東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、江戸の日本橋から京の三条大橋まで続く東海道に置かれた53箇所の宿場町です。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が慶長6年(1601年)に全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道を整備し、それぞれの街道上に宿場町を整備していきました。
そして、東海道には当初40宿が整備されたのですが、その後53宿にまで増加されます。
また、その後、元和5年(1619年)、滅亡させた豊臣家が治めていた経済都市・大坂を直轄地とし、大坂と東海道に直結させ、大坂と京を繋ぐ京街道を東海道とした取り込んだ結果、新たな東海道(旧京街道)沿いの伏見、淀、枚方、守口に宿場町を整備したことにより、最終的な東海道の宿場町は57宿となっています。
そのため、東海道五十三次に、京から大坂までの4宿(伏見、淀、枚方、守口)を加え「東海道五十七次」と呼ぶ場合もあるのですが、本稿では、この追加された4宿を除く53宿について、浮世絵なども取り上げつつ簡単に紹介していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
東海道五十三次
東海道の整備(1601年)
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長6年(1601年)に全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道を整備し始め、その後、これら5つの街道が2代将軍秀忠の代になって陸上基幹街道に定められます。
これらの5街道の1つである東海道は、幕府がある江戸・日本橋から小田原、駿府、浜松、宮、桑名、草津を経て、都がある京・三条大橋までの126里6丁1間(約492km)を結ぶ道を指すこととなります。なお、東海道は人が歩いて移動するために設けられた道であり、牛車や騎馬が疾走するための道路ではなく、また大雨が降っても浸水しにくい微高地形を利用して曲がりくねった構造をしており目的地への最短ルートでもありませんでした。
そして、政治的・軍事的に重要な五街道は幕府直轄とされ、一里(約4 km)ごとに一里塚を築いて街道沿いに並木が植えられ、道標として一里塚が、また江戸幕府の参勤交代のために各宿場に本陣・脇本陣・旅籠などが置かれました。
なお、京と江戸を繋ぐ道としては東海道の他にも中山道もあったのですが、山道の迂回路のため距離が長いものの川の影響が少ない中山道と比べ、大河に度々遮断されるも比較的平坦で距離も短いものの東海道の方が大動脈として選ばれる傾向にありました。
東海道五十三次の整備
東海道には、起点となる江戸・日本橋と、終点となる京・三条大橋との間に53地点の宿場が置かれ、参勤交代のための整備も行われて東海道五十三次と呼ばれました。
ここでいう宿場とは江戸幕府が認めた街道沿いの集落を言い、城下町などの古くからある町をそのまま用いた場所(小田原・浜松・掛川・岡崎・水口など)もあれば新たに住民が集められて町屋が形成された場所(箱根など)もあります。
宿場の役割は主に3つあり、1つ目は公用人馬の調達、2つ目は公用文書の輸送、3つ目が旅行者の宿泊でした。なお、「次」とは、継ぎ送りを意味であり、江戸幕府の荷物を次の宿場まで送り届けることを意味する言葉だったそうです。
宿場の構造
(1)見附
見附(みつけ)とは、元々は見張りの兵を置いておく軍事施設です。
江戸時代初期には街道や宿場町もまた軍事施設として扱われたことから、宿場町の出入口にも見附が置かれ(両端に置かれたために挟み見附とも言います。)、江戸側に配置されたものを江戸見附、京側に配置されたものを上方見附と呼びました。
そして、この江戸見附と上方見附の間が宿場の範囲と考えられます。
(2)問屋場
問屋場は、宿場の中心地に置かれた江戸幕府の公用役所です。
前記の宿場の役割を果たすために置かれ、宿役人の長である「問屋」、助役である「年寄」、事務方の「帳付」などが配されました。
問屋場の主たる業務は、幕府公用旅行者のための人足・馬・宿泊場所の手配や公用文書を運ぶ飛脚の管理などだったのですが、実際には、その他の宿場管理に必要となる多種多様な業務を行っていました。
(3)高札場
高札場は、幕府の発した御法度や掟など記した高札(立札・木板に墨書きしたもの)を旅人の目につきやすい場所に掲げ、一般に周知するための場所です。
高札場は、宿場内のみならず追分(街道の分岐点)・渡船場・関所などの旅人の往来が多い場所に配されました。
