東寺(とうじ)は、平安京入口東側に創建された平安京鎮護のための官立寺院であり、その後に空海に下賜されたことから真言宗の総本山・根本道場となった寺院でもあります。教王護国寺ともいわれます。
後白河法皇の皇女であった宣陽門院が東寺に莫大な荘園を寄進することによりその財政基盤をつくったこと、弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになったことなどから栄えていきました。
現在においてなお創建当時の寺域を維持し、数々の国宝・重要文化財を有する京都の代表的な名所として存続しています。
本稿では、東寺観光をより有意義なものとするため、東寺の歴史、伽藍配置、観光モデルコースなどについて紹介します。
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東寺建立
官立寺院として建立(796年)
桓武天皇は、延暦13年(794年)、山城国(このとき山背国と言っていたのを山城国に変更しています。)に都を遷都し、これ以上何も起きない平和で安らかな都となるようにとの祈りを込めて平安京と名付けます。
都市建設を進める桓武天皇は、平城京内での仏教勢力の強大化の反省を生かして、原則として平安京内に寺を造らず、例外的に東国と西国とを守る「国家鎮護の寺」という意味で羅城門の東西に2つの官立寺院である東寺と西寺のみを配置することとしました。
そして、当時八島社(八島社は、現在も東寺・五重塔横に鎮座しています)という神社が建てられていた場所に藤原伊勢人が造寺長官として造営が進められ、桓武天皇を開基(パトロン)として延暦15年(796年)に建立されたのが東寺です(東宝記)。
平安京の正門である羅城門の東側に設けられたために「東寺」と名付けられ、平安京から南を向いて左側にあるため「左大寺」とも呼ばれました。
なお、嵯峨天皇在位中の大同5年(810年)に平城上皇による反乱(薬子の変)が起こったのですが、その際の空海による平安京に八幡様をお迎えして祀った上で勝利を祈るようにとの助言に従ったところこれに勝利したと伝えられたこともあり、山号は八幡山とされています。
東寺建立当初の建築物は必ずしも明らかではありませんが、中心堂宇の中では金堂が最も初期に建設されたと推定されます。
空海に下賜(823年正月)
官立寺院として建立された東寺でしたが、この当時の朝廷は平安京造営と蝦夷討伐という2大国家プロジェクトにより経済的に疲弊しており、東寺の造営にまで予算を費やす余力がありませんでした。
そこで、ときの天皇であった嵯峨天皇は、弘仁14年(823年)正月、遣唐使として唐で密教を極めて真言宗の宗祖となった空海(弘法大師)に対して東寺を下賜してその造営を委ねます。
こうして東寺を与えられた空海は、東寺の大改造を始めます。
空海は、まず密教の中心伽藍となる講堂の建立に着手し、その後も寺内に次々と建築物を建築して大伽藍を建立していくことにより、東寺を、元々の国家鎮護の官寺の役割を持たせたまま「真言密教の根本道場」に造り変えていったのです(弘法大師二十五箇条遺告・御遺告)。
寺号
東寺は、宗教法人としては教王護国寺として登録されており、一般に、「東寺」と「教王護国寺」との双方の名で呼ばれます。
これは、元々平安京羅城門東側に創建されたために「東寺」と呼ばれた一方で、王を教化するとの意味の教王を付する国家鎮護の密教寺院という意味合いから「教王護国寺」とも呼ばれるようになったためです。なお、さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」という2つの名称がありますがここでは割愛します。
現在の宗教法人としての登録名が教王護国寺であるために寺内の建造物の国宝・重要文化財指定官報告示の名称として「教王護国寺」が用いられることが多いのですが、「東寺」も通称や俗称ではなく、古くから公文書や記録にも用いられてきた創建当時から使用されてきた歴史的名称です(逆に、平安時代の公式文書に「教王護国寺」と記載されたものは確認できておらず、同名称の初出は仁治元年/1240年です。)。
以上のとおり、同寺の名称は、「東寺」及び「教王護国寺」のいずれも正しいものといえますが、便宜上、本稿では「東寺」の表記に統一して使用するものとします。
創建以降の東寺の歴史
平安時代後期における衰退
平安時代に入ると、朝廷が常備軍を解散させたこともあり、全国各地で争乱が起こり始めます。
この争乱の影響は平安京にも及び、天元3年(980年)に羅城門が倒壊するなど平安京内が次第に荒れ果てていきます。なお、これ以降羅城門が再建されることはなく、このときまで羅城門の楼上に祀られていた兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん、中国における王城守護の象徴)は、羅城門倒壊後に東寺に運ばれて今も東寺宝物館に安置されています。
この影響は東寺にも及び、平安後期に源平争乱が始まるとさらに顕著になります。
鎌倉時代における再興
後白河法皇や源頼朝の庇護を受けた文覚上人が各地の寺院を勧請して所領を回復したり建物を修復したりする行動を始めると、その一環として東寺復興も始まります。
そして、文覚上人の依頼により運慶が諸像の修復に着手し、また後白河法皇の皇女であった宣陽門院が東寺に莫大な荘園を寄進することによりその財政基盤をつくったことなどから、この後に東寺は息を吹き返していきました。なお、西寺は、天福元年(1233年)に境内に唯一残っていた五重塔が焼失し、以後復興することなく失われています。
そして、これ以降、弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになり、中世以後も後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えていきました。
室町時代における主要建築物喪失
多くの信仰を集めてきた東寺でしたが、文明18年(1486年)に発生した土一揆が東寺にも及び、このときに金堂・講堂・南大門などの主要堂塔のほとんどが焼失してしましました。
そこで、一揆がおさまった後、講堂から修復工事が進められました。なお、天正19年(1591年)には豊臣秀吉により2030石の知行が認められるなどしています。
その後、初代食堂が慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こった慶長地震で倒壊して失われるなどの天変地異の影響を受けながらも、江戸時代初期ごろから主要建築物の再建に取り掛かります。
廃仏毀釈
慶応4年(1868年)3月13日に明治新政府より「神仏分離令」・「神仏判然令」と通称される太政官布告、明治3年(1870年)1月3日に詔書「大教宣布」などの仏教による国民負担の軽減策が次々と出されると、長年仏教に圧迫されてきたと考える神職者たちによって廃仏運動が惹起されて仏像や仏具の破棄といった廃仏毀釈運動が全国的に広がります(廃仏毀釈)。
この運動は東寺にも及び、東寺の入口であった南大門の焼失等が起こるなどの被害が出ますが、三十三間堂の西大門を移築するなどしてその維持が図られ現在に至ります。
現在の伽藍配置
東寺は、大宮通から壬生通までの東西約255m・八条通から九条通までの南北約515mに亘る平安時代の寺域をそのまま残す巨大寺院です。
その広い寺域は、東西南北にある複数の門で外と区画され、その内部は、中央部・西部・東部・北部に大別されます。
創建後に度重なる火災により残念ながら創建当時の建物は残されていないものの、再建・移築された建築物自体が貴重なものであるため、これらの再建・移築建築物の多くが国宝や重要文化財となっています。
中央部
東寺中央部は、平安時代から南大門・金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に並ぶ伽藍配置が採用されています。
(1)南大門(重要文化財):1895年移築
南大門は、九条通に面する東寺の南端中央にある正門です。
東寺にある門の中で最も大きく、幅約18m・高さ約13mの大きさを誇る切妻造本瓦葺・三間一戸の八脚門となっています。
明治元年(1868年)に当時の南大門が焼失したため、明治28年(1895)に三十三間堂の西大門(豊臣秀頼により建てられた門)から移築され、現在に至ります。
(2)鎮守八幡宮:1992年再建
鎮守八幡宮は、延暦15年(796年)に王城鎮護を願って祀られた南大門の北西にある社であり、空海が1本の檜材を用いて自ら彫った日本最古の神像と伝えられる僧形八幡神と二柱の女神(いずれも国宝)が祀られています。
嵯峨天皇治世の大同5年(810年)に起こった平城上皇の反乱(薬子の変)を鎮めたと伝えられるため戦勝祈願の社であり、また足利尊氏が新田義貞軍に向かって鏑矢を放った場所としても有名です。
かつての社殿は明治元年(1868年)に焼失しており、現在の社殿は平成4年(1992年)に再建されたものです。
(3)八島社
八島社は、南大門北東にある神社であり、祭神は地主神とも大己貴神ともいわれています。
前記のとおり、当時は、元々八島社という神社が建てられていた場所に造営されたのですが、東寺創建後も八島社は同境内(南大門北東部)に鎮座しています。
(4)金堂(国宝):1603年再建
金堂は、当時の本堂となる建築物であり、広大な空間の中に東寺の本尊である七仏薬師如来坐像と、日光菩薩・月光菩薩の両脇侍像が安置されています。
薬師如来は様々な病から人々を護る仏であるため、東寺の本尊がこの薬師如来であることから、東寺を創建した桓武天皇(当時の朝廷)の願いがわかります。
そして、金堂は、東寺が創建された当初(空海に下賜される前)に建てられた建物であるため、他の建築物とは異なる様相を呈しています。
もっとも、かつての金堂は、文明18年(1486年)に起こった土一揆により焼失しており、現在の金堂は、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって片桐且元を奉行として(修理工事の際に発見された棟札で判明)、当時あった方広寺初代大仏殿を模して再建されたものです(慶長11年/1606年狩野内膳作の「豊国祭礼図屏風」に類似する形状で描かれています。)。
その構造は、入母屋造本瓦葺きの造りとなっており、外観からは二重に見える一重裳階付き構造となっています。
金堂の建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点にその特色が見られ、また堂外から内部に安置されている仏像の御顔を拝顔できるようにする観相窓が設けられているのですが、その高さが安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないために窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用のただの明かり取り窓になってしまっています。
①薬師如来(重要文化財):1603年造
金堂木造薬師如来は、東寺創建当初から本尊とされた像であり、像高は中尊(薬師如来)が288cm、寄木造・漆箔仕上げ・玉眼となっています。
現存する薬師如来像は、金堂再建時の慶長7年から同9年(1602年から1604年)に七条大仏師康正・康理・康猶・康英らによって製作されたものです(義演准后日記など)。
江戸時代に製作されたものですが、中尊の台座を蓮華座でなく裳懸座とすること、中尊が左手に薬壺を持たないことなどから、当初像の形にならって制作されたことを窺われます。
②両脇侍像(重要文化財):1603年造
両脇侍像は、薬師如来の両脇にある菩薩像であり、左脇侍(向かって右)が日光菩薩、右脇侍(向かって左)が月光菩薩です。
日光菩薩の像高が約290cm、月光菩薩の像高が約289cmであり、いずれも寄木造・漆箔仕上げ・玉眼となっています。
現存する両脇侍像は、薬師如来像と同時期に同製作者によって作製されました。
③ 十二神将像
十二神将像は、薬師如来の台座に如来を守り・如来の願いを成就する働きがあるとされる像であり、この配置様式は奈良時代のものといわれます。
金堂の十二神将像は、薬師如来像が座す裳懸座の腰回り立ち、いずれも寄木造・漆箔仕上げ・玉眼となっています。
(5)講堂(重要文化財):1491年再建
講堂は、密教の教えを広めるために建てられた、単層入母屋造の純和様建物です。
密教を広める建物ですので、国家鎮護のための官制寺院であった創建当初の東寺には存在しておらず、空海に下賜された後の天長2年(825年)に建設工事が着工され、空海没後の承和6年(839年)に完成しています。
