【大垣城(続日本100名城144番)】関ヶ原合戦の西軍本拠となるはずだった平城

大垣城(おおがきじょう)は、美濃国と尾張国との間に位置する現在の岐阜県大垣市郭町にあった戦国平城です。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。

立地の重要性から、美濃国斎藤家と尾張国織田家との間で激しい争奪戦が繰り広げられ、その後の関ヶ原の戦いの際には、合戦前日まで西軍の本拠地とされており、本戦で西軍が敗れた後は激しい攻城戦の舞台となった城でもあります(大垣城の戦い)。

最終的には内堀・中堀・外堀の三重の堀とその中に並郭式に本丸と二ノ丸を並べてその周囲を三ノ丸で囲い、更にその外周に外曲輪を配置した惣堀構造を持った堅城に仕上がっています。

もっとも、廃城後の宅地開発や戦災によって城域の大部分が失われ、現在では門や石垣跡(及び、後に再建された復元建築物)などがわずかに残されているのみとなっています。

大垣城築城

立地

大垣は、畿内と東国との境にある西美濃平野の中心に位置する重要な場所であり、奈良時代には東大寺大井荘が営まれていました。

また、陸路として中山道・美濃路が、水路として水門川・揖斐川を経て伊勢湾に繋がる交通の要衝でもありました。

大垣城築城(1500年?1535年)

大垣城は、明応9年(1500年)竹腰尚綱が築いたとも、天文4年(1535年)に宮川安定が築いたともいわれているのですが、実際の築城年代・築城者は特定できていません。

築城当時の大垣城は、牛屋川を外堀とし、内側に本丸と二の丸を設けただけの小さな城であり、当初は牛屋城と呼ばれていたようです。

大垣城は、美濃国の中心と尾張国の中心との間にありまた京へ向かうルートにもなる戦略上の重要地点に位置していたために、長年に亘って織田家と斎藤家との争奪戦が繰り広げられた城でした。

天文18年(1549年)に斎藤家に攻め落とされた後に斎藤道三配下の竹越尚光が城主として入っていたのですが、長良川の戦いで斎藤道三が討ち死にすると、斎藤義龍臣下の氏家直元(氏家卜全)が入り、西美濃三人衆の筆頭ととして大きな力を持つようになります。

氏家卜全による大規模拡張(1563年)

永禄3年(1560年)頃になると、尾張国を統一した織田信長が積極的に美濃国に侵攻して来るようになったのですが、大垣城が当時の織田信長の居城であった清洲城と斎藤家の本拠地であった稲葉山城(後の岐阜城)との中間地点西側にあったことから、極めて重要な防衛拠点となります。

そこで、大垣城主であった氏家直元(氏家卜全)は、永禄6年(1563年)、堀や土塁に手を加えると共に総囲いをほどこすなどしての大規模改修を行い本格的な近世城郭として整備します。

もっとも、斎藤義龍の跡を継いだ斎藤龍興と相性が合わなかった氏家卜全は、永禄10年(1567年)、美濃国侵攻戦を進める織田方に下っています。

豊臣政権下の大垣城

その後、賤ヶ岳の戦いを経て大垣城近辺の支配権をも獲得した羽柴秀吉は、天正11年(1583年)に15万石を与えて池田恒興を大垣城主とします。

大垣城に入った池田恒興は、大垣城の整備を始めたのですが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで戦死したため跡を継いだ池田輝政が天正13年(1585年)に岐阜城主に移封となったため、大垣城改修は中座します。

天正13年(1585年)、豊臣秀次の家老の1人であった一柳直末が3万石を与えらえれて大垣城に入城したのですが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に発生した天正地震によって大垣城は全壊焼失してしまいます。

その後、一柳直末により大垣城の再築がはじめられたのですが、天正18年(1590年)3月29日に小田原征伐の初戦であった山中城の戦いで一柳直末が戦死し、大垣城の再築工事が再び中座します。

大垣城は、小田原征伐の後、同戦いで功を挙げた伊藤盛景に与えられ、同人の手によって大垣城の再築工事が継続されます(なお、大垣城天守は、小田原征伐前の一柳直末、または小田原征伐後に伊藤盛景のいずれにより築かれたと考えられるのですが、どちらの手によるものかは不明です。)。

