【エルトゥールル号遭難事故】トルコが親日国である理由

エルトゥールル号遭難事件・事故をご存知ですか。

明治23年(1890年)9月16日に、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号 が、現在の和歌山県の串本町沖で遭難し、587人もの乗員乗客が犠牲者となって大事故です。

もっとも、この事故は、その後日本とトルコ(当時はオスマン帝国)の友好の証となりました。

トルコの人にとっては有名な事故ですが、日本人にはあまり知られていませんので、本稿で紹介したいと思います。

エルトゥールル号遭難事故

エルトゥールル号とは

エルトゥールル号は、1864年に建造された全長76mのオスマン帝国海軍の軍艦(木造フリーゲート艦)です。

なお、エルトゥールル号は、遭難事故に遭うこととなる1890年の時点では、建造後26年を経過した老朽艦でした。

エルトゥールル号の訪日

不平等条約の改正を目指して国際親善に力を入れはじめた明治政府は、明治19年(1886年)のイギリスを皮切りに、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪をします。

そして、その一環として、明治21年(1888年)、小松宮彰仁親王夫妻がオスマン帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に訪問します。

これに対して、オスマン帝国は、その返礼として当時まだ国交のなかった日本に使節団を派遣することとしたのですが、このときオスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて、軍艦エルトゥールル号で向かうこととなったのです。なお、このときエルトゥールル号に乗船していたのは、司令官オスマン・パシャを特使とし、その他乗員を含めた656人にも及ぶ大使節団でした。

そして、エルトゥールル号は、1889年7月14日にトルコ・コンスタンティノープルを出港した後、途中ポートサイド、スエズ、アデン、ボンベイ、コロンボ、シンガポール、サイゴン、香港、播州、長崎、神戸という11都市を経由し、11カ月もの長い航海を経て、明治23年(1890年)6月7日、横浜港に入港します。

そして、オスマン帝国使節団は、同年6月13日、アブデュルハミト2世からの皇帝親書を明治天皇に奉呈して日本側から歓迎を受けます。

横浜港を出港(1890年9月15日)

役目を果たしたオスマン帝国使節団とエルトゥールル号は、オスマン帝国への帰国準備を開始します。

ところが、エルトゥールル号は、出港以来蓄積し続けた艦の消耗や資金不足に伴う物資不足によって、長い航海をするのは危険な状態となっていました。

さらに、エルトゥールル号の乗員がコレラに見舞われたため、人員にも問題が起きていました。

そのため、日本側は、エルトゥールル号に対し、せめて台風の時期だけはやり過ごした後に出港するよう勧告します。

もっとも、インド・東南アジアのイスラム教徒にイスラム教国の盟主として国力を誇示したいオスマン帝国としては、日本にとどまり続けて消極的な噂が立つことを危惧します。

そこで、エルトゥールル号は、日本側の制止を振り切って、明治23年(1890年)9月15日、横浜港を出港し帰国の途につきました。

台風に遭い遭難(1890年9月16日)

ところが、その直後に悲劇の遭難事故が起こります。

横浜港を出港した後、オスマン帝国に帰国するために西に向かって航行していたエルトゥールル号は、和歌山県沖に到達した際、台風に遭遇したのです。

そして、台風による強風にあおられたエルトゥールル号は、明治23年(1890年)9月16日21時ごろ、紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突して機関部に浸水してボイラーが水蒸気爆発を起こします。

その結果、同日22時半ごろ、エルトゥールル号は、和歌山県沖にて沈没してしまいます。

これにより、エルトゥールル号司令官オスマン・パシャをはじめとするエルトゥールル号の乗員・乗客計656名が台風により荒れ狂う海へと投げ出されました。

大島村樫野の住民による救難活動

海に投げ出されたエルトゥールル号の乗員・乗客のうち、幾人かが大島村(現在の串本町)樫野埼灯台下に流れ着き、そのうち10人程の生存者が、数十メートルの断崖を這い登って灯台に向かいます。

このとき、複数の満身創痍状態の異国人を目撃した灯台守は、直ちに彼らの応急手当を行なったのですが、言葉が通じず詳しいことがわかりません。

そこで、両者は、国際信号旗を使用して会話を試み、灯台守は、ようやくオスマン帝国海軍軍艦が遭難事故に遭ったことを知ります。

そこで、灯台守は、急ぎ大島村(現在の串本町)樫野に向かってことの顛末を伝え、住民達に生存者の介抱と漂流者の捜索を依頼します。

この依頼を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、住民総出で捜索活動と、生存者の介抱に当たります。

なお、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなどして生存者たちの介抱に努めたと言われています。

また、海に浮かぶ遺体や遺品の回収も行われました。

これら住民らの尽力もあって乗員乗客のうち69人が命を繋ぎましたが、残る587名は死亡または行方不明という大惨事となりました。

エルトゥールル号遭難事故は、樫野の区長から大島村長、村長から県、県から日本政府に伝えられ、悲報を聞いた明治天皇は政府に可能な限りの援助を行うよう指示がなされます。

また、各新聞も、エルトゥールル号遭難事故をトップニュースとして大々的に報道したため、全国から義捐金や弔慰金が集まりました。

事故後の日本とオスマン帝国の関係

オスマン帝国への帰国

九死に一生を得た69人のエルトゥールル号の乗員乗客は、体力の回復を待って、母国のオスマン帝国に帰ることとなります。

このとき、日本は、繋ぎ止めた命に万一のことがないよう、日本海軍の軍艦(コルベット艦)である比叡と金剛の2隻を準備し、明治23年(1890年)10月5日、東京の品川湾から出航して神戸港で生存乗員を分乗させた後、一路オスマン帝国の首都・コンスタンティノープルに向かいます。

