【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年

低い身分に生まれながら天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉。

織田信長に仕えて初めて城を得てから亡くなるまでの間、その時々の必要性に応じて何度もその居城を移しています。

豊臣秀吉の居城として大坂城が突出して有名ですが、実は豊臣秀吉が初めて城を得てから死ぬまでの約25年の間で主として大坂城に在城していたのはほんの僅かです。3~4年に過ぎません。

羽柴秀吉は、人生のほとんどを別の城で過ごしています。

本稿では、そんな豊臣秀吉の居城遍歴を追っていきたいと思います。

小谷城→長浜城(1573年)

織田信長に仕える(1554年)

天文6年(1537年)2月6日ころに誕生した豊臣秀吉(幼名:日吉丸【異論あり】、以降、木下藤吉郎→木下秀吉→羽柴秀吉→豊臣秀吉と名を変えますが、本稿では豊臣秀吉で統一します。)は、元服して木下藤吉郎を名乗り、今川家の陪臣であった松下加兵衛に仕えた後、天文23年(1554年)ころから織田信長に小者として仕え始めます。

その後、豊臣秀吉は、清洲城の普請奉行・台所奉行などで成果を挙げて次第に織田家中で頭角を現していきます。

織田信長の上洛戦であった、永禄11年(1568年)9月の観音寺城の戦いにおいては、指揮官として箕作城攻略戦で活躍するまでに至っています。

また、その後、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口では明智光秀と共に殿を務め、織田信長を無事に退却させる大功を挙げています。

元亀3年(1572年)8月には、丹羽長秀、柴田勝家にあやかり、木下姓を羽柴姓に改め、羽柴秀吉を名乗るようになります。

湖北3郡と小谷城を得る(1573年)

その後も豊臣秀吉の活躍は続き、1573年(天正元年)に、浅井家重臣の調略や小谷城攻めの功もあって、織田信長から浅井氏の旧領湖北3郡(坂田・東浅井・伊香)12万石と小谷城を与えられ、遂に城持ちとなります。

小谷城を廃し長浜城築城(1574年)

初めて城を得た豊臣秀吉は、翌天正2年(1574年)、織田信長の命により交通に不便な小谷城を廃し、湖北平野の要の位置にあり、朝妻の港(今浜港)を擁する北国街道の要衝の地であった今浜城跡地に新城たる長浜城を築くこととし、城下町も小谷から長浜に移しました。なお、このときに、織田信長の「長」の字を貰って、地名・城名を今浜から「長浜」に改めました。

長浜城は、小谷城攻略の功により与えられた地に建てた城なのです。

長浜城は、廃城とした小谷城や小谷城を囲んでいた出城の資材、浅井長政が竹生島神社に預けていた木材を流用して、僅か2〜3年で完成したと言われています。

姫路城(1580年)

その後も織田家中で台頭していく豊臣秀吉は、軍団長に任じられるまでに出世し、天正5年(1577年)10月23日、中国地方の雄・毛利家討伐のため、織田信長から中国路方面の攻略を命ぜられ、出陣していきます。

播磨国に入った豊臣秀吉は、赤松則房・別所長治・小寺政職らを従え、また岩洲城・竹田城を攻略します。

その後、本格的に中国戦線の始まった豊臣秀吉方では、天正8年(1580年)、黒田孝高(黒田官兵衛)からその居城であった姫路城を譲り受け(本丸を豊臣秀吉に譲った黒田孝高は、二の丸に移り住んだ後国府山城に移っています。)、中国地方攻略拠点とします。

姫路城は、対毛利家の城なのです。

姫路城を得た豊臣秀吉は、黒田孝高の意見を参考にしながら、姫路城に3層の天守閣を造るなどの大規模な改築を行ないます。

山崎城(1582年)

山崎城獲得(1582年)

天正10年(1582年)6月2日に発生した本能寺の変の後、豊臣秀吉は、毛利との停戦をして大急ぎで畿内に戻ってきます(中国大返し)。

そして、豊臣秀吉は、山崎城を獲得し、天王山麓の宝積寺に本陣を置き、織田信長を討ち取った明智光秀と対決することとなります。

そして、山崎の戦いにおいて、羽柴秀吉が明智光秀を打ち破ったため、山崎城はそのまま羽柴秀吉のものとなりました。

清洲会議(1582年6月27日)

山崎の戦いの後の天正10年(1582年)6月27日、織田家の重臣が集まって織田家の家督と織田信長の旧領の分配についての話合いが行われたのですが(清洲会議)、その結果、豊臣秀吉は河内国と山城国が増領され(丹波国も含めると28万石の加増)、その反面で居城長浜城と治めていた北近江3郡12万石と長浜城は柴田勝家の養子である柴田勝豊に与えられることとなります。

山崎城を居城とする

織田家内で熾烈な権力闘争が始まり、柴田勝家を仮想敵とする豊臣秀吉ですが、本拠地長浜城を柴田勝家に割譲したため、柴田勝家領との国境線に備えの城を持たない結果となってしまいました。また、仮想敵国を相手にするには、もう1つの本拠地である姫路城は遠すぎます。

そのため、豊臣秀吉は、いずれくる柴田勝家との決戦に備え、最前線となりうる山城国に居城を築くことを考えます。

もっとも、この時点では、豊臣秀吉にも、また、既に城主がいる城を国替え・城替えさせて接収する程の力はありません。

そこで、豊臣秀吉は、清洲会議直後の時点において城主がいない城の中から柴田勝家との決戦の際に防衛拠点となるべき地を選定し、天王山に目をつけて山崎城を本拠とすることを決定します。

すなわち、山崎城は、対柴田勝家の城なのです。

山崎城廃城(1583年4月)

その後、賤ヶ岳の戦い、北庄城の戦いで柴田勝家を破った豊臣秀吉は、もはや山崎城にいる必要がなくなります。

そこで、豊臣秀吉は、天正11年(1583年)から大坂城の築城に着手し、同年4月に山崎城の天守破却を指示した上で天正12年(1584年)3月25日に天守を取り壊して山崎城は廃城としています(兼見卿記)。

大坂城(1583年)

絶大な権力を誇るに至った豊臣秀吉が、畿内を抑える拠点として、湿地帯と淀川水系の上にそびえる上町台地の北端にある石山本願寺の跡地を居城として選び、大坂城の建築を始めます。

この場所は、京と大阪を牛耳る経済の要衝に位置するのに加え、北・東・西を川と湿地で守られるという防衛上の優位性を持つ絶好の立地で、まさに天下人となるべき人物の居城として相応しい場所でした。

また、大坂城は、その立地上の優位性に加え、唯一大軍で攻められる可能性のある台地続きの南側には、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされて巨大要塞に仕上がります。

さらに、大坂城は、軍事要塞としての機能だけではなく、豊臣秀吉の権威を示すためにも用いられ、当時の建築技術を結集した巨大な五重の天守が築かれ、また城内の瓦や装飾などには金銀をふんだんに使われるなどして来訪者を圧倒する絢爛豪華さを演出していました。

大坂城は、京・大坂を押さえると共に世間に権威を見せつけるための城なのです。

聚楽第(1587年9月)

聚楽第築城(1587年9月)

豊臣秀吉は、天正13年(1585年)に関白に任ぜられると、京での政庁・居館として聚楽第の建築を開始し、天正15年(1587年)9月の完成を待って、九州征伐からの帰還後に聚楽第に移っています(それまでは、豊臣秀吉は京での拠点を妙顕寺城に置いていました。)。

聚楽第は、京で関白としての執務を行うための城です。そのために京に置かれていました。

豊臣秀次に引き継ぐ(1591年12月)

もっとも、豊臣秀吉は、天正19年(1591年)12月に豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥である豊臣秀次に譲ったため、以降は京に滞在する必要性もなくなりますので、京の聚楽第は豊臣秀次に譲られています。

伏見城(1594年)

指月伏見城築城(1594年)

家督・関白職を豊臣秀次に譲って外形的には隠居状態となった豊臣秀吉は、その終の棲家とするため、文禄元年(1592年)8月から伏見城の建築を始めます。

伏見城は、豊臣秀吉が死を迎えるために築いた城です。

伏見は、京と大坂の中間に位置し南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地でした。

実は、伏見城は三度(豊臣期に2度、徳川期に1度)に渡って築城され、この豊臣秀吉が築いた最初の伏見城は伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)にある1つ目の伏見城です(指月伏見城)。

そして、豊臣秀吉は、文禄3年(1594年)にまだ未完成だった指月伏見城に入ります(完成は文禄5年・1596年です。)。

木幡山伏見城築城(1597年)

もっとも、指月伏見城は慶長伏見地震によって倒壊したため、豊臣秀吉は、指月から北東約1kmの木幡山に新たな伏見城を建築し直し、慶長2年(1597年)に完成しています(木幡山伏見城)。

豊臣秀吉死去(1598年8月18日)

そして、豊臣秀吉は、慶長3年(1598年)8月18日、この木幡山伏見城において62歳でその生涯を終えています。

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