大垣城の戦い(関ヶ原の戦い)

慶長4年(1599年)、大垣城主であった伊藤盛景が死去したため、その子である伊藤盛宗が跡を継ぎ大垣城主となります。

その後、慶長5年(1600年)に石田三成が挙兵する形で西軍が蜂起して関ヶ原の戦いが始まると、西軍に属した伊藤盛宗が治める大垣城を本拠地と定めた石田三成ら西軍主力が大垣城に入ってきます。

そのため、伊藤盛宗は大垣城を石田三成らに明け渡し、自身は関ヶ原合戦に移動して松尾山に布陣します(もっとも、松尾山の陣についても、後に松尾山に入ってきた小早川秀秋によって追い出されています。)。

その後、大垣城に入っていた西軍本隊が、大垣城に福原長堯(石田三成の義弟)らを残して関ヶ原に移動し、同地で東軍に大敗します(関ヶ原の戦い)。

このとき、関ヶ原の戦いの直前から大垣城は東軍に攻囲され攻撃を受けていたのですが、相良頼房・秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りにより戦いを維持できなくなった福原長堯は、東軍からの降伏勧告を受けて1週間の戦いを経て大垣城を開城します(大垣城の戦い)。

なお、このときの逸話が「おあむ物語」として残されています。

徳川政権下の大垣城

関ヶ原の戦いの後、清洲城の守備や石田三成の居城であった佐和山城攻撃で功を挙げた石川康通が5万石を与えれられて大垣城に入り、美濃大垣藩を立藩します。

その後、慶長18年(1613年)には3代藩主であった石川忠総によって総堀が加えられると共に二の丸石垣の整備などがなされ、さらに大坂の陣で功を挙げて大垣城に入った松平忠良によって天守の改築(3階建てから4階建てへ)が行われます。

戸田氏鉄入城(1635年)

寛永12年(1635年)7月28日、10万石の知行と大垣城を与えられた戸田氏鉄が摂津国尼崎城から移ってきて大垣城に入城します。

戸田氏鉄入城以降、大垣城は、大垣藩戸田家10万石の居城となり、明治に至るまで戸田家により治められていくこととなります。

そして、慶安2年(1649年)、 戸田氏鉄の手によって大垣城の大改築が行われ、明治に至る姿となりました。

大垣城の縄張り

大垣城は、現在の大垣市内を流れる水門川を外堀として利用し、並郭式に本丸と二ノ丸を並べてその周囲を三ノ丸で囲い、更にその外周に外曲輪を配置して惣堀構造としていた連郭輪郭複合式平城です。

当初は、牛屋川(現在の水門川)を外堀としてその内側に本丸と二の丸を設けただけの小さな城であったのですが、氏家卜全・池田家・伊藤盛景・石川忠総(総堀)・松平忠良(天守増階)・戸田氏鉄らによる改修を経て、西を水門川・東を牛屋川を外堀として利用して曲輪を配し、最終的には、本丸北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げて周囲に3重櫓1基に2重櫓を3基を配し、二の丸に月見櫓など3重櫓を4基、三の丸に2重櫓4基・平櫓1基などを配した上で、本丸に2つ・二の丸に1つ、三の丸に5つもの門を設けた上,桝形虎口・馬出・横矢等を駆使した近世城郭へと造り変えられました。

また、外曲輪に武家屋敷を配して防備を固めると共に、外曲輪の外周に美濃路を取り込んだ上でその周辺に町屋を配置することにより城下の計画的な発展も進められています。

廃城後の宅地開発や戦災によって大垣城の遺構の多くが失われてしまったのですが、本丸石垣や水門川として外堀の一部が往時の遺構をわずかに残しています。

外堀

大垣城外堀は、外曲輪の外周に巡らされた堀です。

外堀には7つの門(東口大手門、南口大手門、柳口門、竹橋口門、清水口門、辰之口門、小橋口門)によって出入りができる構造となっており、これら7つの門をあわせて「七口之門(ななくちのもん)」と呼ばれていました。

これらの7つの門のうち、柳口門は本丸東門として、清水口門は大垣市長松町にある平林荘正門としてそれぞれ移築されて残されていますが、その他の5つの門は現在までに失われています。

