【日本の貨幣の歴史】

貨幣制度とは、硬「貨」+紙「幣」という貨幣によって商品・サービスの交換を媒介する経済制度です。

この制度の下では、中央国家などが、貨幣(通貨)の発行方法・種類・単位・価値などを決め、それを基に商品流通が行われることが一般的となります。

もっとも、貨幣自体にはその額面が表す価値があるわけではありませんのでその流通には発行者(統治機関)に対する信頼が絶対条件となるのですが、現在に至るまで統治機関の変遷がありその信頼にも大きな波がありましたので、貨幣制度についても紆余曲折あるという歴史的経過を経ています。

そこで、以下、貨幣制度の導入から、現在の管理通貨制度確立に至るまでの貨幣の歴史について見ていきたいと思います。

貨幣導入以前

物々交換時代

貨幣導入以前の日本では、農民・漁師・木こりなどが、それぞれの得意分野を生かして生産した物に余剰物が出た場合、それと他の者が生産した余剰物と交換することにより様々な物を獲得するという物々交換が行われていました。

この物々交換では、得意分野以外の物品が獲得できるというメリットがあったのですが、他方で相手方と渡してもいい物・欲しい物が合致しないと交換が成立しないこと、交換の際に交換比率が問題となることなどの様々なデメリットも存在しました。す

物品交換時代

そこで、人々は、物々交換のデメリットを補完するため、物品交換の制度を考えます。

物品交換とは、米・布・塩・貝・砂金などの比較的価値が下がりにくい物品を基準とし、これを通貨代わりに利用するというものでした。

この物品交換制度は日本のみならず世界各国でも行われており、古代中国では貝殻を用いていたことから現在でもお金に関する漢字に「貝」の字(貨・買・財・貯など)が用いられる所以となりました。

もっとも、この物品交換制度にもデメリットがあり、貝などは人によっては入手が容易であるため公平性がなく、また米・布・塩などはその流通量に幅が大きいために一定性がなかいというものでした。

貨幣制度の導入へ

以上の物品交換制度の不公平性・不安定性を防ぐために生み出されたのが、どのような条件下でも同じ価値を持つ「貨幣」という制度だったのです。

なお、全世界で最も古い時代に造られた貨幣(金属貨幣)は、紀元前670年頃に現在のトルコの一部であるアナトリア半島・リュディアで発明された「エレクトロン貨」、また世界最古の紙幣は960年~1127年頃の中国・北宋で作成された「交子」であるとされています。

古代貨幣の鋳造・発行

富本銭鋳造(683年?)

日本で最初に貨幣が鋳造・発行されたのは、天武12年(683年)と考えられています。

大化元年(645年)に乙巳の変を成功させたときの朝廷が、唐(中国)の律令制度を取り入れる形で大化の改新を進めたのですが、この改革の一環として貨幣制度が取り入れられることになり、天武12年(683年)に「富本銭」が鋳造されたというのが最初であるとされています。

なお、日本書紀・天武天皇12年(683年)において、「今後、必ず銅銭を用い銀銭を用いることなかれ」と記されていることから、富本銭が銀銭(無文銀銭)であったと考えられているのですが、富本銭に先行流通する銀銭があった可能性も指摘されています。

また、かつては以下の和同開珎が日本最古の貨幣と考えられていたのですが、平成10年(1998年)に行われた奈良県明日香村所在の飛鳥池遺跡における発掘調査によって富本銭が発見され、あわせて同所から富本銭をつくるための鋳型・ルツボ・やすりなどが出土したことから、現時点では富本銭が日本最古の貨幣と考えられています(流通貨幣であったのか、まじない用の厭勝銭であったのかは不明です。)

そのため、この富本銭が現時点で発見されている最古の貨幣であることからこれが日本最初の貨幣とされているのですが、あくまでも現時点で発見されているとの条件下に過ぎませんので、もしかしたら後にさらに古い貨幣が出てきて歴史が書き換わる可能性も否定できません。

皇朝十二銭鋳造(708年)

