【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて

市中引き回し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける付加刑でした(独自の刑罰ではなく、あくまでも付加刑です。)。

死罪以上の判決を言い渡された者が馬に乗せられ、罪状を書いた捨札等を持ったものと共に刑場まで連れられて行くという公開連行制度(見せしめ)であり、抑止的効果をも狙ったものでした。

市中引き回しは、元々江戸幕府将軍のお膝元であった江戸で行われた刑罰だったのですが、豊臣家が滅んで大坂が徳川家の直轄地になると、ここを西国統治の拠点と定めた江戸幕府が大坂に江戸の統治システムを持ってきます。

その結果、大坂でも江戸で行われていたものと同様の刑罰システムが採用され、その一環として市中引き回しも採用されることとなったのです。

市中引き回しの実体

市中引き回しの方法

市中引き回しの方法としては、まず対象となる罪人が縄で縛られて、菰を敷いた馬の鞍の上に乗せます。

その上で、帯刀した谷の者や丸腰の非人が周りを固め、これを町奉行所の与力と同心が検視役として罪人を挟む形で後ろを固めます。

以上のフォーメーションを固めた状態で、罪人を刑場に連れて行くというものが市中引き回し刑でした。

市中引き回し刑の付加率

大坂町奉行所では、天明2年(1781年)から天明5年(1785年)までの間に死刑執行が230件行われ、そのうち市中引き回し刑が執行されたのは56件(磔1・火罪6・獄門30・死罪19)とされ、引き回し刑付加率は24.3%であったとされています。

引き回しの実体

もっとも、市中引き回しは、罪人にとっては死出の旅を意味していましたので、罪人には金が渡されて求めに応じて道中酒を買わせたり煙草を買わせたりするなどの便宜が図られました。

また、知名度の高い罪人が処されるときなどは、さながら庶民の見世物と化し、罪人の調度が整えられることもありました。

他方、実行側からすると、市中引き回しは罪人を1日かけて市中連れ回すという手間のかかる刑罰であり、まる1日使用するものであった上、実行側も気分の良いものではないため、進んで参加しようとする者は多くなかったと言われています。

大阪における市中引き回しルート

大坂における市中引き回しのルートは、松屋町牢屋敷を出て本町橋を渡って西へ向かい、西横堀川沿いを南下した後、道頓堀川沿いを東へ向かった後に右折し、太左衛門橋を渡って焼き場が併設された刑場(千日刑場)に至る経路に決められていました。

なお、前記ルートとなった理由は、松屋町牢屋敷が大阪における市中引き回しの対象となる死罪以上の判決を受けた罪人の収監場所とされ、また千日刑場が獄門刑の執行場所とされていたため、スタート地点=松屋町牢屋敷・ゴール地点=千日刑場と決められ、このスタートとゴールの間でできるだけ人目に付く場所を選抜されたことによります。

出発地点(松屋町牢屋敷)

大坂には、遠国奉行の1つとして東西奉行所(各与力30人・同心50人)が設置され、東町奉行と西町奉行が月交代で治安維持活動をしていました。

なお、東西の奉行所は、当初大坂城京橋口(北西虎口)西方(現在の大阪市中央区大手前1丁目5番辺り)に設置されていたのですが、享保9年(1724年)に発生した大火によって両奉行所とも焼失し、その後、同地に東町奉行所が再建され、西町奉行所は本町橋東詰米蔵跡(現在の大阪市中央区本町橋2番辺り・松屋町牢屋敷の南西)に場所を移して再建されました。

これらの町奉行所で裁きを受け罪人となった者は、そのまま牢屋敷に入れられることとなるのですが、当時の大坂には、松屋町(現在の中大江公園・中大江小学校付近)と瓦屋町に牢屋敷が置かれており、刑が軽い者及び病人が瓦屋町牢屋敷に、その他が松屋町牢屋敷に収監されることとなっていました。

そのため、市中引き回しの対象となる死罪以上の判決を受けた罪人は必然的に松屋町牢屋敷に収監されていることとなり、市中引き回しの出発地点も、松屋町牢屋敷の出入口=牢屋敷南門=現在の公園の南側となります。

松屋町筋を南進

本町通を西進

松屋町筋を右折すると、本町通りを西進していくこととなります。

江戸時代の本町通は、大坂経済の中心地であった船場のほぼ中央を東西に貫通するメインストリートであり、大坂三郷のうちの北組と南組との境界でもありました。

横堀筋を南進

宗右衛門町通を東進

横堀筋を左折すると、宗右衛門町通りを東進していくこととなります。

宗右衛門町通りは、江戸時代初期に開削された道頓堀川の北側を東西に亘って伸びる道でした。

そして、道頓堀川の南岸沿いは、当初から芝居小屋が立ち並ぶ繁華街となっており、市中引き回し刑を受ける者はここで多くの者の目に晒されることとなりました。

現千日前商店街を南進

道頓堀川沿いを東進した後、太左衛門橋の北側で右折し、最後の橋となる太左衛門橋を通過します。

その後、右側にある法善寺・竹林寺を超えると左側(東側)に見えてくるのが千日刑場です。

上段のものが現在地図に照らし合わせた所在で、下段のものが当時の絵図です。

江戸初期に開かれた道頓堀川沿いまでは町として整備されていたのですが、外れとなっていた千日は人の少ない寂しい場所となっていたことがわかります。

到着地点(千日刑場)

千日刑場に差し掛かった後は、千日前大門(黒門)を通って北側から千日前刑場に入ります。

なお、千日刑場の概要は、以下のとおりです。

大坂の陣の後に大坂城主となった松平忠明が、戦いによって荒廃した大坂の街を復興させるために区画整理を行い、市中寺院の統廃合を行った上で、市中に点在していた墓地を郊外の7か所に集約することとします(大阪七墓:千日墓地・小橋墓地・梅田墓地・南濱墓地・葭原墓地・蒲生墓地・飛田墓地)。

このとき、千日墓地は、刑場が併設される巨大な墓地として造成されました(元和7年/1621年造成)。

なお、「千日」という地名は、寛永14年(1637年)に墓地の北側に法善寺が、その後に竹林寺がそれぞれ移転してきたのですが、この両寺が千日間念仏を唱えていたことに由来すると言われています。

市中引き回し刑の廃止

江戸時代を通じて行われた市中引き回し刑でしたが、江戸幕府の滅亡後の明治2年(1869年)7月8日、明治新政府の刑法官指令により、鋸挽き・晒などと共に廃止されるに至りました。

もっとも、記録上では、明治3年(1870年)5月27日、久右衛門が381両分の二分金及び太政官札・民部省札25両分の偽造通貨を製造し売ったこと及び5両分の偽造民部省札を製造し使用した罪により市中引き回しの上梟首(獄門)されたとされており、刑廃止後も何度か執行されたことがあることがわかっています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA