江戸時代以降の日本で宗教戦争が起きなくなった理由とは

現在の日本では、宗教との関わりが希薄と言われており、確固たる信仰を持っている人はそう多くはありません。

そのため、その多くが仏教徒とされる日本人も、冠婚葬祭などでお坊さんに接するくらいしか宗教に関わり合いがなく、またお坊さんの姿から宗教に平和的イメージを持つ人が多いのではないでしょうか。

このイメージは、江戸時代以降の僧が丸腰であり、軍事力・武力をもって物事を解決しようとしていないために宗教が平和的な存在であるかのように見えているのですが、歴史的に見ると全くそのようなことはありません。

むしろ、歴史的に見ると、日本の宗教においては何度も宗教戦争が起こり、これまでに多くの血が流れているのです。

現在の平和的イメージは、宗教団体を無力化させた戦国武将と、再びそのような事態に陥らないようにするために考えられた対応策の結果なのです。

本稿では、これらの宗教戦争の歴史と、江戸時代以降にこれらが封じられるに至った経過について見ていきたいと思います。

宗教戦争とは

宗教戦争とは、その名のとおり、宗教的理由を原因として生じた紛争・戦争を意味します。

そして、宗教戦争は、大きく分けると以下の2つのタイプに分類されます。

宗教団体同士の争い

1つ目は、宗教団体同士の争いです。

宗教にはそれぞれ経典があり、各宗教を信じる者にとってはその教えこそが唯一絶対の真理です。

そのため、異教はもちろん異宗派であっても、それらは自らが信じる唯一の真理を歪める者となります。

そうすると、異教・異宗派とは真理を歪める考え方であり、これを信じる者は唯一の真理を冒涜する者と考えるようになります。

そこで、信仰が強ければ強いほど、異教・異宗派排斥の考え方になりやすく、究極まで行けば異教・異宗派を信じる人間は殺してしまってもいいのではないかとの考えに至ってしまう可能性があります。

この例は、古今東西関係なく見うけられるものであり、現在においてなお存在しています。

宗教団体と政治権力との争い

2つ目は、宗教団体と政治権力との争いです。

大きくなった宗教団体が経済力・政治力・軍事力を持つことにより、為政者と対立するに至って争いに発展する紛争類型です。

この類型は、さらに、政治権力側が宗教勢力を弱体化させるために宗教団体に干渉するタイプ(宗教弾圧)と、宗教団体が宗教上の理念を政治に反映させるために政治権力に干渉するタイプに分けられます。

日本における宗教戦争の例

日本における宗教戦争として最古のものは、仏教の導入を巡って争われた衣摺の戦い(丁未の乱)です。

これは、元々八百万の神の存在を信じる神道が普及していた日本において、朝鮮半島の百済から入ってきた仏教を国を挙げて導入するか否かを巡って仏教排斥派の物部氏と仏教導入派の蘇我氏が争った戦いです。

宗教戦争の意味を持つ戦いではあったものの、有力家同士の権力争いの側面が大きい戦いでもありました。

蘇我氏がこの戦いに勝利したことにより、この後日本に仏教が入ってきたのですが、その後瞬く間に全国に広がっていきます。

その結果、日本各地に宗教団体が乱立してそれぞれの寺院が建立され、そのうちのいくつかが巨大化していきます。

そして、巨大化した各宗教団体が、信じる理想を実現しようとして政治や他の宗教・宗派に関与していくようになり、宗教戦争の土台が作り上げられていきます。

日本における宗教団体同士の争い例

貴族社会と結びついて多くの既得権を得た奈良仏教寺院や、平安時代に確立した密教系寺院などは、その既得権を守るために自衛を始め、僧侶の軍隊=僧兵を多数抱えるなどして軍事化していきます。

そして、軍事勢力化した寺院は、自らの体制を危うくする可能性がある新興仏教に対しても攻撃を加えます。

そして、実際に起こった争いでは僧兵が武器をとって戦ったのですが、僧兵側も自らに正当性があると信じていますのでその攻撃は苛烈なものとなり、凄惨な殺戮戦が繰り広げられていきました。

① 天台宗の山門派と寺門派の対立

天台寺門派の総本山である園城寺(三井寺)は、長きに亘って比天台宗山門派(比叡山延暦寺)と対立しており、比叡山宗徒による大小計50回もの焼き討ちを受けています。

② 天文法華の乱

天文法華の乱は、天文5年(1536年)、天台宗山門派と南近江守護六角家が、京の法華宗(日蓮宗)二十一本山を焼き討ちした事件です。

③ 山科本願寺焼き討ち

山科本願寺焼き討ちは、天文元年(1532年)8月、法華宗・細川晴元・六角定頼らが、浄土真宗本願寺派(一向宗)の本拠地であった山科本願寺を攻撃し焼き尽くした事件です。

日本における宗教団体と政治権力との争い例

また、ときの権力者でも統制できないほどの力を持った巨大寺院は、世俗化・無法化していき、ときに特定の権力に加担するなどして政治権力に対して牙をむけるようにもなっていきます。

① 南都焼き討ち

平治の乱に勝利して大和国の知行を与えられたが、南都寺院が保持していた旧来の特権を無視し、大和全域において検断を行います。

ところが、東大寺・興福寺などの仏教寺院がこれに強く反発し以仁王に加担して反平家の対応をとったため、平清盛が、治承4年12月28日(1181年1月15日)、平重衡らに命じてこれらの寺院に攻撃し焼き尽くした事件が南都焼き討ちです。

② 加賀一向一揆

加賀一向一揆は、加賀国守護富樫家を滅亡させ門徒領国を築き上げるに至った一向宗の蜂起であり、長享2年(1488年)ころに百姓の持ちたる国となった後、天正8年(1580年)に織田信長によって滅ぼされるまで続きました。

③ 三河一向一揆

三河一向一揆は、桶狭間の戦いのどさくさにまぎれて西三河に戻った松平元康(後の徳川家康)が、同地で勢力を高めようとした際に浄土真宗本願寺派の守護不入特権に手を付けたことに反発して起こった一向一揆です。

松平元康に対して立ち上がった一向衆寺院に、松平家の譜代家臣までが参加したことから、松平家が敵味方に分かれて戦う大きな危機となった戦いです。

そのため、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い伊賀越えと並ぶ徳川家康の三大危機の1つとも評されています。

④ 比叡山焼き討ち

比叡山焼き討ちは、志賀の陣に際して延暦寺が浅井・朝倉連合軍を匿ったことにより織田軍大敗北の要因を作出したことへの報復として、元亀2年(1571年)9月12日、織田信長が、比叡山麓の寺内町と延暦寺に対して総攻撃をしかけてこれらを焼き払うと共に僧侶・学僧・上人・児童に至るまで虐殺し尽くしたと言われてきた戦いです。

この点については、織田信長が比叡山延暦寺を無効化したことは争いがないのですが、その規模やそこに至る合戦の経緯は諸説あり、その真偽は必ずしも明らかではなく、近年の発掘調査によると、織田信長による焼き討ちの前から比叡山の施設の多くは廃絶していた可能性が指摘され、これまで伝えられていたような戦いではなかったとする説も有力になってきています。

⑤ 石山戦争(伊勢長島一向一揆・越前一向一揆などを含む)

石山戦争は、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、大坂本願寺に対して「京都御所再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求した後、大坂本願寺の立地の有用性を欲してその明渡しを求めたことから(この理由については諸説あります)、これに反発した本願寺が織田信長に宣戦布告して始まった戦いです。

顕如による檄文による第1次挙兵、伊勢長島・越前などの同時蜂起に伴う第2次挙兵、本願寺包囲戦などを経て10年間に亘る凄惨な戦いが繰り広げられました。

⑥ 紀州征伐

紀州征伐とは、2度の紀伊国侵攻を意味し、1度目は織田信長(天正5年/1577年の雑賀攻め)、2度目は豊臣秀吉(天正13年/1585年の紀州征伐)により行われました。

織田信長による1度目の雑賀攻めは、石山戦争の一環として行われたものであり、大坂本願寺への物資補給路となっていた雑賀を降伏させることで終わっています。

豊臣秀吉による2度目の紀州征伐は、小牧長久手の戦いの際に、徳川家康・織田信雄方に与して後方を脅かした紀州根来寺の根来衆の根絶でした。

根来衆は、法華宗の末寺があった種子島と深い結びつきがあり、鉄砲傭兵集団として強い力を持っていた上、敵方に与して戦うなどその存在が許容できないとして攻撃の対象となりました。

そこで、豊臣秀吉は、根来寺を徹底的に破壊・焼き尽くしてしまいました。

江戸時代までに宗教戦争が封じられた理由

以上のとおり、江戸時代に入るまでの日本では、宗教団体は当然のように武装しており、宗教団体同士または政治権力を相手として戦って殺し合うのが当たり前だったのです。

では、なぜ、我々にそのようなイメージがないのでしょうか。

それは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といういわゆる三英傑が宗教団体の軍事力を徹底的に排除してしまったため、江戸時代に入った後ころには宗教団体にはもはや戦う力を持っていなかったからです。

具体的な経緯は以下のとおりです。

織田信長による宗教排除策

戦国期に至るまでに巨大化した宗教団体は、その信徒からお布施による上納金のみならず、荘園・関銭・金融業からなる莫大な経済力を得ていました。

そして、これらの経済力から、軍事力・政治力を得ていたことは前記のとおりです。

もっとも、これらの富が宗教団体に集まるということは、富を吸い上げられた庶民がその分貧しくなることを意味します。

また、庶民が貧しくなるということは、その庶民を労働させて税を得る領主の取り分が減ることを意味します。

このことを問題視したのが織田信長であり、織田信長は、自国の発展のために宗教団体と戦う道を選びました(信仰自体を禁じるような「宗教」との戦いではなく、信仰自体は問わない世俗化した「宗教団体」との戦いです)。

