【東郷平八郎】日本海海戦を勝利させた連合艦隊司令長官

東郷平八郎は、日露戦争で連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝に導き、日本国内では陸の大山、海の東郷と評され、また外国でもアドミラル・トーゴー、東洋のネルソンと呼ばれた傑物です。

有名すぎて、いまさら説明するまでもないかもしれません。

もっとも、英雄的な側面がクローズアップされ神格化されている東郷平八郎ですが、実は晩年には老害的な行為も多々引き起こしている実に人間臭い魅力的な人物でもあります。

本稿では、そんな東郷平八郎の人生について見ていきます。

東郷平八郎の出自

出生(1847年12月22日)

東郷平八郎は、弘化4年(1847年)12月22日、薩摩国・加治屋町二本松馬場で、薩摩藩士・東郷実友の四男として生まれます。幼名は仲五郎といいました。

この地域は、薩摩藩の下級藩士の屋敷があった地域で、付近からは西郷隆盛・大久保利通・山本権兵衛などの明治政府の要人を輩出しています。

薩摩藩では武士階級の少年は町単位で教育するという郷中教育が盛んであったため、東郷平八郎は、これらの後の明治政府の要人たちと交流しながら育っていきます。

そして、東郷平八郎は、14歳の時に元服し、平八郎実良と名乗ります。

初陣(1863年)

東郷平八郎の初陣は、文久3年(1863年)、薩摩藩がイギリスと戦った薩英戦争です。

薩英戦争は、生麦村で薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入したイギリス人を薩摩藩士が殺傷したこと(生麦事件)に対する報復として、イギリスが薩摩に軍艦を派遣して補償を迫ったことをきっかけとして、鹿児島湾で薩摩藩とイギリスが戦った戦いです。

このとき、15歳であった東郷平八郎は、島津久光の御警衛隊として参戦します。

薩英戦争は、薩摩藩による砲撃によってイギリス艦隊が上陸を断念した形で終わります。

薩摩藩の勝利といえます。

そして、東郷平八郎は、このときの薩英戦争の勝利を見て、海での戦いの重要性に心惹かれ、海軍を志したと言われています。

海軍士官として

戊辰戦争(1868年1月〜)

その後、慶応4年(1868年)1月に、旧幕府軍と明治新政府軍との戦い(戊辰戦争)が始まります。

このとき、東郷平八郎は、軍艦・春日の三等砲術士官として参戦し、同年1月4日、日本史上初の蒸気機関を装備した近代軍艦による海戦となった阿波沖海戦(兵庫沖海戦とも呼ばれます。)に参加しています。

また、その後も、旧幕府艦隊が北上していくのを追う春日の乗組員として数々の戦いを経験します。

また、明治2年(1869年)3月25日には、箱館戦争における戦闘のひとつで、虎の子の軍艦であった開陽丸が座礁・沈没したことによって制海権を失った旧幕府軍が、制海権を取り戻すために新政府軍の新鋭軍艦・甲鉄を奪取しようとして勃発した戦い(宮古湾海戦)にも参戦しています。

東郷平八郎は、旧幕府軍により襲撃された甲鉄のすぐ隣にいた春日に、砲術士官として乗船していました。

東郷平八郎は、回天による甲鉄奇襲について、「意外こそ起死回生の秘訣」と評価して後年まで忘れず、日本海海戦での采配にも生かしたと言われています。

イギリス留学(1871年〜1878年5月)

戊辰戦争において多くの人の死を目にした東郷平八郎は、人を殺す軍人ではなく人の役に立つ鉄道技師の道を志します。

そこで、東郷平八郎は、鉄道技術を学ぶため、官費でイギリスに留学することを目指します。

ところが、大久保利通・西郷隆盛から、日本の海軍力を高めるための人材である東郷平八郎を技師にする選択はなく、東郷平八郎の提案は政府側に拒否されます。

そこで、東郷平八郎は、やむなく明治4年(1871年)から同11年(1878年)5月まで、海軍士官としてイギリスのポーツマスに官費留学することとなります。

もっとも、イギリスに渡った東郷平八郎ですが、年齢制限で王立海軍兵学校へ入学は許されず、ゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミーで学んだ後、商船学校のウースター協会で学ぶことになりました。

