【織田信秀】津島・熱田支配による経済力を基に革新的政策を打ち出した織田信長の父

織田信秀をご存知ですか。

織田信長の強烈な個性の陰に埋もれた人物で、多くの人のイメージは、葬式の際、織田信長から位牌に抹香を投げかけられるという程度のものじゃないでしょうか。

実は、織田信秀は、織田信長の飛躍の基礎となる津島湊・熱田湊という経済基盤に加え、革新的を作り上げた人物なのです。

本稿では、尾張の虎と呼ばれ、尾張国内外に織田弾正忠家の勢力を拡大させ、織田信長飛躍のきっかけを作った織田信秀について説明していきたいと思います。

織田信秀の出自

織田信秀出生(1511年)

織田信秀は、永正8年(1511年)、尾張国南西部海東郡・中島郡を支配する勝幡城主・織田信定の嫡男として産まれます。

織田信秀が産まれたころの尾張国は、小領主が覇権を争う時代でした。

尾張国は元々室町幕府三管領であった名門斯波氏が治めていたのですが、応仁の乱以降その力が衰え始め、代わって守護代であった織田氏が台頭し始めます。

そして、この守護代の織田氏は、清洲織田家(織田大和守家・尾張下四郡を支配)と岩倉織田家(尾張上四郡を支配)とに分かれて勢力争いを始めます。

このような情勢の下、織田信定の織田弾正忠家は、織田大和守家に仕え、清洲三奉行に数えられる地位にいました。

織田信秀の父・織田信定は、勝幡城を治める他、当時海に面した港町で津島神社の門前町として繁栄していた津島湊を支配し、莫大な経済的利益を得ることに成功します(津島湊を守りさらに発展させるため、織田信定は、津島湊の近くに勝幡城を築き、織田弾正忠家の本拠地としています。)。

津島湊の商品流通経済を活性化させ、これにより上がった上前により、織田弾正忠家は圧倒的な経済力を得て勢力を拡大させていきます。

織田弾正忠家の家督相続(1526年ころ)

織田信秀は、正確な時期は分かりませんが大永6年(1526年)4月から同年7年(1527年)6月までの間に、父・織田信定から家督を譲られて織田弾正忠家の当主となります。

そして、織田信秀は、織田弾正忠家の家督を継いだ後、徐々に頭角を表していき、天文2年(1533年)7月8日には、京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招いて勝幡城で蹴鞠会を開催するなどして力を示しています。

なお、天文3年(1534年)、織田信秀と土田御前との間に嫡男の吉法師(後の織田信長)が誕生しています。

 

    織田信秀の勢力拡大

    那古野城奪取【本拠移転政策】(1538年)

    そして、この後から織田信秀の勢力拡大が具体化していきます。

    手始めは、那古野城でした。

    この頃、今川家が尾張国内にも勢力を広げ、那古野城をも治めていました(城主は、今川義元の弟と言われる今川氏豊です。)。

    織田信秀は、主家にあたる清洲織田家のものでも、そのまた主家である斯波家のものでもない那古野城であれば獲得しても問題がないと判断します。

    そこで、織田信秀は、手段は必ずしも明らかではありませんが、天文7年(1538年)ごろ、今川氏豊から那古野城(名古屋市中区)を奪取します。同城に織田弾正忠家の本拠地を移転します。

    なお、余談ですが、那古野城は、1582年に一旦廃城となった後、同じ場所に尾張徳川家によって現在の名古屋城が築城されています。

    熱田支配【経済政策】と古渡城築城(1539年)

    那古野城を獲得した織田信秀は、天文8年(1539年)頃、熱田神宮の門前町として栄える熱田湊を支配し、津島湊に続く2つ目の織田弾正忠家の経済的基盤を獲得します。

    そして、この熱田湊を守りさらに発展させるため、織田信秀は、その近くに古渡城(現在の名古屋市中区)を築き、同城に織田弾正忠家の本拠地を移します。

    そして、正確な時期は不明ですが、この後のどこかの時点で、「大うつけ」と呼ばれ長老衆や周囲の悪評の高かった嫡男の織田信長に那古野城を与えています。

    西三河に勢力を及ぼす(1540年)

