【四條畷の戦い】小楠公・楠木正行が敗れ、観応の擾乱の引き金となった戦い

楠木正成(大楠公)の嫡男である楠木正行(小楠公)が、敗死したのが四條畷の戦いです。

実際には、四條畷ではなく野崎と北四条で戦っていますので、合戦名には若干の違和感もありますが、一般に知れ渡っている呼称に従って、本稿でも四條畷の戦いと表記します。

楠木正成が湊川の戦いで敗死した後も、北畠顕家・新田義貞ら南朝方の主要な武将が敗れて死んでいったため勢力が落ちていく南朝を支えようと奮闘し、23歳の若さで散った楠木正行の戦いぶりは涙腺を刺激するものがあります。

本稿では、若武者・楠木正行の最期を飾った四條畷の戦いについて、その発生機序から順に見ていきましょう。

四條畷の戦いに至る経緯

楠木正行の成長

桜井の駅で父・楠木正成と別れた楠木正行は(桜井の別れ)、河内国に戻ります。

そして、延元元年/建武3年(1336年)5月25日、楠木正成が湊川の戦いで敗死したのですが、嫡男の楠木正行がまだ幼かったため、以降、楠木氏では、宗家ではなく同族大塚氏の和泉守護代大塚惟正(楠木惟正)らが指揮をとって南朝方に従います。

もっとも、その後、南北朝が分裂し、北畠顕家・新田義貞ら南朝方の主要な武将が敗れて死んでいったために南朝の勢力が低下していきました。

また、足利尊氏が室町幕府を開き征夷大将軍に任命され後醍醐天皇が崩御するなど北朝が絶対的優位に情勢が展開していきます。

楠木正行挙兵(1347年8月10日)

そんな中、楠木正成の子である楠木正行は、河内国で成長していきました。

そして、楠木正行は、延元5年/暦応3年(1340年)ころ、南朝の河内守・河内守護となって河内国(大阪府東部)の統治を始めます。

河内守となった後7年間は戦いをしなかった楠木正行ですが、正平2年/貞和3年(1347年)8月10日に挙兵し、住吉・天王寺近辺にて、北朝側に対するゲリラ戦を展開し始めます。

また、紀伊国・隅田城を攻略するなど(南朝の後村上天皇の命令とも言われています。)、足利方諸将を脅かすようになっていきます。

藤井寺合戦(1347年9月17日)

楠木正行の動きを見過ごすことができなくなった足利尊氏は、歴戦の猛将・細川顕氏(北畠顕家との戦い等で活躍し、総指揮官である執事高師直と並ぶ軍功第一とされた程の武将。)に命じて3000人の兵を率いて楠木正行討伐に向かわせます。

河内国の楠木正行館を目指して行軍する細川軍は、途中の藤井寺にある葛井寺(楠木正行館まで24kmの地点です。)にて休息をとります。

細川顕氏は、まだ楠木正行館と距離があるため油断していたのですが、正平2年/貞和3年(1347年)9月17日楠木正行率いる700人の軍勢が奇襲をしかけます。

不意をつかれた細川軍は大混乱に陥り、細川顕氏も北に向かって逃げていきます。

途中、細川顕氏は、天王寺で軍を立て直そうとしたのですが、これも失敗し、逆に佐々木道誉の舎弟である六郎左衛門らを失い、京に逃げ帰ることとなりました。

阿倍野合戦(1347年11月26日)

藤井寺合戦に敗れた幕府方は、再度、楠木正行討伐軍を派遣することとします。

今度は、細川顕氏に加え、山名時氏をも軍司令官とする6000人を準備します。

そして、正平2年/貞和3年(1347年) 11月23日、山名時氏は住吉に、細川顕氏は天王寺に向かって進軍していきます。

山名時氏と細川顕氏の動きを知った楠木正行は、まず、住吉の山名時氏を攻撃することとし、正平2年/貞和3年(1347年) 11月26日、500人を率いて楠木屋敷を出立します。

山名時氏は、楠木正行軍が寡兵であることを見てとり、兵を分けて楠木軍を取り囲むように配置します。

山名時氏軍があげる馬煙を見た楠木正行は、山名時氏が兵を分散させたことを見抜き、1点集中で各個撃破する作戦で山名時氏軍に突撃します。

そして、楠木正行軍の勢いに圧された山名時氏軍が、後陣の天王寺の兵と合流するために天王寺方面へと退きはじめた際、幕府方の大将・山名時氏が重傷を負ってしまいます。

こうなると、勢いの差は覆りません。

住吉から天王寺に向かって退却してくる幕府軍と、それを追撃してくる楠木正行の勢いそのまま、天王寺に陣取った細川顕氏軍も押されていきます。

結果、山名時氏軍のみならず細川顕氏軍も、楠木正行軍を支えきれずに戦線が崩壊し、敗れた幕府軍は北へと逃げていきます。

そして、これを寡兵の楠木正行軍が追撃します。

北上して大川まで押し込まれた幕府軍は、我先にと渡辺橋に群がり、多くの幕府兵が冷たい冬の川に落ちて流されていきます。

なお、このときの戦いの石碑が上の写真ですが、なぜか渡辺橋ではなく、天神橋の近くに建っています・・・

こうして、阿倍野合戦は楠木正行軍の勝利に終わり、壊滅した幕府残党は京へと逃げ帰っていくこととなりました。

高師直出陣(1347年12月14日)

二度にわたる大敗北に危機感を募らせた室町幕府は、三度目の正直とばかりに、今度は、室町幕府の事実上の最高権力者ともいえる執事高師直を総大将、その弟の高師泰を第二軍の大将とする大軍を編成して河内に派遣することを決定します。

そして、正平2年/貞和3年(1347年)12月14日、まずは第二軍の高師泰(執事高師直の弟)が先に出陣し、和泉国堺浦(現在の大阪府堺市)に向かい、同地で待機します。

また、同年12月25日または26日、高師直本隊も京を出陣し、八幡に到着して諸国の兵の到着を待ちます。

正平3年/貞和4年1月1日、諏訪部扶直、引付方頭人でバサラ大名として著名な佐々木導誉、足利氏支流佐野氏の武将佐野氏綱ら幕府の諸将が八幡に到着します。

四條畷の戦い(野崎・北四条の戦い)

高師直が野崎に布陣(1348年1月2日)

合計1万人にも上る兵が集まったことから時期が来たと判断した高師直は、正平3年/貞和4年(1348年)1月2日、楠木正行の本拠地である河内国(大阪府東部)へ向かって進軍します。

高師直は、現在の野崎城がある位置に戦時陣城を築き、縣(あがた)下野守にこれを守らせ、自身が率いる本軍は、河内国・讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)に布陣して楠木正行軍を待ち受けます。

なお、当時の河内国・野崎は、東は飯盛山などの生駒山地、西は深野池に挟まれた東高野街道沿いの狭い南北に伸びた湿地帯であったため、楠木正行軍は東高野街道を北上してくるしかなく、それを高地の軍で横撃しようという作戦です。

楠木正行による急襲(1348年1月5日)

高地を高師直に押さえられたため後手に回ることになった楠木正行は、東高野街道を北進し、正面の高師直本軍と右手の野崎城に陣取る支軍を同時に相手にしなければならなくなってしまいます。

数百人程度しかいない楠木正行軍にとって、圧倒的に不利な状況です。

もっとも、楠木正行は、高師直が布陣する野崎から北四条(北条)地域が湿地帯であり、大軍の騎馬隊の運用に適さない場所であると判断し、少数の手勢で一気に野崎に敷かれた高師直本軍に突撃する作戦を立案します。

そして、楠木正行は、自身の軍を牽制軍と突撃軍に分け、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日、牽制の部隊を野崎城の備えに残し、その他の自身が率いる隊(歩兵隊)で野崎に布陣した高師直本隊を急襲します。

兵力に勝るはずの高師直軍は、寡兵の楠木正行の急襲に驚いて大混乱に陥り、野崎から北四条(現在の大阪府大東市北条辺り)もしくはそれ以北までに押し込まれ、高師直自身はさらに北に撤退していきます。

楠木正行挟撃される

ところが、優勢に戦を進める楠木正行軍の侵攻を、一変させる事態が起こります。

野崎城に布陣していた高師直軍の支隊が、本隊の危険を察知して城から打って出てきたのです。

楠木正行は、前記のとおり、野崎城にも牽制軍を振り分けていましたが、寡兵であったためすぐに突破されてしまったためです。

野崎城から出てきた高師直方の支隊は、そのまま南側から楠木正行軍に攻撃をしかけます。

その結果、楠木正行軍は、北側の高師直本隊、南側の支隊に挟撃される形となりました。

南北に大軍に挟まれ、東は生駒山地、西は深野池に囲まれて逃げ場のなくなった楠木正行は、死を覚悟して北側の軍に突撃していきます(この頃には、高師直は既に戦線から離脱していました。)。

楠木正行の最期(1348年1月5日)

楠木正行軍は、次第に兵が削られていき、和田行忠ら開住良円、青屋刑部ら諸将も討死していきます。

そして、遂に、河内国・讃良郡北四条(大阪府大東市北条)にて、楠木正行、その弟である楠木正時、従兄弟の和田新発らが自害して四條畷の戦いが終ります。

楠木軍は、楠木正行を含む武将27名と数百人にも及ぶ死者を出す大敗となりました。

四條畷の戦い後

首級が六条河原へ(1348年1月6日)

正平3年/貞和4年(1348年)1月6日、楠木正行らの首級は京都六条河原で晒されます(建武三年以来記)。

楠木正行が敗れたことを聞いた南朝方は、勢いに乗る高師直軍が南朝に攻め込んでくることを予想します。

そこで、南朝の主要メンバーは、直ちに賀名生へ逃れます。

楠木正行館焼き討ち(1348年1月8日)

高師直と別行動をとっていたため四條畷の戦いに参加しなかった高師泰は、正平3年/貞和4年(1348年) 1月8日、別働隊を率いて楠木正行の館を焼き払うなどします。

この高師泰軍に対しては、幼少の弟楠木正儀(楠木正行・楠木正時の弟)が南朝大将と楠木氏棟梁の地位を継いで戦います。

吉野行宮陥落(1348年1月28日)

高師直本隊は、楠木正行を破った後、その勢いで、吉野に攻め込み、南朝との間で和睦交渉(降伏勧告)を始めます。

もっとも、この交渉はすぐに破断となり、高師直軍は、正平3年/貞和4年(1348年) 1月24日から28日に亘って吉野を攻撃し、南朝首都である吉野行宮を陥落させます。

なお、この後、楠木正儀が、同年2月8日の戦いで幕府に一矢報い、同年2月12日に高兄弟を撤退させることにかろうじて成功しています。

観応の擾乱へ(1350年10月〜)

四條畷の戦いの勝利と吉野行宮攻略により、室町幕府内で執事師直の名声が高まります。

その結果、幕府の事実上の最高権力者である足利直義(将軍尊氏の弟)との政治力の均衡が崩れて幕府最大の内部抗争の一つである観応の擾乱へと繋がって行くのですが、長くなるのでこの辺りは別稿に委ねます。

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