そのため、元々あった金堂とは異なり、講堂は当時最先端の仏教であった密教を学んだ空海の思想を具現化したつくりとなっており、金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊が安置されています。なお、完成当初の講堂は、南側にある金堂とあわさって周囲を廻廊が巡る形状となっていました。
そして、講堂の中には、密教の世界観を表す曼荼羅が表現されているのですが、通常の2次元の仏画とは異なり、東寺講堂の曼荼羅は、仏像を用いて3次元立体仏像群として配されており、これにより仏の世界に居合わせたかのような視覚的効果を生んでいます。
講堂須弥壇中央に配されたこの立体曼荼羅(羯磨曼荼羅)は、21体の仏像群(中央に五智如来、東方に五大菩薩、西方に五大明王、両端に梵天帝・釈天、四隅に四天王)で構成され、中央部(如来部)の中心に大日如来、東方部(菩薩部)の中心に金剛波羅蜜多菩薩、西方部(明王部)の中心に不動明王が配されて、これらを三輪身と呼んでいます。
なお、現存する講堂は延徳3年(1491年)に再建されたものです。
(6)夜叉神堂:安土桃山時代建立
夜叉神堂(やしゃがみどう)は、講堂と食堂の中間に建つ東西2棟の小堂です。
東堂は雄夜叉(本地文殊菩薩)を、西堂は雌夜叉(本地虚空蔵菩薩)を祀っており、夜叉神像は空海の作といわれています。
元々は南大門の左右に安置されていたのですが、中門(現在の金堂前灯籠周辺)に移された後、慶長元年(1596年)に中門が倒壊したために現在の位置に小堂を建立して安置されました。
(7)食堂:1933年再建
食堂(じきどう)は、その名のとおり東寺で修業する僧たちの食事の場所としてその生活を支える場所として講堂の北側に建つ建物です。
初代の食堂は、9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定されており、かつて千手観音立像(現在は宝物館に安置が祀られていたことから観音堂とも呼ばれます。
もっとも初代食堂は、慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こった慶長地震で倒壊して失われ、また、寛政12年(1800年)ころから再建工事が始められて完成した2代目食堂も昭和5年(1930年)に発生した火災で焼失しています。
その後、昭和8年(1933年)に3代目の食堂が再建され、現在に至ります。
なお、旧本尊であった千手観音像は、このときの火災で焼損したのですが、昭和40年(1965年)から修理が実施され、現在は宝物館に安置されており、現在の食堂には明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されています。
(8)北大門(重要文化財):鎌倉時代前期再建
北大門(ほくだいもん)は、鎌倉時代前期に再建された八脚門です。
慶長6年(1601年)に補修されています。
西部
(1)蓮花門(蓮華門・国宝):鎌倉時代再建
蓮花門は、本坊南西隅部に位置する小子房の西八脚門です。
空海が東寺を出て高野山に向かう際に通ったとされる門であり、最後の旅立ちのときに空海の足元に蓮の花が咲き、またその足跡にも蓮の花が咲いたという伝説から門の名称となりました。
現存する蓮花門は、鎌倉時代に再建されたものです。
(2)穴門(畜生門)
穴門は、南大門の西側約40mに位置する築地塀を切って扉を付けただけの簡素な門です。
いつ造られたかは不明で、江戸時代、不貞を働いた僧を破門する際に袈裟をはぎ取って外へ追い出すために用いられた門と言われています(遠碧軒記)。
その用途から、築地塀に穴を開けただけの門であるため「穴門」と呼ばれ、仏の弟子が畜生同様の行為を行って破門される際に通る門として「畜生門」とも呼ばれました。
このような不名誉な用途に用いられる門ですが、わざわざ東寺の正面玄関である南大門の西側に設けられた意図は不明です。
(3)灌頂院(重要文化財):1634年再建
灌頂院は、空海による東寺草創期に建築が開始され、二祖である実恵大徳により完成した東寺南西隅部に位置する堂です。
伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に天皇の安泰を祈願する儀式)などの儀式を執り行うために用いられ、内部には仏像は安置されていません。
現在の灌頂院は、弘法大師八百年御遠忌にあわせて徳川家光の寄進によって寛永11年(1634年)に再建されたものです。
なお、灌頂院で行われる儀式の際には、国宝・伝真言院曼荼羅の胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅を本堂の東西の壁に向かい合うように掲げて行われました(そのため、胎蔵界と金剛界はそれぞれ違った方位を持つとされています。)。
① 灌頂院北門(重要文化財)
② 灌頂院東門(重要文化財)
(4)小子房:1934年再建
小子房(しょうしぼう)は、天皇をお迎えする際に用いられた総木曾檜造の建物であり、牡丹の間・瓜の間・枇杷の間・鷲の間・雛鶏の間・勅使の間の計6室で構成されています。
南北朝時代に足利尊氏が光厳上皇を奉じて京に入った後、足利尊氏が京を鎮圧するまでの間(建武3年/1336年6月14日から半年間)光厳上皇が御所とした場所としても有名です。なお、このとき足利尊氏は食堂に入っていたといわれています。
現在の小子房は、昭和9年(1934年)に弘法大師空海千百年御遠忌にあたって再建されたものです。
① 勅使門
② 庭園「澄心苑」
七代目小川治兵衛(植治)作の庭です。
(5)本坊
① 寺務所・庫裏
(6)西院
西院(さいいん)は、かつて空海が住房としていた東寺西北部エリアです。
① 毘沙門堂:1822年建立
天元元年(978年)に平安京の羅城門が大風で倒壊したため、その上層に安置されていた兜跋毘沙門天像が食堂に移されました。
その後、この兜跋毘沙門天像(国宝、現在宝物館に収蔵)を安置するため、文政5年(1822年)に建立されたのが毘沙門堂です。
なお、その後、平成6年(1994年)に修復され、現在に至っています。
② 大黒堂
大黒堂は、大黒天(大地の神)・毘沙門天(北方守護神)・弁財天(河の神、技芸の神)という三体の天神が合体した三面大黒天が祀られた堂です。
この三面大黒天は、空海作と伝えられており、ここにお参りすれば大黒天・毘沙門天・弁財天の三尊の御利益を一度に授かれるそうです。
③ 御影堂(大師堂、国宝)
御影堂は、前堂・後堂・中門の3部分からなる檜皮葺きの複合仏堂です。
元々は、空海の居所とされていた後堂のみであったのですが、康暦2年(1380年)に前年の火災により焼失後の再建がなされ、明徳元年(1390年)に国宝・弘法大師像(天福元年/1233年に運慶の4男であった康勝が制作)を安置するために前堂(北側)、中門(西側)が増築されました。
昭和33年(1958年)に国宝指定がなされたときの名称は「大師堂」なのですが、東寺内では主に「御影堂」の名称が用いられています。
なお、南側の後堂には空海の念持仏とされる9世紀作とされる国宝・不動明王坐像が安置されているのですが、秘仏として非公開とされています。
④ 鐘楼
⑤ 経蔵
東部
(1)東大門(重要文化財):1198年再建
東大門は、建久9年(1198年)再建された東寺東側にある門です。
建武3年(1336年)6月、新田義貞に攻められた足利尊氏がこの門を閉めて難を逃れたという事件にちなんで不開門(あかずのもん)とも呼ばれます。
その後、慶長10年(1605年)に大改修がなされ現在に至ります。
(2)慶賀門(重要文化財):鎌倉時代前期
慶賀門は、鎌倉時代前期に建てられた東寺北東部に位置する八脚門です。
東寺の正門は南大門なのですが、京都駅に最も近い門であること、またこの門のすぐ横が駐車場となっていることなどから、現在では観光客が多く出入りする門となっています。
(3)五重塔(国宝):1644年再建
東寺五重塔は、54.8mという日本一の高さを誇る木造塔であり、東寺のみならず京都のシンボルタワーです。
東寺の中では最古参とも言える建築物であり、空海に下賜された後まもなくの天長3年(826年)に塔建立の材木を東山から運搬して欲しいと空海が朝廷に願い出た記録が残っており、相当初期に工事が始まったことがわかります(もっとも、完成は空海没後の9世紀末であったと考えられています。)。
もっとも、初代五重塔は天喜3年(1055年)に落雷で焼失し、その後も2代目は文永7年(1270年)・3代目は永禄6年(1563年)・4代目は寛永12年(1635年)に落雷で焼失しています。
そのため、現在の五重塔は5代目であり、寛永21年(1644年)に徳川家光の寄進により建てられたものです。
