【五十七次に延伸された東海道】京街道と大津街道を歩く

五十三次として有名な東海道は整備された当初は江戸の日本橋と京の三条大橋との間を繋ぐ街道だったのですが、江戸時代初期に京から大坂まで延伸されて五十七次となっています。

このとき延伸されたのが伏見までの大津街道と伏見から大坂までの京街道です(なお、大坂と京を結んだ街道については、京側からは京街道、大坂側からは大坂街道と言われました。)。

一般的には京街道とは京へ向かう街道の総称なのですが、そのなかでも後に東海道として延伸された大津街道及び京街道が特に有名ですので、本稿では、この延伸東海道(京街道・大津街道)についてその概略を説明したいとます。

東海道の延伸

京街道は、元々は、隠居城として伏見城を築いた豊臣秀吉が、淀川左岸に大坂と伏見とをつなぐ最短かつ降雨量が多い場合にも通行可能となるルートとして毛利家に築かせ、文禄5年(1596年)に完成した全長約27kmの淀川堤防とその上の道(文禄堤)をその前身としています。

すなわち、元々は徳川家の道ではなく、豊臣家の道だったのです。

そのため、関ヶ原の戦いに勝利して全国の街道の整備を始めた徳川家康は、豊臣家がある大坂までの街道整備を行うことはせず、陸運の大動脈であった東海道も、江戸・日本橋から京・三条大橋までとして整備しています(東海道五十三次)。

もっとも、その後、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした江戸幕府は、大坂の経済力を取り込むために元和5年(1619年)に大坂を直轄地とし、それまで江戸と京を結んでいた東海道を大坂まで延伸することとします。

この延伸ルートとして江戸幕府が目を付けたのが、豊臣秀吉が築いた伏見・大坂間を結ぶ文禄堤でした。

江戸幕府は、この大坂と伏見を結ぶ文禄堤上に街道を整備し(京街道)、さらに伏見から髭茶屋追分までの間に大津街道(伏見通)を整備することにより東海道を約55km延長します。

その上で、江戸幕府は、延伸された東海道の道中にある伏見・淀・枚方・守口に宿場町を整備したため、後世に、東海道はそれまでの五十三次に4つの宿が加わって東海道五十七次とも呼ばれるようになりました。

髭茶屋追分~伏見宿(大津街道)

大津街道(伏見通ともいわれます)は、東海道の大津宿から西に位置する髭茶屋追分で東海道と分かれ、そこを起点として山科盆地を小野まで南下し、勧修寺から稲荷山の南麓を抜ける道(大岩街道)を通り、伏見宿に至るルートです。

髭茶屋追分(延伸ルート始点)

髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)は、東海道と大津街道との分岐点(追分)です。

現在の京阪京津線の追分駅の南西約100mに位置しています。

その名称の由来としては、かつてそこに髭面おやじの茶店があったためと言われます。

東海道から大坂に向かってルートが延伸ルートされることとなったため、本来は、東海道五十三次の終点である京の三条大橋に延伸ルートの始点を接続するのが普通だと考えられるのですが、江戸幕府は、京街道を三条大橋に接続すると、延伸された東海道を通って参勤交代をする大名が、その道中で京に寄って朝廷と接触することを危惧しました。

そこで、江戸幕府は、大坂から京を通ることなく東海道に入ることができるようルートを設定し、延伸ルートの接続点を東海道の終点である三条大橋の手前の髭茶屋追分(大津市追分町)に定めたのです。

伏見宿(東海道五十四次)

伏見宿は、京街道最初の宿場(東海道五十四次)であり、京街道4宿の中では随一の規模を誇る大きな宿場町でした。

伏見城の城下町としてだけでなく、方広寺大仏殿の再建工事にの際の資材運搬のため、慶長16年(1611年)〜同19年(1614年)に豪商・角倉了以により開削された人工運河である高瀬川の起点としても栄えました。

もっとも、元和9年(1623年)に伏見城が廃城となったことにより伏見の大名屋敷が次々と駿府や江戸に移され、それに伴って多くの町人たちも京や大坂への移住を始めたことから伏見宿は一時勢いを失います。

その後、伏見城の外堀であった宇治川派流に架かる京橋界隈を京・大坂を結ぶ港町として位置づけられたことにより再び繁栄を始めています。

伏見宿~淀宿

淀城

安土桃山時代末期にこの近辺の交通・防衛機能は豊臣秀吉の隠居城である伏見に集約されていたのですが、豊臣家の滅亡後の元和5年(1619年)に江戸幕府が木幡山伏見城を廃城としたことによりその機能が失われます。

このことは西国大名への備えとなる京(山城国)の防衛力が低下をも意味しますので、江戸幕府としては、山城国南部の防衛力を高める必要性から伏見城に代わる新城を必要としました。

このとき、江戸幕府では、松平越中守定綱を初代淀藩主として所領3万5000石で淀への入封を命じた上、桂川・宇治川・木津川の三川が合流する中洲を選んで築城を命じ、寛永2年(1625年)に山城国唯一の大名家の居城として淀城(淀新城)が完成させます。

そして、新たに京南方防衛の拠点となった淀城には、淀川水運と京街道を監視する目的が課され、その目的を果たすために淀川沿いに延びていた京街道を取り込んでしまいました。

淀宿(東海道五十五次)

淀城築城後、城下に取り込んだ京街道沿いに城下町の開発が行われ、寛永14年(1637年)から同16年(1639年)にかけて行われた木津川付け替え工事によって京街道沿いの南側に新町が新たに開かれ、かつての池上町・下津町に新町をあわせて淀三町(城内三町)と呼ばれる町屋街を形成します。

そして、このとき築かれた城内三町と、淀小橋の北側の川向かいの城外三町とをもって京街道2つ目の宿場である(東海道五十五次)淀宿が形成されます。

淀宿は、本陣や脇本陣はなく旅篭も僅か16軒だったのですが、水陸交通の要衝として「問屋場」、「伝馬所」が設けられ、500隻もの淀船の母港となって発展します。

① 淀小橋

② 水車

淀城は、周囲に二重三重の堀を張り巡らしていたのですが、二の丸の居間や西の丸の園池などに水を取り入れるため、城の北部と西南の二か所に、直径九間(約8m)もの大型水車を設けていました。

この水車は淀城の名物となっており、「淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると」とうたわれるほど有名でした。

また、明和元年(1763年)から翌年にかけて来日した第11次朝鮮通信使の一員(従事官の書記)であった金仁謙(キム・インギョム)は、その旅行記である著書「日東壮遊歌」において、大坂から京に向かう途中で見た淀の水車の巧妙さに感嘆し、母国でも見習って作りたいものだと記しています。

③ 淀三町(城内三町)

淀宿~枚方宿(約12km)

橋本(間宿)

淀宿と枚方宿の間には、休憩所となる間宿として橋本宿が存在していました。なお、間宿とは、江戸幕府からは認可されることなく自然発生的に形成された宿場町であり、旅人の宿泊が許されなかったために旅籠は開設されませんでした。

橋本宿は、大都市であった山崎との間を繋ぐ山崎橋(奈良時代に行基が架橋したと伝わります)の袂にあたることからその名が付けられたといわれる宿場町であり、山崎と橋本とを繋ぐ渡し舟の基地としても栄えました。

なお、明治以降には遊郭として栄えた場所としても有名です。

楠葉台場

淀川左岸(淀川南側)の現在の大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目には、幕末期に、日本近海に出没し始めた異国船と過激化していく尊王攘夷派の活動から京を防衛するために築かれた江戸幕府の要塞である楠葉台場(橋本台場)が設けられました。

楠葉台場の設置に際して京街道が楠葉台場の中を通るように付け替えられたため、京街道を通って大坂から京に行くためには、必ず楠葉台場を通ることとなりました。

枚方宿(東海道五十六次)

枚方宿は、京街道3つ目最初の宿場であり(東海道五十六次)、京と大坂のほぼ中間に位置する交通の要衝にあり、陸上交通だけでなく、街道とほぼ平行して流れる淀川を利用した水上交通の中継港としても繁栄しました。

枚方宿は、4ヶ村(岡新町村・岡村・三矢村・泥町村)で構成され、東見附から西見附までの797間(約1.5km)に本陣・問屋場・旅籠・商家などの多くの町屋が軒を連ねていました。

もっとも、鳥羽から渡辺津の間は淀川水運が発達していたために下りは淀川舟運が優勢であり、枚方宿も上り偏重の片宿でした。

それにも関わらず、宿の整備については道中奉行より東海道並みが求められたため、その運営は苦しかったとも言われています。

① 一里塚

一里塚は、街道の両端から一里ごとに目印として設けられた塚です。

通常は、遠方から見えやすくするためにその上に榎の木などを植えていました。

② 天野川橋(鵲橋)

天野川橋は、枚方宿の東側を流れる天野川に架けられた橋であり、俗に「銭取橋」とも言われました。

参勤交代に枚方宿を利用した紀州藩は、天野川橋ではなく、別に専用の橋を架けて利用していました。

③ 東見附

東見附は、枚方宿の東端です。

道の両端に松が植えられていたようです。

④ 郷蔵

⑤ 町飛脚

⑥ 浄行寺

⑦ 枚方橋(安居川橋跡)

江戸時代の枚方宿には南北2つの枚方橋がありました。

明治時代には、天野川に架かる北側の橋は鵲橋、安居川に架かる南側の橋は枚方橋と呼ばれるようになりました。

⑧ 紀州七里飛脚

⑨ 宗左の辻

宗左の辻は、京街道と磐船街道の合流点です。

かつて製油業を営んでいた商人・角野宗左の屋敷があったことからその名が付されました。

⑩ 下井戸

枚方宿にあった4ヶ村のうち、岡村では地下水に鉄気が多く飲料に適さなかったため、万年寺山や別子山丘陵に取水用の元井戸を掘り、導水管により水を供給していました。

この井戸は、上井戸・中井戸・下井戸という3ヶ所設置され、井戸仲間が共同井戸として自主管理して利用されていました。

その後、近辺の宅地開発等により上井戸・中井戸は取り壊され、現在では下井戸のみが残っています。

⑪ 常夜櫓

街道上に残されたこの石灯籠は、高さ約2.8mの花崗岩製であり、柱裏側の刻印によると嘉永七甲寅年(1854年)奉納とされています。

⑫ 伏越

⑬ 高札場

⑭ 専光寺

⑮ 意賀美神社

意賀美神社は、万年寺山に位置する神社であり、境内の梅林で有名です。

⑯ 御茶屋御殿

⑰ 大隆寺

⑱ 本陣

枚方宿本陣(大名・旗本・幕府役人が宿泊するための宿)は三矢村に建てられ(天明5年/1785年の時点では、間口約20間・奥行24間の敷地に建坪215坪の建物が建っていたと記録されています。)、池尻善兵衛家が代々その経営を担っていました。

枚方本陣は、明治3年(1870年)に廃止された後、明治21年(1888年)7月に浄念寺にあった茨田・交野・讃良郡役所(明治29年の郡統廃合により北河内郡役所に)として利用されました。

なお、現在は三矢公園となっています。

⑲ 問屋場

問屋場は、人馬の継立・公用旅行者の宿の手配などの宿駅の事務一切を取り扱う場所でした。

民間の輸送業務にも関連し、問屋役人(宿役人)が常駐していました。

⑳ 浄念寺

㉑ 願生坊

㉒ 臺鏡寺

㉓ 船高札場

㉔ 枚方浜(問屋浜)

問屋浜(浜問屋)は、村々からの浜出し荷物を預かり船積みをしたり、陸揚げした荷物を補完する場所でした。

なお、三十石船の船客相手に飲食物を商う煮売茶舟も多く存在し、これらの舟は、「餅くらわんか、酒くらわんか」という売り言葉から、俗に「くらわんか舟」と呼ばれました。

㉕ 過書船船番所・伏見船船番所

淀川水運は、京・伏見と大坂とを結ぶ重要な交通路であり、往時には三十石船などの貨客船を合わせると1000艘以上が行き交っていました。

通行手形を持つ特権川船を過書船といい独占的に営業をしていたのですが、元禄11年(1698年)に伏見船の営業が認められると、両者は競合業者として激しい営業上の戦いを繰り広げました。

そして、淀川宿・泥町村には、この過書船・伏見船を監視・船切手(許可証)の交付・積荷と船切手との照会・上米(税)の取り立てを行うためにそれぞれの船番所が置かれました。

㉖ 鍵屋(市立枚方宿鍵屋資料館)

鍵屋は、江戸時代に大坂と伏見を結ぶ三十石船に乗降するための船待ち宿として賑わった宿です。

淀川三十石船歌に、「鍵屋浦には碇が要らぬ三味や太鼓で船止める」と唄われるほどに知られていました。

現存する鍵屋の主屋は、文化8年(1811年)に建てられたものであり、現在は、解体復原の後、平成13年(2001年)から別棟とともに市立枚方宿鍵屋資料館となっています。

㉗ 苅捨高札場

㉘ 西見附

枚方宿~守口宿(約12km)

佐太(間宿)

枚方宿と守口宿の間には、休憩所となる間宿として佐太宿が存在していました。

佐太は、天暦年間(947年~957年)に建てられた祠を始まりとし、菅原道真を祀るために創建された佐太神宮の門前町として栄えました。

佐太神宮前の佐太港(船着場)は、佐太詣の人々のみならず淀川三十石舟の乗客に利用されて栄えました。

また、佐太には、譜代大名である永井家の陣屋が設けられていました。

守口宿(東海道五十七次)

守口宿は、京街道4つ目の宿場であり、元和2年(1616年)に東海道の宿場とされました(東海道五十七次)。

大坂に向かう場合には最後の、大坂側を出る場合には最初の宿場町であり、また東海道と奈良街道(清滝街道・守口街道)の分岐点として栄えました。

江戸時代後期頃の宿場町の長さは南北11町51間、問屋場1軒・本陣1軒・旅籠27軒とされているも(東海道宿村大概帳)、枚方宿へ3里、大坂へ2里という近さのため当初から馬継ぎはなく人足のみの勤めであったとされています。

現在地図で見ると宿場内でくねくね曲がった変な構造であるように見えるのですが、古地図と比較すると淀川左岸の堤防であった文禄堤をその前身としているため、淀川の流れに従ってこのような構造となったことがよくわかると思います。

明治5年(1872年)に守口宿が廃止され、現在までにその遺構の多くが失われています。

① 一里塚

守口宿の京側一里塚は、上見附側に設けられた守口宿への出入口の目印となる塚でした。

② 瓶橋

③ 盛泉寺

盛泉寺は、慶長11年(1606年)に東本願寺の末寺として、教如上人が開基したと伝えられる寺です。

盛泉寺は東御坊、同寺の西側にある難宗寺が西御坊と呼ばれました。

盛泉寺の本堂は元和元年(1615年)に大坂の陣の戦乱の際に消失し、その後の風水害を経て、天保6年(1835年)に再建された本堂が現在に至っています。

④ 難宗寺

難宗寺は、文明9年(1477年)に蓮如上人が守口坊として建立し、慶長16年(1611年)に本願寺掛所となり、西御坊と呼ばれるようになったと言われます。

元和元年(1615年)に大坂の陣の戦乱の際に消失し、その後の風水害を経て、文化4年(1807年)に再建された本堂が現在に至っています。

なお、難宗寺と本陣との間のクランク部分に案内石碑が残されています。

⑤ 本陣

守口本陣は、大名・勅使・幕府役人などが宿泊した幕府公認の宿です。

守口本陣のすぐそばには問屋場(宿場の人馬の継立事務を行う役所)が設けられたため、本陣前の街道は15mもの道幅が設けられました(守口宿の他の場所の道路幅は2間半【約4.6m】)。

⑥ 高札場

高札場は、江戸幕府が定めた法律・規則、地位で定めた御法度・掟などを墨書きした木版を掲げる場所であり、守口宿の高札場は現在の国道一号線「八島交差点」付近に設けられていました。

守口宿の高札場は、長さ2間1尺5寸(約4m)・横幅5尺5寸(約15m)の枠に、6枚の札が掲げられていたと伝えられています。

その後、守口宿の廃止に伴い、高札場も失われたのですが、平成28年(2016年)に位置を変えて再建されています。

文禄堤

前記のとおり、京街道は豊臣秀吉によって築かれた文禄堤を再整備することによって江戸幕府によって整備されました。

守口宿の本陣・問屋場・旅籠・茶屋などの主要建物は、文禄堤上に設けられたため、当時のメインストリートとなっていました。

江戸幕府滅亡後、淀川改修や市街化進展などによって文禄堤の大部分が消滅し、現在は大阪メトロ守口駅と京阪本線守口市駅との間に約720mに亘って保存されている大きく盛り上がった場所(堤の跡)のみが現存しているにとどまっています。

守口宿〜高麗橋(約8km)

野江刑場

高麗橋から約一里程の東成郡野江村の京街道に面した場所(現在の大阪市都島区中通り三丁目)に、野江刑場がありました。

大坂にあった4つの刑場のうちの1つです(残りの3つは、千日前・飛田・三軒家)。

当時の規模などはよくわかっておらず、大坂の陣で滅んだ豊臣家の残党を処刑した場所と言われています。

京橋(江戸時代の終点)

京橋は、京街道が延伸された際の終点(起点)となった公儀橋です(後に高麗橋に変更されています。)。

京街道の終点(起点)ですので、必然的に東海道五十七次の終点ともなりました(江戸日本橋から137里4町1間)。

京橋北詰には京街道沿いに相生西町・相生東町・野田町などが形成され、川魚市場も設けられるなど大坂の玄関口の一つとして賑わいました。

また京橋南詰は、大坂城の虎口1つである京橋口がありました。

高麗橋(明治時代の終点)

高麗橋は、最終的に東海道五十七次の終点となった場所です(摂津国西成郡・現在の大阪市中央区)。

高麗橋は、大坂城築城の際に西惣構堀として東横堀川が開削されて架橋された橋であり、その後は周辺に豪商の店舗が立ち並び、日本第一の商都・大坂の富が集中する大坂の心臓部でなっていたことから公儀橋として幕府によって維持管理された橋でした。

なお、明治時代に入っても、京街道・中国街道・暗越奈良街道・紀州街道・亀岡街道などの起点とされ、明治政府によって高麗橋東詰に里程元標が、大正8年(1919年に)には道路元標が置かれて西日本の道路の距離計算の起点とされた場所です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA