【丹羽長秀】織田信長に友であり兄弟であると言われた万能武将

丹羽長秀(にわながひで)は、織田信長の下で織田家宿老として活躍した戦国武将です。

家督相続前から織田信長に付き従い、織田家臣団の中で一番最初に国持大名となったり、安土城の普請を務めたり、四国方面軍の実質的司令官を務めたりしており、その活躍は際立っています。

羽柴秀吉や明智光秀の陰に隠れがちですが、米五郎左と呼ばれたほどの重要性があり、織田信長に自慢の家臣として謳われたほどの輝きを見せています。

本能寺の変の後には羽柴秀吉に従い、123万石もの大領を得る大大名にまで成り上がっています。

晩年は胃の病気に苦しめられ、死後、嫡男の丹羽長重が失態を冒して羽柴秀吉から大減封処分を受けるという悲しい結末に至っており、その生涯は大河ドラマで1年かけて紹介しても十分と言えます。

本稿では、そんな紆余曲折を経た丹羽長秀の生涯について、簡単に説明していきたいと思います。

丹波長秀の出自

出生(1535年9月20日)

丹波長秀は、天文4年(1535年)9月20日、尾張国守護・斯波氏の家臣であった丹羽長政の次男として、尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)にて生まれます。

母は能呂氏女とされており、幼名は万千代、通称は五郎左衛門尉(五郎左)といいました。

織田信長に仕える(1550年)

丹波長秀は、天文19年(1550年)ころ、濃姫を正室に迎えたばかりの織田信長に仕え、元服して織田信長から「長」の字の偏諱を受けて「長秀」と名乗ります。

この頃の織田信長は、まだ織田弾正忠家の家督相続前で、奇天烈な行動から「大うつけ」と呼ばれていた時期でした。

初陣(1553年)

天文21年(1552年)月に織田弾正忠家当主であった織田信秀が死去したため、その嫡男であった織田信長が織田弾正忠家の家督を継ぐと、丹波長秀もその下で尾張国統一戦に従軍し、天文22年(1553年)、19歳時に梅津表の合戦(どこで起こったどんな戦いであったのかは不明です。)にて初陣を飾ります。

織田信長の尾張国統一戦参戦

丹羽長秀は、その後も織田信長に付き従い、清洲織田家(織田大和守家)滅亡、織田信行を粛清して織田弾正忠家の統一、岩倉織田家(織田伊勢守家)の滅亡などに尽力しています。

また、この後に起こった、今川義元の尾張国侵攻作戦に対しても、織田信長に従って従軍し、桶狭間の戦いでの勝利に貢献しています。

もっとも、この頃の丹羽長秀は、まだ大軍を率いる将の立場ではなかったため、その活躍についてはっきりしたことはわかっていません。

織田信長の養女を室に迎える

その後、正確な時期は不明ですが、丹羽長秀は、永禄6年(1563年)ころ、桂峯院(織田信広の娘で、永禄6年/1563年に織田信長の養女となっています。)を正室に迎え、織田家との結びつきを強めています。なお、後に丹波長秀の嫡男である丹羽長重も織田信長の五女を娶っているところ、2代に渡って織田信長の姻戚となった例は丹波長秀のみであり、その信頼の高さが見て取れます(丹羽長秀は、織田信長から「長秀は友であり、兄弟である」と言われていたという逸話が残るほど厚く信頼されていました。)。

織田信長の美濃国平定戦参戦

丹羽長秀が台頭し、将として大活躍を始めるのは、織田信長の美濃国侵攻戦の頃からです。

永禄5年(1562年)に織田信長の従兄弟である犬山城主・織田信清が、領地分配を巡って織田信長と諍いを起こし、斎藤龍興に寝返ったために西美濃直接攻略作戦が頓挫したため、織田信長は、美濃国攻略を西美濃からではなく中美濃からにするよう作戦を変更します。

そのため、中美濃方面からの美濃国侵攻に都合のいい小牧山を選び、丹波長秀を普請奉行として小牧山城を築城させ、永禄6年(1563年)、織田家の本拠地を清洲城から小牧山に移転します。

その後、長良川を越えて中美濃方面から美濃国への侵攻をした織田軍は、鵜沼城・烏峰城・猿啄城への同時侵攻を開始したのですが、このとき丹波長秀らは猿啄城方面を担当しています(なお、丹羽長秀の先方・河尻秀隆が城攻めの功績から城主に任命され、この勝利を祝って勝山城に改めています。)。

織田信長の上洛戦参戦(1568年9月)

尾張国と美濃国とを手に入れて勢いに乗る織田信長の下に、復権を求める13代室町幕府将軍足利義輝の弟である足利義昭が助けを求めてやってきます。

この足利義昭を、絶好の神輿と考えた織田信長は、足利義昭を京に送り届けるという名目で、上洛作戦を進めます。

そして、上洛作戦の初戦となったのは、南近江を治める六角家(六角義賢・六角義治)でした。

京に向かって進んでいく織田軍は、永禄11年(1568年)9月12日早朝、愛知川を渡河すると、軍を3隊に分け、六角方の拠点3城(観音寺城・箕作城・和田山城)の同時侵攻作戦を仕掛けます。

このとき、丹波長秀は、織田信長本隊と共に箕作城を攻撃し、その攻略に貢献しています(箕作城の戦い・観音寺城の戦い)。

織田家中で出世を重ねる

佐和山城主となる(1571年2月)

京に入った後、瞬く間に畿内を制圧した織田信長は、続けて越前国・朝倉義景の討伐に向かいますが、途中で北近江の浅井長政の裏切りにあい、命からがら京に逃げ帰るという大敗北を喫します(金ヶ崎の退き口)。

岐阜に戻って体制を整えた織田信長は、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を下して岐阜と畿内の導線を確保すると、続いて浅井攻めに取り掛かります。

織田信長は、浅井家の本拠地・小谷城の南方拠点である横山城を攻略して木下秀吉を入れ、浅井長政の監視役とし、元亀2年(1571年)2月24日、これによって孤立した佐和山城を陥落させます。

ここで、織田信長は、丹波長秀を佐和山城主に任命します。

なお、この直後である同年4月、丹波長秀に嫡男・鍋丸(後の丹羽長重)が生まれています。

若狭国を与えられる(1573年9月)

織田信長は、天正元年(1573年)8月8日、浅井長政の本拠地・北近江の小谷城を完全包囲したのですが(小谷城の戦い)、このとき、朝倉義景は、2万人もの軍を率いて越前国から小谷城救援に向かいます。

ところが、同年8月13日に小谷城の近くに築かれた丁野山砦が陥落したために浅井軍と連携が取れなくなった朝倉軍は、織田軍と一戦交えることなく浅井長政を見捨てて越前国への撤退を開始したところ、織田軍は、撤退する朝倉軍を猛追し、そのままの勢いで越前国になだれ込みます。

これにより、越前朝倉氏の嫡流は途絶え、11代(戦国5代)続いた越前朝倉氏は滅亡します。

このとき、丹波長秀は、同年8月、越前国や若狭国で勢力を振るっていた朝倉義景討伐に加わり、織田信長の命に従い、朝倉義景の母である高徳院、妻である小少将、子である愛王丸らを処刑しています。

越前国を攻略した織田信長は、直ちに軍を南下させて北近江に戻り、同年9月1日、浅井長政が自害して北近江浅井氏も滅亡に至ります(小谷城の戦い)。

そして、同年9月、浅井・朝倉討伐の論功行賞が行われ、丹羽長秀は、織田信長から若狭一国を与えられ、織田家臣の中で最初の国持大名となります。

若狭国に入った丹羽長秀は、後瀬山城(現在の福井県小浜市)を居城として大改築を行った上、軍事・治安維持・流通統制などに着手します。

具体的には、若狭衆(武田元明・粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等)を与力として組み込み、これと丹波長秀の家臣である溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延らとあわせて丹波長秀の軍事的指揮下に置かれることとなりました。

惟住姓を与えられる(1575年7月)

元亀4 年(1573年)に足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させ、天正3年(1575年)5月に長篠の戦いで武田勝頼軍を撃破した織田信長は、日本全国の制覇を目指して全方位侵攻作戦を展開していきます。

また、同年7月、織田信長が、朝廷に対して家臣達への官位下賜と贈姓を上奏し、羽柴秀吉が筑前守に任じられ、また明智光秀が九州の名族である惟任(これとう)姓を、丹羽長秀にも同じく九州の名門である惟住(これずみ)の姓が与えられました。

これらのことから、織田信長は、将来的に九州に進出しようとしていたこと、九州攻略のあかつきには、羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀にその統治を任せようと考えていたことが窺えます。

なお、このとき、丹羽長秀は、「拙者は、生涯、五郎左のままで結構」と言って惟住姓を断った後、最終的には受け入れています。

普請総奉行として安土城築城(1576年)

織田信長は、本拠地を岐阜から、岐阜と京の真ん中に位置し、水陸交通の要衝でもあった安土に移す計画を立て、丹波長秀を安土城築城の総奉行に任命します(小牧山城に続く任命です。)。

意外と知られていないのですが、織田信長が新たに築城した本拠となる城(小牧山城・安土城)は、いずれも丹波長秀が築城総奉行を務めており、丹波長秀の築城技術の高さが垣間見られます。

なお、丹羽家は代々築城が得意だったのか、丹羽長秀の子である丹羽長重は白河小峰城の、孫の丹羽光重は二本松城の築城を行ったりもしています。

なお、丹波長秀の活躍は、「木綿藤吉郎、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間」と謳われ、軍事のみならず内政においてもお米の如く欠かすことができない人材であると内外で高く評価されています。

この丹波長秀に対する評価は、織田信長にとっても自慢であったようで、織田信長は、酒を飲んで陽気になると、膝を叩きながら「不動行光、つくも髪、人には五郎左、御座候」と唄っており、これは、自分は自慢のものを3つ持っており、それは、①鎌倉時代の短刀である不動行光、②松永久秀降伏の証として受け取った茶器である九十九茄子、③武将としては丹羽長秀であるとし、人に自慢していた程でした。

織田家の双璧と評される(1580年8月)

全国統一を目指す織田信長は、北陸方面に柴田勝家、中国方面に羽柴秀吉、丹羽方面に明智光秀を総司令官とする軍を派遣し、その攻略を進めていきます。

また、織田信長自身も、長きに亘る石山本願寺との戦いを進めます(石山合戦)。

このとき、丹波長秀も、各地の戦いに転戦し、比自山城の戦い・高屋城の戦い・越前一向一揆征伐・氷野城攻めなどで功を挙げています。

天正8年(1580年)8月25日、織田家筆頭家老であった佐久間信盛とその嫡男佐久間信栄が高野山に追放されると、丹波長秀には、筆頭位に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、柴田勝家と丹波長秀とで、織田家の双璧といわれるようになります。

天正9年(1581年)2月28日に行われた大規模な観兵式・軍事パレードである京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられています(信長公記)。

豊臣秀吉に仕える

本能寺の変(1582年6月2日)

軍団長を任されていなかった丹波長秀でしたが、天正10年(1582年)6月、総大将を織田信孝とする四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を三好康長・蜂屋頼隆と共に命じられます。

表向きは織田信孝が総司令官だったのですが、まだ若い織田信孝には荷が重い任と言えますので、実質的には丹波長秀軍と言えます。

大坂・方面に向かった丹波長秀は、津田信澄と共に、上洛していた徳川家康の接待を終えた後で四国に向かう予定だったのですが、出陣直前に本能寺の変が起こります。

このとき、丹波長秀ら四国方面軍は出陣直前の準備万端の兵を擁していたために丹波長秀・織田信孝らが明智光秀を討伐する絶好の機会だったのですが、丹波長秀が接待のために四国方面軍とは別の場所にいたことから本能寺の変を聞いた兵の混乱を収めることができず、四国方面軍は四散してしまい、大規模な軍事行動に移ることができなくなってしまいます。

そこで、丹波長秀は、同年6月5日、大坂城・千貫櫓において明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害することにより兵の混乱を鎮め、まずは事態の沈静化を図ります。

その上で、丹波長秀は、織田信孝を補佐して事態の動きを静観します。

山崎の戦い(1582年6月13日)

そうしたところ、中国方面軍を任されていた羽柴秀吉が、毛利家と和睦をして畿内に戻ってきていると聞いた丹波長秀は、守りを固めて羽柴軍の到着を待ち、天正10年(1582年)6月11日、羽柴秀吉が摂津国・尼崎に着陣すると、丹波長秀と織田信孝がこれに出向いていきます。

同年6月12日、明智光秀討伐のための軍議が行われ、一旦は羽柴秀吉によって丹羽長秀を総大将とすることが推されたのですが、丹波長秀がこれを固辞したため、名目上の総大将を織田信孝、実質的指揮官を羽柴秀吉として戦うことに決まります。

そして、同年6月13日、天王山の麓一体で、羽柴軍と明智軍との決戦が行われ、兵力の勝る羽柴軍の勝利に終わります。

なお、山崎の戦いの勝利により、本能寺の変の直後に明智方についた荒木氏綱父子により占拠されていた佐和山城の奪還を果たしています。

清洲会議(1582年6月27日)

山崎の戦いの後、織田信忠が死亡したことにより空席となった織田家の新当主と、織田信長と織田信忠死亡に伴う領地の再配分を決めるため、清洲会議が行われることとなりました(形式的当主は、このとき3歳であった三法師であることに争いはなかったのですが、その名代を誰にするかが争われました。)。