五重の塔・初重内部(非公開)には空海の思想を再現した曼荼羅の世界観が具現化されており、中央心柱を大日如来に見立て、四方柱に金剛界曼荼羅、四面の側柱に八大龍王、四方の壁に真言八祖像が描かれ、四如来と共に曼荼羅が形成されています。
(4)瓢箪池
瓢箪池は、五重塔の北側に位置する池であり、五重塔と共に池泉回遊式庭園の要素になっています。
(5)宝蔵(重要文化財):平安時代後期建立
宝蔵は、その名の通り数多くの東寺の寺宝を納める校倉造の倉庫(蔵)であり、火事による延焼に備えるため、掘割で囲まれた中に建てられています。
現存するのは創建当時は南北二棟存在していたとされるうちの1棟です。
平安時代後期に建立された東寺最古の建造物建築物であり、床板は大きな建物(金堂とも羅城門とも言われます)の扉を転用したものであり、また、壁面は校倉造によりと建物内部の湿度が調節できるように工夫されています。
内部には、空海が唐の国師であった恵果から授かった密教法具・両界曼荼羅・犍陀穀糸袈裟・仏舎利・五大尊などの多くの寺宝が納められられていました。
北部
(1)北惣門(重要文化財)
(2)櫛笥小路
櫛笥小路(くしげこうじ)は、北惣門から北大門までを繋ぐ参道であり、平安時代以来そのままの幅で残っている京都市内唯一の小路です。
(3)地蔵院
地蔵院は、東寺の塔中です。
(4)宝菩提院:1881年移転(1279年創建)
宝菩提院は、弘安2年(1279年)創建と伝えられる観智院の北側にある東寺の塔頭であり、現在は東寺西院流能禅方の別格本山となっています。
元々は、櫛笥小路の東側に位置しており、小路をはさんで観智院と東西対称に建てられていたのですが、明治14年(1881年)に総黌(現在の種智院大学及び洛南高等学校の母体)開学に伴い現在地に移転しました。
なお、移転前の宝菩提院跡地(観智院の向かい側)には、移転前宝菩提院正門の名残である古い本瓦葺きの門が残されています。
(5)観智院:1605年建立
観智院は、北大門の北側(外側)に位置する東寺の塔頭であり、別格本山です。
鎌倉時代に後宇多天皇により東寺寺僧の住房が計画され、延文4年(1359年)に学僧であった杲宝を開基として創建されました(本尊は五大虚空蔵菩薩)。
その後、杲宝の弟子であった賢宝により完成され、東寺のみならず真言宗全体の勧学院と位置づけられて多くの学僧を輩出してます。
杲宝や賢宝は、1万5千件以上にも及ぶ密教の聖教類を収集するのみならず、東寺に伝わる数多くの文書類を編纂し(東宝記の編纂など)、質量ともにわが国における貴重な文化遺産となっています。
徳川家康が古書を調査し、一宗の勧学院として後学の用に供するよう命じたことでも有名です。
これらの膨大な文書・典籍・聖教類は、経蔵である金剛蔵に所蔵されていたのですが、現在は東寺宝物館に移されています。
現在の建物は、慶長10年(1605年)に完成した国宝・客殿をはじめ本堂・書院・土蔵・門などいずれも江戸時代に建築されたものです。
なお、観智院は非公開なのですが特別公開される場合があります。
(6)太元堂
太元堂は、鎮護国家を司るという大元帥明王と四天王を祀る堂です。
(7)蓮池
(8)弁天堂
弁天堂は、音楽・技芸・財産を司るという弁才天を祀る堂です。
(9)善女大龍王社
善女大龍王社は、雨乞いの神である善女龍王が祀られた社です。
朝廷の命を受けて、東寺の弘法大師空海と西寺の守敏大徳が、神泉苑で雨乞いの儀式を行ったことがあったのですが、その際、善女竜王が空海の手助けをして雨を降らせて勝利に導いたことから、このことに感謝した空海が善女竜王を勧請してお祀りするようになったといわれています。
なお、善女大龍王社は、弁天堂の後ろに建てられているために見落としがちですので、注意して下さい。
(10)宝物館
(11)大日堂
大日堂は、江戸時代に御影堂の礼拝所として建てられた建物です。
後に、桓武天皇・嵯峨天皇・足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂となり、さらにその後に大日如来像を安置したことによって大日堂となりました。
現在は、先祖供養などの回向所となっています。
東寺観光のモデルコース
以上のとおり、東寺は、元々「国家鎮護の寺」として平安京の南端に設けられた官立寺院として創建された後、空海によって真言宗の根本道場として造り変えられた寺です。
そのため、官立寺院時代の名残と、真言宗の思想・世界観とが混在した構造となっています。
そこで、東寺観光の際にも、これらの時代区分を意識して観光すると一層堪能できるのではないかと考えます。
そこで、以下、時代区分・内容に応じた観光モデルコースを紹介しますので、参考にしていただければ幸いです。
官立寺院時代の名残コース
まずは、東寺が創建された後、空海に下賜される前の東寺について見る場合のモデルコースを紹介します。
前記のとおり、東寺は、平安京の南端に設けられた官立寺院ですので、平安京の南端から羅城門を通って平安京に入る人々が最初に目にする寺です。
西側から入ってくる場合には西寺が、東側から入ってくる場合には東寺がその目につくこととなり、さらには遠くからその場所が特定できるように目印として両寺に高い塔が配されました(西寺の塔は失われていますが、現存する東寺の五重の塔がこの役割を担っていました。)。
この時代区分を基に観光する場合には、東寺内観光というよりは、その周囲の観光がメインになると考えられ、東寺・金堂→西寺跡→羅城門跡→朱雀大路跡のルートがおすすめです。
(1)東寺・金堂
空海に下賜される前に建築された東寺建築物として有名なのは、東寺の本尊である薬師如来を祀った金堂です。
金堂以外の東寺建築物は、そのほとんどが空海に下賜された後に建築されたものですので、このルートを選択する場合には金堂以外はスルーです。
(2)西寺跡
(3)羅城門跡
(4)朱雀大路跡
なお、朱雀大路跡の紹介については、別稿:【平安京の朱雀大路】京の都のメインストリートの現在を歩くで詳述していますので、興味があればご一読ください。
真言宗根本道場としての建築物コース
次に、真言宗の根本道場としての東寺建築物を堪能する場合についてですが、このルートは前記伽藍配置の項目欄にて紹介したもののうち、寺域内を観光していくこととなるため、お好きなルートで観光してください。
個人的には、外周部の門を見た後、南大門から中に入って北上し、金堂・講堂・食堂を見た後で右に曲がって東部を南下して宝蔵・五重塔を見た上で、その後東寺の南端部を西進して西部を北上して灌頂院・小子房・本坊・西院を見て北大門をくぐり、宝物館・観智院を巡って北惣門から出るというのが個人的な流れです。
空海の思想(密教世界=曼荼羅)コース
東寺を譲り受けた空海は、自らが極めた真言密教の教えは神秘的かつ高難度のものであり、視覚的に具現化しなければこれを人々に伝達することは不可能であると考えました。
そこで、空海は、真言密教の教えである宇宙永遠の真理を可視化するため、その世界観である曼荼羅(宇宙の設計図)を東寺の至る所に具現化させようと考えます。
そして、空海は、自らがプロデュースして寺域内に配置した伽藍の各建物に様々な曼荼羅的要素を取り入れていきました。
その意味で、東寺は曼荼羅の寺なのです。
そのため、曼荼羅堪能=東寺の堪能といえるのですが、残念ながらその全てを常時見ることはできません。
そこで、以下のものが観覧できる場合には、是非とも見ていただきたいと思います。
(1)絹本著色両界曼荼羅【伝真言院曼荼羅】
東寺は多くの曼荼羅を所蔵しており、古くから様々な儀式で使用してきました。
このうち、現存する曼荼羅の中で最も古いのが、平安仏画の最高傑作として名高い国宝・絹本著色両界曼荼羅(伝真言院曼荼羅)です。
(2)講堂・立体曼荼羅
また、空海は、仏画による視覚的効果をさらに超越させる手段として、その世界観をより効果的に理解できるよう仏像群で表現します。
その代表作が講堂の立体曼荼羅です。
仏像を用いて3次元立体仏像群として配されており、これにより仏の世界に居合わせたかのような視覚的効果を生んでいます。
写真撮影が禁止されているため、画像でお見せできないのが残念なほどの圧巻の世界観です。
講堂須弥壇中央に配されたこの立体曼荼羅(羯磨曼荼羅)は、21体の仏像群(中央に五智如来、東方に五大菩薩、西方に五大明王、両端に梵天帝・釈天、四隅に四天王)で構成され、中央部(如来部)の中心に大日如来、東方部(菩薩部)の中心に金剛波羅蜜多菩薩、西方部(明王部)の中心に不動明王が配されて、これらを三輪身と呼んでいます。
