織田信長の尾張国統一戦

尾張国の地方領主から天下人にまで上り詰めた織田信長。戦国時代の数ある武将の中で最も有名な戦国大名です。

織田信長の名を世間に知らしめたのは言うまでもなく桶狭間の戦いですが、そこに至る織田信長の尾張統一の途は意外に知られていません。

本稿では、織田信長による長く苦しかった尾張国統一に至る過程を簡単に説明します。

出生から織田弾正忠家の家督を継ぐまで

織田信長出生時の尾張国の勢力

尾張国は8郡で構成されており、葉栗郡・庭郡・中島郡・春日井郡、愛智郡・海東郡・海西郡・智多郡に分けられます。

そして、尾張国は、室町時代以降、名門斯波家が守護となって治めていたのですが、織田信長出生のころにはその勢力は衰え、守護の斯波家は飾り物同然の状態となっていました。

このころは、斯波家の家臣筋にあたる織田家が守護代として尾張国で勢力を伸ばし、尾張国8郡のうち、上4郡(葉栗郡・庭郡・中島郡・春日井郡)は守護代・岩倉織田家が支配し、下4郡(愛智郡・海東郡・海西郡・智多郡)は守護代・清洲織田家がこれを支配している状況でした。そして、守護斯波義統は、飾り物として、上4郡と下4郡と川を隔てた境部にある清洲城に住まわされていました。

織田信長の生家は、前記尾張守護代で,尾張国下4郡を治める清洲織田家のさらに家臣筋に当たります(清洲織田家の重臣である清洲三奉行【織田因幡守・織田藤左衛門・織田信秀】のうちの1家です。)。

織田信長の生家は、織田信長の祖父である織田信定の代から、伊勢湾の港湾商業都市だった津島を押さえて商人や職人集団を支配下に収めるなどして力をつけ、織田信長の父である織田信秀の代には、尾張国海東郡にあった勝幡城を本拠とし、戦上手と巧みな立ち回りで、清洲織田家の支援を受けて今川家(今川氏豊)から那古屋城を獲得するなどして、勢力拡大を続けていました。

織田信長出生(1534年5月)

そんな中、織田信長は、天文3年(1534年)5月、織田弾正忠家当主織田信秀の三男として勝幡城で誕生します。幼名は吉法師です。

三男ではあったものの、織田信秀の継室である土田御前の長男であったため、嫡男として扱われました。同母のすぐ下の弟には、後に袂を分かつ織田信行がいます。

織田信長那古屋城主となる

織田信秀は、本家である清洲織田家の支援を受けて今川家(今川氏豊)から那古屋城を獲得するなどして、勢力拡大を続けます。なお、織田信秀自身は、熱田近くの尾張国愛智郡の古渡に新たに古渡城を築いて移りました。

そして、織田信秀は、わずか2歳の織田信長に獲得した那古野城を与えて住まわせ、林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介などをつけて守役とします。

織田信長は、乳飲み子の頃から気性が激しかったようで、乳母の乳首を噛みちぎったというエピソードまでありますが、後に義兄弟となる池田恒興の母が乳母になると、この噛み癖が治まったとも言われています。

那古野城を与えられた織田信長は、幼少期を同城で過ごします。

少年時代の織田信長は、素行が悪く、湯帷子に豹皮の半袴を着て、荒縄に瓢箪や草鞋を括り付けて帯にするという奔放な格好で領内を練り歩いていたそうです。

また、町の若者や仲間たちを集めて、栗や柿にかぶり付いたり、河原で相撲に興じたりしていたため、「うつけ」と言われていました。

織田信長のこのような行状を諫めるため、後日、傳役だった平手政秀が自刃して諫めたとまで言われています。

織田信長元服(1546年春)

織田信長は、天文15年(1546年)春、父織田信秀の居城である古渡城にて元服し、織田三郎信長と名乗ります。

織田信長初陣(1547年)

そして、織田信長は、天文16年(1547年)、駿河から侵攻を受けていた三河国吉良・大浜へ手勢を指揮して出陣し(吉良大浜の戦い)、初陣を果たします。

なお、このときは、諸所に火を放った後、那古野城に戻っています。

その後、織田信秀は、美濃国と三河国への二面侵攻作戦を進めますが、美濃国はマムシ斎藤道三が、三河国は海道一の弓取り今川義元がよく守ったため、なかなか勢力拡大には至りませんでした。

美濃国・斎藤道三と同盟(1548年)

織田信秀は、二面作戦が困難であると判断して方針を転換します。美濃国と結んで北側の安全を確保し、東側の三河国へ集中して侵攻する作戦をとることとしたのです。

そのために、織田信秀は、天文17年(1548年)、それまで敵対していた美濃国の戦国大名である斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)を織田信長に嫁がせ、斎藤道三と同盟を結びます。