このとき行われる会議には、織田家宿老として柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉、池田恒興の5人の参加が予定されていたのですが、会議の直前に滝川一益が神流川の戦いで北条家に惨敗して信濃国から伊勢国へ敗走するのに奔走して間に合わなかったため、参加宿老は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人となります。

まず、三法師の後見役を誰にするかについては、織田信長の次男・織田信雄と、三男・織田信孝が互いに引かなかったため、この2人で三法師の後見人を務め、堀秀政を傅役とし、これを執権として羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が補佐する体制とすることに決まります。

次に、領地の再配置が行われ、明智光秀を討伐した羽柴秀吉が大加増となり、事実上羽柴秀吉による織田家支配の体制となります。

なお、丹波長秀はそれまでの若狭国・近江国坂田郡の一部から、近江国坂田郡の一部を減封した上で、近江国滋賀郡・高島郡加増となっています。

賤ヶ岳の戦い

清洲会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家との争いが起こり、これに織田信長の次男織田信雄と三男織田信孝の対立との対立が加わることによって豊臣秀吉と柴田勝家との関係が悪化し、一触即発の状態となります。

また、滝川一益が柴田勝家方に、丹波長秀が羽柴秀吉方についたため、織田家中が完全に二分されます。

そして、天正11年(1583年)2月、柴田勝家が、豊臣秀吉の横暴に耐えきれなくなり兵を挙げたことをきっかけに賤ヶ岳の戦いが始まります。

この戦いは、丹波長秀が加勢した羽柴秀吉が勝利し、柴田勝家・織田信孝を自刃させた羽柴秀吉が、事実上、織田家の乗っ取りを完成させます。

総石高123万石の大大名となる

丹波長秀は、賤ヶ岳の戦い後の論功行賞により、新たに越前国(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)と加賀国能美・江沼二郡(江沼郡は溝口秀勝が領する)約60万石を与えられ、旧領の若狭国と合わせて合計約123万石の大大名となります。

丹羽長秀の最期

腹痛に苦しめられる

織田信長・羽柴秀吉と天下人たる者に取り入ることで順調に勢力拡大を続けていった丹波長秀でしたが、晩年は腹の病(胃癌とも寄生虫とも言われています。)に苦しめられます。

天正12年(1584年)に勃発した徳川家康との決戦である小牧・長久手の戦いのころには病状も悪化して病床にあったため、同合戦には出陣できず、嫡子・丹波長重を派遣しています。

丹羽長秀死去(1585年4月16日)

そして、丹波長秀は、天正13年(1585年)4月16日、死去します。享年は51歳でした。

なお、江戸時代の儒学者・林羅山によって書かれた「秀吉譜」によると、丹羽長秀はずっと「積聚(しゃくじゅ)」という腹部の痛みに悩まされており、その苦痛に耐えられずに自刃したと記録されており、丹波長秀の亡骸を火葬すると、この積聚は、亀の様な形・鳥の様な嘴を持った姿で燃え残ったそうで、羽柴秀吉がその珍しさから医家の竹田法印に賜ったとされています(真偽は不明ですが)。

丹羽家大減封

丹波長秀の死去により、嫡男の丹波長重が丹羽家の家督を相続します。

丹波長秀は、羽柴秀吉の臣下に下ったとはいえ元々はその上司に当たりますので、羽柴秀吉としても丁重に扱っていました。

そのため、論功行賞などでも優遇された結果、大大名となりました。

もっとも、丹波家があまりに大きくなってしまったため、その抑制をする必要に迫られました。

そこで、羽柴秀吉は、天正13年(1585年)の佐々成政討伐のための越中遠征の際、丹波長重の家臣に佐々成政に内応した者がいたとの疑いをかけて丹波長重から越前国・加賀国と、旧来からの重臣である戸田勝成、長束正家、溝口秀勝、村上頼勝、上田重安、太田牛一らを召し上げます。

これにより、丹波長重の知行は若狭1国15万石となります。

さらに天正15年(1587年)の九州平定の際、家臣による狼藉の疑いかけて丹波長重から若狭国も取り上げます。

この結果、123万石を誇った丹波家は、丹波長秀の仕事僅か2年で、加賀国・松任4万石の小大名に成り下がってしまいました。

その後、丹波長重は、関ヶ原の戦いで西軍に与して浅井畷の戦いを起こすなどした責めを問われて改易されました(もっとも、後に古渡藩主となり大名として復活し、丹羽家は江戸崎藩、棚倉藩、白河藩と転封され、長重の子・光重の代に陸奥二本松藩に転封となり、以降、二本松藩主として明治を迎えています。)。

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