海軍学校ではなく商船学校で学ぶこととなったため、東郷平八郎は、戦略・戦術よりも、商事・国際法を広く学んでいくこととなります。

ここで学んだ国際法が、後に東郷平八郎の名声を高めていくことになるので、人生どう転ぶかわかりません。

そして、イギリス留学で様々なことを学んだ東郷平八郎は、明治11年(1878年)5月、日本に帰国します。

なお、この帰国途上で、東郷平八郎は、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと知らされ、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷隆盛の死を悼んだと言われています。

帰国後の東郷平八郎(1878年7月〜)

日本に帰国した東郷平八郎は、明治11年(1878年)7月、海軍中尉として、軍艦・扶桑に乗り込みます。

海の薩摩・陸の長州という派閥そのままの人事です。

その後、東郷平八郎は、海軍内で順調に出世していき、様々な軍艦の艦長を歴任します。

明治19年(1886年)には、大佐に昇進し、明治23年(1890年)には、呉鎮守府の参謀長となっています。

そして、明治24年(1891年)、防護巡洋艦「浪速」の艦長となります。

ハワイのクーデターに際しアメリカと戦う

明治26年(1893年)ころのハワイは未だ独立国家であったのですが、太平洋の中央部に位置する不沈空母とすべく、アメリカがハワイを手中に収めることを画策していました。

そして、同年11月、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、アメリカ海兵隊160名の支援を得て、女王に反発したアメリカ人農場主らがクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した上でアメリカへの併合を求める運動を起こします。

これに応じたアメリカは、ハワイに軍艦・ボストンを派遣してハワイ王宮に主砲を向けて威圧し、女王の退位を迫ります。

これに対し、ハワイ王朝は、日本に援助を求めます。

このときハワイには2万人以上の日本人が居住していたため、明治政府は、在ハワイ日本人の保護を理由に東郷平八郎率いる巡洋艦「浪速」と戦艦・金剛をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊中のアメリカ軍艦・ボストンの両脇に投錨してアメリカ軍艦を威嚇します。

これにより、アメリカはこの時点でのハワイ併合を断念します。

このときの東郷平八郎率いる日本海軍の行為に対し、女王を支持するハワイ先住民らはハワイのためにアメリカと戦った東郷平八郎の行為に涙を流したといわれています。

もっとも、その後にアメリカはハワイ女王を退位させて共和国を樹立し、明治31年(1898年)にハワイはアメリカに併合されています。

日清戦争(1894年7月~1895年4月)

明治27年(1894年)7月19日に日本が清国に対して5日間の猶予をつけて突き付けた最後通牒が清国に無視され、日本と清国とが法的には戦争状態となります(もっとも、日本と清国以外の国はこのことを知りませんでした。)。

そんな中、同年7月25日早朝、戦争準備のために清国兵約1100名・大砲・弾薬等を乗せて牙山湾にやってくる予定の英国商船「高陞号」(こうしょうごう)とその護衛の清国軍艦「操江」を迎えるために牙山湾を出た清国艦隊2隻(済遠・広乙)が、豊島(現 京畿道安山市檀園区内)沖で日本艦隊3隻と鉢合わせします。なお、このときの日本艦隊のうちの1隻防護巡洋艦である浪速が東郷平八郎が艦長を務める艦でした。

同日午前7時52分、両国艦隊が3000mに接近した際に、清国軍艦「済遠」が突如21cm砲を発砲したことにより、日清戦争勃発の引き金となる海戦が発生します(豊島沖海戦)。

このときの海戦では日本艦隊が優勢となり、日本艦隊が清国艦隊を追いかけまわすこととなります。

そして、この追跡戦の最中、日本艦隊が、清国艦隊が合流を予定していた英国商船旗を掲げた汽船「高陞号」とその護衛の清国軍艦「操江」に遭遇します。

ここで、東郷平八郎は、防護巡洋艦「浪速」から高陞号に対して清国兵士随行指示を発したのですが兵士たちがこれに応じなかったため、イギリス船・高陞号に対して撃沈する旨の信号旗を掲げてイギリス人船員達に対して船から離れるよう命じ、イギリス人が離れたのを見届けた後、同船を魚雷で撃沈します。このとき、イギリス人船員の多くは日本側に救助されたのですが、清国兵士の多くは死亡しています(高陞号撃沈事件)。

このイギリス船撃沈行為に対してイギリスから猛抗議があったのですが、このときの東郷平八郎の撃沈行為は、英国留学で得た国際法に則した適法行為であったため、イギリスからの抗議はすぐに沈静化することとなりました(国際法に違反していたのは、兵士・武器を輸送していた清国であったことも明らかとなりました。)。

そして、この事実が世界中に伝わり、世界中で、日清戦争は、清国=違法行為国、日本=適法行為国の戦いであるとの認識となり、この後世界の後押しもあって日清戦争は、日本優位で進んでいくこととなります。

その後、東郷平八郎は、同年9月の黄海海戦、明治28年(1895年)1月の威海衛海戦で活躍します。

これらの活躍の結果、東郷平八郎は、威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となります(もっとも、戦時編成であったため、東郷平八郎はその後も連合艦隊第一遊撃隊司令官として参戦し、台湾獲得の橋頭堡となる同年3月の澎湖島攻略戦にも参加しています。)。

これらの東郷平八郎らの活躍もあり、日清戦争は日本側の勝利に終わり、日本は、同年4月の下関条約によって朝鮮国の独立、遼東半島・台湾の割譲、高額の賠償金など清国から多大な戦利品を獲得します。

日露戦争

国力・軍事力増強政策

ところが、明治28年(1895年)4月23日に、極東での日本の躍進を恐れたフランス・ドイツ帝国・ロシア帝国による勧告があり、圧力に屈した日本は、獲得した遼東半島の返還を余儀なくされます。

欧米列強の圧力に屈して遼東半島を失うこととなった日本は、この圧力をはねのけられない原因が国力・軍事力の低さであると考え、ここから急ピッチで国力増強・軍事力強化政策に乗り出します。

仮想敵国は、大国ロシアです。

海軍でも軍事力強化のため、明治31年(1898年)に海軍大臣兼海軍中将に就任した山本権兵衛を中心として大規模な改革に乗り出します。

東郷平八郎も、同年海軍中将に昇進し、翌明治32年(1899年)に佐世保鎮守府司令長官、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任するなど重要ポストを歴任します。

連合艦隊司令長官就任(1903年12月)

そして、日露開戦が目前に迫った明治36年(1903年)10月、東郷平八郎は、海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され、日高壮之丞に代わって常備艦隊司令長官に任命されます。

さらに、同年12月に連合艦隊が編成されると、東郷平八郎が第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命されました。

東郷平八郎が、現場での最高指揮官に就任した瞬間です。

日露戦争開戦(1904年2月4日)

明治37年(1904年)2月4日に日露戦争が開戦すると、東郷平八郎は、連合艦隊旗艦の戦艦・三笠に乗り込み、三国干渉によって失った後にロシア海軍太平洋艦隊(後に第一太平洋艦隊へ改称)の主要基地となっていた遼東半島の旅順の攻略作戦を開始します。

このときロシアの太平洋側の艦隊基地が旅順とウラジオストクにあり、旅順を攻略すれば旅順艦隊を無力化して制海権を確保できるため、以降の戦いが優位に進められると考えたからです。

同年2月~5月、旅順港攻撃や、旅順港閉塞作戦を展開し、旅順海軍の旗艦・ペトロパヴロフスクを撃沈する戦果を挙げます。

もっとも、東郷平八郎らの連合艦隊の海軍力のみでは旅順港を封鎖できず、旅順艦隊の脅威を払しょくできませんでした。

さらに悪いことに、同年5月15日、旅順封鎖作戦中の戦艦「初瀬」「八島」を触雷にて失うこととなり、6隻擁した連合艦隊戦艦のうち2隻をわずか1日で喪失するという大損害を被ります。

戦艦2隻喪失の報を聞いた東郷平八郎は、海軍内の動揺を抑えるため、周章狼狽せずに両艦の艦長を労い平静を保っていたと言われています。

また、この後、旅順攻略作戦の戦果を期待する意味もあり、同年6月6日、東郷平八郎は大将に昇進しています。

ロシア側でも旅順を日本側に封鎖されると太平洋側の制海権を失うこととなるため、同年5月、太平洋側の制海権を回復するためにバルト海側に展開していた当時世界最強と名高かった虎の子のロシア艦隊・バルチック艦隊を極東に回すという判断をします(もっとも、実際に出港したのは、ロシア旅順艦隊・ウラジオストク艦隊がし壊滅した後の同年10月です。)。

日本側としては、ロシア太平洋艦隊だけでも苦戦している中で、ヨーロッパに展開していたバルチック艦隊までも敵に回してしまっては勝ち目がなくなると考えます。

そこで、日本側は海軍のみでの旅順攻略を諦め、海軍は、陸軍に陸からの旅順港攻略を要請し、陸海軍合同でも旅順攻略戦が始まります。なお、このときの海軍指揮官が東郷平八郎であり、陸軍指揮官が乃木希典です(両人とも、戦後神様となっています。)。

そして、日本側は、陸軍が陸から、海軍が海から旅順要塞・旅順港内の艦船へと次々と砲弾を撃ち込むと、動きの取れない旅順要塞内に艦隊をとどめておくと、戦うことなく艦隊を喪失すると考えたロシア側が、同年8月10日、旅順から太平洋側のもう1つの海軍拠点であるウラジオストクに艦隊を移すため、一斉に旅順港から脱出する行動に出ます。

ここで、旅順港から出てウラジオストクに向かって逃げているロシア旅順艦隊を、日本の連合艦隊が追撃することにより、黄海海戦が始まります。

この戦いでは、東郷平八郎が指揮する連合艦隊旗艦・三笠が放った砲弾が、旅順艦隊のツェサレーヴィチに命中し、旅順艦隊は大混乱に陥り、これを好機と見た連合艦隊は、旅順艦隊を各個撃破し、旅順艦隊を壊滅させます。

また、この後、同年8月14日に発生した蔚山沖海戦により(日本側指揮官:上村彦之丞中将)、ウラジオストク艦隊も壊滅的打撃を受け、ロシア太平洋艦隊が事実上壊滅します。

そして、明治38年(1905年)1月、多大な犠牲を払い、陸軍が遂に旅順要塞を陥落させます。

バルチック艦隊出発(1904年10月)

旅順要塞が日本側の猛攻に晒されていた1904年(明治37年)5月、ロシアは、バルト海に展開させていた艦隊に「第2太平洋艦隊」の名前を与え極東海域へ増派し、それまでの太平洋艦隊は第1太平洋艦隊(日本では、バルチック艦隊と呼ばれています。)と改称することを発表します。

もっとも、その後いたずらに時間が経過し、旅順艦隊・ウラジオストク艦隊が日本側に壊滅させられた後の同年10月15日、ようやくバルチック艦隊がバルト海に面するリバウ港を出発し極東に向かいます。

このときには旅順港が日本側に奪われていましたので、目的地はもう1つの艦隊基地・ウラジオストクです。

なお、この当時、石炭補給が常に必要となる蒸気船からなる大艦隊を、水兵と武器弾薬を満載した戦時編成の状態で、ヨーロッパから東アジアまで回航するのは前代未聞の難事でした。

しかも、バルチック艦隊には、日本とイギリスが日英同盟を締結し・ドッガーバンク事件で関係が険悪となっていたために、その航路についてはイギリスの植民地を回避していかなければならない上に、ロシアと露仏同盟を結んでいたフランスも日英同盟によって牽制を受け、中立国の立場以上の支援を行うことはできないという厳しい条件も付いていました。

その後、第2太平洋艦隊は、フランス領インドシナのカムラン湾に到着したのですが、日本政府の抗議によりフランスが寄港を拒絶したため、バンフォン湾に停泊し、遅れてやってきたてネボガトフ少将を司令官とする第3太平洋艦隊と合流します。

その上で、同年5月14日、戦艦8隻・装甲巡洋艦3隻・巡洋艦6隻・装甲海防艦9隻・輸送艦等24隻の合計53隻に膨れ上がったロシア第2太平洋艦隊・第2太平洋艦隊がバンフォン湾を出発し、ウラジオストクに向かいます。

同年5月17日には、台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡を通過しそのまま北上を続けたバルチック艦隊は、同年5月20日、太平洋に出ます。

このとき、約7カ月・約3万kmもの大航海を経てきたバルチック艦隊は満身創痍の状態でした。

船底にフジツボが張り付くなどして船速は上がらず、途中の補充も不十分であり、また船員も疲弊しきっていました。

そこで、バルチック艦隊としては、一刻も早くウラジオストクに入港して戦力を整えて、日本側と戦える状態に持っていかなければなりません。

日本海海戦(1905年5月27日)

ところが、これは日本側からすると認められないシナリオです。

バルチック艦隊がウラジオストクに入港して整備が完了すれば、当時最強と謳われたバルチック艦隊との真っ向勝負となるからです。

日本側としては、ウラジオストクに入る前の満身創痍の状態のバルチック艦隊を攻撃することが至上命題となります。

そこで、日本側としては、バルチック艦隊の進路で待ち伏せをして、準備不足のバルチック艦隊を壊滅される作戦が立案されます。

ところが、ここで日本側に問題が起こります。

バシー海峡を通過して太平洋に出たバルチック艦隊のその後ののルートがわからなかったのです。

ルート選択を誤ると、バルチック艦隊を無傷でウラジオストクに通してしまうこととなります。

バシー海峡からウラジオストクへ向かうには、対馬海峡を通るルート、津軽海峡を通るルート・宗谷海峡を通るルートという3つのルートが考えられました。

連合艦隊司令官の東郷平八郎は、バルチック艦隊が最短ルートである対馬海峡を通るルートを選択すると考えていたのですが、確証がありません。

ここで日本側に幸運が訪れます。

同年5月23日、バシー海峡を通過したバルチック艦隊が洋上で停止して補給船から最後の石炭や物資の搬入を受けた後、仮装巡洋艦の2隻を護衛につけて補給線を帰路の上海方面向かわせたのです。最後の物資搬入を終えた補給船を戦地に引き連れていく必要はありませんので当然の選択です。

同年5月26日、このバルチック艦隊から分離した補給船6隻が前日夕方に上海に入港したとの情報が東郷平八郎の下にもたらされます。

この報により、東郷平八郎は、バルチック艦隊が対馬海峡を通るルートを選択したことを確信します。

なぜなら、上海沖で補給船を帰してしまうと、バルチック艦隊は遠回りとなる津軽海峡ルートや宗谷海峡ルートを選択すると燃料不足でウラジオストクに到達できないからです。

そこで、東郷平八郎は、津軽海峡にほど近い鎮海湾において、直ちに出港できる状態で連合艦隊所属艦を待機させ、バルチック艦隊発見の報を待ちます。

そして、ついに明治38年(1905年)5月27日、五島列島から74km離れた海域で哨戒活動をしていた仮装巡洋艦・信濃丸がバルチック艦隊を発見します。

同日午前5時5分頃に、連合艦隊旗艦・三笠の下にバルチック艦隊発見の報が届き、東郷平八郎は、ただちに全艦隊に出撃を命じ、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と述べてZ旗を掲げ、連合艦隊旗艦・三笠を先頭に戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦15隻を含む全108隻が次々と出撃していきます。なお、このときのバルチック艦隊は、戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻の計全38隻でした。

また、このとき幕僚たちが大本営に対して「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。」との報告文の草稿を書いたのですが、主席参謀・秋山真之中佐が、その場で、これに「本日天気晴朗なれども波高し」と書き加えてれこれを大本営に打電しています。

その後、2列縦陣で北進するバルチック艦隊は、同日午後1時 55分、北西へ進む東郷平八郎大将指揮下の連合艦隊と接触します。

そして、同日午後2時5分、連合艦隊が針路南西から北東に逐次反転し、同日午後2時8分から6000~8000mの距離で砲戦が始まります。

東郷平八郎の行った敵前で大回頭は、後に「トウゴウ・ターン」と称されます。

砲撃戦は、連合艦隊側の有利に進み、その日の夜にまでに、バルチック艦隊は旗艦スワロフを含む戦艦3隻を失います。

また、翌同年5月28日朝までに、ウラジオストクに逃れた巡洋艦1隻、駆逐艦2隻と、マニラに遁入して抑留された駆逐艦3隻の以外のバルチック艦隊の船は、すべて撃沈又は拿捕されます。

結果、日本側は水雷艇3隻と戦死傷者は 1000人の被害を受けるも、ロシア側は艦隊戦力のほぼ全てを失いまた1万人もの戦死傷者を出すという海戦史上まれにみる日本側の完全勝利に終わります。

日本海海戦によりロシアは実質的に全海軍力を失ったことが戦争終結への大きな要因となり、明治38年(1905年)9月5日、ポーツマス条約が締結されて日露戦争が終わります。

日露戦争の終結に際し、連合艦隊が解散することとなったのですが、解散に際し、東郷平八郎は、居並ぶ兵士たちに対し、大国ロシアを破ったということに慢心せず「勝って兜の緒を締めよ」との訓示を与えています。

東郷平八郎の世界的評価

日本海海戦における連合艦隊勝利は、瞬く間に世界中に伝えられ、ロシアの圧力下にあった国々からは歓喜の声で迎えられます。

特に、エルトゥールル号遭難事故で親日国となっていたオスマン帝国(後のトルコ共和国)においては、自国の勝利のように喜ばれ、指揮官であった東郷平八郎は同国の国民的英雄となります。

そのため、その年にオスマン帝国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる子もいたそうです。

また、東郷平八郎は、日本の同盟国であったイギリスで東洋のネルソンと称して讃えられ、またアメリカの戦勝会に招かれた際には士官候補生に胴上げの祝福を受けたそうです。

日露戦争後の神格化

東郷平八郎の栄誉

東郷平八郎は、連合艦隊解散後は現場を退き、明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任します。

また、明治39年(1906年)には大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与され、明治40年(1907年)には伯爵位を授爵されています。

そして、大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許されまでに至ります。

元帥府に列せられた者は生涯現役として軍務顧問に任ぜられ、東郷平八郎も、元帥府として元帥会議に参加し、海軍の重要事項についての決定権を握っていくこととなります。

東郷平八郎の政治利用

海軍内で重要案件の意思決定を行う際、元帥に伺いを立てることが慣例化していたのですが、当初は元帥も現場の意見を覆すことはありませんでした(元帥が現場を引退した者の称号に過ぎないことが理解されていたため。)。

実際、東郷平八郎も、元帥就任当初は、御学問所の責務に専念するため元帥会議にほとんど出席していませんでした。

ところが、御学問所が廃止された大正10年(1921年)頃から、73歳となった東郷平八郎は積極的に元帥会議に出席するようになります。

そして、以降、東郷平八郎は、自らの意思と海軍内での派閥利用を受け、軍政への干渉を行うようになります。

老害化していく東郷平八郎

1929年3月、81歳となった東郷平八郎は、最古参の海軍元帥府となり、東郷平八郎の海軍に対する影響力は頂点に達します。

東郷平八郎は、海軍内で、海軍に関するいかなる重要案件についても東郷平八郎の意見なしに決定することができない程に力を持ちます。

昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際しては、東郷平八郎が軍縮反対の立場にこだわったため、軍縮条約に賛成する海軍省条約派とこれに反対する軍令部艦隊に分かれ対立する構造を作り上げてしまいます。

その後も、東郷平八郎は、人事に介入して皇族軍人・伏見宮博恭王の軍令部長就任を画策したり、昭和7年(1932年)の犬養毅主張暗殺後の首相候補として西園寺公望・平沼騏一郎を推すなど、様々な場で影響力を行使していきます。

このころになると、東郷平八郎は、海軍省内では軍令部総長・伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障害とみなされるようになっています。

東郷平八郎の最期

東郷平八郎死去(1934年5月30日)

政治の世界にも大きな力を持った東郷平八郎ですが、昭和9年(1934年)5月30日、喉頭癌、膀胱結石、神経痛、気管支炎の悪化により薨去します。満86歳でした。

なお、薨去の前日に最高爵位である侯爵位を与えられています。

日露戦争の英雄・東郷平八郎の薨去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられます。

その中でとくに有名なのが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面で、これは新聞に掲載され大きな反響をよびました。

東郷平八郎が英雄を超え、神様のように扱われていたのがよくわかるエピソードです。

東郷平八郎の国葬(1934年6月5日)

そして、昭和9年(1934年)6月5日、国葬が執り行われ、イギリス・アメリカなどから儀礼艦が横浜沖に集まり、イギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった。」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した。」などと自国の海軍の父的人物に準えて哀悼されています。

本当の神となる

東郷平八郎の死後、東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現・福津市)に「東郷神社」が建立され、東郷平八郎は神として祀られることとなりました。

この東郷神社建立計画は、陸軍が乃木希典を祀った乃木神社建立に対抗して、海軍を中心に東郷平八郎の生前から始まっていたのですが、当の東郷平八郎本人は、やめてほしいと強く懇願していたそうです。

もっとも、東郷平八郎の願いは聞き入れられず結局、没後に神社は建立されました。

また、東郷平八郎は、墓所についても母親の益子の眠る青山墓地への埋葬を希望していたのですがこれも聞き入れられず、多磨霊園に埋葬されることとなっています。

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