【宮古湾海戦】旧幕府軍が制海権回復のため新政府軍の軍艦奪取を試みた戦い

宮古湾海戦は、箱館戦争における戦闘のひとつで、虎の子の軍艦であった開陽丸が座礁・沈没したことによって制海権を失った旧幕府軍が、制海権を取り戻すため、新政府軍の新鋭軍艦・甲鉄を奪取しようとして勃発した戦いです。

近代化していく西洋式の軍艦を、前近代的な敵船乗り込みとその後の敵船制圧により奪取しようとしたアボルダージュと呼ばれるいわゆる接舷攻撃戦という、極めて興味深い戦いです。

結果は、旧幕府軍の作戦失敗に終わりますが、とても珍しい戦いですので、本稿で概略を紹介したいと思います。

宮古湾海戦に至る経緯

開陽丸座礁・沈没(1868年11月15日)

明治元年(1868年)、江戸城無血開城に対して徹底抗戦を主張した榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、江戸を脱走後に陸戦部隊とも合流して蝦夷地に渡り、これを占拠していきます。

ところが、新政府軍がいない間に蝦夷地を占領していく旧幕府軍に一大事件が起こります。

1868年(明治元年) 11月15日夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽が座礁してしまったのです。

また、座礁した開陽を救助すべく函館から回天と神速丸が江差に到着したのですが、開陽の救助どころか助けに来たはずの神速丸までも座礁してしまいます。

結局、開陽は数日後に沈没してしまい、旧幕府軍は虎の子の軍艦を失います。

開陽を失ったことにより、旧幕府軍は制海権を失います。旧幕府軍にとってこれが致命的でした。

開陽=制海権を失ったことにより、旧幕府軍は、蝦夷地攻略の最大の武器を失うと共に、本州から新政府が送り込んでくる兵・武器・兵糧を止めることができなくなったからです。ジリ貧確定となります。

函館政権樹立(1868年12月15日)

1868年(明治元年) 12月15日、旧幕府軍は、選挙により選ばれた榎本武揚を総裁とする箱館政権(蝦夷共和国)を樹立します。

新政府軍の動き

明治新政府としては、旧幕府軍の勝手な独立宣言を許しておくことはできません。

そこで、新政府軍も雪解けを待って動き出します。

まず、明治2年(1869年)2月には松前藩、弘前藩兵を中心に約8000人の陸上兵力を青森に集結させます。

また、海軍についても品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄を購入するとともに、増田虎之助を海軍参謀として諸藩から軍艦を集めて艦隊を編成し、同年3月9日、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・陽春・丁卯)の軍艦4隻と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船4隻は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆させました。

なお、新政府海軍の旗艦である甲鉄は、元々は、フランス製のアメリカ連合国海軍のストーンウォール号で、南北戦争後アメリカで繋留状態にあったものを江戸幕府がアメリカから購入したものでした。

江戸幕府が購入した船であったのですが、日本到着が戊辰戦争勃発後となったためアメリカの局外中立を理由に幕府には引き渡されず、中立解除後に新政府が引き取ったため、新政府軍の艦船となっていました。

旧幕府軍による甲鉄奪取作戦

旧幕府軍は、明治2年(1869年)3月、新政府軍艦隊(甲鉄、春日、丁卯、陽春の軍艦4隻と徳島藩の戊辰丸、久留米藩の晨風丸および飛龍丸、豊安丸の軍用輸送船4隻)が宮古湾に入港する予定であるとの情報を入手します。

榎本武揚は、江戸脱走以前にアメリカとの間で甲鉄の引渡し交渉をしていた経緯があったため、新政府軍の旗艦である甲鉄が当時日本唯一の装甲艦であることを知っていました。

そのため、榎本武揚は、甲鉄を新政府軍から奪取し、これを旧幕府軍で運用できれば、開陽丸沈没により失った制海権を回復できると考えます。

そこで、榎本武揚は、すぐさま甲鉄の奪取作戦を元フランス海軍士官候補生ニコールに立案させます。

このときに立案された作戦は、旧幕府軍の艦船である回天、蟠竜、高雄の3艦に斬り込みのための旧幕府軍陸兵を乗せて外国旗を掲げて宮古湾に突入させ、外国旗を日章旗に改めると同時に3艦を甲鉄に接舷させて陸兵が斬り込み、陸兵で甲鉄の舵と機関を制圧し、函館まで退却するというものでした。

軍艦に移乗攻撃(アボルダージュ)をしかける作戦を立てるところが、時代の変わり目であることを感じさせます。

甲鉄奪取作戦の準備

作戦では、甲鉄への接舷は蟠竜と高雄のスクリュー式小型艦2隻で実行し、大型の外輪船で接舷が難しい回天は旗艦として援護にあたる予定でしたので、総司令官である海軍奉行・荒井郁之助、検分役である陸軍奉行並・土方歳三、元フランス海軍のニコールらは回天に乗り込みます。

そして、蟠竜と高雄にそれぞれ約100人の切り込み制圧隊が乗り込みます。

宮古湾海戦の戦闘経過

旧幕府軍による作戦開始

明治2年(1869年)3月21日未明、旧幕府艦隊の回天・蟠竜・高雄の3艦隊は、互いを大綱で繋いで一列縦隊で宮古湾に向かって南進していきます。

同年3月22日、3艦は、偵察目的のため鮫村(現在の青森県八戸市)に寄港して情報を収集し、再度出発して南進し、宮古湾に向かいます。

ところが、同日夜に暴風雨にその遭い、3艦を繋いでいた大綱が断絶されて艦隊は離散してしまいます。

暴風雨が去った同年3月24日、なんとか回天と高雄は合流できたのですが、蟠竜と逸れてしまいます。なお、このとき、蟠竜は互いを見失った際の取り決めに従って鮫村沖で待機していました。

また、高雄も、暴風雨により機関を損傷したため、やむなく、修理のために回天とともに宮古湾の南に位置する山田湾(岩手県山田町)に入港することとなりました。

そして、同日、山田湾に停泊する回天・高雄の2艦の下に、新政府軍艦隊が宮古湾鍬ケ崎港に入港したとの情報が入ります。

この機を逃さないため、旧幕府軍は、蟠竜との合流を諦めて回天と高雄の2艦のみで作戦実行を決断します。

作戦は、一部変更され、回天が甲鉄以外の船を牽制し、その間に高雄が甲鉄を襲撃するというものでした。

なお、このとき、新政府軍では、所属不明の艦船が宮古湾沖に出現したとの情報を得ていたが、佐賀藩を中心に編成されていた新政府海軍は旧幕府軍を軽視して海軍首脳が上陸していたため、旧幕府軍の願ってもない状態で機が訪れます。

高雄のエンジントラブル

ところが、幸運だったはずの旧幕府軍に突然の不運が襲います。

明治2年(1869年)3月24日深夜、山田湾を出港して宮古湾へ向かう途上、高雄が再び機関故障を起こしたのです。

航行は可能だったのですが速力が出なくなったため、高雄が甲鉄を襲撃するという作戦が困難となりました。

そこで、旧幕府軍はさらに作戦を変更し、回天が甲鉄に接舷して先制攻撃をし、高雄が途中で参戦して残りの艦船を砲撃することとされました。

アボルダージュ作戦決行(1869年3月25日)

そして、明治2年(1869年)3月25日午前5時頃、回天は、アメリカ国旗を掲げ、単独で宮古湾への突入を敢行します。

暴風雨による被害で回天の特徴であった3本のマストが2本になっていたこと、アメリカ国旗が掲げられていたことから、新政府軍は全く回天に注意を払わず、新政府海軍の各艦の機関のエンジンも止められたままでした。

そこで、回天は、悠々と甲鉄に接近した後、アメリカ国旗を下ろして日章旗に掲げ直し、甲鉄に接舷します。

このとき、甲鉄の隣で唯一警戒に当たっていた薩摩藩籍の春日から敵襲を知らせる空砲が轟き、ようやく新政府軍が異変に気がつきます。

ここまでは作戦通り甲鉄に対する奇襲に成功したのですが、回天が舷側に水車が飛び出した外輪船であったために甲鉄に横づけできず、そればかりか小回りも利かなかったために回天の船首が甲鉄の左舷に突っ込んで乗り上げる形となってしまいました。

しかも、回天は大型の非装甲軍艦であるのに対し、甲鉄は小型で重い装甲をまとっているため乾舷が低く、シアーが付いて高くなっている回天の艦首とでは約3mもの高低差が生じてしまいます。

やむなく、回天からは先発隊が3mの高さから甲鉄の甲板に飛び降り、甲鉄に斬り込んでいったのですが、細い船首からでは乗り移る人数が限られたため、一気に甲鉄を制圧することは困難でした。

しかも、旧幕府軍に不利なことに甲鉄にガトリング砲が配備されていました。

甲鉄に飛び降りる旧幕府軍の兵は、ガトリング砲の恰好の標的となり、甲鉄を制圧するどころか、甲鉄に乗り移る前の回天甲板上で倒れる兵が続出し、指揮官であるニコール、相馬主計なども負傷します。

そして、甲鉄制圧に手間取っている間に、春日をはじめとする周囲の新政府軍艦船の戦闘準備が整ったため、甲鉄に取り付いた回天が新政府艦隊から集中砲撃を浴びるに至ります。

このとき、回天艦長の甲賀源吾が戦死し、もはや作戦継続が不可能と判断した海軍奉行・荒井郁之助によって回天の船体が甲鉄から離されて宮古湾を離脱することによって宮古湾海戦が終わります。

わすか30分程度の戦いでした。

アボルダージュ作戦失敗後

作戦失敗により退却していく回天を追い、新政府軍艦隊が追撃に向かいます。

退却していく回天は、途中で蟠竜と合流し、明治2年(1869年) 26日夕方に箱館まで退却できました。

もっとも、機関故障により速力の出ない高雄は、新政府軍の甲鉄と春日によって捕捉されます。

高雄艦長・古川節蔵以下95名の高雄乗組員は、田野畑村付近に上陸して船を焼いたのちに盛岡藩に投降しています。

そして、宮古湾海戦の敗戦により、制海権を取り戻せなかった旧幕府軍は、海から上陸してくる新政府軍を追い返すことができなくなり、函館戦争も大詰めを迎えることとなります。

余談

余談ですが、襲撃された甲鉄のすぐ隣にいた春日に、後に日本海海戦で日本海軍の大勝利を勝ち取った東郷平八郎が砲術士官として乗船していました。

東郷平八郎は、回天による甲鉄奇襲について、「意外こそ起死回生の秘訣」と評価して後年まで忘れず、日本海海戦での采配にも生かしたと言われています。

現在、東郷平八郎が残した宮古湾海戦に関するメモが宮古市内で石碑となって残されていますので、興味のある方は是非(宮古港戦蹟碑、1907年に菊池長右衛門が別邸対鏡閣に建立、後に宮古市光岸地の大杉神社に移されています。)。

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