高札場であった場所は「札の辻」とも呼ばれ、現在でも交差点名や地名として残っている場所が見受けられます。
(4)本陣・脇本陣・旅籠など
また、宿場には、多くの宿泊所が設けられました。
このうち、本陣・脇本陣は、大名・旗本・公家などの公人の宿とされ、他方、公用ではない武士や一般旅人は、食事つきの旅籠(現在の旅館のような1泊2食方式)が利用されました。なお、食事なしの素泊まりスタイルの宿は木賃宿と言い、この場合は旅人が食材を自分で持ち込みこれらの調理費用として宿代を支払うこととなります。
木賃宿の宿泊料金は旅籠の1/3~1/10と安価であったため江戸時代初期頃までは木賃宿が主流だったのですが、平和な時代になるに従って食事も旅の楽しみとの考えが広がり、次第に旅籠に客が流れていきました。
宿場の規模は53次ごとに異なっていたのですが、全体として約3000軒の旅籠があったといわれており、人口の多い江戸や京周辺や難所を控える宿場に旅籠の数が多く、七里の渡しの港があった宮宿(熱田宿)が247軒・その対岸の桑名宿にも120軒存在していたと言われます。
なお、旅籠は大きく分けると飯盛女を置く飯盛旅館と、これを置かない平旅館という2種類あり、宿屋に遊女を置くことを禁じていた江戸幕府の下であったにもかかわらず飯盛旅館では飯盛女が泊り客の相手をするのが通常であり、幕府黙認の遊女として扱われていました。
(5)茶屋・立場
本陣・脇本陣・旅籠の周囲には、旅人の休憩場所(昼食をとったり茶を飲んだりする場所)となる茶屋や、旅人に対する商売目的の店屋なども配置されました。
茶屋は宿の端に、宿の規模に応じて数件~数十軒置かれるのが一般的でした。
また、宿と宿との間にも立場と呼ばれる休憩地点が置かれることがあり、この立場に置かれた茶屋は立場茶屋といいました。
なお、立場が発展して町屋が形成されていく場合もあり、集落化した場合には間宿と呼ばれて賑わうこととなったのですが、江戸幕府が宿場町保護の観点から間宿における旅人の宿泊を禁止していました。
東海道五十三次一覧
起点
東海道五十三次の起点は、武蔵国豊島郡にあった江戸日本橋(現在の東京都中央区)です。
「お江戸日本橋七つ立ち」と詠われ、七つ=午前4時に出発するのが一般的でした。
なお、当時の人は、1日に約10里=約39km(足弱と言われた女性連れでも1日に約6里=約23.6km)進み、日本橋・三条大橋間を12〜15日で踏破していました。
最初の橋は、慶長8年(1603年)に架けられ、その後焼失と修復が繰り返された後、明治44年(1911年)に石橋に架け替えられ現在に至っています。なお、現在の橋の中央には日本国道路元標が埋め込まれていますので興味がある方は一度ご覧ください。
宿場(武蔵国)
1. 品川宿(武蔵国荏原郡・現在の東京都品川区)2里=約7.8km・93宿
品川宿(しながわしゅく)は、五街道の中で最も重視された東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿とあわせて江戸四宿と呼ばれました。
陸海両路の江戸の玄関口として賑わっており、他の江戸四宿と比べても旅籠屋の数や参勤交代の大名通過の数が多かった宿場町です。
2. 川崎宿(武蔵国橘樹郡・現在の神奈川県川崎市川崎区)2里半=約9.8km・72宿
川崎宿(かわさきしゅく)は、久根崎・新宿・砂子・小土呂の4町で構成され、街道をのぼる旅人にとっては昼食休憩の地として、くだる旅人にとっては六郷の渡しを控えた最終宿泊地として賑わいました。
東海道成立時点では正式な宿場ではなかったのですが、東海道成立後、品川宿・神奈川宿間の距離が片道5里・往復10里と長かったために伝馬の負担が重いとして、元和9年(1623年)に新たに宿場町として設置されました。
なお、本陣は、京側より上の本陣=佐藤本陣、中の本陣=惣兵衛本陣、下の本陣=田中本陣の計3軒が存在していました。
3. 神奈川宿(武蔵国橘樹郡・現在の神奈川県横浜市神奈川区)2里半=約9.7km
神奈川宿(かながわしゅく)は、神奈川湊の傍に併設され、相模国や武蔵国多摩郡への物資の経由地として栄えた宿場町です。
安政6年(1859年)の横浜開港に先立って神奈川を開港場にすべきとする諸外国との国際外交の舞台となり、開港後には宿内の寺院が諸外国の公館として利用されました。
4. 保土ヶ谷宿(武蔵国橘樹郡・現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区)1里9丁=約4.9km
保土ケ谷宿(ほどがやしゅく)は、武蔵国の最西端に位置する、程ヶ谷町・岩間町・神戸町・帷子町の4町で構成された宿場町です。
東海道の宿場町であっただけでなく、その他、保土ヶ谷宿周辺から金沢鎌倉道・八王子道・大山道(相州道)などが分岐していたため、交通の要衝地でもありました。
宿場(相模国)
5. 戸塚宿(相模国鎌倉郡・現在の神奈川県横浜市戸塚区)2里9丁=約8.8km・75宿
戸塚宿(とつかしゅく)は、相模国最東端に位置する吉田町・戸塚町・矢部町の3町で構成された宿場町です。
日本橋からの旅程がちょうど1泊目にあたる上、大山道・鎌倉街道・厚木街道などと交差する要衝であったことから小田原宿に次ぐ旅籠数を有する巨大宿場町でした。
6. 藤沢宿(相模国高座郡・現在の神奈川県藤沢市)1里30丁=約7.8km・45宿
藤沢宿(ふじさわしゅく)は、後北条時代の小田原城と江戸城・八王子城・玉縄城とを結ぶ小田原街道の分岐点にあった遊行寺(清浄光寺)の門前町であり、慶長6年(1601年)に宿場町に指定されました。
本陣は、延享2年(1745年)までは堀内本陣が、同年以降は蒔田本陣が指定されていました。
また、慶長元年(1596年)頃に藤沢御殿(東西106間・南北62間)が置かれて徳川将軍家用の宿泊施設として天和2年(1682年)までに合計30回ほど使用されました。
なお、上絵の奥に江ノ島神社、手前に同神社一之鳥居が描かれていることからわかるように、約1里南側にある江ノ島に向かうための道が通っていたことがわかります。
7. 平塚宿(相模国大住郡・現在の神奈川県平塚市)3里半=約13.7km・54宿
平塚宿(ひらつかしゅく)は、江戸から7番目の宿場町です。
平塚の名称は、天安元年(857年)に坂東平氏の始祖と言われる真砂子(桓武天皇の曽孫)が一族を引き連れて東国へ向かう途中に同地で没したことから同地に遺体を埋葬して塚が築かれたことに由来するとされています(そのため、当初は「ひらつか」ではなく、「たいらつか」と呼ばれていたそうです。)。
8. 大磯宿(相模国淘綾郡・現在の神奈川県中郡大磯町)27丁=約2.9km・66宿
大磯宿(おおいそしゅく)は、江戸から8番目の宿場町です。
大磯(現在の神奈川県大磯町国府本郷辺り)には平安時代末期から相模国府が置かれていたのですが、江戸幕府による東海道整備に際してそれまでの御嶽神社前の官道(古東海道)から新道への付け替えがなされた結果、現在に至る本格的な発展に繋がりました。
天保14年(1843年)の時点での家数は676軒・本陣3軒・旅籠66軒とされています(東海道宿村大概帳)。
9. 小田原宿(相模国足下郡・現在の神奈川県小田原市)4里=約15.6km・95宿
小田原宿(おだわらしゅく)は、慶長6年(1601年)に宿場町に指定された江戸から8番目の宿場町であり、江戸を出た後の最初の城下町です。
日本橋を出発した多くの旅人の2泊目の宿として用いられることが多く、本陣4軒・脇本陣4軒・旅籠95軒を擁する巨大宿場町でした。
10. 箱根宿(相模国足下郡・現在の神奈川県足柄下郡箱根町)4里8丁=約16.5km
箱根宿(はこねしゅく)は、元和4年(1618年)、箱根関所の設置に伴って、箱根峠と箱根関所との間の狭い場所に設置された宿場であり、江戸に参勤交代に向かう西国大名から箱根山中に宿場がないのは不便であるとの要請があったため、箱根山中の標高725mに位置する東海道五十三次の中で最も標高の高い場所に置かれました。
箱根山中という東海道の中で一、二を争う難所にあった宿場であり、その維持に相当の手がかかる宿場町となりました。
なお、古くから箱根関所の北側に箱根神社の門前町(元箱根といいます)があったため、当初は同地に宿場が設けられる予定だったのですが、関所設置に不満を抱いた同地の住人が同地に本陣を提供すること拒んだために新たに箱根関所の南側に設置されることとなりました。
そして、箱根宿設置に際して東側の小田原宿と西側の三島宿からそれぞれ50軒ずつ強制的に移住させることにより集められて小田原町や三島町とされ、小田原町は小田原藩が、三島町は三島代官所(後に韮山代官所)が管轄するという特殊な特殊な統治体制が敷かれました。
なお、上写真は、イギリスの写真家であるフェリーチェベアトにより撮影された箱根宿の風景です。
宿場(伊豆国)
11. 三島宿(伊豆国君沢郡・現在の静岡県三島市)3里28丁=約14.7km・74宿
三島宿(みしましゅく)は、箱根峠の西側にある宿場町です。
三島は、古くから三嶋大社の門前町として伊豆国の中心地として栄えており、そのために江戸幕府の天領となって宿場町にも指定されました。
その後も東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあったことから交通の要衝として大いに賑わい、宝暦9年(1759年)に韮山代官所に統合されるまでの間は、伊豆国統治のための三島代官所も設けられていました(三島代官所の跡地は三島陣屋となりました。)。
宿場(駿河国)
12. 沼津宿(駿河国駿東郡・現在の静岡市沼津市)1里半=約5.8km・55宿
沼津宿(ぬまづしゅく)は、天正10年(1582年)に武田家により築かれた三枚橋城の城下町から発展した宿場町です。
13. 原宿(駿河国駿東郡・現在の静岡市沼津市)1里半=約5.9km
原宿(はらしゅく)は、元々は愛鷹山南麓にある田子の浦に沿った浮島ヶ原と呼ばれた低湿地帯でした。
富士川の戦いの際に平維盛軍が水鳥の羽音に驚いて退却した場所であり、その後木曾義仲討伐のために源義経が馬揃えを行った場所としても有名です。
東海道が整備されると13番目の宿場町となって発展し、宿場は江戸方(東)から大塚町・東町・西町として構成され、天保12年(1841年)の時点で家数は387軒・人口1777人・本陣1軒・脇本陣1軒とされていました。
問屋場は東町と西町の2か所にあって半月交代で使用されていたのですが後に東町の問屋場は焼失し、また天保9年(1838年)には脇本陣もまた焼失しています。
14. 吉原宿(駿河国富士郡・現在の静岡市富士市)3里6丁=約11.7km
吉原宿(よしわらしゅく)は、陸上交通や水運の拠点であるとともに、富士参詣の宿駅でもあった宿場町です。
当初は現在のJR吉原駅付近(元吉原)に設けられたのですが、寛永16年(1639年)に発生した高潮で壊滅的な被害を被ったことから再発防止策として現在の静岡県富士市八代町付近(中吉原)に移転しました。
もっとも、延宝8年(1680年)8月6日に再度高潮が発生して中吉原もまた壊滅的な被害を被ったため、さらに内陸部の現在の吉原商店街付近(吉原本町)に移転しました。
以上の経過から、当初は海沿いを通っていた原宿~吉原宿のルートが吉原宿の手前で海から離れて内陸部に向かって大きく湾曲する構造となってしまい、江戸から京に向かう際に右側に見えていた富士山が左側に見えるように変わってしまったため、左富士と呼ばれる景勝地が出来上がりました。
15. 蒲原宿(駿河国庵原郡・現在の静岡市清水区)2里30丁=約11.1km
蒲原宿(かんばらしゅく)は、吉原宿から富士川を渡った先にある宿場町です。
歌川広重の東海道五十三次では上のとおり雪景色で描かれているのですが、温暖で降雪の少ないはずの蒲原宿が雪景色となっている理由が不明とされています。
16. 由井宿(駿河国庵原郡・現在の静岡市清水区)1里=約3.9km
由井宿(後に由比宿)は、本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠32軒という小さな宿場でした。
由井宿と興津宿の間の海岸沿いに位置する断崖絶壁の薩埵峠は、東海道の難所として知られており、同じく日本海側の難所であった親不知(新潟県)に倣って「東海道の親不知」とも言われていました。
また、薩埵峠は、東海道の要衝であったため何度も合戦の舞台となっており、その中でも南北朝時代の足利尊氏・足利直義の戦い、戦国時代の武田信玄・今川氏真の戦いなどが有名です。
かつては急斜面と海に囲まれた地形から道を造ることが困難な交通の難所として知られていた薩埵峠も、現在では、交通の大動脈ともいえるJR東海道本線・国道1号線・東名高速道路など様々な交通網が張り巡らされた交通の大動脈となっています。
由井の地は、古くから富士山が望める景勝地として知られており、現在でも当時とほぼ同じ景色が望める唯一の場所と言えますので、興味がある方は是非(上記写真は、薩埵峠展望台から)。
17. 興津宿(駿河国庵原郡・現在の静岡市清水区)2里12丁=約9.1km
興津宿(おきつしゅく)は、慶長6年(1601年)の宿駅伝馬制度制定の際に定められた宿場町です。
古くから風光明媚な清見潟がある場所として知られており、古代にも、興津宿のやや西側(横砂辺りと考えられています)に清見関や息津駅が置かれていました。
なお、明治維新後には、避寒地として全国的にも知られ、西園寺公望などの元勲の別荘が建っていたことでも有名です。
18. 江尻宿(駿河国庵原郡・現在の静岡市清水区)1里3丁=約4.1km・50宿
江尻宿(えじりしゅく)は、戦国時代に武田四天王の馬場信春によって築かれた江尻城の城下町として発展し、江戸時代に入ると清水港と利用した江戸への物流拠点ともなって栄えた宿場町です。
天保14年(1843年)の時点で人口6498人・本陣2軒・脇本陣3軒・旅籠50軒とされています(東海道宿村大概帳)。
19. 府中宿(駿河国有度郡・現在の静岡市葵区)2里29丁=約10.5km・43宿
府中宿(ふちゅうしゅく)は、駿河国国府が置かれたことから駿府・府中と呼ばれた場所に設置された宿場町であり、江戸時代以降は宿場の呼称として府中宿と呼ばれました。
駿府城の城下町として27町で構成され、上伝馬町・下伝馬町にそれぞれ本陣及び脇本陣が設けられ、天保14年(1843年)には43軒の旅籠と1万4071人もの人口を擁する巨大宿場でした。
20. 鞠子宿(静岡県有度郡・現在の静岡市駿河区)1里半=約5.6km・24宿
鞠子宿(まりこしゅく・丸子宿とも)は、東海道の中で最も小さい宿場であり、天保14
年(1843年)の記録で旅籠24軒・民家211軒でした。
宿の名物はとろろ汁であり、松尾芭蕉は「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」という句を詠み(猿蓑)、十返舎一九は東海道中膝栗毛での鞠子宿のシーンでにわか雨に振られて茶屋に入ったが店主が夫婦喧嘩をしていて名物のとろろ汁を食べられなかったという話を取り入れられていました。
21. 岡部宿(駿河国志太郡・現在の静岡県藤枝市)1里29丁=約7.8km・27宿
岡部宿(おかべしゅく)は、東側の鞠子宿・西側の藤枝宿に約1年遅れて開設された宿場町です。
天保14年(1843年)の時点で人口2322人・本陣2軒・脇本陣2軒・旅籠27軒という小さな宿場町であったのですが(東海道宿村大概帳)、難所として知られる宇津ノ谷峠の西側に位置していたために同峠越えを支える宿場町として栄えました。
そのため、しばらくすると人馬継立が不足するようになり、後に、本宿となる岡部に加えて加宿として「内谷」が加えられました。
その後、明治時代になって東海道本線が建設されることとなった際、当初は岡部宿を通る予定であったのですが、地形の険しさから宇津ノ谷峠が避けられて大崩海岸を経由するルートに変更されたため宿場町としては衰退していくこととなりました。
22. 藤枝宿(駿河国志太郡・現在の静岡県藤枝市)1里29丁=約6.7km・37宿
藤枝宿(ふじえだしゅく)は、酒井家・堀田家・松平家・柳沢家などの江戸幕府の譜代家が歴代藩主を務めた田中藩の藩庁となった田中城の城下町に設置された宿場町です。
塩の産地でもあった相良に通じる田沼街道への分岐点であったために交通の要衝として栄え、東側から左車町・下伝馬町・白子町・長楽寺町・吹屋町・鍛冶町・木町・上伝馬町・川原町という9つの町が約2kmに及んで伸びており、最盛期には1000人を超える人口と2軒の本陣・37軒の旅籠を擁していました。
23. 島田宿(駿河国志太郡・現在の静岡県島田市)2里8丁=約8.6km
嶋田宿(しまだしゅく)は、大井川の左岸(江戸寄り)にある宿場町であり、大井川上流から切り出される木材の集積地でもありました。
また、大井川は、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた東海道の難所の1つであり、大雨により大井川が増水するとその渡河が禁止され、足止めされた客が島田宿に宿泊することとなるため大いに賑わいました。
宿場(遠江国)
24. 金谷宿(遠江国榛原郡・静岡県島田市)1里=約4.0km・51宿
金谷宿(かなやしゅく)は、大井川の右岸(京側)にある遠江国最東端にある宿場町です。
室町時代頃までは、西側にあった菊川の方が栄えていたのですが、戦国時代に甲斐武田家が牧之原台地の舌状台地先端に徳川領遠江国侵攻の拠点とするために諏訪原城を築いた後は、その中心が金谷の方に移っていきました。
その後、東海道が整備されると、東の大井川、西の小夜の中山峠という2つの難所に挟まれたの宿場町となり、東側の島田宿と同様に、増水で大井川の渡河が禁止された際の足止めされた客で賑わいを見せる場所となりました。
金谷宿は、金谷本町と金谷河原町の2町で構成されており、天保14年(1843年)の時点で家数1400軒・人口4271人・本陣3軒・脇本陣1軒・旅籠51軒(他に木賃宿あり)とされています(東海道宿村大概帳)。
25. 日坂宿(遠江国佐野郡・現在の静岡県掛川市)1里24丁=約6.5km
日坂宿(にっさかしゅく)は、金谷宿と掛川宿の間にあった小さな宿場町です。
東海道の三大難所(峠)の1つである小夜の中山の西麓に位置し、古くから入坂・西坂・新坂など様々な字で記された場所だったのですが、東海道の整備に際して日坂に統一した宿場町として整備されました。
26. 掛川宿(遠江国佐野郡・現在の静岡県掛川市)1里19丁=約7.1km・30宿
掛川宿(かけがわしゅく)は、掛川城の城下町として発展し、本陣2軒・旅籠30軒が置かれた宿場町です。
相良(現在の牧之原市)から秋葉山(現在の浜松市天龍区春野町)を経て信濃国に通じる塩の道が通る宿場町であり、江戸時代以降は秋葉参詣のルートの一つとして秋葉街道とも呼ばれて賑わいました。
27. 袋井宿(遠江国山名郡・現在の静岡県袋井市)2里16丁=約9.5km
袋井宿(ふくろいしゅく)は、東海道五十三次において京と江戸のいずれから数えてもちょうど中間(27宿目)に位置する宿場町です。
東海道開設直後には存在していなかったのですが、掛川・見付間が長距離である上、原野谷川が度々氾濫して交通が途絶えることがあったため、元和2年(1616年)までかけて新たに整備されました。
28. 見付宿(遠江国磐田郡・現在の静岡県磐田市)1里半=約5.8km・56宿
見付(見附)は、鎌倉時代には国衙や守護所が置かれるなど古くから栄えた東海道屈指の規模を持つ宿場町です。
戦国時代に遠江国を獲得した徳川家康が、岡崎から見附に本拠を移そうとして新城を築城していたことでも有名です(なお、このとき築城していた城之崎城は完成前に放棄され、徳川家康もまた見附ではなく浜松【曳馬】に本拠地を移転しています。)。
29. 浜松宿(遠江国敷知郡・現在の静岡県浜松市中区)4里7丁=約16.4km・94宿
浜松宿は、浜松城の城下町として大手門南側に拓かれて栄えた本陣6軒・旅籠94軒を誇る東海道最大規模の宿場町でした。
もっとも、昭和期頃までに軍事物資の生産地となっていた上、航空隊基地が置かれていたことを理由として、第二次世界大戦時にアメリカ軍から27回にも及ぶ執拗な空襲・艦砲射撃が繰り返されて著明な建築物・遺構の大部分が喪失しています。
30. 舞坂宿(遠江国敷知郡・現在の静岡県浜松市西区)2里30丁=約10.8km・28宿
明応8年(1498年)8月25日に遠州灘で起こった明応地震により元々陸続きであった今切口が沈下して決壊し、海水が湖に流入して浜名湖が海と繋がる塩水湖となりました。
この地震によって今切口が沈下して荒井と舞坂との陸路が遮断されたため、これらを結ぶ航路が開通されました(なお、当初はこの航路は27丁/約2.9kmだったのですが、宝永4年/1707年の宝永地震の津波被害によって今切関所が西に移転したため1里/約4kmに延長されています。)。
そして、浜名湖東側の今切渡場の発着点に設けられたのが舞阪宿です。
本陣2軒・脇本陣1軒・旅籠28軒という小規模なものでしたが,今切の渡しを控える宿場として大いに賑わいました。
なお、舞坂宿にあった今切口の今切渡船場では、船着場に階段状の構造物である雁木が設けられ、大名用の「北雁木」・武家用の「中(本)雁木」・庶民及び荷物用の「南雁木(渡荷場)」の3つに区分されていました。
31. 新居宿・荒井宿(遠江国敷知郡・現在の静岡県湖西市)海上1里=約5.9km
32. 白須賀宿(遠江国浜名郡・現在の静岡県湖西市)1里24丁=約6.5km
宿場(三河国)
33. 二川宿(三河国渥美郡・現在の愛知県豊橋市)2里16丁=約5.7km
二川宿(ふたがわしゅく)は、三河国最東端に位置する幕府の天領たる宿場町です。
34. 吉田宿(三河国渥美郡・現在の愛知県豊橋市)1里20丁=約6.1km
35. 御油宿(三河国宝飯郡・現在の愛知県豊川市)2里22丁=約10.2km
御油宿(ごゆしゅく)は、東海道の35番目の宿場町であり、東に追分があり、本坂通(姫街道)の西の拠点となっています。
36. 赤坂宿(三河国宝飯郡・現在の愛知県豊川市)16丁=約1.7km
赤坂宿(あかさかしゅく)は、御油宿とわずか16丁(2km弱)の距離に設けられた東海道で最も短い区間に設けられた宿場町です。
御油宿や吉田宿と共に飯盛女を多く抱え、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と唄われた程の活気のある宿場町でした。
37. 藤川宿(三河国額田郡・現在の愛知県岡崎市)2里9丁=約8.8km・36宿
藤川宿(ふじかわしゅく)は、三河高原を横断する御油断層の谷間から西の平地への出入口にある古くからの交通の要衝地であり、慶長6年(1601年)の伝馬制度により設置された宿場町です。
天保14年(1843年)の時点で家数302軒・人口1213人・本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠36軒とされています(東海道宿村大概帳)。
38. 岡崎宿(三河国額田郡・現在の愛知県岡崎市)1里25丁=約6.6km・112宿
39. 池鯉鮒宿(三河国碧海郡・現在の愛知県知立市)3里30丁=約14.9km
宿場(尾張国)
40. 鳴海宿(尾張国愛知郡・現在の名古屋市緑区)2里30丁=約11.0km
41. 宮宿(熱田宿,尾張国愛知郡・現在の名古屋市熱田区)1里半=約6.5km・247宿
宮宿(熱田宿)は、桑名宿とを結ぶ東海道唯一の海上路であり、7里(約28km)の海路という難所を前に準備を整えるために247軒の旅籠を擁する東海道を含めた日本一大きな宿場町でした。また、美濃路(東海道の宮宿から中山道の垂井宿までの約60kmを結ぶ東海道の脇往還)との分岐点でもありました。