名称始鋳年材質両目銅分直径
和同開珎和銅元年(708年)銀・銅3.75g82.95%24.0~24.3mm
万年通宝天平宝字4年(760年)3.75g77.98%25.5~25.8mm
神功開宝天平神護元年(765年)3.75g75.17%22.5~25.5mm
隆平永宝延暦15年(796年)3.0g69.50%24.3~26.1mm
富寿神宝弘仁9年(818年)2.96g76.67%22.8~23.4mm
承和昌宝承和2年(835年)2.93g70.50%18.9~22.5mm
長年大宝嘉祥元年(848年)2.63g71.50%16.5~21.0mm
饒益神宝貞観元年(859年)2.55g63.00%17.4~21.0mm
貞観永宝貞観12年(870年)2.33g52.84%17.4~19.8mm
寛平大宝寛平2年(890年)2.25g80.00%18.9~19.5mm
延喜通宝延喜7年(907年)2.59g69.48%18.9~19.5mm
乾元大宝天徳2年(958年)2.44g51.25%19.5mm

その後、和銅元年(708年)5月11日に銀銭、同年7月26日に銅銭の鋳造が始まり、これらが「和同開珎」として同年8月10日に発行されました(続日本紀)。

和同開珎は、唐の開元通宝をモデルに造られており、開元通宝と同じく直径24mm前後の円形として中央に一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式であり、表面に時計回りに和同開珎と表記され裏は無紋となっています。

和同開珎は、和銅元年(708年)5月11日に銀銭、同年7月26日には銅銭としてそれぞれ鋳造が始まり、同年8月10日に発行されるにいたったのですが(続日本紀)、銀銭は和銅2年(709年)8月2日に廃止されています。

その後、奈良時代には和同開珎を含めて3種、平安時代には9種の銅銭が発行され、約250年の間に相次いで鋳造されたこれら12種の貨幣をあわせて「皇朝十二銭」と呼んでいます。

銭貨発行は国家の独立性と権威を内外に示す重要な意味をもつものであるため、律令国家を試行する朝廷は、銭貨を蓄えた者に位階を与えるなどの銭貨使用促進策をとって銭貨の普及に努め、物品との交換比率の公定・官人給与の銭貨支給や、また調庸の銭納や蓄銭叙位令による銭貨の還流などの施策を行いました。

古代銭貨の衰退

この結果、銭貨は、京や畿内で流通するに至ったものの、全国的に普及するには至らず、広く流通することはありませんでした。

また、朝廷が新銭を発行する際に新銭1枚=旧銭10枚とする政策をとったことや、銅銭を軽小化・材質粗悪化(原材料の銅不足によって鉛の含有率を増加させた)させたことにより、銅銭の価値が低下しこれに対する信用が失われていきます。

そのため、時間の経過によって貨幣の発行・使用は減少していき、天徳2年(958年)に発行された乾元大宝を最後に新たな貨幣は発行されなくなってしまいました(貨幣が発行されなくなったというより、求心力を失った朝廷に対する信頼が失われたため、朝廷が発行する貨幣の信頼もまた失われ、貨幣の発行ができなくなったといった方が正確かもしれません。)。

商品貨幣の時代に逆戻り

新たな貨幣が発行されなくなると、その流通経済は時ふ代に逆行し、物品交換の次代に遡ってしまいます。

そのため、10世紀以降は、貨幣の代わりとして米・絹・布などが用いられるようになりました。

もっとも、米・絹・布などは貨幣と比べると持ち運びに不便であり、貨幣のような商品流通を行うことができなくなります。

そこで、これらの持ち運びの手間を省くため、役所などでは、所管の倉などに支払いを命じた書類を出して小切手のような役割を果たさせ、それが高じて信用取引がなされるまでに至っています。

渡来銭時代

中国鋳造貨幣の普及

その後、日宋貿易の発展により、12世紀半ば頃から中国から銭貨が大量に流入するようになると、中国銭貨(渡来銭)が日本貨幣として流通するようになり、1枚=1文として使われるようになっていきました。

渡来銭は、長らく途絶えていた貨幣経済を復活させる起爆剤となって瞬く間に全国各地に普及し、当初はその使用を認めていなかった鎌倉幕府や朝廷もこれを否定することはできなくなってその使用を追認するに至りました。