具体的には、織田信長は、関所を撤廃して移動の自由化を図ると共に宗教団体への関銭を封じたり、宗教団体が持つ荘園を奪い取って家臣に分配したり、宗教団体に矢銭を要求したりするなど、ありとあらゆる手段で宗教団体の力を削ぎにいきました。

織田信長のこれらの行為により既得権益を侵害された宗教団体は反発し、次々と反織田勢力となりました。

そのため、織田信長は、比叡山延暦寺や浄土真宗本願寺派など、多くの宗教団体との戦いを強いられるようになり(もっとも、鉄砲の仕入れに役立つ法華宗だけは攻撃の対象から外されていました。)、またその戦いを経て宗教団体を弱体化させていきました。

豊臣秀吉による宗教排除策

(1)宗教団体への攻撃

織田信長の没後には、豊臣秀吉が織田信長の宗教団体排除政策を引き継ぎます。

まずは、小牧長久手の戦いの際に、徳川家康・織田信雄方に与して後方を脅かした紀州根来寺を徹底的に破壊・焼き尽くすなどしています(紀州征伐)。

また、根来寺壊滅を見せしめとした上で、高野山金剛峯寺に対して逆らえば根来寺と同じ目に遭わせるとの脅しをかけた上で武装解除を命じたところ、高野山金剛峯寺がこれに従い無血での武装解除をしています。

(2)惣無事令

また、豊臣秀吉は、惣無事令により、紛争解決の場に見られた自力救済慣行(武力解決)に抑制をかけ、紛争を豊臣政権による裁判権(法)に委ねることを求めたのです。

これにより各大名は表立って武力行使をすることができなくなり、武力をもってしての交渉が制限されることとなりました。

そして、この効果は、大名のみならず、大名並みの勢力を有した宗教団体にも及ぶこととなりました。

(3)刀狩

さらに、豊臣秀吉は、刀狩を行って武士以外の者から武器を取り上げたのですが、これによる武装解除は、農民・商人などの世俗勢力だけでなく、僧侶などの宗教勢力に対しても徹底して行われました。

なお、刀狩の正当化理由は、豊臣秀吉が天下を統一した後、その責任で日本全国の治安維持をするので、各個人が自らの身を守る必要がなくなったことから、武器も必要ないというものでした。

この結果、宗教団体が武装化することは難しくなったのです。

徳川家康(江戸幕府)による宗教排除策

織田信長により攻撃を受け、豊臣秀吉により非武装化された宗教団体が、徳川家康から始まる江戸幕府による統制を受けることにより現在のような丸腰仏教に仕上がります。

具体的には、金地院崇伝を重用した徳川家康が、その献策を受けて慶長6年(1601年)から元和2年(1616年)に亘って主要寺院の寺院法度を制定して統制し、その後の以下の政策に繋げていきました。

(1)新寺建立禁止(1631年)

江戸幕府は、寛永8年(1631年)、新寺建立禁止令を発布し、これとあわせて寺号・院号をみだりに称することを禁止します。

もっとも、その徹底は困難であったようで、明暦2年(1659年)・元禄5年(1692年)にも、同様の手続きがとられ、庵室を寺にすることをも禁止しています。

(2)本山末寺制度(1632年)

本山末寺制度は、日本全国に存在する全ての寺院に格付けを行い、それぞれの宗派の本山に重層的に支配させる制度です。

江戸幕府は、寛永9年(1632年)以降各本山に対して「末寺帳」の提出を義務付け、これにより寺院法度などを用いて本山を管理するだけでその宗派を末寺に至るまで管理できるようになりました。

(3)寺請制度(1635年)

寺請制度(檀家制度)とは、寛永12年(1635年)ころにはじめられた、日本国民を各家単位に分別し、これらの家毎に特定の寺の檀家とすることにより江戸幕府が人の一生(誕生→移動→死亡)について寺を通じて管理する制度です。

江戸幕府は、この制度により各人がキリスト教徒ではないことを証明したり地域の人口を把握したりし、また寺院から報告を受けることで間接的に寺院の管理をしていました。

宗教団体非武装の完成

以上のとおり、織田信長→豊臣秀吉→徳川家康の各政策により次第に武装解除されていった宗教団体は、江戸時代初期の段階で軍事力を喪失し、もはや戦いができる存在ではなくなってしまいました。

その結果、それまで極めて好戦的であった法華宗や一向宗ですら軍事力による権利主張を断念し、丸腰の宗教団体へと変貌していったのです。

これが、江戸時代以降の日本において、宗教団体同士・宗教団体対政治権力との戦い(宗教戦争)が起きなかった理由です。

最後に

その後、宗教団体の非武装化が果たされるまでに発生した宗教戦争によって多くの血が流れたことの反省から、信教の自由を認める一方で、宗教と政治とを関連させないことが重視されることとなり、各国でも政教分離原則が定められ、我が国でも日本国憲法にも明文化されるに至っています。

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