なお、外堀の東側に位置する東惣門から西惣門までの間は、構造的には外堀の外側に位置しているのですが、ここはさらにもう1重の外堀(牛屋川)によって守られる構造となっていました。

外曲輪

大垣城外曲輪は、外堀と中堀(三の丸の外側の堀)との間の曲輪群であり、主に侍屋敷が配置された曲輪です。

中堀

大垣城中堀は、三の丸の外周に沿って掘られた堀です。

三の丸

大垣城三の丸は、本丸と二の丸を守る内堀と中堀との間に配置された環状の曲輪です。

広義では外周一周を三の丸と呼んでいいのだと思うのですが、狭義では外周部の南側を三の丸、西側を竹の丸、東側を天神丸と呼びました。

大手口が三の丸東端に設けられ、枡形の大手口太鼓門で守られていました。

内堀

内堀は、天守と二の丸の外周に沿って掘られた堀です。

二の丸

大垣城二の丸は、本丸の南側に位置する曲輪であり、御殿が置かれていました。

天守を構えた本丸と御殿を置いた二の丸とが並列的に配置され、これらを広大な内堀で囲むことで2つの最重要曲輪の防衛が図られました。

二の丸跡地は、現在は大垣城ホールとして使用されています。

本丸

大垣城本丸は二重構造になっていて、天守の建つ内側の一段高い曲輪と、その周囲を囲む一段低い腰曲輪とで構成されていました。

一段高い曲輪は、東側と南側に附多門を従えてた天守を北西角部に配し、全体を多門櫓で囲っていたようです。

また一段低い腰曲輪は、二の丸から廊下橋を渡った後に鉄門を通って入る構造となっており、その北東角部に艮櫓、北西角部に乾櫓、南東角部に腰曲輪巽櫓を配していました。

なお、現在は、本丸東側に門が設けられて本丸への出入口となっているのですが、往時にはここに門・出入口があったわけではなく、ここは天守が復興された際に石垣を壊した上で七口之門の 1つである柳口門を移築して出入口としたものです。

また、西側にも埋門が立てられていますが、これも後に築かれたものであり、往時の構造ではありません。

① 廊下橋

廊下橋は、二の丸と本丸との間に架けられた橋であり、本丸へ通じる唯一の経路となっていました。

なお、現在は、内堀が全て埋め立てられているため、廊下橋は残されていません。

② 鉄門

大垣城本丸鉄門(正面に短冊状の筋鉄が張られた門)は、本丸に入る際の最初の関門となる高麗門形式の門です。

時期は不明ですが、後に大垣城から搬出されて野口城(各務原市蘇原町野口)・安積家などに移され、最終的に現在は各務原市鵜沼宿に展示されています。

鵜沼宿に移築される前は、この門は加納城移築鉄門と考えられていたのですが、各務原市に譲渡された際に行われた解体調査の際に土台に墨書が発見され、大垣城の鉄門であることが分かったという経緯があり、現在は各務原市指定重要文化財となっています。

③ 水手門

④ 艮櫓

艮櫓は、本丸腰曲輪の北東角部に設けられた隅櫓です。

大垣城廃城後も同地に残存し、昭和11年(1936年)に天守と共に国宝(旧国宝)指定がなされたのですが、昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により天守と共に焼失しました。

戦後、艮櫓は鉄筋コンクリート造で復元されたのですが、天守や乾櫓とは異なり艮櫓は外観復元がなされていないため、現在建っている艮隅櫓は不自然な構造となっています。

⑤ 乾櫓

乾櫓は、本丸腰曲輪の北西角部に設けられた隅櫓です。

戦後、鉄筋コンクリート造で復興された後、平成22年(2010年)に戦災前の外観に近づける改修がなされています。

天守

(1)初代天守(1596年?)

天正18年(1590年)に大垣城主となった伊藤祐盛は、一柳直末から大垣城の再築工事を引き継いでこれを行い、文禄4年(1595年)から翌慶長元年(1596年)にかけて三層天守を建築します(関ヶ原合戦図屛風)。

(2)改修天守(1620年)

その後、元和6年(1620年)、松平忠良によって3階建てから4階建て(石垣約6.4m・建物の高さ約18m)の四重四階に改築されて層塔型天守となり、東附多門・西附多門が敷設され、本丸を囲む曲輪に配された隅櫓と共に白漆喰総塗りごめ造りで築かれました。

このとき築かれた天守には、南西隅部に鬼瓦が、また屋根の一部に金箔瓦が使用されるなど当時の築城技術に応じた形式で行われていました。

天守石垣では、大垣城北側にそびえる赤坂金生山産の石灰石が多く使用され、フズリナ・シカマイア・ウミユリなどの化石も見られるのですが、昭和34年(1959年)の修復時に積み直しが行われたため当時の状態をとどめていません。

大垣城天守は、大垣城廃城後も残存し、昭和11年(1936年)には国宝に指定されたのですが、昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲によって消失します。

(3)外観復興天守(1959年)

その後、昭和34年(1959年)、残されていた写真や設計図に従って鉄筋コンクリート構造で外観復元にて再建された後、平成22年(2010年)に戦災前の外観に近づける改修がなされて現在に至っています。

城下町(大垣宿)

天正13年11月29日(1586年1月18日)に発生した天正地震に際して発生した大火により、大垣城城下町は灰燼に帰したのですが、その後、計画的な町割りを基にして震災復興が進められ、美濃路(中山道垂井宿から分かれて東海道宮宿/熱田宿に繋がる脇街道)の開通によって大垣宿が立てられた慶長年間(1601年ころ)には概ね近世城下町としての原型が完成します。

交通の発展に比例して旅宿が発展した大垣城城下町は、元和元年(1615年)の一国一城令以後は周囲の町村を取り込むことにより、大垣宿としてさらなる隆盛を迎えることとなりました。

城下に家臣団が居住する34町の武家屋敷が設けられ、その周囲に商工業者が居住する10町の町屋が作られました。なお、関ヶ原合戦以前から存在した町を古来町(本町・中町・魚屋町・竹島町・俵町・伝馬町)といい、元和年間以降に発展した町を出来町(船町・岐阜町・新町・宮町)といいました。

外曲輪外周の東側・南側には、東惣門(名古屋口門)から西惣門(京口門)までの約1.1kmを含め内部に美濃路を取り込んだ大垣城城下町は、水門川の港町にもなって西口から東口まで約2.9kmの範囲の大規模な宿場町に発展し、江戸中期には総人口1万2000人を誇っていたとされています。なお、東惣門から西惣門までの間は、外堀の外側に位置しているのですが、ここはさらにもう1重の外堀(牛屋川)によって守られていました。

また、大垣宿の本陣と問屋場(事務や人馬の引継所)が竹島町に、脇本陣が本町大手北側に置かれ、茶屋が久世川町正覚寺近辺に3軒・藤江町に3件設けられました。

なお、大垣は、揖斐川やその支流に囲まれ、また扇状地末端という湧水が多い平坦地であったことから、洪水に悩まされた土地でもあったことから、外堀である水門川に排水路としての機能を持たせると共に周囲を堤防(輪中・わじゅう)で囲むなどの対策が講じられました。

大垣城廃城

大垣城廃城(1873年)

大垣城は、明治6年(1873年)発布の廃城令により廃城となり、城内の建築物の破却や門の一部の移築などが行われます。

もっとも、天守など一部の建物は破却を免れることとなりました。

旧国宝指定(1936年)

その後、昭和11年(1936年)、残されていた天守と艮櫓が国宝(旧国宝)に指定されたのですが、昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により残されていた天守や艮隅櫓などが焼失します。

また、戦後の宅地開発により、水門川や用水路として使用されるもの以外の堀が埋められ、また周囲に建物が建築されていったことなどから城域の多くが失われてしまいました。

再建建築物

その後、昭和34年(1959年)に天守が、昭和42年(1957年)に郡上八幡城を参考に乾櫓が鉄筋コンクリート構造で外観復元(もっとも、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされました。)がなされます。

また、平成22年(2010年)には資料を基に天守と乾隅櫓を焼失前の外観に近づける改修工事が行われ、翌平成23年(2011年)3月4日、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が完了しています。

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