【平安京の朱雀大路】京の都のメインストリートの現在を歩く

平安京のメインストリートといえば「朱雀大路」のはずです。

遷都時に、平安京中央を南北に縦断する形で設置された道路幅84mとも言われた大通りです。

もっとも、平安京の右京が衰退して平安京の機能が左京に移っていったために、平安京の中心も東側に移動し、平安京の中央大通りとしての機能が失われていき、朱雀大路も廃れていきました。

本稿では、一時期ではあるものの平安京のメインストリートとされた朱雀大路を、観光目的で散歩していただく際の参考となるよう簡単に朱雀大路の歴史と、沿線の現状を紹介したいと思います。

平安京の朱雀大路とは

平安京の朱雀大路は、平安宮の南端中央にある朱雀門(大内裏正門)から平安京の南端中央にある羅城門(首都正門)まで、平安京の中央を南北に貫く約4kmに亘るメインストリートです。

概ね現在の千本通の場所にあり、平安京の中央を縦断する朱雀大路を境として、その東側を左京、西側を右京と言います。

朱雀大路にいう「朱雀」とは、中国において南方を守護するとされる神獣の名で、平安宮の南側の安全を祈念してその名がつけられました。なお、同様の意味から、平安宮の南側の門は、「朱雀門」とされています。

その道路幅は、28丈(約84m)もあり、その東西には並木として柳が植えられていました。なお、側溝より内側の道路幅70.2mとする推定もあります。

この道路幅は、平安京の規模からすると明らかに大きすぎるものといえ、このサイズにした理由として、国家威信の観点から長安の半分としたとも言われています。

平安京では、朱雀大路を向かって門を造ることが禁止されていたため(ただし、公卿は除く)、朱雀大路沿いは築地塀が続くこととなりました。

なお、朱雀大路の維持管理(道路脇の排水溝・街路樹の清掃など)は沿道住民の義務とされました。

朱雀大路付近に築かれた建築物等

本稿では、朱雀大路を歩いて観光される方向けに、南側から平安京に入り、そのまま北上して朱雀門に至り、平安宮(大内裏)に入っていくルートを想定し、この朱雀大路が現在どの様になっているのかを紹介していきます。

スタートは羅城門跡、ゴールは朱雀門跡であり、僅か4km程度のルートですので散歩で朱雀大路を体感していただく参考になれば幸いです。

九条大路との交差点付近

① 羅城門

朱雀大路の南端(平安京の南端、九条大路南側)には、羅城門が築かれました。

羅城門以南は、鳥羽造道(とばのつくりみち)と繋がり,鳥羽を経由して淀方面に通じていました。もっとも,羅城門は,弘仁7年(816年)に倒壊し、一旦は再建されたのですが,天元3年(980年)に再び倒壊し、以後再建されることはありませんでした。

なお、羅城門の楼上に祀られていた兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん、中国における王城守護の象徴)は、羅城門倒壊後に東寺に運ばれ、今も東寺宝物館に安置されています。

現在は、羅城門から北にいくと、東海道新幹線が行く手を遮っていますので、朱雀大路を歩いて進むためには、一旦迂回していただく必要があります。

② 東寺

平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院を築き、この2つの寺院をもって、左京と右京(ひいては東国と西国)を護る国家鎮護を図ろうという計画が立案されます。

この計画に基づき、延暦15年(796年)、左京九条一坊(羅城門東側)に、官寺である東寺が築かれました。

その後、弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が、嵯峨天皇から東寺を下賜され、真言密教の根本道場とし(弘法大師二十五箇条遺告・御遺告)、以降、東寺は国家鎮護の官寺として真言密教の根本道場となりました。

朱雀大路近辺の構造物としては、唯一完全に近い形で残っていますので、朱雀大路を観光する際には、是非訪れていただきたい場所です。

③ 西寺

右京九条一坊(羅城門西側)には、官寺である西寺が築かれ、羅城門を挟んで、道路と対をなしていました。

西寺の造立時期は不明ですが、貞観6年(864年)までに薬師寺から僧綱所が西寺に移転され、弘仁6年(815年)に造西寺司が任命されて以降、関連する人事記録が見られないため、このころ以降に一応の完成をみたと考えられます。

正暦元年(990年)の火災で消失したものの、ほどなく再建されたと見られますが、右京の衰退と共に朝廷の支援を失い、鎌倉時代以降に廃寺となったと考えられます。

現在は、唐橋西寺公園となっています。

七条大路との交差点付近

① 鴻臚館

朱雀大路の七条大路との交差点付近北側の東西に鴻臚館(こうろかん)が置かれました。

鴻臚館は、外国の使節を迎えるための建物だったのですが、すぐに外交使節の入京は渤海使のみとなったためにその規模が縮小され、承和6年(839年)には東鴻臚館が廃止されました。

また、延長4年(926年)の渤海の滅亡により迎えるべき外交使節が途絶したため、西鴻臚館の規模も縮小され、鎌倉時代である13世紀頃に廃止されています。

その後、江戸時代になると、東鴻臚館跡地に花街が移設され、移転の際に起こった騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたために「島原」と呼ばれるようになりました。

なお、東鴻臚館跡地付近は、「角屋(すみや)」という名の揚屋(料亭・饗宴施設)となっていたのですが、昭和51年(1976年)島原花街が京都花街組合連合会を脱会した後にその建物が国の重要文化財に指定され、平成10年(1998年)から角屋もてなしの文化美術館として一般公開されています。

三条大路との交差点付近

① 京職

三条坊門小路との交差点の南側には、京の司法・行政・警察をつかさどる役所である京職(きょうしき)が置かれていました。

左京を司るのが左京職・右京を司るのが右京職、左京職の長官を左京大夫・右京職の長官を右京大夫といいました。

② 朱雀院

三条大路との交差点の南西角には、宇多天皇や朱雀天皇の譲位後の御所である朱雀院(すざくいん)がありました。

二条大路との交差点付近

① 朱雀門

平安宮の南端=朱雀大路の北端(二条大路南端)には、朱雀門が築かれました。

平安宮(大内裏)には四方に12の門が備えられていたのですが(平安京大内裏外郭十二門)、「天子南面」の考え方から、南側中央の門が最も重要な門であると考えられていましたので、平安宮の内外を分ける南側中央の門に、四神において南方を守護するとされる朱雀の名を冠し、朱雀門と名付けたのです。

朱雀門は、正面7間・奥行5間の二重閣構造だったのですが、建造後、倒壊や焼失を繰り返し、建暦元(1211)年に自然倒壊して以後は再建されることはありませんでした。

② 穀倉院(南西角)

二条大路との交差点の南西角には、穀倉院(民部省に属する畿内諸国の調銭、諸国の無主の位田・職田及び没官田、大宰府の稲等、諸荘の物品を納める穀倉及びそれを管理する役所。)が置かれていました。

③ 大学寮(南東部)

二条大路との交差点の南東部には、大学寮(律令制のもとで作られた式部省直轄の官僚育成機関)が置かれていました。

なお、寛文年間(1661~72)頃、押小路通との交差点の北東とその周辺に、西町奉行所が開設されています。

参考(平安宮内)

朱雀大路の衰退

平安時代の朱雀大路

朱雀大路は、平安京遷都直後は中心の道路として栄えたのですが、平安京の都市規模に比して道幅が大きすぎたため、すぐに管理が行き届かなくなり、牛馬が放し飼いにされたり盗賊の棲家となったりするなどして荒れていきます。

また、元々は都の中心とされていた朱雀大路でしたが,湿地帯であった右京域の衰退により中心域が左京に移っていくに従って朱雀大路も中心から外れ、さらに、朝廷の収税力減少、右京の衰退、管轄者の京職の形骸化に伴って、荒れるに任されていきました。

平安時代中期になると、東京極大路の東(京外)に「東朱雀大路(ひがしのすざくおおじ)」という大路が設けられたため、従前の朱雀大路は、西朱雀大路と呼ばれるようになります。

平安時代後期頃になると、行幸(天皇の外出)・御幸(上皇や女院の外出)の利用があるために道路として残っていたことはわかるのですが、中心街路としての機能は失われていました。

鎌倉時代の朱雀大路

安貞元年(1227年)の火災によって大内裏が全焼してその再建が放棄されたことにより、この後、二条大路以北(朱雀門以北の内野・旧大内裏)にも道が開かれ、市街地の西のはずれの南北縦貫路として扱われていきます。

その結果、朱雀大路が大内裏から南に伸びる道ではなくなり、千本通と呼ばれるようになりました。

なお、千本通と呼ばれることとなった由来は、「千本」と呼ばれた葬送の地であったら蓮台野(れんだいの)に通じる道であったことによると言われています。

戦国時代の千本通

戦国時代に入ると、防衛上の理由から左京の一部とその北側のうちの一部を惣構で囲まれたため、平安京は囲郭都市の下京と上京になりました。

また、これに伴って千本通(朱雀大路)も、市街地から切り離されました。

その後、豊臣秀吉が、この惣構を解体した上で、上京・下京を一体に囲む御土居を再構築し、千本通(朱雀大路)の区域の多くも御土居内部西辺に取り込まれたのですが、朱雀大路として復活することはありませんでした。

江戸時代の千本通

江戸時代の千本通は、北は洛北・鷹峯から南は九条通までの通りとなっていましたが、上京下立売通以北の市街地と二条城付近の武家屋敷街を除き、二条城以南は集落が点在するのみの野道となっていました。

寛永18年(1641年)、千本通りと七条大路との交差点東側に遊郭が移され、その移転の様子が島原の乱のようだといわれたことから「島原」と名付けられ、以降、この地で花街として賑わいを取り戻します。

明治時代以降の千本通

明治45年(1912年)から昭和4年(1929年)にかけて、三条通以北に京都市電千本線(四条大宮~千本三条~千本北大路)が開業し、千本通の道路も拡幅されました。なお、市電のルートについて、千本通沿にまっすぐ羅城門まで通す予定だったのですが、市電を通すために通りが広くなると同業者町が分断されるとして材木商たちが大反対をしたため、前記ルートに変更されたそうです。

現在の千本通

その後、市電千本線は昭和47年(1972年)に全線廃止され、現在の千本通は、市電が走っていた名残により、三条通以北は道路幅の広い幹線道路となっていますが、三条通以南は道路幅の狭い生活道路となっています。

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