41番宮宿と42番桑名宿との間は海路となっており、その距離が7里であったことから「七里の渡し」と呼ばれました。なお、四日市宿との間に「十里の渡し」があり、公用及び諸大名の通行には桑名宿とを結ぶ七里の渡しが、一般大衆は大部分の通行には四日市宿とを結ぶ十里の渡しが主に利用されていたようです。
人が歩いて通行することを前提とする東海道において,江戸幕府が名古屋→岐阜→関ヶ原→琵琶湖という陸路を避け、宮宿→桑名宿という海路を採用した理由は、濃尾平野を流れる木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)が、大雨が降るたびに暴れまわり、出水で流域を変化させて濃尾平野内に洪水を引き起こしたからです。
また、濃尾平野は水はけが悪かったために雨が上がった後も水が引かず、広大な湿地帯となって陸路通行を妨害したことから、東海道開設当初の治水工事前の時点では、木曾三川が横たわる濃尾平野を越えられなかったというのが東海道に海路が設定された理由です。
宿場(伊勢国)
42. 桑名宿(伊勢国桑名郡・現在の三重県桑名市)7里(川舟)=約27.3km・120宿
桑名宿(くわなしゅく)は、桑名藩の城下町として栄えた宿場町であり、ここから脇往還佐屋街道が分岐しています。
天保14年(1843年)の時点で家数2544軒・人口8848人・本陣2軒・脇本陣4軒・旅籠120軒とされており(東海道宿村大概帳)、東海道の旅籠数では宮宿に次ぐ2番目の規模を誇っていました。
43. 四日市宿(伊勢国三重郡・現在の三重県四日市市)3里8丁=約12.6km・98宿
四日市宿(よっかいちしゅく)は、天領であった伊勢国三重郡に置かれた宿場町です。
宮宿との間に「十里の渡し」がありました。
天保14年(1843年)の時点で人口7114人・本陣2軒・脇本陣1軒・旅籠98軒とされています(東海道宿村大概帳)。
44. 石薬師宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県鈴鹿市)2里27丁=約10.7km
石薬師宿(いしやくししゅく)は、元和2年(1616年)に、天領であった伊勢国鈴鹿郡に置かれた宿場町です。
45. 庄野宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県鈴鹿市)27丁=約2.7km
庄野宿(しょうのしゅく・しょうのじゅく)は、寛永元年(1624年)、東海道の宿場の中で最後に設置された江戸日本橋から数えて45番目の宿場町です。
庄野宿本陣を中心とした一帯が宿駅業務を請負う点については他の宿と変わりはないのですが、庄野宿はこの区間が約600mしかない小さな宿でした。
46. 亀山宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県亀山市)2里=約7.8km
亀山宿(かめやましゅく)は、亀山城下に設けられた宿場町です。
47. 関宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県亀山市)1里半=約5.9km
関宿(せきしゅく)は、東の追分からは伊勢別街道が、西の追分からは大和街道が分岐する鈴鹿山脈の山裾に位置する宿場町です。
古くから交通の要衝であり、かつては古代三関の1つである「伊勢鈴鹿関」が置かれていたため、この鈴鹿「関」から「関」宿と名付けられました。
48. 坂下宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県亀山市)1里24丁=約6.5km
坂下宿(さかしたしゅく、坂ノ下宿・阪之下宿)は、難所である鈴鹿峠を控えて賑わった宿場町です。
宿場(近江国)
49. 土山宿(近江国甲賀郡・現在の滋賀県甲賀市)2里半=約9.7km・44宿
土山宿(つちやましゅく)は、伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道ルートとなって以降難所を控える宿駅として発展し、江戸幕府の宿場町指定からさらなる発展を迎えた宿場町です。
天保14年(1843年)の時点で家数は351軒・人口1505人・本陣2軒・旅籠44軒とされています(東海道宿村大概帳)。
50. 水口宿(近江国甲賀郡・現在の滋賀県甲賀市)2里25丁=約10.5km・41宿
水口宿(みなくちしゅく)は、水口藩・水口城の城下町として栄えた宿場町です。
天保14年(1843年)の時点で家数は692軒・人口2692人・本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠41軒とされています(東海道宿村大概帳)。
51. 石部宿(近江国甲賀郡・現在の滋賀県湖南市)3里12丁=約13.7km・32宿
石部宿(いしべしゅく)は、京を出て1日の行程にあったため「京立ち石部泊り」と言われた宿場です。
52. 草津宿(近江国栗太郡・現在の滋賀県草津市)2里25丁=約11.7km・72宿
草津宿(くさつしゅく)は、古くから伊勢参宮の際の京と伊勢の中継地点として発展した宿場町であり、中山道と合流する(分岐する)草津追分があります。
天保14年(1843年)の時点で家数は586軒・人口2351人・本陣2軒・脇本陣2軒・旅籠72軒とされています(東海道宿村大概帳)。
53. 大津宿(近江国滋賀郡・現在の滋賀県大津市)3里24丁=約14.3km・71宿
大津宿(おおつしゅく)は、中山道と共有して北陸道と結び、また伏見街道との分岐点ともなる東海道五十三次中最大の宿場でした。
大津と京を結ぶ東海道の区間については、牛車の往来をスムーズにするため車石と呼ばれる花崗岩の石が敷かれるなどの工夫もなされていました。
終点
東海道五十三次の終点は、山城国愛宕郡にあった京・三条大橋(現在の京都市東山区・3里=約11.7km)です。
なお、余談ですが、上の絵(版画)は東海道五十三次の三条大橋なのですが、三条大橋は天正17年(1589年)に豊臣秀吉の命により橋柱63本の全てを石柱に改修されているため、歌川広重が作成した天保5年(1834年)頃の実際の三条大橋の大橋の姿とは異なります(そのため、歌川広重は実際の三条大橋を見ることなく想像で制作したものと考えられています。)。
おまけ(追加された4宿について)
東海道の伸長(1619年)
大坂の陣で豊臣家を滅ぼした江戸幕府は、元和5年(1619年)に大坂を直轄地とし、その経済力を取り込むために京・大坂間を結んでいた京街道を東海道に直結させ、京街道を東海道とした取り込むこととします。
その上で、新たな東海道(旧京街道)沿いの伏見、淀、枚方、守口に宿場町を整備していきました。
もっとも、江戸幕府は、京街道を通って参勤交代をする大名が京に入って朝廷に接近することを警戒し、接続点を東海道の終点である三条大橋とせず、髭茶屋追分(大津市追分町)としました。
この結果、東海道から大坂に向かうとすると、大津宿の次は伏見宿となって京に入らず、その後、伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿と進み、高麗橋に至ることとなるため、日本橋から京までの東海道五十三次に、京から大坂までの4宿(伏見、淀、枚方、守口)を加え「東海道五十七次」と呼ぶ場合もあります。
宿場(山城国)
54. 伏見宿(山城国紀伊郡・現在の京都市伏見区)
伏見城に築かれた宿場町として成立した伏見宿でしたが、元和9年(1623年)に伏見城が廃城となったことにより伏見の大名屋敷が次々と駿府や江戸に移され、多くの町人たちも京や大坂への移住を始めたことから伏見は一時勢いを失います。
もっとも、その後、伏見城の外堀であった宇治川派流に架かる京橋界隈を京・大坂を結ぶ港町として位置づけ再び繁栄を始めます。
55. 淀宿(山城国久世郡・現在の京都市伏見区)1里14丁・16宿
淀宿は、江戸幕府により築かれた淀城内にあった三町と、淀小橋でつながった城外の三町とによって形成された宿場町であり、本陣や脇本陣はなく旅篭も僅か16軒だったのですが、水陸交通の要衝として「問屋場」、「伝馬所」が設けられ、500隻もの淀船の母港となって発展します。
宿場(河内国)
56. 枚方宿(河内国茨田郡・現在の大阪府枚方市)3里12丁
枚方宿は、京と大坂のほぼ中間に位置する交通の要衝にあり、陸上交通だけでなく、街道とほぼ平行して流れる淀川を利用した水上交通の中継港としても繁栄しました。
57. 守口宿(河内国茨田郡・現在の大阪府守口市)3里・27宿
守口宿は、大坂街道の宿場町であり、大坂を出ると最初の、東海道五十七次とすると最後の宿場町となります。
江戸時代後期頃の宿場町の長さは南北11町51間、問屋場1軒・本陣1軒・旅籠27軒とされているも(東海道宿村大概帳)、枚方宿へ3里、大坂へ2里という近さのため当初から馬継ぎはなく人足のみの勤めであったとされています。
終点
東海道五十七次の終点は、江戸時代には大坂城北側の京橋とされ、明治期に入ると高麗橋(摂津国西成郡・現在の大阪市中央区)に変更されました。
なお、高麗橋は、大坂城築城の際に西惣構堀として東横堀川が開削されてに架橋された橋であり、その後は周辺に豪商の店舗が立ち並び、日本第一の商都・大坂の富が集中する大坂の心臓部でなっていたことから公儀橋として幕府によって維持管理されていた橋でした。
なお、明治時代に入っても、京街道・中国街道・暗越奈良街道・紀州街道・亀岡街道などの起点とされ、明治政府によって高麗橋東詰に里程元標が、大正8年(1919年に)には道路元標が置かれて西日本の道路の距離計算の起点とされた場所です。