橋本遊廓(はしもとゆうかく)は、明治10年(1877年)ころから昭和33年(1958年)ころまでの間、京都府綴喜郡八幡町字橋本(現・八幡市)に存在した遊廓です。
昭和5年(1930年)に刊行された「全国遊廓案内』」では八幡町遊廓という名が付されていました。
京街道・渡し舟・石清水八幡宮・京阪電車の各利用客により繁盛した橋本遊郭でしたが、昭和33年(1958年)の売春防止法施行により公娼制度が廃止されたことにより消滅し、現在に至っています。
【目次(タップ可)】
橋本遊郭の立地
立地
橋本は、桂川・宇治川・木津川が合流し淀川になる場所に位置し、神亀2年(725年)に日本三古橋の筆頭であった山崎橋(山崎太郎)が架けられたことからその名が付けられました。
その後、水陸交通の要所であると共に、東側に位置する石清水八幡宮の参詣道として栄えました。
なお、山崎橋は、淀川の洪水で何度も流されては架け替えが行われた後、江戸時代に消滅し、代わりに渡船場が設けられています。
橋本宿(間宿)
以上のような立地であったため、橋本の地には自然発生的に人が集まっていったのですが、江戸時代初期に東海道が京から大坂まで延伸されて東海道五十七次(伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿の追加)に拡張されると、淀宿と枚方宿の間の休憩所となる間宿として機能しました。
人が集まる場所に遊女はつきものですので、17世紀中頃の橋本には、遊女を置く家が20軒ほどあったことがわかっています。
なお、間宿とは、江戸幕府からは認可されることなく自然発生的に形成された宿場町であり、旅人の宿泊が許されなかったために旅籠は開設されませんでした。
橋本遊郭開設
橋本宿の衰退
以上のように東海道の間宿として栄えた橋本でしたが、鳥羽伏見の戦いの一環として起こった慶応4年(1868年)1月6日の楠葉台場を巡る橋本の戦いの戦火により焼失してしまった上、明治9年(1876年)に淀川北岸に東海道本線が開設したことにより明治初期頃に一気に衰退します。
橋本遊郭開設(1877年)
この橋本衰退に抗う手段として選ばれたのが遊郭の設置でした。
そして、明治10年(1877年)、 北之町・中之町・小金川に木津警察監督のもとで京都府知事の認可を受けて貸座敷・芸妓・娼妓・引手茶屋・紹介業の五業種組合が組織され、中之町 20 の検黴場を兼ねて設立正式に橋本遊郭が開設することとなりました。
なお、妓楼経営が本格化する前から橋本には芸妓が存在していたのですが、遊郭の発展とともに娼妓が増加し芸妓が減少したとされています。
京阪本線開業(1910年)
以上の経過を経て解説された橋本遊郭でしたが、当初はそれ程の賑わいを見せることはありませんでした。
ところが、この事態を一変させ、橋本遊郭を繁栄させる出来事が起こります。
明治43年(1910年)に京阪電車が開通し、大阪からの遊客・移住者、石清水八幡宮参詣者などが増大し、それらの人を目当てに一気に妓楼が増加したのです(遊客の8割は、大阪の中小工場や軍事関連施設で働く男性であったとされています。)。
また、大正元年(1912年)には遊郭の東側に津田電線合名会社八幡工場が操業を開始し、近隣人口の増加に寄与します。
増加した妓楼を配するために、新しんだちすじ・建筋などの新たな通りも造られ、昭和期には夕方には多くの男性が街道を流れるように歩く様から「男川」と呼ばれるほどの最盛期を迎えました。
昭和5年(1930年)の状況
昭和5年(1930年)に刊行された「全国遊廓案内」によると、橋本遊郭は以下のとおりとされていました。
明治10年(1877年)に開設され、歌舞伎で有名な「引窓」の「橋本の里」がその所在であり、京阪電鉄橋本駅以西が全て遊廓の許可地に成っている。
京都と大阪の中間に位置し、淀川・ 桂川・ 宇治川の合流地点に沿っているため、夏は涼しく風景もよく、多数の網船が出漁して別世界の感じがある。
貸座敷の組合員75人、娼妓470人、芸妓30人という規模になって花街は繁盛しており、女は主に 中国地方・ 四国地方・九州地方の女性が多い。
店舗は陰店式であり、娼妓は居稼ぎ・送り込みの双方あり、遊興は時間花制または通し花制であり、廻しは絶対に取らない。
費用は、1時間1円、引過ぎからの1泊は56円で台の物は附かない。
芸妓の玉代は、1時間1円50銭で、2時間目からは1円宛である。
主な妓楼は第二中川楼・第一勝山楼・第一成駒楼・辻本楼・第一友榮楼・藤井楼・森田楼・辻よし・大金楼等であるとされ、付近には石清水八幡宮・淀競馬場・柳谷観世音・関西漕艇クラブコースなどがあり、松茸・川魚等が有名とされています。
橋本遊郭の構造
橋本遊郭は、京街道の南端に入口が設けられ、そこから北側に向かって京街道の両端に妓楼が建ち並ぶ構造となっていました。
最盛期は昭和12年(1937年)頃といわれており、その頃には約90の貸座敷が並び、約600人ともいわれる娼妓(昭和恐慌で疲弊した農村で身売りを余儀なくされた女性など)が働いていました。
妓楼では、経営者一家が1階で生活すると共に客を取り娼妓が上階の部屋で働いたとされており、そのため1階入口格子部や2階窓には様々な意匠が凝らされ、道行く人の目を引くような仕掛けがなされていました。
なお、本稿執筆時点で残されていた遺構は概ね上図のとおりであり観光の際の参考としていただければ幸いなのですが、これらも近い将来に失われていくと考えられます。
入口門
入口門は、橋本遊郭の南端に設けられた門です。
京街道の鳥羽から渡辺津の間では淀川水運が発達していたため、京街道は、下りは淀川舟運が優勢で上り偏重となっていたため、主入口も南側にあったものと考えられます。
なお、橋本遊郭南端には、入口門の支柱跡と考えられる跡が残されていました。
橋本湯
橋本湯は、昭和4年(1929)年創業の橋本遊郭南端入口南西に建てられた銭湯です。
娼妓を含めて広く利用されました。
現在は、営業を終えているようです。
妓楼
遊郭の営業時間は夕方6時から朝までであり、遊女が通りに向かって並んで座って待ち受け、客が格子ごしに娼妓の顔を見て選び値段の交渉の行われました。
当時は様々な様式の妓楼があったものと考えられるのですが、現存しているものは和風建築のものが多いように見受けられます。
なお、本稿執筆時点で確認できたのは、以下のものに限られました。
① 鶴家跡
② 石原楼跡
③ ひさぶ楼跡
④ 和泉楼跡
⑤ 三桝楼跡
⑥ 石季楼跡
⑦ 幸福楼跡
⑧ 加嶋楼跡
⑨ 第二友栄楼跡
⑩ 鯉谷楼跡
⑪ いろは楼跡
⑫ 西幸福楼跡
⑬ 第二高瀬楼跡
⑭ 久保田楼跡
⑮ 辻井楼跡
⑯ 宝春楼跡
⑰ 嶋辻楼跡
歌舞練場
歌舞練場は、大正12年(1923年)7月、10万円の費用をかけて建築された歌舞練場兼娼慰案余興場です。
芸妓、娼妓の派遣・紹介・研修・管理の一切を取り切る貸し座敷組合の建物であり「検番所」とも呼ばれました。
橋本遊郭廃止後、刺繍工場→アパートとして再利用された後、本稿執筆時点では更地となっています。
渡船場
北端付近西側には、山崎に向かう渡船場が設けられていました。
橋本遊郭の消滅
八幡町の税収の3分の1を占めるほどの規模を誇った橋本遊郭でしたが、昭和33年(1958年)の売春防止法施行により公娼制度が廃止された結果、法律上許されないものとなり廃止に追い込まれました。
妓楼の経営者たちは、建物をそのまま再利用できるアパート経営・旅館・料亭などへ転業したのですが、昭和37年(1962年)に山崎との間を結ぶ渡し舟が廃業となったこともあり、急速に町が衰退していきます。
その後は、昭和57年(1982年)6月5日に公開された「鬼龍院花子の生涯」など数々の日本映画のロケ地にもなったこともありましたが、大きな発展には繋がらず、現在は往時の姿を残す住宅街となっています。