【萱津の戦い】うつけと侮られた織田信長の評価を一変させた合戦

萱津の戦い(かやづのたたかい)をご存知ですか。

マイナーすぎてほぼ知名度がないのですが、実は、織田信長の尾張国統一戦の中で重要な意味を持ち、織田信長のサクセスストーリーを語る上では外すことができない重要な合戦です。

父・織田信秀死亡後、織田弾正忠家の家督を継いだ織田信長ですが、「うつけ」と呼ばれ馬鹿にされていたこと、家督相続直後に謀反人を出してしまったこと、本拠地・那古野城と熱田との導線上にある松葉城・深田城までも清洲織田家に奪われたことから、その求心力は地に落ちます。

ここで、織田弾正忠家の期待を背負って清洲織田家を蹴散らし、一発逆転で織田弾正忠家中での評価を高めたのが萱津の戦いです。

織田弾正忠家のみならず、織田信長にとっても危うい危機を脱するに至った記念すべき戦いである萱津の戦いについて、そこに至る経緯から順に説明しています。

萱津の戦いに至る経緯

尾張国の勢力図

尾張国は、8郡(葉栗郡・庭郡・中島郡・春日井郡、愛智郡・海東郡・海西郡・智多郡)で構成され、室町時代以降、名門斯波家が守護となって治めていました。

もっとも、織田信長出生のころには斯波氏の勢力は衰え、守護という名の飾り物同然の状態となっていました。

そして、尾張国では、家臣筋にあたる織田家が守護代として斯波氏に代わって尾張国で勢力を伸ばし、尾張国8郡のうち、上4郡(葉栗郡・庭郡・中島郡・春日井郡)を守護代・岩倉織田家が支配し、下4郡(愛智郡・海東郡・海西郡・智多郡)を守護代・清洲織田家(織田大和守家)がこれを支配している状況でした。

なお、尾張国守護・斯波義統は、飾り物として、上4郡と下4郡と川を隔てた境部にある清洲城に住まわされていました。

織田信秀による勢力拡大

このような勢力状況の中、織田信長は、尾張国下4郡を治める清洲織田家の家臣(清洲織田家の重臣である清洲三奉行【織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠家】のうちの1家です。)であった織田弾正忠信秀の子として生まれます。

織田信長の生家である織田弾正忠家は、織田信長の祖父・織田信定の代から、伊勢湾の港湾商業都市だった津島を押さえて商人や職人集団を支配下に収めるなどして力をつけ、織田信長の父である織田信秀の代には、熱田とならぶ巨大商業都市となっていた熱田も手に入れ、これらの2大湊から上がる利益を基に勢力拡大を続けていきました。

織田弾正忠家の家督相続

ところが、織田信秀は、天文21年(1552年)3月3日、42歳の若さで病死し、織田信長が織田弾正忠家の家督を相続します。

もっとも、素行が悪く「うつけ」と呼ばれていた織田信長は、織田弾正忠家内での評判が悪く、織田信長が織田弾正忠家の家督を相続したことに対して織田弾正忠家内に混乱が生じます。

加えて、織田信秀に虐げられてきた周辺勢力が勢いつきます。

鳴海城主・山口教継離反

そして、この混乱は離反者も生み出します。

織田弾正忠家に近い立場にいた鳴海城主・山口教継が、織田信長の力量に疑問を持ち、その息子である山口教吉と共に今川義元に寝返ったのです。

その上で、山口教継は、今川軍を尾張国内に誘導し、子の山口教吉を鳴海城に残して、自らは笠寺城を修築すると共に中村城に立て籠もり、織田信長と対立する姿勢を見せます。

赤塚の戦い(1552年4月17日)

裏切者を放置していては示しがつかない織田信長は、天文21年(1552年)4月17日、兵800人を率いて那古野城を出陣し、鳴海城北側の赤塚の地で山口軍と合戦となります。

もっとも、元々は味方同士で顔見知りの間柄であったため両軍の兵がまともに戦わず、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りになった者も交換して帰陣するなどしたため、合戦の勝負がつくことなく痛み分けに終わりました。

