【第52代・嵯峨天皇】時代遅れとなっていた律令体制の再編成を行った平安時代初期の名君

嵯峨天皇(さがてんのう)は、先代の平城上皇方との政争である薬子の変に勝利して朝廷をまとめ上げた上で、律令体制の崩壊が進むとともに国家財政が悪化していた9世紀前半に、天皇直属の令外官を設置するなどして官庁を再編し、また天皇の権威・権力を強化させた天皇です。

天台宗・真言宗などの密教を保護して神仏習合を進め、また安定した政治力を基に平穏な治世を送る一方で、伝統的社会を変容させて唐風の儀式や文化を浸透・定着しさせたことでも有名です。

嵯峨天皇即位

出生(786年9月7日)

嵯峨天皇は、延暦5年(786年)9月7日、桓武天皇の第五皇子として生まれました(異説あり)。

母は、桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏であり、同母兄に平城天皇、異母弟に淳和天皇などがいます。

諱は、延暦11年(791年)、乳母である賀美能宿禰の出身地の神野郡にちなんで、賀美能(神野/かみの)親王とされました。もっとも、本稿では便宜上、嵯峨天皇(上皇)の表記で統一します。

元服(799年2月)

その後、嵯峨天皇は、延暦18年(799年)2月7日、元服しています。

皇太弟となる(806年5月19日)

延暦25年(806年)3月17日に父帝であった第50代桓武天皇が崩御したため、同日、兄である安殿親王が践祚され、同年5月18日、第51代天皇・平城天皇として即位します。

そして、同年5月19日、嵯峨天皇が皇太弟に立てられました。

なお、このとき平城天皇は2人の親王(高岳親王・阿保親王)を有していたのですが、妃の母である藤原薬子を寵愛する平城天皇を嫌った桓武天皇が、平城天皇の皇子の立太子を避け、嵯峨天皇を皇太弟として擁立したともいわれています。

この点については、平城天皇が、大同元年11月頃から嵯峨天皇の皇太弟廃位を画策する動きをしたとする説もあるのですが(扶桑略記)、その真偽は不明です。

いずれにせよ、天皇となった平城天皇が寵愛する藤原薬子とその兄である藤原仲成を重用して大きな権力を振る、皇太弟となった嵯峨天皇はその下で譲位を待つという時代が続きました。

即位(809年4月1日)

もっとも、この期間もそう長くは続かず、平城天皇が在位僅か3年で病を患い、大同4年(809年)4月1日、自身の第三皇子である高岳親王を皇太子に立てることを条件として皇位を嵯峨天皇に譲位したのです。

この結果、同日、嵯峨天皇が第52代天皇として即位します。

なお、嵯峨天皇は、同年6月に橘嘉智子を夫人として貰い受け、その後の弘仁6年(815年)7月13日、異母妹高津内親王を廃して橘嘉智子が皇后に立てられているのですが(檀林皇后)、その他にも20人以上の妃を持ち、50人以上もの子供を儲けたと言われています。

他方、皇位を譲った平城上皇は、同年12月、平安京を離れ、藤原薬子を連れて生まれ故郷である旧都・平城京(平安宮・中央区西宮と言われています。)に戻ってしまいました。

平城上皇と薬子の反乱を鎮圧(810年9月)

こうなると困るのは、権力の後ろ盾がない状態で平安京に残された藤原仲成です。

困った藤原仲成は、藤原薬子を利用し、平城上皇(当時は平城京に居を移していたため、「奈良天皇」と呼ばれていました)を誑かして反乱の神輿として担ぎ上げます。

平城上皇は、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破り、弘仁元年(810年)9月6日、藤原薬子に言われるがままに平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図るという行動に出ます。

平城上皇もまた桓武天皇の崩御後に都を何処に置くかの権限を持っていたため、法的に見ると平城京遷都の詔は正当な決定であるのですが、実際は、奈良に下った平城上皇による京の嵯峨天皇に対する反乱です。

