堺(さかい)は、大坂南部に位置した、大阪湾に面する一大商業都市です。
堀によって周囲を取り囲んで守る環濠都市としても有名です。
堺周辺の海は遠浅であったために大型船の接岸には向かないため、必ずしも港として優れていたわけではなかったにもかかわらず、戦国時代には、対明貿易・南蛮貿易の玄関口としての役割を果たして商業都市として栄え、戦国大名からも無視できない勢力として度々歴史上の事件に関わっていきました。
あまりの繁栄ぶりから、三好長慶・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などのときの権力者がこぞって直轄支配を行った都市でもありました。
本稿では、環濠都市・堺が、どのように発展したどのような都市であったのかについて、簡単に説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
自治都市・環濠都市としての堺
堺の町の始まり
堺の町は、平安時代後期である11世紀中頃に記録上に現れます。
畿内と西国を結ぶ瀬戸内航路の港町として始まった堺港が、京・奈良・熊野・高野山を結ぶ街道の結節点として陸運・海運の拠点化していきました。
なお、堺という地名は、境界を表す「界」の異体字であり、現在の大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁2-1にある方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)に位置しており、同神社の西方に向かって堺市街地が形成されたことに由来します。
日明貿易の拠点港として発展
室町時代に入る頃には、摂津国・和泉国を分ける大小路を中心として南北2つの領域として発展し、守護所が設けられまでに至ります。
室町時代に日明貿易(勘合貿易)が開始された当初、貿易港となったのは最も明に近い博多港と、そこから瀬戸内に繋がる兵庫港だったのですが、応仁元年(1467年)に応仁・文明の乱が始まると、戦乱の影響から安全が脅かされるようになった瀬戸内航路が避けられるようになって博多港・兵庫港の重要性が低下していき、蜜月関係にあった管領細川氏の台頭もあって瀬戸内水運の代わりに四国南側を通る太平洋航路が開拓されて堺がその終点としての主要港の地位を手にします。
なお、文明元年(1469年)には、細川氏が室町幕府から勘合を買い受けたことにより日明貿易における遣明船の到着港となって瀬戸内・太平洋航路の発着点となり、明や琉球との貿易による莫大な利益が堺の町に流れ込んできます。
この結果、堺には茶の湯などの都市文化が生まれ、また経済力を基に会合衆を中心とした自治が行われていきます。
南蛮貿易の主要港として発展
15世紀後半頃になると、足利将軍家や管領細川家・畠山家などが分裂して勢力争いを始めたのですが、堺の町は、その後に畿内で勢力を高めてきた三好家と結びつきます。
阿波守護細川家の被官であった三好元長が、大永7年(1527年)、足利義維を擁して堺に入って本拠地とし、またその後、三好長慶が南宗寺(三好元長の菩提寺)の伽藍を整備して堺の町に強い影響力を及ぼしていきました。
また、16世紀半ば頃に南蛮貿易が始まると、ときの権力者の庇護をも受けて堺がその主要貿易港となり、爆発的な発展を迎えます。
こうして、水運・陸運の要衝地として物流の一大拠点として発展していった堺は、その発展に伴って人が集まったことにより一大生産拠点としても発展を迎えます。
東洋のベニスと呼ばれる
そして、経済力を持った豪商達は、自らの財産を守るために堺の町の西側・南側・北側の三方に堀を巡らし(海があった東側は海で防衛していました。)、外敵の侵入を防ぐための防衛設備として整備していきました。なお、この時点で設けられた環濠は、後に江戸時代に築かれた環濠よりも一回り内側を巡っていました。
戦国時代の堺の町の繁栄は、ガスパル・ヴィレラが永禄4年(1561年)8月17日付書簡(耶蘇会士日本通信)において、町は甚だ広大で大商人多数、ベニス市の如く執政官により治めらていると記したり、永禄5年(1562年)付報告書において、甚だ堅固にして、西方は海を以てまた他の側は深き堀を以て囲み、常に水充満せりと記したりするなど、宣教師などを通じて世界にも知れ渡りました。
権力者による支配を受ける
織田信長による支配
以上のとおり、自治都市として独自の発展を遂げた堺の町でしたが、状況を一変させる出来事が起こります。
永禄12年(1569年)に足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、足利義昭から堺の直轄支配権を与えられた後、堺の会合衆に対し2万貫の矢銭と服属を要求してきたのです。
このとき、堺では町を囲っていた幅10mを超える環濠をさらに深くするなどして防御力を高めて抵抗を試みようとしたのですが、上洛後に織田信長がそれまで堺の軍事的な後ろ盾であった三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)を畿内から追い払ってしまっていたため、会合衆に織田信長の要求を拒絶する力はありませんでした。
そこで、堺の会合衆は、織田信長の要求を呑んで矢銭を拠出するとともに、その支配下に入ります(織田信長は、堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官であった今井宗久らの代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始します。)。
その上で、織田信長は、翌元亀元年(1570年)4月頃に松井友閑を堺代官として派遣し、茶頭となった今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)と共に堺の織田家による直轄化政策を進めさせていきます。
豊臣秀吉による支配
その後、本能寺の変によって織田信長が横死し、その後豊臣秀吉が力をつけてくると、豊臣秀吉もまた堺の経済力に目をつけ、堺の町をその支配下に置きます。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉は、小西隆佐(小西行長の父)・石田三成を代官として堺に派遣し、その支配を強めていきます。
また、豊臣秀吉は、同年、堺の環濠(堀)の埋め戻させたため、その結果として港に砂が流れ込んだために堺港に船が停泊できなくなったために堺の港としての機能が失われます。
さらに、豊臣秀吉は、居城であった大坂城城下町に経済機能を集めていったため、堺の衰退が始まります。
大坂夏の陣にて全焼(1615年4月28日)
慶長20年(1615年)に大坂夏の陣が始まると、堺の町は徳川方に与し、港の機能を生かして徳川軍の兵站を担って武器・弾薬・食料の提供を行います。
この堺の動きを見た豊臣方は、大野治房(先鋒)・大野治胤(後続)らが2万人の兵を率いて浅野家が治める紀州へ向かって南進を開始する道中で、同年4月28日、徳川軍への兵站を遮断するために堺の町を焼きつくしてしまいました。
これにより堺の町は灰燼に帰してしまいます。
また、この前後に、堺の町を取り囲んでいた環濠も完全に埋められてしまいます。
元和年間の復興
慶長20年(1615年)5月8日に大坂城が落城させて豊臣家を滅ぼした江戸幕府は、大坂夏の陣により焼失した堺の町を復興するため、堺の町を天領として代官(堺奉行)を派遣し、新たに町割りを行うことによりそれまでよりも一回り大きい町を作り上げます。
そして、新たな町割りに従ってその周囲に新たな環濠を掘り巡らせました。
この結果、江戸時代の環濠は、それまでの自治都市時代の環濠よりも一回り大きなものとなっています。
なお、現在見られる堺の町割は江戸時代、元和年間の復興によるものです。
江戸幕府直轄地となった堺の町は、長崎や京の商人と共に中国からの生糸輸入の独占権が与えられたため、江戸時代初期は糸割符貿易などによる海外貿易で栄えました。
環濠都市構造
江戸幕府によって行われた堺の町割りは、戦国期の堺の町よりも広い範囲(南北約3km・東西約1km)を環濠で囲み、大小路を挟んで北郷と南郷に分けられました。
環濠(堀)
江戸時代に江戸幕府によって掘られた環濠を現在の地図に当てはめると、概ね、東は阪神高速道路堺線、西は内川、南は土居川に囲まれた内側にあたります。
また、環濠の東側には南北に亘る寺町が作られ、寺院が集中的に配置されていきました。
大小路【東西主要道路】
大小路は、元々はその北側を摂津国住吉郡堺北荘、南側を和泉国大鳥郡堺南荘とする摂津国と和泉国を分ける国境として機能する道でした。
その後、元和元年(1615年)に現在の位置に大小路が敷かれて整備されていきます。
この大小路筋は、奈良・飛鳥に向かう竹内街道や、高野山に向かう西高野街道の起点となり、大いに賑わいました。
なお、大小路の北側にある菅原神社(明治5年までは天神社)が堺北組の氏神社、南側にある開口神社(三村神社・大寺)が堺南組の氏神社とされています。
紀州街道【南北主要道路(現大道筋)】
大道筋は、江戸時代に整備された紀州街道の一部であり、参勤交代などにも利用された主要道路です。
道自体は古代からほぼ同じ位置に存在しており、古代は南海道・中世は熊野街道と呼ばれていました。
町割(北郷・南郷)
現在の地図を見ても、堺の町は、道が直角に交わっている上、交差点間の間隔が概ね揃っているきれいな短冊形の街並みとなっていることがわかります。
中世の堺の町並みは、現在の町並ほどには整っていなかったものと考えられるのですが、大坂夏の陣で焼失した後、天領とした堺の町を江戸幕府が元和年間に復興町割りで整えたため、短冊形の町並みが整えられて現在に至っています。
具体的には、南北幅60間とし(もっとも、南北両端は半端で南半町が38.5間・北半町が18.5間となっている。)、南北方向の道路として4.5間幅の大道筋を基幹に、東西ともに2間幅の裏筋と3間幅の表筋が交互に配されたことによります。
なお、表筋は大浜筋・中浜筋・山口筋・大工町筋など、裏筋は五貫屋筋・浜六間筋・西六間筋・東六間筋・十間筋などにあたる。
他方、東西幅は16~23間とされ、南北に比べてややばらつきがあるものの、概ね統一した形状とされ、東西方向の道路は、5間幅の大小路通を基幹に3間幅の通が配されています。
そして、町組については大小路通を境として北組と南組に分けられ、それぞれに浜筋・中浜筋・大道筋・山口筋・東筋・農人町筋の組合が形成された結果、南北合計12組合が存在していました。
さらに、堺の町の中心部に、中世以来伽藍を構えていた菅原神社・開口神社・宿院などが復興され、これらの神社が持つ広大な境内を用いて芝居などの興行が行われるなどしていました。
戎島・新田
堺の町の東側(海側)には、寛文4年(1664年)以降に陸地化した戎島や、大和川の付け替えにより増加した土砂を利用して埋立てが進み、新地や新田が作られていきました。
また、現在の地形だとわかりにくいのですが、現在の地図で見ても新大和川から分かれた支流が南に向かった後、現在の南海本線・堺駅を超えたところで西にも向かい、海に流れ込んでいることが見て取れ、この川で囲まれた場所が島になっているのがわかります。
この島は、戎島と呼ばれており、堺市の記録によると寛文4年(1664年)に出来上がったとされています。
江戸幕府の政策により繁栄を失う
海外防衛港の地位喪失(1639年~)
南蛮をはじめとする海外貿易港として繁栄した堺の町でしたが、寛永16年(1639年)、江戸幕府によって日本人の海外渡航と在外日本人の帰国の禁止が定められ、その後寛永18年(1641年)には対外貿易を4つの口(松前・対馬・長崎・薩摩)だけに制限されたため(鎖国政策)、堺の国際貿易港としての役割が失われます。
こうして、江戸幕府による鎖国政策によって堺の町は経済力(国際貿易港の地位)を失っていきました。
畿内経済の中心的地位喪失(1704年〜)
また、堺の町の衰退をさらに加速させる事態が起こります。
江戸幕府が、度々氾濫を起こしていた大和川の付け替え工事を行い、宝永元年(1704年)にこれを完成させたのです。
この大和川の付け替え工事により、新大和川が堺の町のすぐ北側を通るようになったのですが、新大和川によって大坂と堺とが地理的に分断された上、この新大和川が上流から大量の土砂を運んで来てそれを河口部に堆積させたために堺の町からどんどん海岸線が離れていき、港の機能が劣化していきました。
こうなると、堺の町は港湾都市ですら無くなってしまいます。
この結果、江戸幕府による大和川付け替え工事によって堺の町の経済力(畿内経済の中心的地位)はさらに失われ、堺は単なる一地方都市に成り下がってしまいました。
なお、寛政3年(1791年)には、江戸商人である吉川俵右衛門によって堺湊修築工事などが行われましたが、かつての繁栄を取り戻すには至りませんでした。)。
余談(堺県設置・1868年)
大坂に経済の中心地としての立場を奪われた堺ですが、明治維新後に再度脚光を浴びる時期が訪れます。
明治元年(1868年)6月22日に大阪府から堺役所を分割して堺県が発足したのです。
このとき成立した堺県は、現在の大阪府南部に加え、現在の奈良県全域をも含む広大な行政府でした。
もっとも、大きすぎる県の分割を図るため、廃藩置県後の県の整理目的で明治14年(1881年)、堺県は大阪府に編入されることにより廃止となり、堺県はわずか13年で失われてしまっていま。
なお、明治20年(1887年)11月4日に奈良県が大阪府から分離(第2次奈良県設置)されています。