裏切者を処断できなかったのですから、当然うつけと言われた織田信長の評価は地に落ちます。

織田弾正忠家崩壊の危機です。

松葉城・深田城陥落

ここで、織田信長に更なる危機が訪れます。

織田弾正忠家内で織田信長に対する批判が高まっていると見た清洲織田家(織田大和守家)が、織田弾正忠家の切り崩しを図ってきます。

具体的には、清洲織田家(織田大和守家)に仕える坂井大膳が、天文21年(1552年)8月15日、同輩の坂井甚介・河尻与一・織田三位と謀って織田信長方の松葉城と深田城に乗り込み、松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次(信秀の弟で信長の叔父)を人質に取って両城を取り込んでしまったのです。

松葉城と深田城は、織田信長の居城である那古野城と、織田弾正忠家の経済的基盤となっていた津島との間に位置していたため、ここを奪われては津島の利益を奪われてしまいますので織田弾正忠家の存続にかかる大問題となります。

 

萱津の戦い(1552年8月16日)

織田信長出陣

松葉城・深田城陥落の報を聞いた織田信長は、天文21年(1552年)8月16日早朝、松葉城・深田城を取り戻すため、織田弾正忠家の総力を挙げて兵をかき集めて那古野城を出陣し、庄内川畔の稲葉地(稲庭地)において、守山城主・織田信光(信長の叔父で信次の兄)と合流します。

そして、織田信長は、兵を松葉城攻撃隊、深田城攻撃隊、清洲城牽制隊の3隊に分け、清洲城牽制部隊で清洲織田家からの後詰を防ぎ、その間に松葉城・深田城攻撃隊で両城を奪還するという作戦を立案します。

そして、織田信長は、織田信光と共に清洲城牽制部隊の指揮官となって庄内川を越えた後、北に向かって進軍していきます。

他方、松葉城攻撃隊及び深田城攻撃隊は、それぞれが松葉城・深田城に向かって西進していきました。

萱津の戦い(清洲城牽制軍の戦い)

清洲城に向かって北進してくる織田信長軍に対し、清洲城の清洲織田家からは坂井甚介率いる迎撃部隊が出陣し、織田信長隊に向かって南進していきます。

こうして、稲葉地から北進する織田信長軍と清洲城から南進する清洲織田家の坂井甚介軍とが、萱津(海津)において対陣します。

そして、天文21年(1552年)8月16日午前8時ころに発生したのが、萱津の戦いです。

午前8時ころに始まった戦いは、数刻(数時間)の激戦を経て、織田信長軍の柴田勝家と馬廻であった中条家忠が奮闘して敵将・坂井甚介を討ち取ります。

指揮官を失った清洲織田家軍は混乱して壊滅し50騎が討ち取られる大敗北を喫します。家督相続後の織田信長の初めての大勝利でもありました。

松葉城・深田城方面軍の戦い

①深田城攻撃

深田城に向かう織田信長軍・深田口方面軍に対し、深田城から迎撃軍が出たため、三本木の町で両軍が退陣することとなりました。

もっとも、三本木の町には清洲織田家方の防衛施設がなかったため、早々に織田信長軍が清洲織田軍を早々に追い払うことに成功します(清洲織田軍は、30余人が討ち死にして敗走します。)。

②松葉城攻撃

また、松葉城へ向かう織田信長軍・松葉口方面軍に対しては、松葉城から迎撃軍が出たため、馬島において両軍が対峙することとなりました。

松葉口方面では、馬島で辰の刻から午の刻(おおよそ午前8時から正午ごろ)まで交戦が行われたのですが、ここに萱津において清洲織田家の軍を追い払った織田信長軍が参戦したため、松葉城防衛隊は総崩れとなります。

そして、この勢いのまま織田信長軍が、松葉城・深田城に押し寄せたところで、清洲織田軍は降伏して松葉城・深田城を明け渡して退却します

もっとも、怒りの収まらない織田信長は、退却する清洲織田軍を清洲城下まで追撃し、そのまま清洲城下の田畑を刈り取って那古野城に帰城しています。

 

萱津の戦いの評価

萱津の戦いに勝利して松葉城・深田城を奪還した織田信長は、それまでの「うつけ」との評価から一変し、尾張国内において父・織田信秀に並ぶ戦巧者の名声を得ます。

そして、これらの評価を基に、織田信長は家中を取りまとめ、尾張国の統一に邁進していくこととなるのです。

他方、萱津の戦いを含む一連の戦いにより、織田弾正忠家と清洲織田家との敵対関係が明確化し、この敵対関係は清洲織田家の滅亡まで続くことになりました。

なお、余談ですが、この萱津の戦いが前田利家の初陣だったそうです。

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