【江戸幕府滅亡】徳川慶喜の政治力に屈した薩摩藩らの政治クーデターの結果

大政奉還と王政復古の大号令によって江戸幕府が滅び、戊辰戦争を経て明治新政府へと政権が移行したということはおそらくほとんどの日本人が学んだと思います。

歴史の教科書に載っている当たり前の事実経過です。

もっとも、このときの政権移行の経過について、多くの日本人が間違った理解をしています。

多くの日本人は、権威を失墜させた江戸幕府がやむなく薩摩藩ら討幕派に屈し、ときの将軍徳川慶喜が政権を手放して無位無官となったと考えていますが、真実は違います。

実は、卓越した政治力を持つ徳川慶喜に対して、政治力ではかなわないと見た薩摩藩らが武力によるクーデターを起こし、危ない橋を渡ってなんとか江戸幕府を滅ぼすことができたというのが本当のところです。

本稿では、この江戸幕府の滅亡の過程について、徳川慶喜の将軍就任時から戊辰戦争が始まる前までを中心に説明します。

徳川慶喜による軍政・行政改革

慶応2年(1866年)、第二次長州征討で長州藩に敗れたことにより、幕藩体制の限界と弱体化を白日のもとに晒した江戸幕府は、その威信を大きく低下させます。

そんな中、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、幕府の権威を取り戻して、幕府を頂点とする中央集権国家を確立するために、フランス公使ロッシュの指導の下、様々な政策を断行します。

文久の改革時に創設された陸軍総裁・海軍総裁に老中を就任させ、また慶応3年(1867年)5月には会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁にも老中を就任させます。

また、各総裁職を統括する首相職に老中首座の板倉重勝を任命します。

これにより、徳川慶喜は、軍政改革によって西洋式の軍事組織を作り上げると共に、現在の内閣制度のように、各国務大臣とその代表たる首相を幕府の中枢で引き受けるという行政改革も行われることとなりました。

なお、ここで後に数々の軍艦を造り上げることとなった横須賀造船所も建築させています。

また、慶応3年(1867年)4月1日に開かれたパリ万博に、弟である御三卿・清水家当主の徳川昭武(この時15歳)らを派遣した際、後に第一国立銀行などを設立する渋沢栄一などの幕臣を欧州に随行させて積極的任命西洋の技術を取り入れていきます。

また、徳川慶喜は、このころに江戸幕府が抱えていた、朝敵となった長州藩の処遇と、イギリスと約束をしてしまった慶応4年(1868年)1月1日までに神戸港開港勅許を得るという2つの大きな問題にも取り組んでいきます。

四侯会議の失敗(1867年5月4日)

以上に対し、江戸幕府の政治力に疑問を持った薩摩藩から、以降の政治は、幕府による独断ではなく、朝廷を頂点とし、その下で列侯による会議によって決定すると言う体制で行うよう働きかけがなされます。

薩摩藩の意向は、雄藩諸侯との協議によって、徳川慶喜に圧力をかけ、長州藩の赦免と独断で神戸港を開港させることとした責任を認めさせ、これによって以降も重要な政治決定については徳川将軍家の独断ではなく雄藩諸侯との会議によって決定するとの流れをつくることでした。

そして、慶応3年(1867年)5月4日、薩摩藩は、藩首脳陣・西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らが中心となって雄藩に働きかけ、雄藩諸侯を上京させて参与会議的なことを開催します。

この会議は、四侯会議と呼ばれ、参加者は、徳川慶喜(将軍)、島津久光(薩摩藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)でした。

この会議において、発起人の島津久光が会議を主導して徳川慶喜を追い詰める予定だったのですが、終わって見れば、徳川慶喜の政治力に他の4人が屈服する形で会議が終わったのです。

結局、四侯会議を主導したのは徳川慶喜で、他の4人はこれに従うだけという、これまでと全く同じ形となって四侯会議が失敗に終わります。

この結果、薩摩藩・長州藩らは、徳川慶喜がいる限り江戸幕府の独裁は終わらないと判断することとなり、幕藩体制下での主導権獲得ではなく徳川家を排除した新政権の樹立(倒幕)へと方針を転換することとなります。