そして、織田信秀は、居城古渡城を取り壊して末盛に新たに城を築いて末盛城を居城とし、天文18年(1549年)ころから那古野城主・織田信長を政務に関与させることにより、末森城主・織田信秀と那古野城主・織田信長の二元体制で織田弾正忠家の政務が執り行われるようになります。

父織田信秀の死と家督相続(1552年3月)

ところが、織田信秀は、天文21年(1552年)3月3日、42歳の若さでで病死してしまいます。

織田信秀の葬儀は、万松寺で行われ、僧侶300人、重臣をはじめ多くの者が参列する盛大なものが行われました。

このとき、織田信長の弟である織田信行は折り目正しい肩衣、袴を着用し、礼にかなった作法で列席したのですが、織田信長は袴を履くことなく、長柄の大刀と脇差を荒縄巻き、茶筅髷の状態で仏前に出て、抹香をつかんで仏前に投げて帰ったそうです。

この様子を見て、ただ一人九州からきた旅僧だけが大人物であると評価をしたものの、その他の者はうつけと称して織田家の将来を悲観することとなりました。

その後、間もなく、織田信長の守役である平手政秀が、織田信長の態度を嘆き、これを諌めるために1553年、腹を切って果てました。

織田信長は、平手政秀の切腹に反省したのかどうかはわかりませんが、その後、織田上総介信長と自ら官名を名乗り、一地方領主にすぎなかった織田家を天下人手前まで成長させる飛躍をはじめます。

この飛躍は、長く苦しい尾張国と織田家の統一戦から始まります。

織田信長の尾張国統一戦

家督相続直後のどさくさ期

(1)赤塚の戦い(1552年4月)

織田信秀の死去に伴い、織田弾正家に近い立場にいた鳴海城主山口教継と、その息子山口教吉が、織田信長の力量に疑問を持って今川義元に寝返り、駿河勢を率いた今川方諸将を尾張国内に誘導しました。山口教継は、子の山口教吉を鳴海城に残して、自らは笠寺城を修築し、自らは中村城に立て籠もりました。

これに対し、織田信長は、天文21年(1552年)4月17日、兵800人を率いて那古野城を出陣し、鳴海城北側の赤塚の地で乱戦となりましたが勝敗は決せず、元々は味方同士で顔見知りの間柄だったため、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りになった者も交換して帰陣することにより、痛み分けに終わりました。

なお、山口親子の裏切りにより、織田信長は鳴海城を失い、同城は今川方の城になりますが、その後、山口教継が、調略をもって大高城、沓掛城を乗っ取ったため、鳴海城には今川義元家臣の岡部元信が城代として立て篭もり、それから程なく山口教吉は山口教継と共に駿河国へ呼び出され、今川義元の命により父子ともども切腹を強いられ果てています。

(2)萱津の戦い(1552年8月)

このころ、織田信長の主家にあたる清洲織田家の当主は織田信友だったのですが、その実権は小守護代と言われた家老の坂井大膳に握られていました。

坂井大膳は、同輩の坂井甚介・河尻与一・織田三位と謀り、天文21年(1552年)8月15日、織田信長方の松葉城と深田城を襲撃し、松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次(信秀の弟で信長の叔父)を人質としました。

この報せを聞いた織田信長は、翌8月16日早朝、那古野城を出陣すると、織田信光(信長の叔父で信次の兄)と合流し、兵を(海津口と)他に松葉口・三本木口・清洲口に分け、自らは信光と一手になって庄内川を越し、海津(萱津)へ移動しました。

そして、同日午前8時ごろから戦となり、坂井甚介を討ち取りました。

その後、織田信長は、深田城・松葉城に侵攻して、これを接収し、以降の清洲侵攻に備えて清洲の田畑を薙ぎ払って那古野城に戻ります。

(3)村木砦の戦い(1554年1月)

①斎藤道三との面談(1553年4月下旬)

天文22年(1553年)4月下旬、斎藤道三が、うつけの織田信長を驚かせて笑おうと考え、織田信長を呼び出し、現在の愛知県一宮市内にある正徳寺で面談することとなりました。

斎藤道三は、正徳寺に向かう道にはずれの小家に隠れて、織田信長の行列を覗き見しました。

その際、織田信長は、斎藤道三の面前を通ったのですが、その際の出で立ちは、茶筅髷を萌黄色の平打ち紐で巻き立てて、湯帷子を袖脱ぎにし、金銀飾りの太刀・脇差に2つとも長い柄を藁縄で巻き、太麻縄を腕輪にし、腰の周りには遠回しのように火打ち袋・瓢箪を7つ8つほどぶらさげ、虎皮と豹皮を四色に染め分けた半袴を履いた状態でした。

