず、永禄3年(1560年)5月20日、一旦岡崎にある松平家の菩提寺である大樹寺に入ります(家忠日記増補・三河物語など)。

厭離穢土・欣求浄土を旗印とする

なお、大樹寺に入った松平元康を追って織田軍が押し寄せてきたため、観念した松平元康が先祖代々の墓所の前で自害しようとしたのですが、同寺住職であった登誉上人に代々平和な世の中を創ろうとしてきた松平家を松平元康の代で終わらせてはならないと諫められ、穢れた国土である娑婆世界(穢国)を厭い離れ、清浄な国土である阿弥陀如来による極楽世界への往生を切望するという意味の言葉である「厭離穢土・欣求浄土」を授けられます。

この登誉上人の言葉に勇気づけられた松平元康は、平和国家建設のために尽力することを決意し、代々の松平家の当主が眠る墓前に大願成就を願い、以降、戦場では、「厭離穢土・欣求浄土」の旗印と、「天下泰平」と記した軍配を振るうようになったと言われています。

真偽は不明ですが。

岡崎城入城(1560年5月23日)

その後、岡崎城に入っていた今川家臣が、今川義元の死を知って駿河国に退却したため、岡崎城が空城となります。

そこで、松平元康は、永禄3年(1560年)5月23日、11年ぶりにかつての松平家本拠地である岡崎城への入城を果たします。

このときの岡崎城への入城については、松平元康の独断であったとする説のほか、今川氏真の同意の下であったとする説もあり、その経緯は不明です(岡崎に戻ってから入城まで3日を要していること、今川家としては織田家への備えとして岡崎城が有用であったこと、その後松平元康が今川氏真から直ちに謀反人扱いされた訳ではないことをあわせ考えると、今川氏真の同意があったと考えるのが自然かもしれません。)。

こうして人質生活を脱した松平元康は、清洲同盟・三河国平定などを経て勢力を強めていくのですが、長くなりますので、以降の話は別稿で。

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