武力による倒幕への流れ

四侯会議の失敗により倒幕の意思を固めた薩摩藩士は、慶応3年(1867年)5月21日夕方、京都・近衛家別邸において土佐藩・乾退助(後の板垣退助)らと面談の上、倒幕のための軍事同盟(薩土密約)を結びます。

また、薩摩藩内においても、同年5月25日、薩摩藩邸で重臣会議を開き藩を挙げて武力討幕へ向かうことが確認されます。

そして、薩摩藩は、公家・岩倉具視らに働きかけ、慶応3年(1867年)10月13日に薩摩藩に、同年10月14日に長州藩に、討幕及び会津・桑名討伐を命ずる討幕の密勅が下されます(もっとも、これらの密勅には、天皇が記入するはずのカナ文字等が存在していないことから偽物であると考えられています。)。

こうして、武力による倒幕の流れが加速していきました。

大政奉還(1867年10月14日)

ところが、武力による江戸幕府打倒の動きが、徳川慶喜によって封じられます。

徳川慶喜が、土佐藩の山内容堂の献策に従って、慶応3年(1867年)10月14日、自ら天皇によって委任された統治権である「大政」を天皇に返上することを奏上したのです。

同年10月15日、明治天皇がこの奏上を勅許したため、名目上、江戸幕府は日本の統治権を失います。

その結果、薩摩藩・長州藩らは、天皇の下に統治権を取り戻すために武力によって倒幕するという名目がなくなります。

もっとも、この時点では、徳川慶喜は、征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き諸藩への軍事指揮権を有するという実態に変化はありません。

また、朝廷が政権担当能力を有しているはずがありませんので、実質上は政治は徳川家によって行われるという事実に変わりありません。

すなわち、徳川慶喜は、薩摩藩・長州藩らとの武力対決を避けつつも、徳川家の権限・勢力を温存したまま天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという策をとったのです(公議政体論)。

独裁から合議体のトップに代わることによって、実態に変化なく、かつ討伐されないようにしたのです。

上手い政治策です。

そして、この徳川慶喜による大政奉還により「討幕の密勅」はその名目を失い、同年10月21日、「討幕実行延期の沙汰書」薩長両藩に対し下されます。

結局、大政奉還とは、徳川将軍家の現状維持政策だったのです。

薩摩藩ら雄藩連合は、徳川慶喜にやられっぱなしです。

そして、徳川慶喜は、同年11月に、幕臣の西周と大政奉還後の政治構想の検討に入り、国家元首に徳川慶喜が就任する案などが考えられました。

王政復古の大号令(1867年12月9日)

ところが、名目上権限を失うものの実態に変化がないという徳川家の支配体制の維持という結果に、武力による倒幕準備を進めていた各藩から猛反発が起こります。

そして、薩摩藩・長州藩を中心とする雄藩連合や反徳川の公家・岩倉具視らにより、徳川慶喜から権限の一切を奪うことを内容とするクーデターが起こります。

薩摩藩の主導の下、慶応3年(1867年)12月9日、尾張藩・福井藩・土佐藩・広島藩を加えた5藩の兵が、京の御所の9門を封鎖した上で、岩倉具視が明治天皇の下に参内します。

その上で、明治天皇に圧力をかけ、①徳川慶喜の将軍職辞職、②京都守護職・京都所司代の廃止、③江戸幕府の廃止、④摂政・関白の廃止、⑤総裁・議定・参与の設置などを内容とする王政復古の大号令を発せさせたのです。

そして、同日夜、明治天皇隣席により御所内・小御所にて行われた最初の三職会議の結果、明治天皇により、徳川慶喜の将軍職辞職、領地没収などが高らかに宣言されます。

すなわち、王政復古の大号令とは、徳川慶喜にしてやられ続けた雄藩と討幕派公家による起死回生のクーデターだったのです。

このクーデターに対しては討幕派内にも異論も多く、松平春嶽や山内容堂らは強く反対したようですが、結局岩倉具視や大久保利通らに押し切られます。

そして、この王政復古の大号令の内容は、同年12月10日、松平春嶽(越前藩主)と徳川慶勝(尾張藩主)によって京・二条城にいた徳川慶喜の下へ届けられます。

一切の地位を否定され、辞官・納地を求められた徳川慶喜は、対応に迷いますが、最終的には朝廷方との対決を回避するため、老中・板倉勝静、松平容保、幕府閣僚、幕府兵、会津藩兵を引き連れて二条城を出て、同年12月13日に一旦大坂城へ退去します。

旧幕府方に高まる不満

こうして徳川慶喜の判断によって二条城を退去して大坂城に退いた旧幕府方でしたが、会津藩士・桑名藩士などの兵はもちろん、幕閣においても朝廷方の対応に不満が高まっていきます。

この不満の高まりによって、旧幕府方に主戦論が広がっていきます。

戦いの気運が高まった幕府方は、京阪神の各要地に兵を展開していくこととなります。

このときの幕府軍は西洋式の最新鋭武器を装備した約1万5000人であり、わずか5000人程度の新政府軍に負けるはずがありません(少なくとも机上では。)

具体的には、西国街道の西宮札の辻に小浜藩兵500人、京街道の守口に伊勢亀山藩兵200人、奈良街道の河堀口に姫路藩兵200人、紀州街道の住吉口に紀州藩兵若干名を配置します。

また、真田山と天王寺に陣営を築き、大坂、大坂城外14カ所の柵門を、枚方と淀には注進に備えて騎兵を、十三川の渡口、守口、枚方、山崎、八幡、淀を幕府陸軍を、伏見には幕府陸軍と新選組を配置しました。

この戦いの気運に押され、徳川慶喜も、同年12月16日、大坂城において、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロイセン、オランダの公使を集めて、各国との条約の締結や外交の権限は天皇ではなく慶喜が掌握すると宣言するなど、朝廷に対し公然と反旗を翻します。

明治新政府の対応

徳川慶喜による反乱的行為に対する対応について、新政府内で協議がなされます。

このとき、松平春嶽により、徳川慶喜の行為は、旧幕府内部の過激勢力によるものとしてまずは徳川家の領地と徳川慶喜の取り調べを行ってから新政府の方針を確定するとの提案がなされ、他の新政府メンバーもおおむねこの見解に同意します。

この結果、徳川慶喜が上京の上で、今後の方針決定をすることとなり、この時点では、徳川慶喜の復権の動きがありました(事実上、徳川慶喜が、明治新政府に参画することが既定路線となります。)。

ところが、ここで歴史の流れを変える大事件が起こります。

江戸薩摩藩邸焼討ち(1867年12月25日)

徳川慶喜が明治新政府に参画したら江戸時代と同様に徳川慶喜を中心とした政治体制となると恐れた討幕派(西郷隆盛や大久保利通ら)が、武力による倒幕果たすため立ち上がったのです。

具体的には、徳川慶喜討伐の口実を作るため、江戸市中において薩摩藩管理下の勤王派浪士たちを用いて挑発作戦を行うこととします。

まずは、勤王派浪士たち数百人を集めて江戸市中で略奪・強盗・放火行為を行わせて大混乱に陥らせます。

また、慶応3年(1867年) 12月23日夜には、浪士たちに三田の庄内藩屯所を銃撃させます。

さらに、同日、江戸城二ノ丸附近でに火を放ちます。

薩摩藩めちゃくちゃです。

度重なる挑発行為に我慢の限界を超えた旧幕府側は、同年12月25日、薩摩藩に狼藉を働く浪人たちの引き渡しを求めるも薩摩側がこれを拒絶します。

この薩摩藩の回答に怒った庄内藩士・新徴組が、江戸薩摩藩邸を焼き討ちにします。

幕府兵による江戸薩摩藩邸の焼討事件の報は、慶応3年(1867年) 12月28日、大坂にいる徳川慶喜の下に届くと、大坂の徳川慶喜の周囲でも京に上って薩摩を討つべしの声が高まります。

このとき、徳川慶喜が、これを抑えることをせず、そればかりか如何やうにも勝手にせよと言い放ったため(徳川慶喜公伝)、大坂城にいる幕府兵が戦いの準備を始めます。

そして、主戦派を抑えきれなくなった徳川慶喜は、遂に慶応4年(1868年)元日、薩摩藩を討つため「討薩表」を発布し、立ち上がります。

そして、徳川慶喜が1万5000人の兵を動員し、大坂から京に向かって進軍させたことにより、いよいよ戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見の戦いが始まります。

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