以上の結果、中国銭が日本の経済を席巻し、13世紀以降になると、年貢までもが銭貨で納めるようになったり(代銭納)、それまで年貢として納められていた生産物が各地の市で取引されるようになったりして、一気に商品経済が発達します。

他方で、この頃までに勢力の衰えた朝廷はもちろん、台頭してきた武士の代表である鎌倉幕府や室町幕府が貨幣鋳造を行いませんでした(14世紀前半に後醍醐天皇が、「乾坤通宝」の発行を計画したのですが建武新政の失敗で頓挫しています。)。

そして、室町時代に入ると、明との間の勘合貿易により入って来た明の大中通宝・洪武通宝・永楽通宝・弘治通宝などの銅銭が日本で広く使われるようになり、特に量が多く品質が一定していた永楽通宝が広く流通し、日本国内での基準貨幣となっていきました。

そして、この永楽通宝の普及により、永代・永高などの金額表示がなされるようになります。

私鋳銭・模造銭の流行

以上のとおり、貨幣(渡来銭)制度の浸透により経済が急速に発展したことによりさらなる銭貨の需要が高まっていったのですが、他方で、16世紀ころまでに中国で銀が貨幣的役割を独占して私鋳銭の製造が停止されたために日本への銭貨流出は停止されることとなりました。

この結果、日本国内では流通する中国銭が減少し、流通経済を回すための絶対量が不足していきます。

そこで、不足する渡来銭を補完するために中国銭を模して造られた私鋳銭・模造銭が大量に出回るようになったのですが、これらの私鋳銭・模造銭は渡来銭と比べて材質的にも技術的にも大きく劣るものでした。

なお、主要な私鋳銭・模造銭としては、以下のようなものがあります。

① 島銭

島銭は、渡来銭や皇朝銭の銭銘をそのまま模倣したり、意味のない文字・読めない文字を独特の形式によって造られた銭です。

鋳造地・鋳造年代は不明なのですが、室町時代以降の北九州で鋳造されたとする説が有力です。

② 加治木銭

加治木銭は、永禄時代(1558年)から寛永13年(1636年)ころまでの間に大隅国加治木で鋳造された渡来銭である洪武通宝を模して鋳造された銭であり、背に「加」・「治」・「木」のいずれかの文字が打たれていました。

加治木銭は、海外貿易用に鋳造されたのですが、九州地方で流通もしていました。

③ 加治木系ビタ銭

加治木系ビタ銭は、銅質や製作方法から加治木銭の系統を引く加刀ビタです。

銭銘としては、「景徳元宝」・「元豊通宝」・「元祐通宝」・「治平元宝」・「景祐元宝」・「元符通宝」・「至道元宝」・「正隆元宝」・「天聖元宝」などがありました。

④ その他

撰銭の発生

ところが、私鋳銭・模造銭の発行に伴い、良質な中国銭と粗悪な私鋳銭・模造銭(悪銭・鐚銭)が入り混じった状態で貨幣が流通することとなってしまいました。

この結果、市中では悪貨が嫌われ、悪貨の受取拒否やプレミアの要求(増歩)という撰銭が行われるようになり、それまでの銭貨1枚=1文という比率が崩れて貨幣経済が大混乱に陥ります。

この状態を苦慮した室町幕府は、明応9年(1500年)から永禄9年(1566年)までの間に計9回もの撰銭禁止令を発して正常な貨幣流通を図りました。

もっとも、この撰銭禁止令は十分な効果が得られませんでした。

そのため、1570年代の西日本では、土地などの大口の取引は、銭遣い米遣いに変化するなどの時代に逆行する取引形態が生じ、商品流通経済に不都合が生じるようになっていました。

金銀貨の登場

この不都合性を解決するため、貨幣発行者に対する信頼ではなく、貨幣自体に対する信頼を基に貨幣を流通させることが試行されます。

そして、16世紀以降になると、日本各地で諸大名による金鉱山・銀鉱山の採掘が盛んになり、日本は世界でも有数の金銀大国となった時期でしたので、貨幣にもこれらの金銀を使用する金銀貨が鋳造されて領国貨幣として利用されるようになります。

その中でも、永禄10年(1567年)に武田信玄によって鋳造されたが日本初の金貨とされる「甲州金」は有名であり、「両」「分」「朱」という4進法の貨幣単位を採用した甲州金の貨幣単位は江戸時代の金貨の単位にも引き継がれました。

また、石見銀山でも、精錬技術である「灰吹法」を導入して各地の鉱山開発の先駆けとなり、当時世界最大の採掘量を誇った石見で産出された銀は諸海外にも輸出されました。

この流れはその後も続き、織田信長は金・銀・銭貨の比価を定めた上で高額取引については金銀貨の使用を基本とさせ、また豊臣秀吉は天正大判などの金銀貨を鋳造するに至りました。

江戸幕府による貨幣制度の統一

三貨制度の試行

豊臣秀吉の死後、徳川家康は、まずは豊臣秀吉が有していた各種鉱山を直轄化した上で小判座や銀座などの製造体制を整備を行い、慶長6年(1601年)に様式・金銀の含有率・形態などを統一した慶長金銀を発行します。

その後、慶長8年(1603年)に幕府を開いた徳川家康は、貨幣制度を整備していき、その後に大判・小判・丁銀・豆板銀・銅銭などを鋳造することによって、金貨・銀貨・銭貨による三貨制度を試行していきます。

なお、金貨(小判・一分金など)は額面を記した計数貨幣、銀貨(丁銀・豆板銀)は重さで取引する秤量貨幣、銭貨は1枚1文の計数貨幣とされ、慶長14年(1609年)当時の交換割合は4進法を採用して以下のとおりとされました。

金1両=銀50匁(187.5g)=銭4000文

金貨1両(小判1枚)=4分=16朱

銀貨1匁(≒3.75g)=10分、1000匁=1貫

銭貨1000文=1貫文

交換割合の統一により交換取引が増大したため、各種貨幣の交換を業とする両替商(金と銀を交換する本両替・金銀と銭を交換する銭両替)が発達していきます。

そして、両替商は、当初は貨幣の両替を主たる業務としていたのですが、次第に預金の受け入れや諸大名・商人などへの貸付け、手形・為替の発行等の業務にも進出し、さらには諸藩の藩札発行や資金調達、幕府貨幣改鋳の際の新旧貨幣の引き換えや幕府公金の扱いにまで関与するようになったため、巨大な富を蓄える両替商が誕生していきました(三井家・住友家・鴻池家など)。

寛永通宝発行(1636年)

そして、銭貨については、しばらくの間は前時代より流通していた渡来銭などを継続使用していたのですが、その安定的な供給を目指し、慶長13年(1608年)に東国で通用していた永楽通宝(永楽銭)の発行を停止した上で、寛永13年(1636年)に寛永通宝を発行しました。

なお、この寛永通宝を発行をもって、金貨・銀貨・銭貨による三貨制度が完成したと評価できます。

藩札の流通

以上のとおり、三貨制度により江戸幕府による貨幣制度の統一が試みられたのですが、特に少額貨幣などが不足し、経済活動に問題が出始めます。

そこで、約8割とも言われる諸藩で藩札が発行され、少額貨幣の不足を補うかたちで流通に供されました。

これに対し、江戸幕府では、幕府発行貨幣を通用させるために、札遣いの禁止・年限を設けた発行許可・銀札以外の使用禁止などの藩札抑制策を採ったのですが実効性はなく、諸藩での藩札使用も事実上容認されているような状況となりました。

元禄の改鋳による混乱(1695年)

当初の江戸幕府は、金の含有量が極めて高い金貨を鋳造していたのですが(慶長小判:17.7g・金含有量86.3%など)、時代を経るに従ってその財政は苦しくなり始めます。

そこで、江戸幕府は、元禄8年(1695年)に元禄の改鋳を行い、貨幣流通量を増やして幕府財政の立て直しを図るため、それまでの金銀比率を大きく下げた貨幣を鋳造し始めます(元禄小判:17.8g・金含有量56.4%など)。

金銀比率が低下した貨幣を発行したことにより一時的に多額の改鋳差益(出目)を得た江戸幕府でしたが、その結果として大きな貨幣価値下落=物価上昇が起こります。

そして、元禄13年(1700年)ころには、交換割合は金1両=銀60匁(225.0g)=銭4000文(銀4貫文)に変更されています。

宝永の改鋳の失敗(1710年ころ)

物価の急騰に見舞われた江戸幕府は、宝永7年(1710年)ころ、この事態を打開するために慶長小判時代の金銀比率に戻すこととしたのですが、この時点では初代徳川家康時代の財力はありませんでしたので、金銀比率を戻しつつもその大きさを小さくすることで誤魔化しにかかります(宝永小判:9.3g・金含有率83.4%など)。

もっとも、宝永の改鋳は、元禄の改鋳で悪化した金銀の含有量を増やすことなく不純物を取り除いて小さくしただけのものであり、元禄の改鋳で失われた貨幣に対する信頼は戻らず、物価上昇も収まることはありませんでした。

正徳の改鋳による正常化(1714年)

困った江戸幕府は、新井白石により行わた正徳の治の一環として貨幣の改鋳を行い(正徳の改鋳)、正徳4年(1714年)5月、慶長小判に匹敵するクオリティの貨幣を鋳造します(正徳小判:17.8g・金含有量85.7%など)なお、その翌年にはさらにクオリティを挙げた小判が鋳造されています(享保小判)。

この正徳の改鋳により、物価上昇は治まったのですが、結果として発行できる貨幣量が激減し、経済活動の停滞がもたらされました。

天文の改鋳(1736年)

正徳の改鋳により物価上昇が抑えられていたのですが、8代将軍徳川吉宗により行われた享保の改革により全国で米の増産が行われた結果、米の価格が全国的に暴落します。

米価の下落は一見するとよいことのようにも思えるのですが、米価の下落は手当を米で受け取っていた武士の生活を急激に悪化させます。

この生活に困窮した武士の訴えを受け、江戸幕府は、米価を上昇させる=物価を上昇させるため、元文元年(1736年)、再び金銀比率を大きく下げた貨幣を鋳造し始めます(元文小判:13.1g・金含有量65.3%など)。

このとき、江戸幕府は、金銀比率を下げた貨幣を発行して米価を上昇させた上で、その他の商業品については株仲間を組織させて冥加金(上納金)を納めさせる代わりに販売独占させてその商売を管理して価格の統制を行いました。

この方法は上手くいき、これら一連の享保の改革と呼ばれる改革によって経済情勢は好転し、元文小判もまたその後約80年にわたり安定的に流通するようになりました。

そして、元文期には、銭貨も大量に造られました(元文4年/1739年の寛永通宝など)。

その後、江戸幕府は、財政窮乏を補うために文政の改鋳(1818年~)、天保の改鋳(1832年~)などを実施し、度々物価の上昇を招きます。

不平等条約の締結

嘉永7年(1854年)3月3日に日米和親条約を締結して下田・函館港が開かれることとなったことから、貨幣の交換比率が問題となり、同年5月17日より下田了仙寺にて日本貨幣と西洋貨幣との交換比率の交渉が行われました。

最終的には、同じ種類の貨幣は品位に関係なく同じ重さで通用することが定められ(同種同量の原則)、ドルにとって有利なように、貿易銀であるメキシコドルと日本の天保一分銀の重量交換で行われることが決まり、安政5年(1858年)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。

この後、開港による金貨流出を懸念した幕府は、開港日の前日に天保一分銀より純銀量が多い安政二朱銀を発行し、洋銀1ドル=二朱銀2枚で交換させようとしたのですが、アメリカが同種同量の原則を主張して反対して、洋銀1ドル=一分銀3枚となります。

以上の結果、外国人商人が1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換し、両替商に持ち込んでこれを小判(1両=4ドル相当)に両替して、国外に持ち出し地金として売却すれば莫大な利益が得られることとなってしまいました。

具体的には、1ドル(メキシコドル)→3分(一分銀)→0.75両(天保小判)→3ドル(20ドル金貨)と、両替を行うだけで3倍の利益を上げることができるというものでした。

金貨の大量流出

以上の結果となる原因は、16世紀中ごろにメキシコで全世界の約20%もの産出量を誇るサカテカス銀山が発見されるなどしたために諸外国では銀の価格が下落して金1g≒銀15gとなっていたにも関わらず、このことを知らなかった日本では金1g≒銀5gとされていたことでした。

そのため、当時の日本は、世界で突出した金が安く買える国となっており(日本に銀貨を持ち込んで小判に換え、それを海外に持ち出して売ると3倍の銀を得ることができた。)、海外から金買付けに来た外国人により大量の金貨が諸外国に流出しました。

万延の改鋳(1860年)

金の大量流出に気が付いた江戸幕府は、この事態を打開するため、万延元年(1860)に金貨の改鋳を行い、含まれる金の含有量を1/3とした万延二分金などを発行して国際水準の交換レートにあわせた小判を鋳造することとしたのです。

これにより対外的な金貨の流出は終息したのですが、対内的には貨幣価値が暴落し国内で凄まじいインフレーションが起こることとなりました。

明治政府による貨幣制度の整備

紙幣の発行(1868年)

明治維新によって江戸幕府が倒れて明治新政府が樹立されると、貨幣に関する政策も明治新政府が行うようになります。

もっとも、発足当初の明治新政府に、貨幣制度を整備する余裕はなかったため、江戸時代の金貨・銀貨・銭貨や藩札などをそのまま通用させると共に明治政府としても「両」単位の貨幣を使用しました。

もっとも、明治政府は、欧米先進国に対抗できる国を作るために富国強兵・殖産興業(近代産業育成)の政策を進め、その一環として近代的な貨幣制度の確立を目指し、金座や銀座を貨幣司に吸収し、藩札は藩札処分令によって廃止します。

その上で、戊辰戦争に際して支出した多額の戦費を賄い、かつ殖産興業の資金に充てるため、明治新政府は、慶応4年(1868年)5月15日、参与兼会計事務掛三岡八郎(後の由利公正)の建議によって通用期限を13年間との期限を決めて通貨単位を両・分・朱のまま、旧来の藩札を踏襲した政府発行の太政官札を発行します。また、翌明治2年(1869年)には、太政官札を補完するものとして民部省札も発行されています。

もっとも、その印刷技術の未熟さから太政官札の偽札が大流行し、明治5年(1872年)4月にドイツの印刷会社に発注して発行された新紙幣である明治通宝と交換する形で回収されていきました。

造幣局創設(1871年)

また、明治政府は、明治元年(1868年)にイギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を購入した上で大阪の地に造幣局の建築を開始し、明治4年(1871年)に造幣局(創設当時の名称は「造幣寮」)を創設します。

円の誕生(1871年)

その上で、明治政府は明治4年(1871年)5月10日に新貨条例を発布して貨幣単位を従来の4進法を基準とした「両・分・朱」から10進法を基準とする「円・銭・厘」に変更し、近代洋式製法による金・銀・銅による新貨幣を発行しました。

そして、この新貨条例により、金貨本位制(金1.5g=1円)を採用し、1円=100銭=1000厘の貨幣単位に統一されました。

この当時、世界ではイギリスから広まった国際的な金本位制が普及していたため、明治政府が新貨条例を制定するに際して金本位制が採用され、アメリカ・ドルの1ドル金貨に相当する1円金貨を原貨とする本位貨幣が定められ、兌換制度の確立を目指して、「大蔵省兌換証券」・「明治通宝札」を相次いで発行します。

また、国際的に流通していた洋銀(貿易銀)であるメキシコの8レアル銀貨(メキシコドル)をモデルとして貿易専用銀貨としての1円銀貨も発行されたのですが、本位金貨の絶対数不足のために貿易銀も本位貨幣扱いとされたため、新貨条例は金本位制をとりつつも、事実上は金銀複本位制となりました。

もっとも、当時の日本には金銀が不足していたため、これらの政府紙幣は実際には金銀貨と交換できない事実上の不換紙幣となっていました。

国立銀行条例制定(1872年)

困った明治政府は、それまでの政府発行紙幣による兌換制度を改め、民間銀行たる国立銀行に兌換紙幣としての国立銀行紙幣(銀行券)を発行させ、金貨などの兌換硬貨との交換を義務付けることで殖産興業資金の供給をしようと考えます。

そこで、明治政府は、明治5年(1872年)、国立銀行条例を制定し、国立銀行(民間銀行)が設立されて国立銀行紙幣が発行されることとなったのですが、兌換義務が負担となって銀行設立がわずか4行にとどまってしまったため、明治9年(1876年)の国立銀行条例改正により兌換義務が廃止され国立銀行紙幣もまた事実上不換紙幣となってしまいました。

そして、さらに悪いことに、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発し、戦費の捻出に苦慮した明治政府がこれを不換紙幣の増発で賄うこととした結果、市中に膨大な紙幣が流通して紙幣価値が下落し、紙幣に対する信頼が大きく損なわれてしました。

なお、明治13年(1880年)までに153行もの国立銀行が設立され、現在の銀行の起源となったものもあり、さらには紙幣発行ができない私立銀行も多数設立されました。

日本銀行設立(1882年)

明治14年(1881年)、大蔵卿に就任した松方正義は、それまでの不換紙幣の過剰発行による紙幣価値の下落を防ぐため、緊縮財政による剰余金で不換紙幣の整理を断行します。

その上で、松方正義は、兌換制度の確立と近代的な通貨・金融制度を確立させるため、明治15年(1882年)年10月に中央銀行として日本銀行を開業させた上、明治16年(1883年)に国立銀行条例を改正して日本銀行を唯一の発券銀行として(=国立銀行の通貨発行権を取り上げて)、国立銀行紙幣の回収にあたらせました。

そして、日本銀行は、明治18年(1885年)に最初の日本銀行券として銀兌換の日本銀行兌換銀券が発行し、これにより日本は銀本位制に移行し、物価の安定は達成します。

他方で、当時は国際的に金本位制が普及していたため、円為替レートが明治30年(1897年)までに40%以上切り下がり、円安によって輸出は促進されるがインフレーションが持続して金本位制の採用につながっていきました。

金本位制の確立(1897年)

日清戦争に勝利した日本は、軍事賠償金として当時の日本のGNPの約2割にあたる3億6000万円を獲得したため、明治30年(1897年)に貨幣法を施行し、賠償金を基に金準備金に設定して金本位制を採用します。

これにより、新貨条例から公的には金本位制が定められつつも、事実上の銀本位制とされてきたものが、名実共に1円=金0.75gの金本位制となりました。

この結果、それまで「日本銀行兌換銀券」だった日本銀行券が、金貨と交換(兌換)できる「日本銀行兌換券」になり、さらには大正3年(1914年)に始まった第一次世界大戦による大戦景気により日本銀行券の需要が一気に増大します。

金融恐慌の発生(1927年3月)

ところが、第一次世界大戦が終わってヨーロッパ諸国が復興してくると、大正9年(1920年)ころから日本の輸出は減少して各産業に不況の波が襲いかかり、さらに大正12年(1923年)の関東大震災が追い討ちをかけて日本経済は大きな打撃を受けました。

そうした中で、昭和2年(1927年)3月、ニューヨークのウォール街での株価大暴落をきっかけとした金融恐慌が起こります。

不安にかられた人々が預金の引き出しに殺到する取付け騒ぎが拡がって日本銀行券が不足したため、日本銀行は、急遽裏面の印刷を省いた二百円券(裏白券)を発行するなどして、多額の日本銀行券を発行し、預金者の不安を鎮めることに努め、政府は3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発令するなどの対策を講じました。

管理通貨制へ(1942年)

ニューヨークのウォール街で始まった世界恐慌は全世界に波及し、イギリスは1931年9月に金本位制からの離脱に追い込まれた。

その後、イギリスに続いて欧州各国が金本位制を停止し、日本も同年12月に銀行券の金貨兌換を停止して金本位制から離脱しました。

その後、昭和17年(1942年)に公布された日本銀行法により、日本銀行券は金貨と交換不可能とした上で、通貨の発行量は中央銀行が調節するという管理通貨制へと移行し、昭和21年(1946年)2月に新円切り替えが行われて現在に至っています。

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