ところが、正徳寺で、斎藤道三と対面する際には、織田信長は、髪を折り曲げに結い、褐色の長袴をはき、小刀をさした正装で現れたのです。

この織田信長出で立ちを見て、斎藤道三は、織田信長のうつけぶりは世を欺くためのものであったと肝をつぶし、自分の息子たちが、いずれ織田信長の軍門に下るだろうと予想するに至ったそうです。

②村木砦の戦い(1554年1月)

織田信長が、尾張国統一戦を行っていた際、今川義元もまた尾張国への侵攻をしてきました。

今川軍が鴫原城を攻略し、尾張国智多郡村木に堅固な砦(村木砦)を築き、さらなる侵攻準備をしていました。

そうしたところ、織田方であった寺本城が今川方に寝返りました。

寺本城が今川方に回ったことで、織田信長の居城・那古野城と、織田方の水野信元が守る緒川城とが分断されることとなったため、織田信長としては、早々に村木砦を攻略し、緒川城とのルートを復旧する必要に迫られました。

このとき、織田信長は、寺本城を避けるため、船で海を渡ってこれを迂回し、村木砦に向かうこととしました。

もっとも、村木砦侵攻のため、織田信長が軍勢を率いて那古野城を留守にすると、清洲城にいる清洲織田家の織田信友が那古野城に侵攻してくる可能性が考えられました。

そこで、織田信長は、美濃国の斎藤道三に援軍を求め、斎藤道三が安藤守就以下1000人の兵を派遣しました。

織田信長は、那古野城で安藤守就の到着を待ち、天文23年(1554年)1月21日、安藤守就に那古野城の守りを任せて出陣しました。

織田信長は、出陣後熱田に宿泊した翌日に船で知多半島に上陸した後東進し、緒川城に入城します。

そして、織田信長は、同年1月24日早朝、緒川城主・水野信元と共に出陣し、村木砦を囲みます(村木砦は、北側・東側が水に守られているため、西側に織田信光、南側に織田信長・水野信元が配置されます。)。

そして,織田方は、村木砦に攻撃をしかけます。

その後、織田方・今川方双方に多数の死者を出した後、同日夕方に村木砦が降伏し、村木砦の戦いが終わります。

織田信長は、攻略した村木砦の事後処理を水野忠元に任せて村木砦を後にし、その翌日に、帰路に裏切った寺本城の城下に火を放ち、那古野城に帰陣しています。

守護・斯波氏の滅亡(1554年7月)

天文23年(1554年)7月12日、守護代織田信友が、家老坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位と共に、守護・斯波義統の家臣の大部分が斯波義統の子の義銀に従って城外に川漁に出かけた隙をついて、守護・斯波義統を暗殺しました。

そして、守護代織田信友が、清洲城を接収しました。

なお、斯波義統が織田信友に暗殺されたとの報を聞いた斯波義銀は、川漁先からそのまま逃亡し、織田信長を頼って那古野城に落ち延びてきましたため、織田信長はこれを保護しました。

守護代・清洲織田家の滅亡(1555年4月)

中市場の合戦(1554年7月18日)

織田信長は、自分の下に転がり込んできた斯波義銀の権威を最大限利用します。

織田信長は、斯波義銀を得たことにより、織田信長から見ると主君筋にあたる清洲織田家に対し、さらにその主君である尾張守護を暗殺した裏切り者として討伐する理由を得たのです。

そこで、織田信長は、尾張国守護の子・斯波義銀の名で、天文23年(1554年)7月18日、柴田勝家に清洲城攻略を命じます。

これに対し、清洲織田家の軍勢も、軍を出して山王口・安食村・誓願寺で応戦したのですが敗れ、清洲織田家家老河尻左馬丞・織田三位が討ち死にしています。

なお、用済みとなった斯波義銀は、後日、織田信長によって尾張国から追放されています。

清洲織田家滅亡と織田信長の清洲城接収(1555年4月)

中市場の戦いで家中の有力者を失った清洲織田家・織田信友は、坂井大膳の取次の下、守山城の織田信光を調略し、共に織田信長に対峙しようと考えました。

もっとも、織田信光は、織田信長にすり寄り、逆に清洲城にて清洲織田家・織田信友を切腹させ、清洲城を織田信長に引き渡しています。また、坂井大膳は、今川氏を頼って逃亡しました。

これにより、織田信長の主家である守護代・清洲織田家は滅亡し、以降、織田信長が清洲城に移って本拠とします。なお、織田信長が離れた那古野城には入れ替わりに織田信光が入ったが不慮の事故によって織田信光が死亡したため、その後林秀貞が入城するも、やがて廃城となっています。

織田弾正忠家の統一(1556年8月)

(1)織田信行との関係

織田信長のすぐ下の弟である織田信行(織田信勝とも)は、父織田信秀の死後、末森城に入っています。なお、織田信行には、織田弾正忠家の重臣である柴田勝家や佐久間大学らがつけられており、その力は相当なものでした。

もっとも、織田信行は、父織田信秀の死後は、織田信長に協力し、叔父である守山城主織田信光らとともに、織田信長に協力し、織田弾正忠家の運営にあたっていました。

(2)稲生の戦い(1556年8月)

そんな中、弘治2年(1556年)4月、織田信長の岳父であった美濃国の斎藤道三が、嫡男斎藤義龍との戦いにて敗れて死去し(長良川の戦い)、また残る尾張国上4郡を治める守護代家である岩倉織田家が反織田信長の立場に立ちました。

この状況下で、織田信長では織田弾正忠家をまとめられないと考えた宿老の林秀貞とその弟林美作守(通具)、柴田勝家らが、織田信長を排除し、織田信行に家督を継がせようと画策をはじめます。

そして、織田信行自身も織田弾正忠家代々の名乗りである弾正忠を自称し、織田信長の直轄領である篠木三郷を押領して砦を構えるなどして、織田信長に反抗の意思を示しました。信長公記では、織田信長と織田信行が不仲となったのは、この林兄弟の画策によるものとされています。

この織田信行の動きに対して、織田信長も動きます。

同年8月22日、佐久間信盛に命じて名塚に砦を築かせたのです。

これに対し、織田信行方の柴田勝家らが、名塚砦に攻撃を仕掛けたため、織田信長が清洲から軍を出してこれを迎え撃つという形で、同年8月24日、両者が稲生原で相まみえます(稲生の戦い)。

戦いは、林美作守は討ち死に、柴田勝家は逃走という織田信長方勝利に終わります。

敗れた織田信行は、末森城に籠城し、追う織田信長は末森城に攻め寄せ城下を焼き払って攻城戦に突入しようとしたのですが、ここで生母土田御前のとりなしが入り、このときは、織田信行は、林秀貞・柴田勝家と共に放免されました。

(3)織田信行暗殺(1557年11月)

なお、織田信行は、後日、竜泉寺を城に改造し、尾張上四郡の岩倉織田家の織田信安と共謀するなどし、再度謀反を企みます。

ところが、このときは、既に織田信長に与していた柴田勝家に織田信長が病に臥しているから見舞いに行くべきであると騙され、弘治3年(1557年)11月2日、織田信長の見舞いのために清洲城の北櫓・天主次の間を訪れたところ、織田信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺されました。

この織田信行の死により、織田弾正忠家が、織田信長の下に一本化されるに至りました。

守護代・岩倉織田家の滅亡(1558年7月)

織田信長は、織田弾正忠家を1つにまとめ、主家清洲織田家を滅ぼし、また尾張守護となり得た斯波義銀を追放し、尾張国下4郡を概ね支配下におさめます。

そこで、織田信長は、尾張国統一のため、続いて残る上4郡の攻略を開始します。

尾張上4郡を支配する岩倉織田家(織田伊勢守家)の守護代は、織田信安であり、長良川の戦いの際には斎藤義龍と手を組み織田信長を攻撃するなど、織田信長と敵対関係にありました。

もっとも、このころは、岩倉織田家では、世継ぎ騒動で織田信安が嫡男織田信賢に追放されるというお家騒動が起きている時期でした。

そこで、織田信長は、岩倉織田家の内紛を利用して尾張国上4郡を攻略しようと考えます。

そして、まずは、父織田信秀死後独立勢力化していた犬山城主織田信清に対し、自分の姉・犬山殿を嫁がせ味方に組み入れます。

その上で、織田信長は、永禄元年(1558年)、2000人の兵を率いて清洲城を立ち、織田信清の援軍と共に、浮野の地において3000人を率いる織田信賢軍と交戦しこれを破ります(浮野の戦い)。

そして、翌永禄2年(1559年)、織田信長は、再度軍勢を率いて織田信賢の本拠岩倉城を包囲して攻撃を開始し、籠城する織田信賢を数か月かけて降伏させました。

織田信長による尾張国統一

以上のとおりの経過をとり、尾張国は織田信長によって統一支配されました。

そして、この後、織田信長は、桶狭間の戦い、美濃統一戦を経て、畿内へ進行し飛躍を迎えますが、長くなりますので以降の話は別稿に委ねます。

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