ところが、途中で問題が発生します。

コンスタンティノープル手前にあるダーダネルス海峡(エーゲ海とマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡)が、1856年に締結されたクリミヤ戦争の講和条約であるパリ条約によって外国船の通化を禁止していたために比叡と金剛がコンスタンティノープルにたどり着けないことが判明したのです。

ここで、オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世が英断を下します。

危険を顧みずにエルトゥールル号の乗員乗客を救助し、軍艦まで用意してはるばるオスマン帝国まで送り届けてくれた日本に対し、首都に通すこともなく帰らせるような礼を失することはできないとして、条約(国際法)に反してダーダネルス海峡を開き、1891年1月2日にオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルへ入国させたのです。

日本とオスマン帝国(トルコ)の民間交流

エルトゥールル号の遭難と、その後の日本人の救助活動は、オスマン帝国内で広く伝えられ、名前も知らなかったであろう極東の小国であった日本と日本人に対し、好印象が広がります。

また、その後、日本が日露戦争で大国ロシアに勝利すると、それまでロシア帝国からの圧力を受け続けていたオスマン帝国の人々は自分事のように喜び熱狂します。

なお、この頃、オスマン帝国内では、日本海海戦時の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎にちなみトーゴーという名を子供につけることが流行したとも言われています。

オスマン帝国解体とトルコ共和国成立

その後、大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦では、この戦争でイギリスら連合国の側についた日本と、ドイツ帝国側に入ったオスマン帝国が敵対したり、戦後にオスマン帝国が解体してトルコ共和国の成立したりするなど大きく時代が動きます。

そして、大正13年(1924年)発効のローザンヌ条約締結と、大正14年(1925年)の大使館開設により、正式に日本政府とトルコ共和国政府の国交が樹立します。

イラン・イラク戦争での奇跡

日本人の危機(1985年3月17日)

その後もさらに国際情勢が激変していきましたが、エルトゥールル号遭難事件は、トルコ人の心に残っており、100年以上もの時間を経て日本に対するありがたい恩返しをしてくれます。

ときは昭和60年(1985年)3月17日です。

このころ、中東では、イラン・イラク戦争が勃発して政局が混乱していたのですが、同日、イラクの指導者であったサダム・フセインが、突然、同年3月19日20時以降イランの上空を飛行する全ての航空機を無差別に攻撃するとの宣言をしたのです。

事実上の戦争宣言です。

この宣言により、当時イランに住んでいた外国人は大慌てとなります。

このとき、イランのテヘランには約200人の日本人がいたのですが、戦争を避けるため、当然、全員がイランからの出国を試みます。

ところが、当時の日本では、法律によって自衛隊の海外活動が禁止されていたため、自衛隊機を派遣してイランに住む日本人を帰国させることができませんでした(なお、1994年の自衛隊法が改正により、有事によって在外邦人を国外に脱出させる必要が生じた際には、外務省が在外公館を通じて相手国の許可を得て、防衛大臣の指揮にて自衛隊の日本国政府専用機や護衛艦によって在外邦人を輸送することができるようになっています。)。

また、当時、日本の航空会社で唯一国際線を運航させていた日本航空は、安全の保証がされない限り臨時便は出さないと判断しました。

これにより、イランに残された日本人は出国できない状況に陥ってしまいます。

事実上の見殺しです。

このままでは、イラン在住の日本人はイラン・イラク戦争に巻き込まれてしまいます。

トルコ航空機による日本人救助

このときに、イラン在住の日本人約200人を救ってくれたのが、トルコだったのです。

自国の航空機を派遣できない日本側は、イランの隣国であるトルコに日本の窮状を訴え、イランにいる日本人の救出を依頼します。

トルコ側から見ると、他国人を救助するために、自国人を危険にさらせという虫の良すぎるお願いです。

普通だったら、国民の納得を得られず、拒否するのが当たり前です。

ところが、トルコ側は、これが100年前のエルトゥールル号遭難事件の際に日本から受けた恩に対する恩返しの機会であるとして、日本側の依頼にこたえてくれます。

そして、トルコ側は、自国の航空会社であるトルコ航空に対し、本来はトルコ国民救出のために準備した2機の旅客機のうち、1機を日本人救出のために充てるよう指示をしたのです。

その結果、トルコから日本人を救助するための旅客機がイランに到着し、攻撃まであと1時間に迫ったところで215人の日本人を乗せて無事トルコのアタテュルク国際空港にたどり着きます。

こうして、同空港経由でイラン在住の日本人は、無事に日本へ帰国できたのです。

なお、トルコの航空機1機が日本人に割り当てられたため、当然にイラン在住のトルコ人に皺寄せがいきます。

日本人に航空機を譲ったためにイランにいたトルコ人の一部は救援機に乗れず、トルコ人500人はやむなく陸路でイランを脱出してトルコに帰国したそうです。

トルコ人からすると、トルコ政府の対応は酷いと感じるはずです。

ところが、トルコ国内では、このときに行ったトルコ政府の陸路で帰国できる自国民の救助よりも、日本人の救助を優先させた判断に対し、大きな非難の声は出なかったそうです。

エルトゥールル号遭難事件恩をトルコ国民全体で共有してくれていたからです。

まさに、エルトゥールル号の奇跡です。涙が出ます。

その後

その後も、トルコの人達は、平成23年(2011年)に発生した東日本大震災や、令和2年に発生した台風10号による被害に対してもいち早く救助隊や救援物資を日本に送るなどしてくれています。

ほとんどの日本人が知らない歴史だと思いますので、一度紹介したいたいと思い、本記事を書きました。

串本町には、トルコ記念館もありますので、興味のある方は是非。

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