すなわち、奈良(南朝)の平城上皇と京(北朝)の嵯峨天皇という構造で見れば、平安時代の南北朝の戦いとなったのです。

この結果、平安京と平城京に朝廷が並立することとなるため、嵯峨天皇と平城上皇(及び藤原薬子・藤原仲成)との対立が決定的となります。

嵯峨天皇にとっても平城上皇による平城京への遷都の詔は想定外の行動であったようなのですが、上皇の命であったことから一旦は詔勅に従うとして、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命します(嵯峨天皇が信任している者を造宮使として平城京に送り込み、平城上皇側を牽制することが目的であったとも考えられます。)。

もっとも、嵯峨天皇は、弘仁元年(810年)9月10日、考えを改めて遷都拒否の決断を下し、平城上皇と対決することを決めます。

この結果、平安京と平城京のいずれにも正当性がある朝廷が並立してしまったため、あとは政治的・軍事的に相手方を制した方の勝利となります。

平城上皇との対決を決断した嵯峨天皇は、平安京に残っていた藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁すると共に藤原薬子の官位を剥奪する旨の詔を発し、その上で伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせます。

その上で、嵯峨天皇は、弘仁元年(810年)9月11日に密使を平城京に送り、若干の大官を召致します。

これを受けて、藤原真夏や文室綿麻呂らが平安京に帰京したのですが、平城上皇派と見られた文室綿麻呂が左衛士府にて禁錮されます。

これらの嵯峨天皇の対決姿勢を見た平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断し、藤原薬子とともに輿にのって東に向かいます。

平城上皇の挙兵の準備行動を見た嵯峨天皇は、坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じると共に、捕らえていた藤原仲成を射殺(死刑)します。

他方、平城上皇と藤原薬子は、同人らが率いる一行が大和国添上郡田村まで達したところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知ります。

嵯峨天皇側が既に守りを固めているため、勝機がないも悟った平城上皇は、やむなく平城京に引き返し、同年9月12日、嵯峨天皇に恭順の意を示すために剃髮して出家します。

また、藤原薬子は毒を仰いで自殺します。

さらに、同年9月17日には上皇の行幸に合わせて兵を挙げようとした越前介の安倍清継らが捕らえられた結果、平城天皇の第三皇子であった高岳親王が皇太子を廃されるなどして一連の事件が終わります(薬子の変)。

律令体制の再編成

平城上皇派閥を下して朝廷内の地位を確立するに至った嵯峨天皇は、まずは天皇権力の強化策を実行して力をつけ、その力をもって桓武天皇時代から行われてきた2代政策(平安京造成+蝦夷平定)によって疲弊した経済を立て直すための行政改革を行い、その結果として安定した社会で文化の唐風化を進めていきました。

具体的な経緯は、概ね以下のとおりです。

律令体制の再編期=天皇権力の強化

嵯峨天皇治世初期の段階では、朝廷内で平城上皇が大きな力を持っており、これを嵯峨天皇の下に取り戻す作業から始める必要がありました。

ここで嵯峨天皇がまず最初に行ったことは、平城天皇治世から天皇の秘書として内侍司の長官(尚侍)に就いていた藤原薬子を廃し、天皇の側近にあって詔・勅の伝達や訴訟などを太政官にとりつぎ、太政官を通じることなく天皇の命令を下せるようにするために蔵人所を新設したことでした。

また、嵯峨天皇は、京内の警察機関兼自らの実力部隊として機能する検非違使庁を新設し、高まりつつある権能権力の底上げを図りました。

蔵人や検非違使は、それまでの令外官とは異なり、「天皇が」、「官職についている者の中から」任命することとされ、他の官職を兼ねていることを必要とする天皇直属の官職であるとされました。

その人事権を天皇が有しているために、天皇が検非違使庁や蔵人所を通じて律令官庁の重要機能を掌握できるようになり、また蔵人所・検非違使庁を通じて令制諸官庁の重要な機能を(太政官とは独自のルートで)掌握することが可能となったことから、天皇権力の強化をもたらします。

また、他の官職を兼ねていることが条件とされているため、蔵人所や検非違使庁で働く者は、これらの官の権限の外に、その者が元々有していた官職を併せ持つこととなり、結果的に、蔵人所や検非違使庁が元々の官庁の職務を吸収していく結果となり、官司・官人の統廃合が行なわれていきました。

そして、これらの統廃合の結果、律令政治の効率化が図られ、財政負担の軽減にもつながっていきました。

すなわち、嵯峨天皇による令外官(蔵人所・検非違使庁)の新設は、天皇権力の強化と共に行政機能の効率化をもたらして公民支配が限界を迎えて深刻な財政難に陥っていた朝廷の財政負担を軽減させるという効果を生みだしていったのです。

なお、このころの朝廷の財政難は深刻な状況となっていた一方で、前記のとおり嵯峨天皇には50人を超える子供がいたため、これらの者に対する皇族費用が膨大なものとなっていたため、弘仁5年(814年)5月、皇族費用の削減目的にて嵯峨天皇の子(信・弘・常ら3人の皇子を含む)のうち、母親の身位の低い者たち32人に源朝臣姓を賜与して臣籍降下させています(このとき臣籍降下した者が嵯峨源氏の祖となります。)。

また、嵯峨天皇の下で始まった天皇への権力集中と律令官庁の再編成は、宇多天皇・醍醐天皇期に完成を迎えたのですが、天皇への権力集中が進んでくると政治が天皇個人の能力に依存することとなってしまいます。

この天皇の政治力のいかんによる問題を顕在化させないようにする仕組みとして摂政・関白制度が登場して来るのですが、本稿ではその説明は割愛します。

(1)蔵人所設置(810年)

蔵人所は、大同5年(810年)、天皇の機密文書を扱い、また天皇の秘書的役割を果たす機関として設置された天皇直属の令外官です。

蔵人所設置のきっかけは、平城上皇が藤原薬子を連れて平城京に移ってしまったことでした。

先代の平城天皇治世期には、平城天皇の寵姫であった藤原薬子が政治に深く関わって天皇の秘書である内侍司の長官(尚侍)に就いていたのですが、藤原薬子はその職を辞することなく平城上皇と共に平城京に移ってしまったため、嵯峨天皇は太政官の議政官への命令文書にあたる内侍宣を出すことができなくなってしまったのです。

内侍司の長官(尚侍)の不在により政務や宮中事務に支障が生じたため、困った嵯峨天皇は、大同5年(810年)、新たな令外官として蔵人所を新設し、藤原冬嗣と巨勢野足を蔵人頭に、清原夏野らを蔵人にそれぞれ任命し、天皇の側近が詔・勅の伝達や訴訟などを太政官に取り次ぐことにより天皇自ら太政官に直接を命令を下せるようにしたのです。

今でいう、内閣官房長官の設置です。

また、その実体は藤原薬子から文書管理権限を取り上げることを意味していましたので、蔵人所の設置は対立していた平城上皇側に嵯峨天皇側の機密がもれないようにすることも目的の1つでした。

そして、この蔵人所は、天皇が直接太政官にアプローチできるという意味で天皇にとって使い勝手がよかったことから、蔵人所の権限は次第に拡大されていき、後に内政に関する様々な実務を行うようになるなど朝廷内の重職となっていきました。

(2)検非違使庁設置(816年ころ)

検非違使庁は、弘仁7年(816年)ころ、京の治安維持などの警察任務に従事するための機関として設置された天皇直属の令外官です。

検非違使庁もまた天皇直属機関として天皇権力の強化に役立つものであったため、その後に衛府・弾正台・刑部省・京職などの職務を吸収し、さらには訴訟・裁判の業務も担うようになっていきました。

法解釈の統一作業=政治の効率化

律令体制の再編成のために官司・官人の統廃合を進める嵯峨天皇は、さらにこのとき以前に逐次出されてきた法令を分類・編集し、当時の政治や社会の実情に即したものに再編成する作業を進めていきます。

元々、律令制度では律・令・格・式によって運用されるところ、根本法典である律(刑法に相当)と令(行政法・民法に相当)の改正は行われず、これらは必要に応じて格(きゃく)によって改正・追加され、さらには細かな施行細則を式(しき)によって定めることにより運用されていました。

律令が編纂された後に次々と格式が制定されていったのですが、格式の制定に際して古い格式が廃止されることがなかったため、過去の格式の全てを調べなければ必要な法的判断ができないという事態に陥っていました。

そこで、これらの不都合性を払拭するために、嵯峨天皇は、格・式を再編纂して条文解釈を統一させた上で養老令の公的注釈書を作成し、一義的な法解釈を基本とする行政改革を行うこととしたのです。

(1)「弘仁格」・「弘仁式」完成(820年)

弘仁格(こうにんきゃく)は大宝元年(701年)から弘仁10年(819年)までの格を編纂した全10巻からなる格であり、弘仁式(こうにんしき)は同期間の式を編纂した全40巻からなる式です。

いずれも、嵯峨天皇が藤原冬嗣に命じて編纂させており、現在もその一部が現存しています。

(2)「令義解」完成(833年)

嵯峨天皇が譲位した後の淳和天皇治世である天長10年(833年)、養老令に定準を設けるために30篇・全10巻の解釈書である「令義解」(りょうのぎげ)が編纂されました。

令義解は、淳和天皇の勅により、右大臣清原夏野を総裁とし、文章博士菅原清公・明法博士讃岐公永直ら12人によって撰術されたとされており、現在では30篇のうちの21篇が伝わっています。

養老令自体が失われているため、令義解によって大宝令・養老令が伝えられています。

密教勢力を庇護=統治の安定を図る

(1)比叡山に大乗戒壇の設立を認める(822年6月11日)

最澄が生きていた時代には、僧侶になるためにはとても厳格な手続きが必要でした。

俗世の者が僧侶になるためには、まずは得度を受けて僧侶見習い(沙弥)となり、その後に受戒を受けて正式な僧侶(沙門)となるという手順が必要だったのです。

そして、この当時に受戒をすることが許されていたのは、大和東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の3寺に限られていました(天下の三戒壇)。

そのため、自らの手で人材育成を最初から最後まで完遂させることができないことを嘆いた最澄が、朝廷に対して再三再四、比叡山延暦寺に戒壇設立を許す勅許を出すよう求め続けたのですが(山家学生式→顕戒論)、それまでの先例を重視した朝廷では最澄の存命中にこれを許すことはありませんでした。

もっとも、弘仁13年(822年)6月4日に最澄が死去すると、その死を惜しんだ藤原冬嗣・良峰安世・伴国通らが「山修山学の表」を嵯峨天皇に奏請し、嵯峨天皇がこれを認めたため、最澄死去の7日後である同年6月11日、比叡山に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立についての勅許が下りることとなりました。

(2)空海に東寺を下賜する(823年1月)

平安京造営直後の延暦15年(796年)に桓武天皇を開基(パトロン)として東寺が建立されていたのですが、その後の平安京造成と蝦夷討伐という2大国家プロジェクトにより朝廷の経済力は疲弊しており、朝廷の手で東寺の造成まで完成させる余力がありませんでした。

そこで、嵯峨天皇は、弘仁14年(823年)正月、遣唐使として唐で密教を極めて真言宗の宗祖となり、また薬子の変の際には自らに与したことで重用するに至った空海(弘法大師)に対して東寺を下賜してその造営を委ねます。

儀礼・文化の唐風化

嵯峨天皇治世では、唐の影響を強く受けて儀礼・文化の唐風化が進みます。

具体例としては、主なものだけでも以下のものが挙げられます。

(1)儀礼の唐風化(818年)

弘仁9年(818年)に出された詔により、朝廷内の儀式・衣服・拝礼作法などが唐風に改められました。

このときまでの伝統的な拝礼作法は、這いつくばって進む匍匐礼や跪いて行う洗礼であった跪礼だったのですが、同詔によってこれらが廃止され、立ったままお辞儀をする中国式の立礼に変更されます。

(2)平安宮の諸門・建物の名称を唐風に改称(818年)

また、弘仁9年(818年)には、内裏の建物や大内裏の門の名前が中国風に改称されます。

このときまでの平安宮の諸門は、朱雀門を除いて宮門の警備を担う氏族の名が冠されていたのですが、その氏名の読みにちなみつつ唐風の名称へ変更されたのです。

(3)天皇の服装の唐風化(820年)

また、弘仁11年(820年)に出された詔により、天皇の服装も唐風に改められました。

この結果、神事の際にはそれまでどおり伝統的な白の装束である帛衣を着用したものの、通常政務の際には中国皇帝の服色にならった黄櫨染という色の服を着用することとし、また元日の朝賀では中国皇帝が用いた礼冠・礼服である袞冕十二章を身にまとうこととされるなど、神事以外の場面の天皇の服装の唐風化が進められていきました。

(4)「内裏式」完成(821年1月30日)

弘仁12年(821年)1月30日、唐風をとり入れた儀式次第を記す勅撰儀式書である「内裏式」が編纂されました。

嵯峨天皇が、弘仁格式の編纂と並行して、右大臣藤原冬嗣・中納言良岑安世ら7名に詔を下して新旧の儀式に関する記録(旧章・新式)を集成・検討して編纂を命じて完成されました。

この結果、朝廷の儀礼や名称までもが唐風の内裏式に沿う形で行われるようになり、中国的な儀式・作法の整備が進んでいくこととなりました。

文治的事業

また、嵯峨天皇は、文芸を中心として国家の隆盛を目指す「文章経国」思想の下、詩宴を精力的に開催するなどして文治的事業についても注力します。

その結果、唐の影響を強く受けたことにより宮廷内で漢詩文が盛んになり、嵯峨天皇の命により弘仁5年(814年)に凌雲集(正式名称は凌雲新集)、弘仁9年(818年)に文華秀麗集などの勅撰漢詩集が編纂されました。

また、嵯峨天皇自身も文化人として有名であり、特に達筆で知られ9世紀に活躍した3人の書の達人である三筆の1人にも数えられています(後の2人は、空海と橘逸勢)。

譲位

譲位して上皇になる(823年4月16日)

嵯峨天皇は、弘仁14年(823年)4月16日、皇太子を実子の正良親王(後の仁明天皇)と定めた上で、大伴親王(淳和天皇として即位)に譲位して太上天皇となります。

このとき、この時点では先代の平城上皇も存命中であったことから、2人の上皇を持つのは朝廷に対する財政負担が大きすぎるとして嵯峨天皇の腹心であった右大臣・藤原冬嗣などから反対の声も上がったのですが、嵯峨天皇の意向に従って譲位が強行されました。

そして、譲位後の嵯峨上皇は、冷然院に移ります。

嵯峨院造成(833年10月)

その後、嵯峨上皇は、天長10年(833年)10月に在位中に設営していた洛外の離宮・嵯峨院(後の大覚寺)に御所を新造し、太皇太后嘉智子と共に移り住みました。

嵯峨上皇の最期

崩御(842年7月15日)

嵯峨上皇は、承和9年(842年)7月15日に崩御されます。宝算は57歳でした。

なお、嵯峨上皇は、生前に国葬を拒んだことでも有名です。

嵯峨上皇の陵は、宮内庁によって京都市右京区北嵯峨朝原山町にある嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)に治定されており、宮内庁上の形式は円丘です。

嵯峨上皇は、承和9年(842年)7月17日に同陵に葬られたのですが、遺詔によって国忌荷前は置かれず「延喜諸陵式」に登載されなかったとされています。

諡号

嵯峨上皇が、譲位後に嵯峨院に移り住み、崩御後には嵯峨の山北に葬られたことから嵯峨天皇と追号されました。

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