    天文4年(1535年)、三河国をまとめ上げてイケイケ状態だった松平清康が、斎藤道三・今川義元の支援を受けて、1万人もの大軍を率いて織田信秀の弟・織田信光が守る守山城に攻め込んでくる事件が起こります。

    もっとも、このときは攻撃中の松平方の陣中で松平清康が家臣により斬殺されるという事件が起こって松平軍が三河国に退却したため(守山崩れ)、織田信秀は窮地を脱します。

    他方、家臣に当主が殺されるという事態に陥った遠江国・松平家は混乱状態となります。

    津島湊・熱田湊を押さえたことにより潤沢な経済基盤を得た織田信秀は、天文9年(1540年)、混乱に乗じて三河国に侵攻し、松平家の西三河防衛の重要拠点である安祥城(現在の愛知県安城市)を攻略し、西三河にも勢力を及ぼしていきます。

    朝廷との関係強化【朝廷工作】

    以上のとおり、経済的にも勢力的にも成長していった織田信秀は、上洛して朝廷にも献金し、従五位下に叙位されるとともに備後守に任官されます。

    また、織田信秀は、天文9年(1540年)に伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上し、翌天文10年(1541年)9月、その礼として朝廷より、三河守に任じられます。

    さらに、織田信秀は、天文12年(1543年)、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上しています。

    また、あわせて尾張国内外の国人らに対しても、経済力を基にした外交政策を展開していきます。

    大垣城攻略(1542年)

    また、織田信秀は、天文11年(1542年)、斎藤道三により美濃国守護・土岐頼芸とその子の土岐頼次が追放された事件をチャンスと見て、越前国の朝倉氏と示し合わせて美濃国に出兵し大垣城を攻略します。

    そして、この頃、織田信秀の最盛期を迎えます。

    織田信秀は、主家である尾張国守護代・織田大和守家への臣従関係は維持しながらも、津島・熱田から上がってくる経済力を背景として、織田大和守家はもちろん、その主家である守護・斯波氏をも上回る勢力となります。

    もっとも、織田信秀は、実質上は尾張国を代表する大名家として美濃国・斎藤道三、三河国・松平家、駿河国・今川義元らと対峙したのですが、形式的には尾張国守護代の奉行にすぎないという家格の低さから、国内での反乱・謀反に悩まされ続けます。

    なお、余談ですが、織田信秀はこの反乱者に対して徹底した処分をしなかったことに限界があり、その反省を生かして飛躍したのが息子の織田信長です。

     

    周囲の勢力に苦しめられる

    美濃戦線【北側戦線】での苦戦

    織田信秀は、天文13年(1544年)、斎藤道三の居城・稲葉山城を取り囲んで城下に火を放ったものの稲葉山城を攻略できず、逆に退却しようとしたところを背後から斎藤道三の反撃を受けて大敗します(加納口の戦い)。

    また、天文17年(1548年)、斎藤道三が大垣城の奪還のために攻めよせたため、織田信秀が後詰のために出陣したのですが、その留守中に、主家である織田大和守家当主の織田信友(織田達勝から当主の座を継いだ人物)が、織田信秀の居城である古渡城を攻めたために織田信秀が引き返しました。

    その結果、大垣城を斎藤道三に奪われます。

    多方面作戦が厳しくなりつつあった織田信秀は、天文18年(1549年)2月、織田信秀は、嫡男・織田信長の正室として、斎藤道三の娘である濃姫を娶ることを条件に斎藤道三と和睦します。

    遠江戦線【東側戦線】での苦戦

    織田信秀は、天文16年(1547年)、松平広忠の居城・岡崎城に侵攻します。

    このとき、松平広忠は、駿河国の今川義元に援軍を求めます。

    これに対し、今川義元は援軍の見返りとして松平広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出すよう求めます。

    松平広忠は、やむなく竹千代を駿府に送り出すのですが、このとき松平広忠を見限った家臣が、竹千代を織田信秀に売り飛ばしてしまいます。

    その結果、織田信秀は、人質として竹千代を手に入れます。

    その後、天文17年(1548年)、松平広忠が斎藤道三と結んで挙兵し、これに今川義元も加わったため、同年に起こった第2次小豆坂の戦いで織田信秀は、松平・今川連合軍に大敗します。

    勢いにのる今川軍は、天文18年(1549年)3月、太原雪斎率いる1万人の大軍で安祥城へ攻め込みます。

    今川軍は、一旦は退けられたものの、同年9月の再度攻撃が行われ、同年11月に同城が陥落し、城主の織田信広を人質として捕えます。

    このときに、織田方に捕らえられていた竹千代と、今川方に捕らえられた織田信広の人質交換が成立し、また合わせて織田信秀が西三河を失った状態で今川氏と和睦が成立します。

    織田大和守家【西側戦線】との諍い

    天文17年(1548年)には犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こしたのですが、織田信秀はこれを鎮圧します。

    また、同年、織田大和守家当主・織田信友が、斎藤道三と通じて、織田信秀の居城・古渡城を攻めたため、織田信秀と織田大和守との諍いが具現化していきます。

    織田信秀と織田大和守との諍いは、織田信秀の代では、天文18年(1549年)に一旦和解して解消されます。もっとも、この対立は次代にも持ち越し、後に、織田信長によって織田大和守家が滅ぼされます。

    末森城に本拠移転(1548年)

    そして、天文17年(1548年)、織田信秀は、末森城(名古屋市千種区)を築いて、同城に織田弾正忠家の居城を移します。

    織田信秀は、このときまでにもその時々の戦略的必要性から、居城を勝幡城、那古野城、古渡城へと次々と移転していましたが、更なる本拠移転です。

    このような本拠移転は、当時としては極めて異例なことでした。

    当時の戦国大名は、自らの本拠地の安全を図りながら、少しずつ勢力を外に広げて行くのが常識だったからです。実際、武田信玄・上杉謙信・北条氏康など、同時代の戦国大名達は、生涯居城を動かしていません。

    そして、この織田信秀の稀有な居城移転戦略は、息子の織田信長にも引き継がれています。

    織田信秀の最期

    織田信秀が病に伏せる

    織田信秀は、天文18年(1549年)ころから病に臥せるようになります。

    そのため、この頃から、織田信秀は、那古野城主であった、嫡男・織田信長を政務に関与させることにより、織田信秀と織田信長の二元体制で織田弾正忠家の政務が執り行われるようになります。

    織田信秀死去(1552年3月3日)

    そして、織田信秀は、天文21年(1552年)3月3日に42歳の若さで病死します。

    享年は42歳でした。

    なお、没年は、天文18年(1549年)説、天文20年(1551年)説、天文21年(1552年)3月9日説などもあり、必ずしも明らかではありません。

    織田信秀の葬儀

    織田信秀の葬儀は、万松寺で行われ、僧侶300人、重臣をはじめ多くの者が参列する盛大なものが行われました。

    このとき、織田信長の弟である織田信行は折り目正しい肩衣、袴を着用し、礼にかなった作法で列席したのですが、織田信長は袴を履くことなく、長柄の大刀と脇差を荒縄巻き、茶筅髷の状態で仏前に出て、抹香をつかんで仏前に投げて帰ったそうです。

    この様子を見て、ただ一人九州からきた旅僧だけが大人物であると評価をしたものの、その他の者はうつけと称して織田家の将来を悲観することとなりました。

    織田信秀死亡後の織田弾正忠家の飛躍

    その後、間もなく、織田信長の守役である平手政秀が、織田信長の態度を嘆き、これを諌めるために1553年、腹を切って果てました。

    織田信長は、平手政秀の切腹に反省したのかどうかはわかりませんが、その後、織田上総介信長と自ら官名を名乗り、一地方領主にすぎなかった織田弾正忠家を天下人手前まで成長させる飛躍をはじめます。

    この飛躍は、長く苦しい尾張国統一戦と織田弾正忠家内の統一戦から始まりますが、長くなりますのでその話は別稿で。

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