なお、東寺講堂は、文明18年(1486年)に起こった土一揆の際の火災で焼失しているのですが、この火災に際して、僧たちが講堂内の仏像を運び出しに奔走したため、15体の仏像が運び出されています(このとき持ち出された15体は、全てが国宝指定されています。)
このとき、おそらく端から運び出したと思われるため、中央部に配されていた五智如来全てと東方中央部の五大菩薩の中尊像の計6体の運び出しは間に合わずにこのときに焼失したため、この6体に限ってはこの後の補作となっています。
以下、各仏像について簡単に紹介します。
【如来部・五仏坐像】
立体曼荼羅の中央部には、大日如来如来を中心とする五智如来像が配されています。
前記のとおり、当初の如来像群は文明18年(1486年)に消失していますので、現存するものは全てこの後に作成されたものであり、「木造大日如来坐像 附 金剛界四仏坐像」として重要文化財に指定され、大日如来以外の4躯は重要文化財の附指定とされています。
① 金剛界大日如来(重要文化財):1497年作
大日如来像は、明応6年(1497年)ころに仏師・康珍により造られた、寄木造・漆箔仕上げ・玉眼の像高285cmの像です(像内銘、東寺長者補任)。
その光背には金剛界曼荼羅成身会の三十七尊を表した37体の化仏があり、そのうちの1体は創建期の平安時代前期(9世紀)のものであるとされています。
なお、大日如来は宇宙全体を照らす太陽の輝きを象徴する仏であり、これを中央に配することにより宇宙を表現しています。
② 宝生如来(重要文化財附指定):江戸時代作
③ 阿弥陀如来(重要文化財附指定):頭部は平安時代・体部は江戸時代作
④ 不空成就如来(重要文化財附指定):江戸時代作
⑤ 阿閦如来(重要文化財附指定):江戸時代作
【菩薩部・五大菩薩坐像】
立体曼荼羅の右方(東部)には、金剛波羅密多菩薩を中心とする五大菩薩像が配されています。
① 金剛波羅蜜菩薩(金剛波羅蜜多菩薩・国宝附指定):江戸時代作
② 金剛宝菩薩(国宝):平安時代作
③ 金剛法菩薩(国宝):平安時代作
④ 金剛業菩薩(国宝):平安時代作
⑤ 金剛薩埵(国宝):平安時代作
【明王部・五大明王像】
立体曼荼羅の左方(西部)には、不動明王を中心とする五大明王像が配されています。
① 不動明王像(国宝):平安時代作
② 降三世明王(国宝):平安時代作
③ 軍荼利明王(国宝):平安時代作
④ 大威徳明王(国宝):平安時代作
⑤ 金剛夜叉明王(国宝):平安時代作
【梵天帝・釈天】
立体曼荼羅の東西端には、梵天像・帝釈天像が配されています。
① 梵天(国宝):平安時代作
梵天像は、神鳥である鵞鳥4羽で支える蓮華座上に坐した4面4臂の仏像です。
この梵天はインドの伝統に基づくものであり、4面のうち1面は頭上に存在しています。
② 帝釈天(国宝):平安時代作(頭部後補)
帝釈天像は、地上世界を統治する神であり、恵の雨をもたらす存在でもあります。
東寺帝釈天半跏像は、甲冑を身に着けて白象にまたがった姿で彫られています。
【四天王】
立体曼荼羅の四隅には、四天王像が安置されている。
① 持国天(国宝):平安時代作
② 増長天(国宝):平安時代作
③ 広目天(国宝):平安時代作
④ 多聞天(国宝):平安時代作(補修多し)
(3)五重の塔・初重
さらに、五重の塔内部も立体曼荼羅と同様の考え方により造られたものであり、極彩色が施された初重に五智如来(及び金剛界四仏像と八大菩薩像)が祀られてます。
もっとも、五重の塔では、心柱を大日如来とみなしているため大日如来像が存在していないことが特徴的です。
五重の塔・初重内部(非公開)の内部は、中央心柱を大日如来に見立て、四方柱に金剛界曼荼羅、四面の側柱に八大龍王、四方の壁に真言八祖像が描かれ、四如来と共に曼荼羅を形成しています。
現存する安置仏像は以下のとおりであり、現在の五重の塔が再築された年(寛永21年/1644年)及びその前年(寛永20年/1643年)に作成されたものです。
なお、五重塔初重は、正月三が日と特別公開時のみ一般公開されることとなっていますので注意してください。
① 北面
不空成就如来(64.8cm)・普賢菩薩・地蔵菩薩
② 東面
阿閦如来(64.8cm)・弥勒菩薩・金剛蔵菩薩
③ 南面
宝生如来(62.8cm)・除蓋障菩薩・虚空蔵菩薩
④ 西面
阿弥陀如来(65.1cm)・文殊菩薩・観音菩薩